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松  門  No 29号 平成13年6月1日
                    編集発行 財団法人松風会
29号目次
松風会の歩み
平成13年度理事会の理事長挨拶要旨
松陰先生読書感想文集(田中教育振興財団)
第15回松陰教学研究会報告
    教育者松陰の真髄 理事 石原 啓司
    松下村塾記を読む  理事 河村 太市
    人間賛歌の新しい風 (財)山口県教育財団 課長 見好  豊(当時)
    松陰教学の実践   萩市立明倫小学校長 藤本 和男(当時)
松風会役職員一覧(省略)

 
松 風 会 の 歩 み

 明治維新の先駆者であり、殉国至誠の人である吉田松陰先生は、安政6年、いわゆる「安政の大獄」で江戸伝馬町の獄で処刑された。昭和34年はその殉死百年に当たるので、これを契機に松陰精神を高めようとする気運が起こった。昭和31年、松陰先生百年祭記念事業推進会が発足し、県内外有志の浄財と県・市町村の補助金1400万円で記念事業を興すことになった。その中核事業は、1千万円をもって鴻の峯山麓の大神宮に隣接する地に松風寮を建設することで、昭和36年5月その完成を見ることが出来、山口県教育会がこれを主宰した。

 松風寮は、松陰精神にあやからせたいと願う精神教育施設であり、経営21年間に山口大学男子学生600余名を入寮させ、松陰先生の遺志を継承する有為な青年として全国各地に送り出した。その間昭和49年には財団法人松風会として、山口県教育会から独立した。

 昭和57年3月、市道改修工事のためやむなく寮を閉鎖し、昭和58年新装なった山口県教育会館に事務所を移し、吉田松陰先生を崇敬し、松陰精神の普及振興をはかり、これを現代に生かすことを目的に事業を行っている。

昭和31年 吉田松陰先生殉難百年記念事業準備委員会を県教育会内に設立
昭和36年 松風寮竣工式・県教育会奨学部に所属
昭和48年 財団法人松風会寄附行為認可
昭和49年 財団法人登記事務完了
昭和56年 松風寮廃止、新事務所へ引越し
昭和57年 事務室を県教育会館に移す
昭和58年 吉田松陰先生東送之碑除幕式
昭和59年 松陰教学シリーズ発行開始
昭和60年 松門1号発行・松陰教学研究会開始
平成3年  松陰研修塾開始 
平成8年  「脚注吉田松陰撰集」刊行
 
理事長あいさつ要旨(13年度1回理事会
 今日は結構な天気であること。2日前に雨が降り新緑も一段と艶やかに感じる。先般12年度の最後の理事会を3月30日に開いたが、それから1か月近くが過ぎた。
 物の豊かさを感じるが、犯罪も多く心が貧しくなっている。心の問題を重視する動きが多くなったのが昨今の動きである。松陰先生の至誠留魂のこの気持を現在に生かすことが松風会の精神である。ささやかではあるが、いささかでも寄与していると自負している。
 分けても教育の問題が大変やかましくいわれている今日責任を感じるものである。
 それに伴う新しい事業計画を進めていきたい。何分にもこのような経済情勢ゆえ十分なことは出来ないが、なんとかしたい。十分な御協議をいただきたい。

 


松陰先生読書感想文

 (財)田中教育振興財団(新南陽市)では10年前から新南陽市内の中学校PTAに山口県教育会発行の「松陰先生に学ぶ」を寄贈し中学校1年在学の全家庭に配布しておられる。
 昨年読書感想文の募集をされ117編の応募があり、優秀5編、佳作10編、特別2編を選考された。その中から優秀作を田中教育振興財団の御協力により掲載する。

「松陰先生に学ぶ」を読んで
 私は、「松陰先生に学ぶ」を読んで本当の学問を少し学んだと思います。特に「勉強するということ」を読んで、学問とは、今まで自分なりに考えていたことと違いました。
 とくに中学校での勉強は、高校へ入るためのものだと思いながら勉強をしていました。
 でも松陰先生は、そう言うふうに、考え違いをしている人もいるが、そのような気持で始めた勉強は、進めば進むほどだめになると言っていました。
 私は、松陰先生が言っていることはもっともだと思います。でも現実はちょっと違うと思います。なぜかというと、今、私たちは学校だけではなく、塾や家庭教師など、忙しい毎日の人が多いのではないでしょうか。それらは、やっぱり上の学校へ進学するための勉強だと思います。
「学を言うは志を主とす人は初一念が大切今、学問を為す者の初一念も種々あり。就中誠心道を求むるは上なり。名利の為にするは下なり。故に初一念名利の為に初めたる学問は、進めば進むほど其の弊著われ、」これを読んで、考えさせられました。
 私が中学校へ入ったときの目標は、なんだったろうか、がんばろうという気持はあったけれど、確かな目標はありませんでした。
 でも、私は、「勉強するということ」を読んで一歩でも松陰先生の言う「心から人としての正しい生き方を学ぼうとするのは上である。」という教えに近づけるような勉強をしたいと思います。
「志を立てて以って万事の源と為す」
 何事をするにも、しっかりした志を立てることがすべての根本で大切なことである。
 私の人生の目的はこれからしっかりと考えていきたいと思います。
 
「松陰先生に学ぶ」を読んで
 私がこの本を読もうと思ったのは、家族で萩に行ったとき、小学校の銅像でだけ知っていた吉田松陰先生の学校(松下村塾)を見たからです。
 小さくて狭い建物だったのですが、中には沢山の弟子たちの肖像画が並んでいました。父が教えてくれたのですが、その中には明治時代の総理大臣など偉人と呼ばれている人がたくさんいるそうです。また、すぐ横には松陰神社がありました。松陰先生は、そこで神として祀られています。松陰先生は三十歳で亡くなったそうですが、今もこのように尊敬されているのを知り吉田松陰という人物が、いったいどのようなことを教えたのか、何をしたのか知りたいと思いました。
 この本を読んで一番心に残ったことは、松陰先生がペリーの黒船に乗り、外国の学問を学びに行こうとしたときのことです。自分を慕っていた門下生を置いて、見つかれば死刑になるかも知れないのに、幕府の許可もなくアメリカ船に乗るのはとても勇気と覚悟のいることだったと思います。口で立派なことを言っても行動がともなわないと人は、信頼されません。命をかけて行動することが出来たからこそ松陰先生は、弟子たちに尊敬され、現在でもその教えが大切にされているのだと思いました。
 松陰先生の言葉で「道を知ること真なれば必ず行うこと至る。道を行うこと至れば必ず知ること真なり。」とありますが、自分の信念のために、どんなことにも恐れずに立ち向かい、決して努力を惜しまない松陰先生の心は、とても強いと思いました。このような強い心は、今の時代には忘れかけられているように思います。私もこれから一年も経たないうちに、受験という人生の大きなハードルをこえなければなりません。さらにその先にもたくさんのハードルがありますが「どうせ自分には無理だから」とあきらめるのではなく「絶対にここに受かるんだ、やり遂げるんだ。」という気持を強く持ちたいと思います。
 また、松陰先生は「仁」(人をいつくしみ愛する心)の大切さを教えておられます。先生のいうように仁を持って行動するようにすれば多くの犯罪や不正がへるのではないかと思います。
 さらに、「読書尚友は君子のことなり」とありました。松陰先生は多くの本を読み、たくさんのことを学ばれたのだと思います。私も、松陰先生を見習い多くの本を読み「道」(人間として当然行うべきこと)を学んで行こうと思います。
 
 
「松陰先生に学ぶ」を読んで
 私は今まで松陰先生について、ほとんど何も知らなかったと言っていいぐらい知らなかったと思う。知っていることと言えば、山口県(長州藩)出身で松下村塾を開いたこと、ペリーの黒船に乗り渡航しようとしたが失敗し罪人となったこと、松下村塾に高杉晋作らが入門し育てたこと、そして、安政の大獄で処刑されたという歴史上のことばかりで、松陰先生の生き方、教えというものは何も知らなかった。これでは、知っている……とは言えない。
 この本を読んでいて私の心に残った考え方は「知行合一」「人間尊重」。
 そして、国や人々を思う心や正義を信じる思いが好きです。それに、自分が考えていること、自分がするべきことを全て実際に行動に移しているところが好きです。例えば「知行合一」は、黒船で渡航し自分の目で確かめようとしていました。「人間尊重」もそうです。それは、松陰先生が「婦人会」をやっていたことからもわかるし、塾で武士の子、足軽の子、商人の子がみんな同じに勉強していたことからもわかります。松陰先生の考えや行動は全て人々や国につながっていると思います。あのまま渡航していれば西洋の文化を取り入れられただろうし、身分に関係なく勉強することは差別をなくすことになります。そう思えば、松陰先生が罪人になり処刑されたのも人々のためということになります。こんな人を思う気持がとても大切だということを改めて知らされた気分でした。でも松陰先生はあまりに人々のことを思いすぎて焦ってしまったのではないかと思います。早くみんなが幸せになるように、すぐやめさせないと、という気持でいっぱいだったと思います。相手にも相手の思いとか事情があることを忘れています。少しずつでもいいから焦らずに、ゆっくりと先生の思いを人々に伝えてゆけば、相手にも少しずつ伝わっていつか変えることができます。早くに死んでしまったからそれもできなかったけど、もしそれができていたら、日本はきっと今、人のことを大切に思える優しい人々がたくさんいたのではないでしょうか。
 たくさんの人の気持を考えない犯罪が毎日のように起きている今、人を思うという気持ちがとても大切なものだと実感できます。
 つまり先生の考えや思いは、日本をもっと別の形にしていたのかもしれないほど大切なのかもしれないのです。
 こんな大切な人を大切にする、という思いを私は大人になるまでに育てていきたいです。
 そして、いつか仕事についたら少しずつゆっくりでもいいから人々に伝えていきたいです。この本を読んで人を大切にするという思いを伝えられる仕事につきたいと思いました。
 もしかしたら、それが誰かを私も松陰先生の本で学んだように、教えてあげられるかもしれません。
 
「松陰先生に学ぶ」を読んで
 私は、松陰が萩に生まれたというのを知って、とても身近に感じました。この本を読むまでは全然なにも知らなかったけど、読んでからいろいろ分かりました。
 勉強の態度がよくないと、たたいたり縁側から突き落としたりされて必死に勉強をしたというのはかわいそうだけど、それくらいやったほうが後で自分のためになると思います。松陰は勉強もがんばって、野山獄にいた1年2ヶ月の間に約6000冊もの本を読んだから素晴らしい考え方や判断が出来る人なったんだと思います。危険な考えを持っていると言われ死刑にされたけど、それはその時代の人々の考え方とかが間違っていたからで、松陰が悪かったわけじゃないとも思いました。
 松陰の家族も松陰と同じくらい素晴らしいと思います。励ましあって生きたから、努力も分かり合えてうらみあうこともなかったし、本当にいい家庭でうらやましいです。私も家族を大切にして協力していきたいです。
 私は、すぐあきらめてしまうことがよくあります。でも松陰は自分を立ち直らせ、あきらめたりしませんでした。だから才能の芽を誕生させることができたんだと思います。今の私は自分に自身がなくて一人では何もできません。このままでは才能の芽がかれてしまうので、大好きな部活では、自信が持てるように、もっともっと頑張ろうと思います。
 今から142年前の安政6年10月27日午前10時、吉田松陰は30歳で死刑になりました。まだ若いのに死んでしまったのは、すっごくかわいそうです。私はお母さんやお父さんにもっともっと生きていてほしいし、私もずっと生きていたいです。たまに死にたいと思うときがあるけど、家族や友達とはなれたくないから自分なりにがんばって生きています。堂々としていたらしいけど本当はつらかったと思います。周りの人たちもすごく悲しんだと思います。いろんな言葉を残し、多くの人に尊敬された松陰だから、今でもこのような本があるのだからみんなも読んだほうがいいと思いました。
 
 
志をもった人間になるために
 「松陰先生に学ぶ」を読んで学問することにおいて最も大切なこと、人間のあり方を私は知りました。
 まず、勉強のことについては勉強の本当の意味を知りました。
 私にとって勉強とは、自分が将来楽しく暮らすためのもので仕方なくやってきたものであり、いやいややってきていました。でも、この本を読んで勉強とは「自分を立派な人間にするためのもの」ということを知って、勉強への価値観が変わってきました。
 そして松陰先生のようにつらくても絶対投げやりにならないというあきらめない心と、決意したことをやりぬく強い意志を私ももてたらいいなと思いました。
 次に、松陰先生の生き方で見習いたいと思ったことは自分自身にきびしくし、自分をきたえていたことです。
 私も自分にきびしくなろうと思っても心のどこかで「まあいいや」と甘えています。
テストのために勉強の計画を立てて実行しても数日であきらめてしまいます。そこで松陰先生のように「熱中」することができれば何事でも持続することができるのではないかと思いました。
 熱中するには、少しずつでもいいからあきらめずにがんばらなければならないと思います。すると、必ず上達します。上達するとおもしろくなって、「熱中」できると思います。
 松陰先生は長州から江戸に行って学問にはげんだり塾を開いて今までとは違う現代的な「読んで、書いて、話し合って、体を動かして学ぶ」という教育をしたそうですが、松陰先生がもしもいなかったら、私たちの時代の学校の授業に体育はなかったかもしれないなと思いました。
 「少年よ大使を抱け」という言葉がありますが、これはクラークの言葉ではなく、松陰先生が次の世代である私たちに残した「大きな志をもって生きなさい」という強い願いのこもったメッセージだろうかと思いました。
 私はこれから大きな目標を持ち前へ進んで行き、いつか何かの役に立つことができるようになりたいです。

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第15回松陰教学研究会研究報告
日時:11月25日(土)26日(日)
会場:山口県婦人教育文化会館
 来賓に山口県教育庁指導課教育指導監山根和夫氏、山口県小学校長会副会長藤本和男氏をお招きし、励ましの言葉をいただき2日間の研修をスタートした。
 その研修の講義の一部をここに紹介する。
 
講義の要旨

「教育者松陰の真髄」
松風会理事 
 
教育者としての吉田松陰
 吉田松陰は6歳で叔父吉田大助の死後、吉田家を相続した。
 吉田家は、藩校明倫館で山鹿流兵学を教授する学者の家である。
 したがって、吉田松陰は六歳で、藩校明倫館の教授となるよう運命づけられたのであり、以降、教育者としての修業を受けることになった。
 松陰の幼児の教育を担当したのが、当時は杉家に同居中であった父の弟、玉木文之進であった。松陰は天保9年、9歳で、藩校明倫館に家学教授見習として出勤し、翌年、初めて家学である山鹿流兵学を教授した。

 嘉永元年(1848)19歳で、独立師範となり、嘉永4年の第1回江戸遊学まで明倫館教授として門下生を教育した。
 嘉永3年から4年1月まで藩主毛利敬親も松陰の門下生として山鹿流兵学を学び、1月15日には山鹿流兵学の皆伝を受けている。
 明倫館教授としての吉田松陰は、藩主の御前講義で、その立派さを賞され、再三表彰を受けてはいるが、特別に教育者として優れた資質が見られた記録はない。後年、松下村塾の指導者として、優れた教育を行った吉田松陰は、どのようにして生まれたのであろうか。
 それは、安政元年(嘉永7年)「下田踏海事件」(ペリー艦隊と共に出航し、外国事情を研究しようと考えた)に失敗し、萩の野山獄に囚人として収監された以後である。
 
(1)松陰の獄中教育
 松陰の野山獄生活は、安政元年12月15日に出獄し、生家である杉家に幽閉されるまでの1年2か月である。
 野山獄は長州藩の刑法では、士分の者を収容した獄であり、囚人は家族の「借牢願」によって収容された者で、刑期はなく無期懲役に等しかった。
 松陰の同囚は11名で、最年長者は在獄五十年という人もいた。松陰は彼らが生涯をこの獄で終わるという絶望感に打ちのめされているのを知り、自らも同じ囚人だという悲しみに涙をおさえることができなかった。
 しかし、松陰は、長州藩の軍学師範という地位を失い、何もない裸の人間として、同囚と交わり、彼らと共に勉学に励み、自らも猛烈な読書をはじめた。
 獄中の松陰が読んだ書物の記録は「野山獄読書記」に示されている。在獄一1年2か月の間に618冊を読了している。
 しかし、松陰は自分のために勉強ばかりしていたのではない。同囚のために「義を講じ道を説き、相与に磨励(努力)して以って天年を歿へんと期す」(「野山獄囚名録叙論」)囚人に生きがいを与えるために、松陰が行った教育は

@ 獄中座談会
 同囚の人たちが、時代の動きに対し松陰に質問をし、それに松陰がこたえたもので「獄舎問答」とし残されている。

A 読書会
 1か月かけて「孟子七編」の講義をし、その後、安政2年6月から11月まで孟子の輪読会を行った。この講義は松陰の出獄後も、父、兄が講義の中断を惜しみ、完成さすため、自ら生徒となって松陰の講義を聞き安政3年6月、1年間かけて修了した。これが後に「講孟余話」となって残されたものである。「講孟余話」は松陰の著述の中では最も重要な文献であるから後で説明する。

B 俳句会
 同囚の吉村善作が俳句に優れていたので松陰以下囚人が吉村の指導のもとに句会を行い、獄風改善一手段とした。「獄中俳諧」として記録されている。
 こうした、松陰の獄中教育の実践は野山獄の空気を一変していった。
 松陰はこの教育実践を通して、罪人もまた救えるという確信を持つに至った。それをまとめたものが、安政2年6月と9月の二度にわたり書かれた「福堂策」(上・下)である。これは、単に松陰の獄舎改善論だけではない。やがてはじまる松下村塾教育の骨格をなすものを示している。

「福堂策」(上)
 この中で、獄舎改善のための方策を具体的に示し、「人間の性は本来善であり、たとえ罪を犯しても、「教育」によって指導できる」とし、「人賢愚ありと雖も、各々一、二の才能なきはなし、湊合(総合)して大成するは、必ず全備する所あらん」と、人間の人格の尊厳に基づく教育に到達したのである。しかも、これは読書や思索の成果ではなく、自分の実践体験から生まれたものであった事に注目しなければならない。続けて「是れ亦、年来人を閲して実験する所なり。人物を棄遺せざるの要衝、是れより外、復たあることなし」と説いている。

松陰の囚人釈放運動
 安政2年12月15日、吉田松陰は、野山獄から釈放され、生家の杉家に幽閉されることになった。
 しかし、自宅に帰った松陰は、同じ獄で生活した人々の事を忘れることができない。自分一人が許されたのは心苦しいのである。
「食を得ては則ち懐ひ、衣を得ては則ち懐ひ、寒夜爐に当たりては則ち懐ひ、晴れ日庭を歩みては則ち懐ふ。懐ひの心を結ぶや、未だ嘗て一日も釈然たるを得ざるなり」
 松陰は最も古くからの最良の友人である中村道太(九郎)を通じて、藩政府に囚人釈放運動を依頼し、自らも要路に働きかけた。

 その成果は、安政3年10月、囚人の釈放となって実現した。松陰は友人の中村道太の努力に感謝し、礼状を送っている(「中村道太に与う」(安政3年10月16日))その中で
「野山の滞囚(囚人)の釈放を知り、僕(松陰)驚喜踊る躍すること(喜ぶさま)身の囚を脱せし時より甚だし(自分が釈放されたときの喜びよりも大きかった)」これは、松陰が常に相手の立場にわが身を置き、相手の心になって、わが身を考えてみる気持の表れである。

 しかしこれは、単なる同情心ではない。相手も常に自分と同じ人間だという考えに立っているものである。
 この松陰の人間観は、孟子の説いた「性善説」にもとづいている。真の人間愛は「相手がよかれと思う心」と「自愛心(自分を大切にする心)」に立脚したものである。
 その点で、幕末に生きた松陰は自分が武士として立ち、士農工商の身分制度は否定しなかったが、それは、職能による区分であり人間の差別ではなかった。
 したがって、松陰の眼は常に「水平線」の眼として、同じ人間観に立つものであり、「上から下を見る」同情や権威の押し付けではなかった。
 野山獄での実践体験と、この人間観の確立が教育者松陰の開眼をもたらしたのである。
 松陰の友人中村道太について記しておく。
 松陰は安政6年、ただ一人、松陰の行動を支持した門弟の入江杉蔵に後事を託す遺言を何通か残しているが、その中で、自分の友人を列挙し、その特性を記し、入江にも師事することを示したのであるが、その中で
「吾れ(松陰)平生、飲(酒)をむさぼらず、色に耽らず、楽しむ所は、好書と良友のみ」とし、最も古い友人は中村道太であり、次が来原良蔵と土屋蕭海だ」と記している。
「中村は、吾にさからうこと最も多し」「しかし、さからう者(自分と意見が異なる)の益、あるいは合う者(同意見の者)にすぐ」と言っているように、中村道他は生涯の良友であった。
 なお、中村道太は嘉永2年、明倫館での松陰兵学門下生であるが子弟というより最大の親友であった。不幸にして、中村道太も禁門の変の参謀の一人であったため、元治元年、長州藩保守派によって野山獄で処刑された。村田清風が最も期待した明倫館出身の長州藩革新派官僚であり、明治維新まで生きていたらと惜しまれる人物であった。
 来原良蔵は、木戸孝允の義弟であるが、松陰と最も意見が合い、安政元年、松陰が海外渡航を決心したとき、最も世話になった人物(「回顧録」に詳しい)であった。
 
2 吉田松陰の教育観
 松陰の教育観や松下村塾の教育目標は、松陰の著述や書簡の中でいろいろと示されている。
 ここでは、三つの基本的な資料で松陰の教育観を見ることにする。
「士規七則」(安政2年正月)
 これは、松陰が野山獄の思想の中で発想したもので、人間の真のあり方、武士としての生き方についてまとめたものである。松陰の教育観はこの「士規七則」で確立された。
 第一則 真の人間になれ。忠と孝が根本である。
 第二則 日本人として、君臣一体、忠孝一致を図れ
 第三則 士道は「義」を最も大切にせよ。
 「義」を最初に説いたのは孟子である。孟子は孔子の仁愛の心を基本とし、人間社会の秩序を確立するためには、人は各人の立場、職能によって仁愛の心を実践する道筋が必要とした。この各人が守り育てる愛の道筋を「義」とし、「仁愛」の説を立てたのである。
 第四則 士は公的任務を果たす義務を持つ。公明正大(私利私欲をすてる)が基本


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「松下村塾記」を読む
松風会理事 
 
はじめに
 「松下村塾記」は松陰先生が松下村塾を主宰される前に、叔父の久保五郎左衛門に頼まれて書いたものである。
 松陰は杉家から吉田家へ養子に行く。吉田家は代々明倫館で兵学特に山鹿流兵学を教える家である。松陰の叔父の大助も杉家から吉田家へ養子に行ったものである。大助の妻のクマさんは福栄村の森田家から吉田家へ嫁いだ。森田家は農家である、当時は農家から武家の吉田家へ嫁ぐことはできないので一旦久保家に幼女に入りそこから吉田家へ嫁いだ。松陰から言えば義母になる。このように杉家と久保家はつながりが深い。

 さて松下村塾の概要は次のようになっている。
 玉木文之進(天保13〜嘉永2)7年間
 久保五郎左衛門(嘉永2〜安政4)約8年間
 この当事の塾は寺子屋のようなもので読み、書き、そろばんが中心であった。
 吉田松陰(安政4〜安政5年12月)1年1か月
 小田村伊之助・久坂玄瑞・久保五郎左衛門
 馬島甫仙(慶応元年〜明治3)5年間
 玉木文之進(明治4〜明治9)5年間
 杉 民治(明治13〜明治20)約7年間

 松下村塾は松陰主宰のみではなかった。
 久保五郎左衛門が松陰に塾のモットーについて書いて欲しいと頼んだ。松陰がそれを引き受けて書いたのが「松下村塾記」である。これには松陰先生の教育についての理想というかこのようでありたいと言う気持があらわれている。
 「士規七則」は人間のあり方が書かれ、「松下村塾記」は特に教育に焦点を当てて書かれている。この二つを踏まえると凡その松陰の考えを知ることができる。
 
1 松下村塾記の構成
 凡そ次のように分けて考えることができる。
(一)地域(萩)の自然環境と歴史(はじめ〜P,398の9行目)
(二)「村塾記」執筆の事情(P,398の10行目〜同16行目)
(三)地域と松下村塾(P,298の終2行目〜P,399の1行目)
(四)教育の目的と使命(P,399の2行目〜同終5行目)
(五)塾教育を継ぐことの松陰の決意(P,399の終4行目〜同3行目)
(六)塾教育の方法(P,399の終3行目〜末尾)
 
2 「松下村塾記」からのメッセージ
 松陰が、これをメッセージと言ってるわけではなく、私たちがメッセージとして受け取るのであり、選択権は私たちにある。
 例えば学校の伝統についても「これが伝統だ」というものがあるのではなく、むしろ今の人が作るものである。松陰からのメッセージにしても、当時の人が受け取るのと、現在の私たちが受け取るのとでは大きな違いがあることを考えねばいけない。
 松陰の「諸生に示す」の中に「書は古(いにしえ)なり、為(しわざ)は今なり」と言う言葉がある。書かれたのは昔であるが読んで行動するのは今である。そこの問題を検討しなくてはならない。現代の我々が松陰を読むわけで、このことをしっかり押さえておくこと。
 
(1) 教育の基盤として、地理と歴史をふまえること
 ア 松陰の地理学観(地政学)
 「地を離れて人なく、人を離れて事なし、故に人事を論ぜんと欲せば、先ず地理を観よ」(「金子重輔行状」P,242)
 内村鑑三は彼の著「地人論」に「松陰は上記のようなこと(地を離れて…)を言っている。松陰は地理的なことを踏まえて政治を行っている」と。
 松陰は松下村塾のことを書くときに地理的・歴史的なことを押さえて書いている。私たちもこのような見方を参考にしたいものである。

  イ 山口県教育の自然・文化環境の特質
 山口県はあまり高い山がない。このことは隣の地域へ行きやすいこと、また川が比較的よく発達していることにつながる。川が発達していることは山奥と海岸の交通が容易で盛んであること。それは谷が発達しすぐ隣の地域へつながる。山口県の方言が、どこもあまり違わないのはこのことと関係する。また、歴史の治世者がいつも同じ地域を支配し、そのため画一的である。

(2) 地域と学校
ア 「塾係くるに村名を以てす。……」(PP,398〜399)
 塾の名前は村の名前を取っている。村の人を道徳的にできればそれでよい、しかし、村の人に対して何ら教育的なことができないとすれば、大きな恥であると言っている。
 学校の名前のつけ方には大きく三通りがある。まず地区の名前を取っている。次に素晴らしいよい言葉を取ってる。三つ目はナンバースクールである。
 「村塾の第一義は閭里(りょり)の俗礼を一洗し、枕戈(ちんか)横槊(おうさく)の風と為すに在り」(「岡田耕作に示す」P446)岡田耕作が正月に松陰先生の所を勉強の為に訪問する。松陰は岡田に村塾の一番大事なことは、村の一般の人の道徳性を一掃し、武士としての心構えを広めることであると言っている。

イ 地域の教育力の構成要素
@地域を愛する住民の心(官民響動参画教育体制をつくる)
A社会規範
B教育についての住民の意識・態度 
C住民への体験付与力
D教育関係の施設・設備 
E教育関係の組織・団体 
F学習ボランティアの確保

ウ 学校への期待
(田子一民(たごかずたみ)『小学校を中心とする地方改良』大正5)「大島郡の老婆学級」
 田子は都濃郡の郡長として赴任し、本を著している。この地方改良(二ノ宮尊徳思想)は小学校を中心にして行うべきとしている。
 東和町は海外を含めて出稼ぎが大変多い地域である。島の外から手紙などがきても読めない人が多い。そこでお寺の和尚さんや教師に頼んで読んでもらう、また返事を人に頼んで書いてもらわねばならない。そこで読み書きが出来るようにするため夜学会が開かれた。どうしても文字を知りたい書けるようになりたいと言う人々は「老婆学級」に参加した。四年くらい続けられ、読み書きできるようになった。
 
(3) 教育の目的
ア 「学は人たる所以(ゆえん)を学ぶなり」……現代教育の欠陥
 学は単に知識を授けるだけではない。ルソーがエミールという本をだしている。これに「子どもをだめにするなら、子どもの言うなりにしたらよい」と。近頃、子どもが切れたり、子どもの欲しがる物をすぐ買い与えている姿を見ていると、このエミールを思い出す。子どもの欲望を満足させるのは、きりのなことである。ある時満たされなかったら、切れることになる。
 よく立志ということを言う。志を育てることは教育のスタートである。「志」の「士」は行くと言う意味、即ち心が行くことである。その志に向っていくことを助けるのが教育である。
 学校での進路指導は教育の中核でなくてはならいと思うのであるが、今の教育はどうも進学だけのことになっているのではないか。教育は正に進路指導そのものでなくてはならない。
 「士規七則」(PP,二五二252〜253)
 「士規七則」は全体で七つから成っていて、終わりに「約して三端と為す」とあるのは、要約して立志・択交・読書の三つと言うのではないと思う。孟子に「四端説」と言うのがあり、はじめとかきっかけと
言うように捕らえている。このことからして、要約ではなく、この三つを以って七則を確実に自分のものにするするための不可欠の端緒としていると解すべきである。

イ 目的に向う教育(学習)
 俊傑の学、時務の学、(P,141「博学にして要を失する、是れを雑学と謂ふ)
 教育は、今当面している問題について学ぶ、学は時代にあったものでなくてはならない。脈絡を以って勉強しないとそれは雑学になる。               参照:Pは「吉田松陰撰集」
 「華夷の弁」の弁は分ける意があり、華と夷を分けること、華は中国を指している。北は北夷、南を南蛮、東を東夷、西を西獣とよんでいる。これをひっくるめて夷という。中国は時代により王朝が変わっている。それは日本のように時代が変わるだけでなく、かっては夷であったものが華になることがあることと根本的に異なる。
 教育は次世代の為にあるものとさえ思われる。
「あとからくる者のために」板村真民
 あとからくる者のために
 苦労するのだ
 我慢をするのだ
 田を耕し
 種を用意しておくのだ
 あとからくる者のために
 しんみんよお前は
 詩を書いておくのだ
 あとからくる者のために
 山を川を海を
 きれいにしておくのだ
 あああとからくる者のために
 みなそれぞれの力を傾けるのだ
 あとからあとから続いてくる
 あの可愛い者たちのために
 未来を受け継ぐ者たちのために
 みな夫々自分で出来る何かをしてゆくのだ
 
おわりに
 「義は人のみちなり」人間が道徳的な行為をするのが義である。仁は心の持ち方。
 「義」の字は上は「羊」あるいは「美」であると。羊は家畜で財産であり、ものの価値である。美も価値である。下の「我」を価値あらしめることが「義」である。正しく行動すれば義が備わる。

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「夢と知恵を育む山口県教育と松陰」
                                               
 
1 はじめに
 山口鴻峰松陰読書会の設立から所属し、ささやかな歩みを続けているが、まとめの会誌「涵育薫陶」が18巻となった。松陰先生の研究も長い付き合いとなった。
 今夏、東京世田谷の松陰神社へ行ってきた。松陰神社を核として地区をあげて町おこしをしているが、本家でもある山口県はもっと本気にならねばいけないのではと思った。
 最近、「烈々たる日本人」(祥伝社;よしだみどり著)を読む機会があった。これは正木退蔵の談話をもとにスチーブンソンが松陰のことを書いた「ヨシダトラジロー」をもとに書かれたものである。著者のよしだみどり氏は、スチーブンス著「子どもの詩の園」をも翻訳しており、長門市出身の詩人金子みすずを世に出した西条八十氏も同じ詩を訳している。またスチーブンス兄弟社が下田の神子元島(みこもとじま)や角島の灯台を設計しているなど不思議な因縁を感じた。
 この11月3日、角島大橋が開通したが、松陰ーみすずースチーブンソンー角島と点が線に繋がっていることに驚きすら覚えた。
 
2 日常生活の中から
 今日は行動の時代である。自分もできる限り行動することにしている。

(1)A少年が起こした事件
 その少年に関わりのあった一人として、もっとかかわっておけばと反省した。この少年に不足していたものはまわりの人のかかわりの薄さである。個人の魂に呼びかける教育が必要であると痛切に感じた。これは、松陰教育の真骨頂である。

(2)地下道の清掃
 地下道の掃除は高齢者が多い。しかし高齢者にもいろいろあり、地下道を掃除していると
 「邪魔になる、そこのけ」と言う老人もいる。地下道には、ごみ箱があるがそれに自分の家のごみを持ってきて捨てる者がいる。また、大内館跡の築山にもごみを持って来て捨てる者がいる。モラルはどこへ消えたのか、皆が力を合わせて何とかしなければならない。

(3)ひまわりを育てる
 町内荒地にひまわりを植えたが立派に育ち、それに人が集まり、そのことで輪(和)ができる。   
 例えば、私が水をやっていたのにいつのまにか潅水をしてくれる人がでてきて、また肥料をやる人もいる。それで会話ができるようになる。
 このような実践行動が大切である。頭ばかりでなく一歩前に出て行動することが社会を替えることになることを感じている。

(4)保護司の目から
 問題を持っている少年と山口大学のBBSとスポーツを愉しんだ。とてもさわやかな一日を過ごすことができた。少年たちも口で言うより、行動や活動を通してコミニュケーションがとれるようだ。

(5)教育会「心の羅針盤づくり」の研究にかかわって
 「女性が男性化する、男性が女性化する」そのような傾向がある。これでよいかという問題が提起された。私が基本に置いたのは、松陰が妹千代に当てた手紙「父は厳かに、母は親しく」で、松陰の家庭はよいバランスがとれた家庭だった。
「敬」と「慎」が今おろそかになっている。更には「仁」「義」を大切にしたい。今の社会では子育てに基本的な尺度がない、心棒がない。松陰を原点にしたらよいと思う。
 松陰の家庭は、「世に及び難き美風がある…」と誇れるものがあるというのは実に素晴らしいことである。これは山口県の誇りでもある。
 
3 長州に吹いた風と二十一世紀の風
 昔吹いた風、松陰が吹かせた風と言ってもよい。それは@気分の明るさ、元気印A友情の深さ、思いやり、特に情けが深く礼儀正しく、人間関係を大事にする、B潔く生きる、うそは許せない、C気慨(エネルギー)に満ちている。松陰は其の最たる人である。松陰は考察の人というより行動の人、構成の人でなく気慨の人、すべてのものに距離を維持することに不得意、状況の真っ只中に突入していくことを得意とする人」これは藤田省三氏が日本史大系「吉田松陰」で指摘している。

 司馬遼太郎氏は長州には優しい精神風土がある、と総称して言っておられる。そういうものを二十一世紀にも吹かせなければならない。
 ミレニアムといいながらわが国には閉塞間、不安な風、行き詰まりを感じる。21世紀は人間讃歌の時代、共生の時代、地球の時代、人材の時代、人権の時代などといわれるが、松陰の考えを基本に置いた考え方が見直されると思っている。これらのことに対しての尺度基準として、物と心、伝統と進歩、個人と共同体という視点が大事であり、そのバランスが問題である。
 
4 現代人が置き忘れたもの
(1)何のために生きるのか、何のために学ぶのかいう目的を失った。
(2)心の羅針盤を失ってしまった。
(3)公に尽す気持が薄れた。公徳心が忘れられた。元来日本人は公のことを優先しながら自分や家族のことを考えていたが今はどうもそのようになっていない。
(4)利を追い、義が忘れられた。
(5)一億総評論家で理屈は言うが行動は伴わない
(6)野放しの自由で野放し牧場のようだ
(7)親性の弱体化、親になることはできるが、あり続けることが難しくなっている。
(8)結果主義、ただ勝つだけでよいのか、結果を急ぎすぎる
 
5 夢と知恵を育む山口県教育
 夢は柔らかい、ほんわかとした感じがするがそうではないのではないか。やわな教育ではないと思う。
 幼稚園教育で倉橋惣三さんが「困難に打ち勝って疲れず」と言っておられるがこれこそ生きる力である。困難を乗り越え、しかも意欲を失わないでやっていく、これがイメージとして浮かんでくる。
 曽野綾子氏は「不運が持っているエネルギーを我が物とする」と言っている。失敗を恐れずチャレンジする精神が大切である。夢と知恵の教育はふわーとしたものではない。
 岡村精二氏(森と海の学校理事長)が言っておられることは初心・発心が大切である
(1月8日山口新聞:夢と希望を熱く語ろう)

 いままでの学習指導要領をみるとall structuer(知識・概念)かall activity(体験・活動)振り子のように動いている。現在は体験重視となっている。総合的な学習がブームとなっていることは悪い事ではないが、一方の頭に「基礎学力」を絶えず念頭に置く必要がある。学校では教科の授業研究などが最近少なくなり、例えば「子どもの目線に合わせた授業はどうあればよいか」と言ったことなどが多く見られ、それ自体悪いことではないが、基本が忘れられ、失われないようにしなければならない。極端な「体験重視は現在版「反知性主義」になり、体験の一人歩き、はい回りになってはならない。
 
6 松陰の教学精神を生かす
(1)動機づけ(志)の教育を進める
 小学校では「道徳」、中学校では「人間科」高校では「人生科」が設けるべきということが提案されているが、どのような生き方がしたいのか、どのように生きていくのか、考えさせることは大変重要である。
 芭蕉が伊勢で弟子の服部土芳と出会ったときに「命二つ なかに生きた 桜かな」と言う句をつくった。
 「命二つ」というのは先生と子ども、その間に桜が出るように火花を散らすような出会いが大切である。このような出会いが、人の志を奮い立たせる。

2)集団でなく個の志(魂)に問いかける
 一斉授業では魂が届かないようである。できるだけ個を大切にしたいものである。

(3)長所拡充の教育
 松陰は短所を克服し長所を伸ばすことを重んじている。次のように言っている。
 「凡人は皆拡充の術を知らず。以って聖人に及ばざる所なり。よろしく良心発見のところを知りて拡充を勤べし。」と。
 「彼の人接するや全心を挙げて接す、彼の人を愛するや全力を挙げて愛す。」徳富蘇峰
 「松陰はあらゆる人間に対しておそろしいばかりの優しさ(いたわりの心の強さ)をもった人物で、しかもその優しさと聡明さをもって、人の長所を神のような正確さで見抜く。」司馬遼太郎
「人誰か過失なからん。ただ彼は余をしてその欠点を忘れしむ。彼は多くの欠点を有したり。然れども彼は人をしてその欠点を忘れしむるほどの真誠なる人物なりき。彼の赤心はかくまで深く人に徹せしなり」徳富蘇峰
 「人には各々長ずる所あり、棄つるべき人なし」佐藤一斉
 オリンピック、マラソン優勝者高橋尚子選手の監督小出義雄氏は「君ならできる」と言って高橋選手を触発したそうである。これは「コーチング理論」と言うそうだ。
 40年くらい前の理論でコーチングとは「やる気と能力を引き出すコミニュケーションの技術」で潜在能力の開発である。手立てとしては@相手をよく知るA期待を伝えるB話し合いで目標を立てるC援助するD褒めて、改善点を指摘する
 「山口法人会」社団化11周年記念講演会で船井総研の船井幸雄氏が「人材の時代〜人づくりのコツ〜」で山口県には素晴らしい先人がいる。それは松陰であると言っている。それを学ばない手ははない。
 松陰のくせは@学びぐせA働きぐせB長所を伸ばしてやるくせC人を認めて褒めるくせD自分で責任をとるくせEプラス思考をするくせ等がある。
 これからは、長所拡充の教育が重要であることを強く言いたい。

(4)生と死の教育
 松陰は物事を命がけでした。死の覚悟に立った行動であった。
 日赤にホスピス病棟が設置されたことを記念する講演会があった。その中で、病棟は@明るさA広さB静かさCあたたかさが大切な要素だと。しかし建物だけでなく医師、看護婦さんなどすべてにそのことが当てはまるのではないか。たとえば看護婦がおしゃべりでさわがしければ、それは、ホスピス病棟には不向きであるということも知った。
 また、最近絵本が見直されている。アメリカの哲学者レオ・バスカーリア氏の絵本「葉っぱのフレディ」は、ダニエルとフレディの会話「春が来て夏になり秋になる。変化するって自然なことなんだ。……死ぬというのも、変わることの一つなのだよ。 各ページは写真と絵で構成されている。葉っぱを通して死は恐ろしくないのだということを書き表している。そこに流れているのは日本的自然観、日本人の深い意識の中に息づいている「いのち」の連続性を実感する。
 ここに一冊「僕をさがしに」という絵本がある。このような本を見せて子どもを指導するのが教師の役目ではないかと思う。このような絵本を見直したいものである。

(5)感性を豊にする教育
 松陰の感性は泣くことがその源泉ではないかと思う。
 五木寛之氏を講演会に講師として教育会館にお招きしたら、まず松風会へ入られた。  そして「松陰の涙」ということに関する書籍があったら教えて欲しいと依頼された。  当日の講演内容は豊かな感情表現がこれから大切であるというものであった。涕くこと、涙することは松陰の得意ではなかったか。
 頭だけで感じるのでなく、悟ることに近い感性が必要である。

(6)公に奉仕する教育
 曽野綾子氏が「文芸春秋」2000年10月号に教育改革国民会議のまとめを書いておられる。人の為に役に立つ経験をさせることが大切。ボランティア活動もそのひとつである。
7 終わりに   
 この他、日本の文化を継承する教育(日本人のアイデンティティーの確立)に力点を置くなども大事にしたいことだ。 
 今からの世の中で21世紀は松陰の生き方・あり方、松陰が再評価される時代ではないか。陽明学に根ざした松陰の実践行動学、即ち「一歩前に踏み出す勇気」それを生活や教育に生かしていく時代、行動の時代、実践の時代と思っている。

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実践発表 松陰教学の実践 
                              萩市立明倫小学校長 
 
1 教育目標と松陰教学 
 明倫小学校は明治18年明倫館の跡地に建てられた。明倫館の伝統と松陰教学を踏まえた学校である。
 学校経営基本方針の伝統をふまえた創意ある教育活動の展開が大きな使命である。

(1)教育の基底
○明倫館の学風 成徳達材
○松陰教学精神の尊重 至誠・知行合一・子弟同行・個性の伸長・道理の実現
・至誠にして動かざるものは未だ之れあらざるなり
・志を立ててもって万事の源となす
・万巻の書を読むにあらざるよりは、いずくんぞ千秋の人たるをえん
・一己の労を軽んずるにあらざるよりはいあうくんぞ兆民の安きをいたすをえん
・人賢愚有りといえども、各々一二の才能なきはなし
・凡そ生まれて人たらば宜しく人の禽獣に異なる所以をしるべし

(2) 学校経営の基本方針
・伝統をふまえた創意ある教育活動の展開に努める(地域に開かれた特色ある学校づく
りをめざす)
・個性を伸ばし、主体的に学ぶ学習活動の展開に努める。(熱く燃える心を育み、学ぶ力や創る力を育てる)
・豊な心とたくましく生き抜く力を育む教育の推進に努める。(温かく広い心を育て、生き抜く力を高める)
・常に課題意識をもち使命感に支えられた研修活動の推進に努める。
・子供に生きてはたらく教育環境の整備に努める。
・保護者や地域社会との連携を深め、ふるさとを愛する心の育成に努める。

(3)校名の由来
 「明倫」の由来は、松林桂月筆の額「孟子、滕文公上:明倫の章」による。
 「庠序(しょうじょ)学校を設為して以って之を教う。庠は養なり。校は教なり。序は射なり。夏(か)には校と曰い、殷(いん)には序と曰い、周(しゅう)には庠と曰う。学派則ち三代之を共にす。皆人倫を明らかにする所以なり。人倫上に明らかにして小民下に親しむ。」
 
2 松陰教学の実践
(1)朗唱教育
 特色の一番は「朗唱教育」である。松陰先生の言葉を各学年に三つずつ選んで学期に文を毎朝朗唱する。今の言葉が昭和五十七年からで五十五年までは学年目標として指導していた。
 ねらいは、郷土の先覚者に誇りを持ち、郷土を愛する心を育てること。二番目は松陰先生の生き方に学び、高い自己実現を目指す。三番目は早朝の朗唱により心の安定を高め学習への意欲を高めること。言葉が難しいが、そのままで指導している。今の子供たちに生きる力になるだけでなく長い目で将来に生きる力になることとを願っている。ほとんどの子供が十八の言葉を覚えて卒業している。
 初めて明倫小学校に赴任した教師は「やらせの教育」ではないかと反発もあるが、そのうちにそのよさを理解してもらっている。

(2)松陰読本の活用
 週に2回(水・木)掃除を通して子弟同業の教育実践を行っている。木造校舎で雑巾がけを必要とする場所が多く、水道も校舎内にはなく、大変だけど子供も教師も頑張っている。
 昭和34年に、明倫小校内社会科研究会で作成した「松陰読本」が最初で何度かの改訂を行い現在では山口県教育会が出版している。萩では各学校とも四学年児童以上で活用されている。
 4学年1学期に「松陰の幼年時代」「御前講義」2学期に「松陰の修業」三学期に「松陰読本のまとめ」全体で7時間、5学年は7時間、6学年は8時間の合計20に時間を当てるようになっている。

(3)総合的な学習での取り組み
 本校では「総合的な学習の時間」に松陰先生の学習時間を取り入れている。
 例えば、4学年では「なるほどザ・萩(明倫秋祭り)」で萩の宝物松陰先生・歴史・史跡を学習する。5学年では「観光ボランティアをしょう」という活動で松陰先生をはじめ歴史上の人物を扱っている。6学年では「ウォークラリーIn 城下町(明治維新発祥の町)」で松陰先生を学習する。

(4)資料室の活用
 教師用として、4学年以上の子供を指導する資料として「明倫館の教育と吉田松陰先生」を作成している。また展示資料室を準備している。これは100周年記念で作られた。

(5)子どもが学ぶ松陰に親しむ会
 子ども会では市内5・6年児童を対象に「松陰先生に親しむ会」を行っている。

3 教職員への啓蒙
(1)管理職研修
 7月4日に松陰に親しむ会を行っている

(2)教職員研修
 社会科部会を中心に各学校で研修会が行われている。
 新しく明倫へ転任の教員は仲間入りのためにも松陰を学習することとなっている。

4 教育改革と松陰教学
伝統と創造を合言葉に取り組んでいる。教育改革が言われているが、明倫は松陰教学で心教育を行っている。マルチメディアにも取り組んでいる。
 夢と知恵を育む教育と心の教育は一致する。それは松陰教学である。例えば個性の尊重、意欲を持って取り組む、心のふれあいを重視した教育それらは重なっているものととらえる。
 (児童の感想文の紹介 省略)

参考「朗唱文」
1学期
○ 今日よりぞ 幼心を打ち捨てて 人と成りにし 路を踏めかし(年)
○ 万巻の書を読むに あらざるよりは いずくんぞ 千秋の人たるをえん(年)
○ 凡そ生まれて人たらば 宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし(年)
○ 凡そ読書の功は昼夜を舎てず 寸陰を惜しみて是れを励むにあらざれば 其の功を 見ることなし(年)
○ 誠は天の道なり 誠を思うは人の道なり 至誠にして動かざる者は未だ之れあらざ るなり誠ならずして未だ能く動かす者はあらざるなり(年)           
○ 体は私なり 心は公なり 私を役して公に殉(したが)う者を大人と為し 公を役して 私に殉う者を 小人(しょうじん)と為す(年)
2学期
○ 世の人は よしあしごとも いわばいえ 賤(しず)が誠は神ぞ知るらん(年)
○ 一己の労を軽んずるにあらざるよりは いずくんぞ兆民の安きをいたすをえん( 年)
○ 志を立ててもって万事の源となす 書を読みてもって聖賢の訓(おしえ)をかんがう( 三年)
○ 人の精神は目にあり 故に人を観るは目においてす 胸中の正不正は眸子(ぼうし)の 瞭(りょう)ぼうにあり(年)
○ 道は即ち高し 美し 約なり 近なり 人徒に其の且つ美しきを見てもって及ぶべ からずと為し 而(しか)も其の約にして且つ近く 甚だ親しむべきを知らざるなり( 年)
○ 冊子を披繙(ひはん)すれば 嘉言(かげん)林の如く躍々として人に迫る 顧(おも)うに 人読まず 即(も)し読むとも行わず 苟(まこと)に読みて之れを行わば則ち 千万世(せん まんせい)と雖も得て尽くすべからず(年)
3学期
○ 親思うこころにまさる親ごころ きょうの音ずれ 何ときくらん(年)
○ 朋友相交わるは 善導をもって 忠告すること 固(もと)よりなり(二年)
○ 人賢愚ありと雖も 各々一二の才能なきはなし 湊合(そうごう)して大成するときは 必ず全備する所あらん(年)
○ 其の心を尽す者は 其の性を知るなり 其の性を知れば即ち天を知る(四年)
○ 仁とは人なり 人にあらざれば仁なし 禽獣是れなり 仁なければ人にあらず 禽 獣に近き是れなり 必ずや仁と人と相合するを待って道というべし(五年)
○ 天地には大徳あり 君父には至恩あり 徳に報ゆるに心をもってし 恩を復すに身 をもってす 此の事終えざれば 此の身息(や)まず(六年)

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