松  門
   No 30  平成14年4月10日発行
30号目次
  明治維新と吉田松陰   理事長 松永 祥甫
  松陰先生に学ぶ      理  事 原田 寿男
  教育者としての吉田松陰 理 事 石原 啓司
  いま家庭教育に求められているもの
   「妹千代宛書簡」に思う 理 事 岡本早智子
  第4回松陰研修塾基礎コース修了
   開講式挨拶        理事長 松永 祥甫
   来賓挨拶          県教育庁指導課長
                   県高等学校長協会理事長
   主な研修内容
   14年度研修計画

                                           松門目次へ戻る 

                                           編集発行 財団法人松風会



明治維新と吉田松陰

                                      松風会理事長  
 
 改めて申すまでもなく、明治維新は徳川の幕藩体制が崩れて国家統一の明治新政府成立に至る一連の政治改革の過程である。強固な幕藩体制も人智の進むに連れて社会情勢や経済情勢の変化・複雑化という内部的事情によって早晩維持できなくなる宿命を持っていたが、早急な変革の実現は世界制覇を目指す欧米の外圧・遠征という外部事情に起因するものである。
 欧米は18世紀以来産業革命により機械化が進み競って東洋制覇を遂げ多数の国々が殆ど植民地化している。幸い日本が植民地化を免れ得た所以は、列強自体の外部事情もあるが、日本人の勝れた資質、文化性に係るものと思う。しかし累卵(るいらん)の危うきにあったことも事実である。言わば神国日本の危急存亡の秋に際会している。志士・先見の明ある識者が身命を賭して救国の道を選ばれたことを思うとき、血わき肉おどる感がする。

 翻ってわが日本の現状を見回したとき、一見して平和で豊かで、国際場裏において優位を占めているかに見えるが、将来に亘って果たして国際間に信頼をつなげる国や民族となり得るか、極めて危機感を持たざるを得ない。

 第一に目に見える経済問題にしても多くの根強い疾患をもっている。経済不況や国際競争への危機感による大企業の整理統合とリストラ、中小企業の倒産、雇用の不安定、失業者の増大、不良債権処理の困難性等枚挙に遑(いとま)がない。更に日本人の道義の低下がある。例えば極めて近視眼的自己主張や権利意識、公徳心や協調性の欠如、自己に寛大、他人に峻厳等である。

 更にまた人生に対する考え方に至っては果たしてこれを看過してよいのかと非常に気遣われることがある。それは基本的人権の尊重(自由)から生ずることと思うが、使命感を併せ持って考えれば容易に判断できることである。即ち自分は親から生まれているが、子供をつくらず育てずにただただ自己尊重、自己欲求満足、仮に日本人全てがこうした考えを持ったとすれば、忽ち日本民族の存亡に連なる。私は結婚して最低2人以上の子供を生み育て、適性な教育をして優秀な子孫を残す事が、人類としての使命と考えている。

 今一つ眼を転じて国際社会の推移を見ると、自然現象や社会事情は激変の最中にある。その変化に対処して社会秩序を保つ規範となるものは法律である。社会事象の変化に対処して法律もまた一定不変のものであっては済まぬものと思う。敗戦の落とし子とも言える憲法や教育基本法を始め諸法律の改正は並大抵では出来そうにない。世界情勢激変秋、独り平和を謳歌しているように見える。将に明治維新夜明け前に彷彿たるものがある。非常の秋に際会している。

 時恰(ときあたか)も山口県では明治維新館(仮称)建設を企図して遠大な明治維新館基本構想が纏(まと)められている。その経緯を私なりに概略述べさせていただく。
 平成8年5月に「明治維新館に関する歴史・文化資源の広域的・有機的なネットワーク化を図ることにより、文化による広域交流を促進し、維新文化を明日に伝える新たな地域文化を創造する『維新史回廊構想』を構築・推進するために、県・維新に縁のある市町村及び文化・観光団体等で構築する維新史回廊構想推進協議会」なるものが発足した。協議会は関係の行政・文化・観光団体の代表者17名(会長毛利元敬氏)で構成され、事業策定に当たった。事務局は県文化振興課、事業の実行部隊として幹事会が設置され活発な事業活動が展開された。

 その主な事業は維新史回廊シンポジューム、写真で見る維新回廊展、維新回廊絵巻物の作成、維新史回廊クルーズ(咸臨丸)乗船体験学習、維新史回廊体験ウオーク及びツアー、維新回廊スケッチ展、シンボルマークの作成とその活用、維新史回廊ホームページ(インターネット)の開設、明治維新館に関する研究調査、維新史回廊構想絵巻物(8巻)の作成及び販売等がある。特に明治維新館を何処に建設するかが最も大きな課題であった。

 文久3年(1863)5月攘夷決行、やがて藩論統一、戊辰戦争での戦功をたてた奇兵隊結成の地下関市、同じく文久3年4月16日藩庁が萩から山口に移転され、以後政治・文化の中心地となった山口市、明治維新を成功に導いた人材を数多く輩出した松下村塾の地萩市が天々熱意をこめて紹介された。維新の始期を嘉永6年(1853)ペリー来航の年、終期を明治10年(1878)西南戦争終結の年としその25年間を明治維新とすれば、維新館は萩市に設置することが至当と衆議一決致した。吉田松陰先生の至誠留魂の生涯は明治維新の原動力として不滅不動のものである。

 更に昨年平成13年7月に県では明治維新館施設整備のため基本構想を策定されるに当たり、県内外の有識者からなる「明治維新館(仮称)基本構想懇話会(会長、北海道大学名誉教授田中彰)」が設置され四回の熱心な懇話会が開催された。そして本年3月に世界に広がる維新史回廊ネットワークの拠点として「明治維新館(仮称)基本構想」が決定・発表された。その施設の背景・意義は
@変革の時代と県民のニーズへの対応、
A地域の歴史文化資源の保存・継承、ネットワーク化、活用の推進
B世界から見た明治維新
C明治維新の変革に学ぶ、未来に向っての山口県づくり
と言う遠大なものである。何時、萩の何処、どの位の規模で設立されるのかは、未だ発表はないが将に刮目(かつもく)して待望に値するものと思う。

 私達松陰精神を人生の信条としている者として、明治維新館の建設こそ可能性を秘め未来の掛け橋として無限の感激を覚える次第である。
(維新史回廊構想推進協議会監事、明治維新館基本構想懇話会委員)

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松陰先生に学ぶ〜二つの回想から

                                 (財)松風会監事  
 はじめに(二つの回想)
 (その一) 私は今を去る60余年前(昭和14年4月)旧制山口中学校に入学した。
 その頃は学校にも戦時色が次第に濃くなっていたが、よき友にも恵まれて、ひたすら勉学に、体操・教練に励んだ五年間で、課外活動・マラソンや強歩・行軍・勤労奉仕等随分鍛えられた思い出がある。

 その頃の山中(やまちゅう)の校訓は「至誠・剛健」で、毎朝全校で唱和していた記憶がある。
 「至誠」は松陰先生が生涯を通して貫かれた精神であり、人に対するに真心をもって当たることの大切さを、身をもって示された松陰先生の銘である。
 この「至誠・剛健」の校訓は当時の山中一千健児の目指したもので、こぞって唱和し「山中精神」を鼓舞し合ったものである。
 また昼食前にはクラスごとの「士規七則」の唱和ー七則もある長い文章であるが、皆な本気になって暗唱したものである。
 特に私が心引かれる「死而後己(ししてのちやむ)」の四字は、士規七則の最後の章で、死してなおやまぬ松陰先生の烈々たる気迫、凛然(りんぜん)たる態度がこめられ、唱和するたびに松陰先生の真のひたむきな姿勢に心たぎる思いを覚えたものである。

 それから5年生の春に行われた萩の松陰神社参拝行軍、松下村塾の見学等も忘れがたい思い出で、この頃は私たちは多感な中学生ー松陰先生の「士規七則」「至誠の書」の文言などの崇高な精神は、その万分の一にも及ぶべくもないが、先生の信念や言行は、時代を越えて私たちの心のどこかに宿っているような気がしてならない。
 (その二) その後私は教職の道を歩み、今から30年前、昭和47年4月から3年間防府市のへき地野島小学校に赴任した。赴任して2年目であったと思うが、教育会から「松陰語録に学ぶもの」に投稿を依頼された。
 はて何を主題にしようかとあれこれ考えたが、これから松陰先生を知り、松陰先生に学ぼうとすれば、松下村塾の教育こそ教育の原点であると考え、「松下村塾と教育課程」を主題に、次の小文をまとめた次第である。以下「教育実践」昭和49年5月号を再掲する。
 
  松下村塾と教育課程
 ここ瀬戸内海の離島野島は、いつも変わらぬ自然の美しさを、昔のままにとどめてはいるが、このへき地にも、最近は海を渡って、あわただしさが押し寄せてくる。
 わが国の小学校教育は、これまでに急激な拡張を遂げてはきたが、人間形成という面から見ると、時代の推移に従って、多くの形式と内容の矛盾が、そこにうずいているようである。当時の教育は、百年以前の松陰の時代より素晴らしく進んではいるが、根本のところでは後退しているように思えてならない。
 ここでは松下村塾の教育を見つめつつ、当時の教育課程にまつわる二、三の問題について、私なりの考えを述べる。
 
 一人一人を見つめる人間教育
 松陰の教育的生涯は、主に松下村塾でのわずか2年3か月の期間である。その間に教えを受けた門人は60人くらいといわれるが、1人に当たる指導密度は、必ずしも十分とはいえないのに、よくあれだけの偉才が輩出したものである。
 今更ながら松陰の人間教育の師としての基本的資質、天才的な見識、徹底した松陰の人間教育の素晴らしさに驚く。
 松陰は人間の尊貴をはっきり知っていた人で、「大者は大成し、小者は小成す」とも言っており、門人の一人一人をかけがえのない個性をもつ貴い存在であるという深い認識をもち、個性教育を極めて重視している。松下村塾では一人一人が認められ、一人一人が教育されたのである。
 当時新教育課程実施後四年になろうとしているが、私たちは本当に個性的特質を重視していたかどうか疑問である。松陰の徹底した人間教育を思うとき、今後つきつめてみなければならぬ問題を感じる。
 
 教育内容についての一考察
 1 基本的事項の精選に関連して
 また松陰は、その門人にとり何が重要視されなければならないかを見極め、無駄を極力省き、実学的態度で指導している。
 当時の教育課程は、あれもこれもと内容が膨れあがり、ともするとその本質を失っている。本質を的確に把握し、青年一人一人の胸に火をつけ、青年の魂に呼びかけた松陰の偉大な教育力は驚嘆に価しよう。このことは、また私たちに多くを与えることよりも、質の高い精選された基本的事項を通じて、深く考えさせ、すべてに通ずる理知を学ばせなければならぬことを教えている。
 なお読書と作文を大いに奨励したことやディスカッションを重視し、自由に議論し、あらゆる角度から検討して自分の考えを正すという、教育の基本原理を既に百年前に行っていた。
 
 2 情操教育を重視する
 次に松陰は教育の実をあげるために、情操教育に力を入れている。
 松陰は野山獄において、11人の同囚たちと獄中座談会や読書会を開いた。更に3人の同囚の協力を得て、俳句、書道、唐詩選など芸術的な人間の感情を潤す内容が加わり、相互教育の場が生まれ、換言すれば倫理教育と芸術教育という二領域の教育課程が確立したともいえよう。
 最近の学校現場のように教育課程の過密ダイヤでは、子供に感動を与え、感情を掘り起こし、豊かにしていく面がおろそかにされがちである。
 静かに名曲を聞き、素晴らしい絵画を鑑賞し、文学作品を味読し、花を育てる心とか大自然に浸るなど、学年の発達段階に合ったものを十分吟味して与え、そのための時間数を大幅に増すよう心掛けたいものである。
 
 3 集団の中で個人を鍛える
 更に松下村塾では、働きながら学ぶことを重点にしている。その端的な例は、安政五年三月の門人たちの共同作業による10畳半の塾舎の建設である。またある時は、米をつき蚕を飼い、畑を耕す。こうした労作教育とともに、撃剣、登山、水泳、実地踏査、他塾との合同交歓等、今でいう特別活動的な活動を重視している。

 登山のやり方も「明日の何時にあの頂上に集まれ」とお触れを出す。年齢にも開きがあった門人たちは、同一行動をとるためには、士分の者が足軽の子供を背負ったり、兄が弟をかばって連れていかねばならない。こうして門人同志の人間的な接触をもととして、集団の中で個人を鍛えていくことを、具体的な行動の中で分からせている。
 私たちは教科以外のこうした子供自身の活動に対しては、いささか消極的である。もっと自主的な活動の場を多く取り入れ、教育課程の大きい柱として位置付ける必要があろう。
 以上大まかに問題に触れたが、実質的に子供のものとしていくには、教師そのものの在り方が根本である。
 
 終わりに
 いよいよこの4月から「ゆとり」と、「生きる力」を育む新教育課程の実施、また総合学習充実のための模索が行われるが、一人一人を見つめる徹底した人間教育のためにも、もっと静かなゆとりのある教育が望まれる。
 更に人間性豊かな児童生徒の育成が強調されながら、日々の教育活動には真実の感激と感動の場がいささか乏しいのではないかと思われる。
 また日ごろの授業にも単に技術的な方法的な課題解決の追求に終わることなく、教師と児童生徒との血の通うものが欲しい気がする。
 「先生に多くを望みません。子供に親しさを感じ、温かい血の通った人間関係を知り、やがて大人になったとき、先生を忘れずに呼べるような教師に巡り会わせたい…」と。
 これは私が学校勤めていたときのある母親の述懐で、その願いにこたえるためにも、厳しい教職の専門性と豊かな教師自身の人間性が求められるのではないかと、二つの回想からしみじみ思うのである。

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教育者としての吉田松陰
                           (財)松風会 理事
 吉田松陰は6歳で叔父吉田大助の死後、吉田家を相続した。
 吉田家は、藩校明倫館で山鹿流兵学を教授する学者の家である。
 したがって、吉田松陰は六歳で、藩校明倫館の教授となるよう運命づけられたのであり、以後、教育者としての修業を受けることになった。
 松陰の幼児の教育を担当したのが、当時は杉家に同居中であった、父の弟、玉木文之進であった。
 
松陰は天保9年(1838)9歳で、藩校明倫館に家学教授見習として出勤し、翌10年、初めて家学である山鹿流兵学を教授した。
 嘉永元年(1848)19歳で、独立師範となり、嘉永4年の第1回江戸遊学まで明倫館教授として門下生を教育した。
 嘉永3年から4年1月まで藩主敬親も松陰の門下生として山鹿流兵学を学び、1月15日には山鹿流兵学の皆伝を受けている。
 明倫館教授としての吉田松陰は、藩主の御前講義で、その立派さを賞され、再三表彰を受けてはいるが、特別に教育者として秀れた資質が見られた記録はない。
 後年、松下村塾の指導者として、すぐれた教育を行った吉田松陰は、どのようにして生まれたのであろうか。
 それは、安政元年(嘉永7年)「下田踏海事件」(ペリー艦隊と共に出航し、外国事情を研究しようと考えた)に失敗し、萩の野山獄に囚人として収監された以後である。
 
1 松陰の獄中教育
 松陰の野山獄生活は、安政元年10月24日から安政2年12月15日に出獄し、生家である杉家に幽閉されるまでの1年2か月である。
 野山獄は長州藩の刑法では、士分の者を収容した獄であり、囚人は家族の「借牢願」によって収容された者で、刑期はなく無期懲役に等しかった。
 松陰の同囚は11名で、最年長者は罪獄50年という人もいた。松陰は彼らが生涯をこの獄で終わるという絶望感に打ちのめされているのを知り、自らも同じ囚人という悲しみに涙をおさえることができなかった。

 しかし、松陰は、長州藩の軍学師範という地位を失い、何もない裸の人間として、同囚と交わり、彼らと共に勉学に励み、自らも猛烈な読書をはじめた。
 獄中の松陰が読んだ書物の記録は「野山獄読書記」に示されている。在獄1年2か月の間に618冊を読了している。

 しかし、松陰は自分のために勉強ばかりしていたのではない。
 同囚のために「義を講じ道を説き、相与(あいとも)に磨励(まれい)(努力)して以て天年(寿命)を歿(お)へんと期す」(「野山獄囚名録叙論」)
 囚人に生き甲斐を与えるために、松陰が行った教育は、

(1)獄中座談会
 同囚の人たちが、時代の動きに対し松陰に質問をし、それに松陰が答えたもので、「獄舎問答」とし残されている。

(2)読書会
 1か月かけて「孟子七編」の講義をし、その後、安政2年6月から11月まで孟子の輪読会を行った。この講義は、松陰の出獄後も、父、兄が講義の中断を惜しみ、完成さすため、自ら生徒となって松陰の講義を聞き安政3年6月、1年間かけて修了した。これが後に「講孟余話(こうもうよわ)」となって残されたものである。「講孟余話」は松陰の著述の中では最も重要な文献である。

(3)俳句会
 同囚の吉村善作が俳句にすぐれていたので松陰以下囚人が吉村の指導下に句会を行い、獄風改善の一手段とした。「獄中俳諧」として記録されている。
 こうした、松陰の獄中の教育の実践は、野山獄の空気を一変していった。
 松陰はこの教育実践を通して、罪人もまた救えるという確信を持つに至った。それをまとめたものが、安政2年6月と9月の2度にわたり書かれた「福堂策」(上・下)である。これは、単に松陰の獄舎改善論だけではない。やがてはじまる松下村塾教育の骨格をなすものを示している。

「福堂策」(上)
 この中で、獄舎改善のための方策を具体的に示し、「人間の性は本来善であり、たとえ罪をおかしても、「教育」によって善導できるとし、
 「人賢愚(けんぐ)ありと雖(いえど)も、各々(おのおの)一、二の才能なきはなし、湊合(そうごう)(総合)して大成するは、必ず全備する所あらん」
と、人間の人格の尊厳に基づく教育に到達したのである。
 しかも、これは読書や思索の成果ではなく、自分の実践体験から生まれたものであった事に注目しなければならない。続けて、
「是れ亦、年来(ねんらい)人を閲(えつ)して実験する所なり。人物を棄遺(き)せざるの要術、是れより外、復(ま)たあることなし」と説いている。

松陰の囚人釈放運動
 安政2年12月15日、吉田松陰は、野山獄より釈放され、生家の杉家に幽閉されることになった。
 しかし、自宅に帰った松陰は、同じ獄で生活した人々のことを忘れることができない。自分一人が許されたのは心苦しいのである。
「食を得て則(すなわ)ち懐(おも)ひ、衣を得ては則ち懐ひ、寒夜爐(ろ)(いろり)に当たりては則ち懐ひ、晴日庭を歩みては則ち懐ふ。懐ひの心を結ぶや、未(いま)だ嘗(かつ)て一日も釈然(しゃくぜん)(心が晴れる)たるを得ざるなり」
 松陰は最も古くからの最良の友人である中村道太(九郎)を通じて、藩政府に囚人釈放運動を依頼し、自分からも要路に働きかけた。
 その成果は、安政3年10月、囚人の釈放となって実現した。
 松陰は友人の中村道太の努力に感謝し、礼状を送っている(「中村道太に与う」安政3年10月16日)。
 その中で、
「野山の滞囚(囚人)の釈放を知り、僕(松陰)驚喜踊躍すること(喜ぶさま)、身の囚を脱せし時より甚だし(自分が釈放されたときのよろこびよりも大きかった)」
 これは、松陰が常に相手の立場にわが身を置き、相手の心になって、わが身を考えてみる気持の表れである。
 しかしこれは、単なる同情ではない。相手も常に自分と同じ人間だという考えに立っているものである。
 この松陰の人間観は、孟子の説いた「性善説」に基づいている。
 真の人間愛は、「相手がよかれと思う心」と「自愛心(自分を大切にする心)」に立脚したものである。
 その点で、幕末に生きた松陰は自分が武士として立ち、士農工商の身分制は否定しなかったが、それは職能による区分であり人間の差別ではなかった。
 したがって、松陰の眼は常に「水平線」の眼として、同じ人間観に立つものであり、「上から下を見る」同情や権威の押し付けではなかった。
 野山獄での実践体験と、この人間観の確立が教育者松陰の開眼をもたらしたのである。

 松陰の友人中村道太(九郎)について記しておく。
 松陰は安政6年、ただ一人、松陰の行動を支持した門弟の入江杉蔵の後事を託す遺言を何通か残しているが、その中で、自分の友人を列挙し、その特性を記し、入江にも師事することを示したのであるが、その中で
「吾れ(松陰)平生、飲(酒)をむさぼらず、色に耽らず、楽しむ所は、好書と良友のみ」とし、最も古い友人は中村道太であり、次が来原良蔵と土屋蕭海だと記している。
 「中村は、吾れにさからう事最も多し」「しかし、さからうもの(自分と意見が異なる)の益、或いは合う者(同意見のもの)にすぐ」と言っているように、中村道太は生涯の良友であった。
 なお、中村道太は嘉永二年、明倫館での松陰兵学門下生であるが師弟というより最大の親友であった。不幸にして、中村道太も禁門の変の参謀の一人であったため、元治元年、長州藩保守派によって野山獄で処刑された。村田清風が最も期待した明倫館出身の長州藩革新派官僚であり、明治維新まで生きていたらと惜しまれる人物であった。
 来原良蔵は、木戸孝允の義弟であるが、松陰と最も意見が合い、安政元年、松陰が海外渡航を決心したとき、最も世話になった人物(「回顧録」に詳しい)であった。
 
2 吉田松陰の教育観
 松陰の教育観や松下村塾の教育目標は、松陰の著述や書簡の中でいろいろと示されている。
 ここでは、三つの基本的な資料で松陰の教育観を見ることにする。
(1)「士規七則」(安政2年正月)
 これは、松陰が野山獄の思索の中で発想したもので、人間の真のあり方、武士としての生き方についてまとめたものである。松陰の教育観はこの「士規七則」で確立された。
 第一則 真の人間になれ。忠と孝が根本である。
 第ニ則 日本人として、君臣一体、忠孝一致を図れ。
 第三則 士道は「義」を最も大切にせよ。
 「義」を最初に説いたのは孟子である。孟子は孔子の仁愛の心を基本とし、人間社会の秩序を確立するためには、人は各人の立場、職能のよって、仁愛の心を実践する道筋が必要とした。この各人が守り育てる愛の道筋を「義」とし、「仁義」の説を立てたのである。
 第四則 士は公的任務を果たす義務を持つ。公明正大(私利私欲をすてる)が基本。
 第五則 理想的な人間修業は読書と良き友人を尚ぶことからはじまる。
 第六則 「徳成材達」は師恩友益に多くかかわる。友人関係を大切に考えよ。
 「徳成材達」(徳を積み、自分の能力を開花さす)という教育理念は明倫館の基本理念でもあり昭和前期まで不変の教育原理であり、その根本は儒学より来ている。
 第七則 理想や志を実現するためには、途中でくじけたり、あきらめてはならぬ。この志は「死して後己(や)む」の精神である。
 「死而後己(ししてのちやむ)」の出典は孔子の門人「曽子」の語であるが、松陰の尊敬した諸葛孔明(「三国志」に登場する蜀漢の忠臣)の「水師表(すいしのひょう)」にも出てくる言葉。
 
「士規七則」を要約すれば、「三端」(三つの要点)である。「三端」とは次のように示している。
@「立志(りっし)」万事の根源である。
A「択友(たくゆう)」志を同じくする良友をえらび、切磋琢磨(せっさたくま)(努力)すること。
B「読書」聖賢、先輩の言を学ぶこと。

(2)「松下村塾記」
(安政3年9月4日)
 「松下村塾記」は当時、玉木文之進の後を受け継いで私塾を経営していた外叔久保五郎左衛門の要請で吉田松陰が書き贈ったものである。
 安政四年には、松陰が自ら、この私塾を経営するようになるが、「松下村塾記」はそれ以前に書かれたものである。
 この中で、松陰は、塾のある松本村(萩市椿東)の地理的、歴史的背景を論じている。
 松陰は平素から「地理学」を重視しており、金子重輔(海外渡航を図った下田踏海事件の時の同行者、病のため萩の岩倉獄で死んだ)が松陰に学問の方法を尋ねた際、松陰は、次のように答えている。
 「地を離れて人なく、人を離れて事なし、故に人事を論ぜんと欲せば、先ず地理を観よ」 松本村は萩城下の東方にある。物事の発端は易経では東方よりはじまるとしている。萩城下の力が天下に発揮されるためには、この松本村からはじまるだろうとした。
 これは、その地に住む人々に対する鼓舞激励の言葉である。
 更に松陰は、教育の使命を「君臣の義をわきまえ」「華夷(かい)の弁(べん)を明らかにする(日本と外国の国の歴史のちがいを明確にする)」ことに置き、現在は「奇傑非常の人(人並み以上にすぐれた人物)」を育成することが必要な時代であるとした。
 これは、士規七則とともに松陰の基本的な教育観であった。
 また、松陰の「尊皇攘夷」思想については、「松下村塾記」の中でも明確に示されている。
 「神州(日本)の地に生れ、皇室の恩を蒙(こうむ)り、内は君臣の義を失ひ、外は華夷(かい)の弁(べん)を遺(わす)るれば、則ち学の学たる所以(ゆえん)、人の人たる所以、其れ安(いず)くに在りや」
 皇国の大義に生きる臣民の育成がその根源であった。
 月性(げっしょう)や黙霖(もくりん)は、当時の人々を「王民」と呼んでおり、孟子は、「天の生みたもうた民」という意味で「天民」といった。
 幕末の尊王攘夷思想の高まりの中で、日本国民を「臣民」と呼称することが用いられだした。

(3)「諸生に示す」
(安政5年6月23日)
 松陰の主宰する松下村塾の最盛期は安政4年から翌5年であるが、この資料は最も充実した教育が行われていた時期に書かれたもので、教育者松陰のすぐれた実践力が示されている。その内容は次の項目に整理できる。
@ 形式、虚偽を廃し、誠朴(誠実朴質)を大切にし、真の人間性を回復する。
A 集団作業を通して塾生の「同志愛」を育てる。
B 人格的接触を通じて切磋琢磨する「交ふるに諧謔滑稽(かいぎゃくこっけい)を以てする」。人間相互の信頼感を育てるには「ユーモア」が大切だ。「信頼」「親愛」「ユーモア」の教育
C 「気類(感情)先ず接し、義理(ものごとの道理)従って融(とお)(通)る」人間同士の心の扉を開け、教師と生徒の感情の一体化ができれば、道徳的倫理観は自然に確立される。
D 読書は実践のためにするものだ。明確な自立的批判精神を持て。
E 志がある者は共に語れ。
F 生徒諸君は皆「有志の士」であり、俗流に対し「卓然自立」する者だ。

 松陰の人間観については、獄中教育の項で説明したが、その根本は「人間の尊貴の自覚」である。これは単なる「個性の尊重」とは異なるし、「人は皆平等に作られており人権を持つ」とも異なった人間観である。
 人間は根源において尊貴の存在でなければならないとする儒学の根本である。そのために各人は身を修め、努力して人格をみがかねばならないとしたのでる。
 「学問をする」とは「人格を磨く」ことなのである。「人間を大切にする」とは「人が人格者であり、道義の存在だから」である。
 松陰は「講孟余話」(万章上第七章)の中で「伊尹(いいん)の志を志し、顔回(がんかい)の学を学ぶ」ことを自分の理想としている。
 「伊尹」は中国古代の殷王朝の湯王に仕えた宰相で「責任感」の強い人として古来有名であった。
 政治を担当する者にとって最も大切なことは伊尹の責任感と身辺を清潔にし、私心を去ることだというのは孟子以来の儒学の伝統である。
 松陰もまた、「仁の道」を実践し、私心を去り己を修め(修己)民を救うこと(治民)に心掛けたのである。
 
3 教育者としての吉田松陰
 吉田松陰は、わずか30年の生涯であったが、その間に膨大な著述と書簡を残し、学者、思想家、志士、教育者という一つの型にはめこみ説明することは出来ないほど、多様な活動をした誠実な青年であった。
 しかし、平成時代の現在においても、教育者の典型を示す人物として、多くの人々にその著述が読まれている理由は何であろうか。
 以下、吉田松陰が教育者の典型を示す要素をまとめてみる。
 教育は、教師の知識や技術、経験が前提条件であるが、教育が、人と人との関係で行われる以上、教師の人格、資質がその根底になければならない。

 吉田松陰が教育者として持っていた人格、資質は
@ 愛情ー人間愛、人を人としてどこまでも敬愛し、尊敬する人間性である。
A 理解ー人の長所と短所、個性を見抜く人間洞察の眼力。
B 信頼ー師弟の相互信頼がなければ教育は成立しない。特に教師の「公明正大」さ、わかりやすい表現にすれば、えこひいきをしない公正さである。

 松陰の人格にはこれらの三要素が備わっていた。松陰はこれを「至誠」と表現した。
 この人格は教育者の絶対条件ともいえるもので、不変のものである。
 しかも、松陰の生涯は何事に対しても、自分の全力を出し尽くして、全身全霊で取り組んだ。
 単に書物の知識だけではない、常に実践による体験が裏付けられていた。傍観者ではなく、常に我が身を正面から対象にぶっつけ実践していった。これが相手を説得する稀有の力となった。
 
4 吉田松陰の士道
 江戸時代の武士は、職業軍人であるより、政治家であり、官僚であった。したがって山鹿流兵学の祖とされる山鹿素行の士道は、指導者としての人格形成論であった。
 吉田松陰は、山鹿素行の兵学を明倫館で教授する吉田家を継いだので、山鹿素行から多くのことを学んで、「先師」として尊敬した。
 ここでは、吉田松陰が山鹿素行の「武教小学」を解説した「武教全書講録」の中から「士道」について説明した文章を引用する。
 「先(ま)づ士道と云ふは、無礼無法(ぶれいむほう)、粗暴狂悖(そぼうきょうはい)の偏武(へんぶ)にても済まず、記誦詞章(きしょうししょう)、浮華文柔(ふかぶんじゅう)の偏文(へんぶん)にても済まず、真武真文(しんぶしんぶん)を学び、身を修め心を正しうして、国を治め天下を平かにすること、是れ士道なり。」
 「士たる者は三民の業なくして三民の上に立ち、人君の下に居り、君意を奉じて民の為めに災害禍乱(からん)を防ぎ、財成輔相(ほしょう)をなすを以て職とせり。而るに今の士たる者、民の膏血(こうけつ)をしぼり、君の俸禄(ほうろく)を攘(ぬす)み、此の理を思はざるは、実に天の賊民(ぞくみん)と云うべし。」
 山鹿素行や吉田松陰が理想とした士道とはまず、「身を修め、心を正しうして、国を治め天下を平かにすること、これ士道なり」とした。
 武士が粗暴や文弱では駄目であり、政治道徳を身につけることが武士の使命であると考えたのである。
 松陰は「武教全書」は「志士・仁人となるようにと先師が説いた教戒書」であるといっている。要は、正義の心を持ち、世のため、人のために尽す人、仁徳のある人になるよう努力するのが「士道」であるとした。
 この士道論の根本が儒学の入門書とされる四書(大学・中庸・論語・孟子)である。
 江戸時代に儒学を学ぶ武士たちは今の小学生の段階からこの四書を徹底して教え込まれた。野山獄で「孟子」を講義した松陰が「孟子を学んでニ十年になる」といっていることから判るように五歳ごろからまず読みはじめたのである。
 現在は、死語になった「有徳の人」とは、この儒学的伝統を身につけた人を呼んだ言葉であった。
 儒学思想を簡潔に示したものが四書の一つである「大学」である。朱子学の大成者朱子はこれを「三綱領」「八条目」と名づけた。
「三綱領」
@「明徳を明らかにする」
 立派な徳を身につけ、これを発揮する。自己の修養である(「修己」)
A「民を親しましむる」
 民衆の生活を豊かにし、平和な暮らしを得さす。「治民」(為政者として仁愛を発揮っする)
B「至善(しぜん)に止(とど)まる」
 最高の善の境地からはなれない。修己と治民は一連のもので、共にぎりぎりの最高善の境地にいつも立つようにする。
 「八条目」(「修己」と「治民」の実践項目)
@「格物」(物に至(いた)る)
A「致知」(知を致(きわ)む)
 「知を致むは物に格(いた)るにあり」
 知能(道徳的判断)を明確にするには、物事についての善悪を確かめることだ。
B「誠意」(誠身)
 各人の思いを誠実にする。「自ら欺(あざむ)くな」自分を反省すること。
C「正心」心を正しくする。
D「修身」一身をよく修める。(家を保つ中心)
E「斉家」家を和合さす(国の中心)
F「治国」国をよく治める。(世界の中心)
G「平天下」世界が平和になる。
 儒学思想の根本は「天下国家の政治も、その根本は一身の修養にある」としたのである。
 これが「修己」(道徳論)「治民」(政治論)と表現される儒学の中心思想である。

    
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いま、家庭教育に求められているもの〜「妹千代宛書簡」に思う〜

              山口県生涯教育センター所長・(財)松風会理事  

はじめに
 私が初めてこの書簡に接したのは、昭和56年、山口県教育庁社会教育課で婦人教育や家庭教育を担当していた頃のことである。当時の新任課長(現松風会理事 濱本研一様)から、家庭教育の参考資料として渡されたが、正直言ってその時は一読しただけで終わってしまった。
 平成11年4月、もうそんなことも忘れかかっていた頃に、図らずも松風会の理事として御縁をいただき、改めて熟読してみた。約20年ぶりであったが、大変深い感銘を覚えた。私がようやくその年齢に到達したと言ってしまえばそれまでであるが、いま、まさに家庭教育に求められているものが、この書簡の中に詰め込まれているのを感じたからである。ここではその思いの一端を述べさせていただくことにしたい。
 
1 温かい家族関係の中でこそ人は育つ
 千代は松陰の3歳年下の直ぐの妹で、一番親しみを感じていたようである。それにしても、20歳代の男性が、獄中から家族(妹)に書いた手紙の中に、この様に溢れんばかりの妹への愛情、父母への感謝の念、家族への思いやり、親族にまで及ぶ気配り等が伺われ、少しの心の動揺も感じられないのは何故だろうか。それはひとえに、松陰の育った杉家の家族愛、家族相互の信頼と強い絆によるものだと、私は考えている。そして、この様な家族の中で育った松陰であるからこそ、あのように立派な人格者として人生を全うすることが出来たのだと思うと、胸の熱くなるのを感じる。

 今、あたりを見回すと、少子化、核家族化の進行により、一家族の人数は3人に満たないのが現状である。また、その少人数の家族を取り巻く社会の様々な要因により、家族内の会話や団らん、世代を越えた交流などが減る傾向にある。そんな中で、子どもたちにとっては、豊かな心を育む心の土壌が耕されにくくなっているのではなかろうか。何故なら、自分を写す鏡や目標となるモデルとしての最も身近な大人の数が減り、叱られることも少ないかも知れないが、褒められたり、教えられたり、多くの慈しみのこもった関わりを受けにくくなっているからである。

 しかし、この様な状況は何とか打破して、これからも、子どもたちの心の土壌をしっかりと耕し、松陰のような思いやりの心、感謝の心に満ちた立派な人間性の持主を育てなければならない。そして、そのための突破口は、やはり今ある家族が、父母は勿論のこと、私たち祖父母に当たる者やその他の者も、互いに絆を強め合うように、地味ではあるが日々努力を重ねていくことにあると思う。
 
2 父母の教えによって子どもは育つ
 松陰はこの書簡の中で、自分の理想の子育てについて妹千代に託している。原文の冒頭に「凡そ人の子のかしこきもおろかなるもよきもあしきも、大てい父母のをしへに依る事なり」とあるが、この中には松陰の子育てについての基本的な考えが凝集されていると言ってもよかろう。

 その一つは、子育ての責任者は両親であるということである。松陰は妹千代には特に、母親としての家庭教育の責任の重大さを説いているが、要するに、子どもの教育や成長に関しては、父親と母親が真正面から立ち向かい、責任を持って取り組んでいかなければならないということである。今日の全ての親たちが、我が子に何か問題が起こった時、あるいは起こしそうになった時など、果たしてどれだけ自分たちの責任において、子どもを強く指導することが出来るだろうか。ともすると、我が子にそんな問題が起こったのは学校や友人のせいなど、自分たちより他の所に責任を転嫁していないだろうか。やはり、子育ての責任者はいつの時代にも、両親でなくてはならない。そして、彼らを支える役目を持っているのが、家族であり、隣のおじさんやおばさんであり、学校の教師や地域の人たちなのである。最近では、子育てに不安や悩みを持つ親が多くなり、子育て支援や子育て相談のボランティア活動など若い父母の子育てを容易にする活動が盛んになっている。このことは今後ますます大切になるであろうが、その場合にも、あくまでも両親を主役にした支援に徹することが肝要であろう。

 二つ目は、父母の「教え」の重要性ということである。松陰はこのことについて、子どもにとって最も身近な人生の先輩である父親と母親が子どもの年齢に合わせて、正しいお手本を示しながら感化していくことを中心に据えて考えている。松陰のこの考えは、今日の家庭教育においても不易であり、大変重要な教えであると思う。
 ところが現実には、子どもたちに見せて貰いたくない姿を平気で見せている大人が如何に多いことか。国民を代表する政財界、産業界、教育界等の人たちの中にもそんな姿が多数見られるのであるから、何をかいわんやである。
 また近頃、学校や家庭で子どもの自主性を育み個性を伸長する観点から、「教える」「しつける」「訓練する」などの言葉が避けられ、それに代わって「自ら学ぶ」「任せる」「支援する」などの言葉が好まれる傾向がある。そのためか、特に幼少期の子どもを持つ父母の中に「大きくなったら自分で分かるようになるから」とか「親が枠にはめてしまうのはよくない」などとして、しつけや指導を行わない人たちがいて気にかかる。また、もともと親としての教育機能が低いために、自ずと幼少期も子どもを放任してしまっているケースも増えていて心配である。
 幼少期の父母の「教え」の大切さについては、松陰も千代に母親の役割を通してきめ細かに伝えている。動物の子育てを見ても自明のように、この時期に必要な父母の「教え」は、親がまずやって見せて、真似させて、分からないところは教えてやり、自分でやれれるようになるまで訓練する、まさに「教える」「しつける」「訓練する」関わりであると言えよう。また、この営みが十分になされて初めて、今求められている自主性を育み個性を伸長する子育ての基盤が出来上がることにもなるのである。
 
3 子育ては親の自分育てである
 松陰は、短い生涯の間に多くの若き人材を育てた。彼の人づくりは、弛まない自己研鑽を通して若者の魂をゆさぶる人間教育の精神によるものであったと言えよう。
 この書簡を通して松陰は千代に、母親としての在り方、生き方を丁寧に伝えている。その中で、母親としてだけでなく、妻として、主婦として、一人の人間としての行いに言及しているが、このことは松陰が、母親の役割は、単に母親としてだけでなく、人間としてトータルに自己を高め、行いを正しくして初めてその役割が果たせると考えていたことを表している。松陰の教育に対する基本的な考え方がここにもにじみ出ていると思うのである。
 そして、松陰のこの考え方は時代を越えて重要である。いつの時代にも子どもを立派に育てるためには、親(大人)自身が生きがいのある充実した生活を送るように努めて、子どもたちにとって期待される人生のモデルになることが望まれる。

 時あたかも生涯学習時代を迎えて、生涯のいつでも、必要な時に必要な学習を積んで自己を高め、生きがいのあるかけがえのない人生を全うすることが目指されている。また、幸いにも今日、そのシステムも整いつつある。この様な時代に、子どもを取り巻く大人たちは、両親だけでなく全ての大人が、生涯学習に励み、人間性を高め、生きがいのある生活を送り、子どもたちの立派な成長を促さなければならないのではないか。
 祖父母の世代に当たる私たちも、まだまだ生涯現役で自己研鑽に励み、子どもたちやその親たちのより良いお手本となれるように努め、子育てを側面から支援していかなければならないと思うことしきりである。
 
おわりに
 この書簡の熟読をきっかけに「吉田松陰撰集」(松風会発刊)の中のあちこちをたどり、松陰の人柄、そして女性観に触れられたことは、予期しない収穫であった。特に、松陰の女性観は、人間に対していつも真実の心で対した松陰ならではの、人権尊重の視点に立った、平等の精神に満ちたものであることが分かった。これまでの私は随分誤った先入観を持っていたものだと、恥ずかしく思っているところである。
 松陰のように磨かれた人権感覚の持主を増やし、また松陰のように純粋な気持でよりよい社会づくりを考える改革精神の持主を増やすことこそ今日求められている男女共同参画社会の実現の最大の鍵であると、改めて痛感させられた。

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第4回松陰研修塾基礎コース修了
平成12年・13年と2年間にわたり合計6回の研修会を実施した本研修塾を14年1月26日に終了した。

閉講式挨拶要旨

                                 (財)松風会理事長  
 
 来賓の山下県教育庁指導課長様、倉増山口県高等学校長教戒理事長様には極めて御多忙中御臨席を賜り、この行事の意義を深めていただいたこと感謝に耐えない。
 修了証を手にされた皆様は、多忙な日程を万難を排して、2年間にわたり6回の研修会に参加され、御精励御研鑚の賜物で今日を迎えられた。お祝いを申上げる。講師の先生の御指導によって、松陰先生の認(したた)められた書に親しみ、その真意を体得され、松陰先生の先見性を学ばれ、自信を持って教育に当たられれば研修の成果ともいえ誠にありがたい次第である。これは偏(ひとえ)に河村・石原両先生,講師先生方のお蔭である。深甚なる感謝の意を表する。

 およそ人間形成・心の道はこれで終結と言うことはない。終生研鑚修養は大切で欠くべからざるものである。これが人たる所以であり道であると思う。このように考えたとき引き続き、この基礎コース・松陰教学研究会に御参加受講される道もある。また体験を通して知己の人に御吹聴ください。
 講師先生方も御健康には特に御留意され、今後ともご尽力御支援賜ればこれに越した幸せは無い。ともあれ御縁をいただいたので運命共同体である。お互い切磋琢磨、教育の道を通じて社会に奉仕できることは人生の生きがいともなる。皆様の御健康・御多幸を祈念して挨拶を終わる。
 
来賓挨拶要旨
山口県教育庁指導課長   
 第4回松陰研修塾基礎コース修了式に当たり一言お祝いを申上げる。本研修に御参加の皆様方には、平素から山口県教育の充実のため多大な御尽力をいただいていることに対して心から感謝申上げる。
 また日々の教育活動に御多忙の中、自らの成長を目指して2年間取り組んで来られた熱意に対し深く敬意を表する。

 来年度から、完全学校週5日制のもと、新しい学習指導要領の実施を迎える。新しい学習指導要領では、各学校がゆとりの中で特色ある教育を展開し、子どもたちに基礎的・基本的内容を確実に身に付けさせることはもとより、自ら学び、自ら考える力などの生きる力を育むことを目指している。

 県教育委員会としては、山口県教育ビジョンの基本目標に「夢と知恵を育む教育の推進」を掲げ子ども一人一人の個性の更なる伸長と豊かな人間性や社会性の育成を目指し
て、時代の要請や地域の実状を踏まえた教育改革を進めている。この基本目標実現のためには、本県教育のよき伝統である豊かな先見性、進取の気質、郷土を愛し郷土に奉仕する精神などを今日の教育に生かし、山口県らしい教育の一層の具現化を図ることが重要であると考える。こうした中で財団法人松風会においては松陰先生の遺徳と精神の普及を図り、それを現代に生かすという理念のもとに広く活動されていることはもとより、誠に意義深いものがあると、その成果に心から期待を寄せている。折りしも二十一世紀のスタートに当たって政治経済等の大改革とともに教育界においても大きな変革が進められている今日、本研修において、幕末から明治維新へと未曾有の変革期に、新しい時代を切り開く先鞭をつけられた松陰先生生き方や遺徳を学ばれることは、現代の教育課題を解決するに当たっても大変有意義であり、本県教育の充実にも大いに寄与するものであると確信している。

 本日修了を迎えた皆様におかれては本研修での成果を夫々の教育現場で広めていただき、本県教育充実のため大いに御活躍されることを期待している。
 本会の一層の御発展を期待すると共に塾生の皆様の御健勝と今後益々の御活躍を祈念して祝辞とする。
 
来賓挨拶要旨
山口県高等学校長協会理事長 
 
 第4回松陰研修塾基礎コースの修了式に当たり、一言お喜びの御挨拶を申上げる。
 本県教育の先人である松陰先生の原文を紐解いて、教育や思想について2か年にわたり、河村・石原両先生の講義、更には現地での研修等に研鑚をつまれ、修了式を迎えられた皆様の御努力に敬意を表する。

 さて、現在教育は大きな曲がり角を迎え、どう変わっていくのか先行き不透明な状況である。一方で急激な社会の変化に対応すべく情報教育、国際理解教育、環境教育というような教育の流行の部分が声高に言われいる。臨教審以来、不易と流行という言葉が流行ったが、このような先行き不透明なときにこそ教育の原点に立ち返って教育の不易の部分をしっかり押さえていかなくてはならない。学校の役割は何であろうかと考えたとき、一つは基礎学力をきちんと身につけさせること、
二つ目は知的好奇心を植えつけ、勉強の仕方、学び方を教えてやるということ、
三つ目は、人間としての在り方を身につけさせることと言えるのではないか。 

 よく詰め込みはいけないと言われるが、必要なことは、きちんと教え込まなくてはならない。それも不易の部分ではないか。流行をないがしろにせよというのではない。しかし、こういうときだからこそ今一度原点に返って不易の部分を見直して見る必要はないだろうか。

 さて、皆さんは二年間にわたり松陰先生の言行について学ばれたわけであるが、かつて山口県教育委員会が「夢と知恵を育む教育」というスローガンを掲げてスタートした時期に、「指導上の努力点」の中に憤排啓発(ふんぴけいはつ)の教育(撰集二一四頁、従弟玉木彦介に与ふる書)と言うことを解説したことがあるが、松陰先生が宇都宮黙霖(うつのみやもくりん)という僧に宛てた書簡に「…上人の心は一筆、一人を誅し(責め殺す)、吾の心は一誠、一人を感ぜしむ。…」(全集F441頁、安政3年8月18日)「…一誠兆人を感ぜしむ。」(全集F443頁、安政3年8月19日)と認(したた)めておられる。松陰先生は自らの真心により塾生の心を感化し、魂を揺り動かされた。京都大学の梅原徹先生が『吉田松陰と松下村塾』という書で、「これほど相手の心を揺さぶり、魂に働きかけることに成功したパーソナリティを我々は知らない」と言っておられる。松陰先生はこのあたりに教育者として他に比類のない魅力を持っておられたと考える。

 教育において、基礎基本となる知識や技能を身につけさせることは不易の一つとして大切である。しかし、もう一つの教育の役割である「魂を揺り動かすこと」も忘れてはならない大事なことである。子どもたちに、自分自身の生き方を考え、選択をし、判断し、将来にたくましく生きる力・能力を培うことが今日の教育には強く求められている。松陰先生の教育の実践と思想は洋の東西を問わず時代を越えて、現在においても決して輝きを失うことのない「不易の教育」ではないかと思う。皆さんは2年間にわたり松陰先生の教育の原点・本質を学ばれた。その成果をそれぞれの学校において、実践をし、活かし、広めていただきたい。皆様の御活躍と防長教育の伝統の要として多大なる貢献をされている松永理事長を初めとする松風会の更なる御発展を祈念し祝辞とする。

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主な研修内容 
 講 義「吉田松陰の生涯」         
 講 義「今あらためて松陰に学ぶもの」(志を育てる教育)
 講 義「防長の教育風土、その形成と伝統」 
 講 義「『講孟余話』を読む」       
 講 義「幕末の国際情勢と吉田松陰の国際認識」
 講 義「松下村塾の指導者吉田松陰」    
 講 義「幕末の政治と松陰」        
 講 義「生家杉家について」        
 講 義「尊王思想と松陰」         
 講 義「松陰と萩」            
 巡 検「萩市内・松陰ゆかりの地」     
 講 義「武教全書講録」          
 講 義「松陰と登波」             
 講 義「松陰の人間観・人生観」
 講 義「『留魂録』を読む」               


平成14年度研修計画

平成14年度第16回『松陰教学研究会』
 日 時:平成14年12月7日(土)〜8日(日)
 場 所:セントコア山口             
 内 容:講 義(教育者松陰の真髄・孟子と松陰・現代教育と松陰など・吉田松陰の生涯)
     輪 読・実践発表(松陰教学に実践)・情報交換(松陰教学から学ぶもの)
 参加費:不要
 
第5回松陰研修塾基礎コース(2年計画)参加受付中
 1年次(14年度)
  1 回 平成14年6月29日(土)山口県教育会館
      講 義(吉田松陰の生涯・志を育てる教育)
      実践発表(松陰をどのように学ぶか)
  2 回 平成14年10月26日(土)〜27日(日)萩青年の家
      講 義(萩と松陰・松陰と登波・杉家)
      現地研修(萩市内巡検)        
      座談会(松陰から何を学ぶか)情報交歓
  3 回 平成15年2月15日(土)山口県教育会館
      講 義(防長の教育風土とその伝統・講孟余話・幕末の国際情勢と松陰)
 2年次(15年度)
  1 回 講 義(尊王攘夷思想と松陰・武教全書講録)
      輪 読・座談会
  2 回 長崎・平戸方面現地研修:葉山左内・山鹿万助
  3 回 記念講演・講 義・閉講式
   参加費:不要

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