松門9号 平成元年9月1日             松門目次へ戻る
 
感動教育に思う 山口女子大学教授 河村 太市
山口鴻峰松陰読書会のあゆみ 会長 原  祥文
松下村塾が問いかけるもの〜咸宜園との比較において〜
  下関市教育委員会学校教育課長 見好  豊
松陰をめぐる人びとG高杉晋作 前下関図書館長 清永 唯夫


 
感動教育に思う 山口女子大学教授 河村 太市
 山裾に暮らしていると、鶯の声が間近に聞かれる。その声も、いまはもう馴れっこになってしまったが、十数年前ここに居を構えた当座は、しみじみと鳴き声に聞き入ったものである。
 過日同年輩の者とお茶を飲んでいたとき、某氏が最近は感動することがなくなった、という。ある者は、それは年齢のせいだといい、別の者は世の中全体が豊かさの中にとっぷりつかっているためだろうと応じていた。
 感動することは、人間の特質である。私達は自然の営みに、文化遺産に、あるいは先人の生き様に感動する。れだけではない。日常生活の中のちょっとした他人の行為にも、あるいは昔愛用していた万年筆を引き出しのそこに発見したときにも感動する私達である。だが一方で、感度する事が少なくなったことも実感されるところである。
 近年学校教育にみられる教育の重視は、極めて積極的な意義を有するものである。各地で素晴らしい実践が展開されており、また感動教材の研究が蓄積されつつある。
 こうした動きをみていて思い出されるのは、佐藤一斎の「我れ自ら感じて、然る後これに感ず」(言志耋録(げんしてつろく))、という言葉である。まず自分自身が感動することによって、はじめて他人を感動させることが出来るものだというのである。感動教育にとって、「感動を伝える」ことは大きな要素であるが、子どもたちの感動をよぶためにはまず教師自身がそのことに深い感動を覚えているのでなければならない。
 吉田松陰が弟子に書を授けているときの様子を、天野御民が次のように伝えている。(松下村塾零話)。
  先生門人に書を授くるに当り、忠臣孝子身を殺し節に殉ずる等の事に至るときは、満眼涙を含み、声を顫(ふる)はし、甚しきは熱涙点々書に滴るに至る。是れを以て門人も亦自ら感動して流涕(るてい)するに至る。又逆臣君を窘(くるし)ますが如きに至れば、目眦(もくし)裂け声大にして、怒髪逆立するものの如し、弟子亦自ら之を悪むの情を発す。
 右の言葉に注釈は不要である。一斎の言を実証する好個の例である。
 さて感動は心のことである。感動を伝えるとは心が心に通うことであって、それは技術が伝えるのではない。感動教育にとっては、ここのところが最も大切なところである。とかく教育の成否は教師の問題に集約されることが多いが、感動教育の場合はとくに教師の側に鍵があるといってよいだろう。なお感動教材を媒介にした受業も、実はその日常的基盤としての学級の雰囲気が左右するものであることは申すまでもない。学級の雰囲気は、ただに感動教育のみならず、学校における全ての教育活動、学習活動の基盤をなすものであり、先生たちが学級づくりに渾身の努力を払われている所以である。
 ここで若干付言させてもらう。近時、学級づくり、あるいは学校づくりに関連して、「校則「学校きまり」といったことが論議を呼んでいる。ある論者は集団生活にとって規則は不可欠だと述べ、他の論者は管理の強化であって学習の自由を阻害し人格にかかわる問題だと述べる。それぞれに論拠をもった主張ではあろうが、両者に共に望まれるのは、松下村塾が「礼法を寛略にし、規則を擺落(はいらく)」(「諸生に示す」戊午幽室文稿)することを可能にしえたのはなぜであるか、このことを具(つぶさ)に検討してみて欲しいことである。礼法規則を寛略擺落したので、「諸生みなこの道に率(したが)いて以て相交わり、疾病艱難(しっぺいかんなん)には相扶持し、力役事故には相労役すること、手足の如く然り、骨肉の如く然り」(同前)、という状況が生まれたと短絡してはならないし、また松陰は決して礼法規則の否定者ではなかったことを踏まえて検討することが必要であろう。
 
9号目次へ戻る
松門目次へ戻る
 
 
山口鴻峰松陰読書会のあゆみ 会長 原  祥文
 
研究集録
 「涵育薫陶」は私どもの会の研究集録につけた書題であります。この研究集録は昨年度で第7集を発行しました。内容はそれぞれの会員が、松陰についてその時に感じたこと、研究したことなどを集めて小冊子にしたものです。
 この研究集録は松風会に毎年5冊ずつ提出し、県立図書館にも2冊寄贈しております。
 最初は後述のように委員が皆附属山口小学校に勤務していましたので、連絡もよくとれるし輪読会もよく開催出来ましたが、勤務地が方々に散ってしまったので、年に1回の集録をまとめようということになったものです。
 なお、この研究集録の第1集は、昭和58年3月に発行し、毎年1回3月にまとめてきました。平成元年3月は第7集となりました。書題の「涵育薫陶」は教育の原点であり、会員が共に好きな言葉のひとつであります。
 
輪読会
 昭和50年当時附属山口小学校に勤めていた者の多くが、その頃出版された「松陰全集」を購入いたしました。しかし、手に入れたけどまだ開いて見たことがないと言う人が多く、私もその一人でした。萩で松陰輪読の経験を持つ、見好豊先生の発案で、同年4月8日私の家に、見好先生、梅本先生、阿野先生の3人に集まってもらい、輪読をはじめたのがこの会の発足です。
 松陰全集第3巻(講孟餘話)の最初の頁から輪読を始めましたが、初めのうちは、もっぱら見好先生の講話のような次第でした。
 そのうちに、メンバーも増え輪読も交代しながらできるようになりました。会場も原、見好、渡辺、中川と、廻り持ちすることになりました。原則として隔週の火曜日に会を開くことにしました。
 輪読は当番を決め、その人が先ず全文を朗読し、意味を説明し、それについての意見を述べ合うというやり方で進めましたが、時にはそれから発展して、現実の教育についての議論になることもありました。お互いに自由な立場で意見を述べ、夜が更けることも度々でした。
 
夏期研修会
 輪読会の話題の中で、松陰ゆかりの地を訪ねてみようという発案がなされました。それを夏期に行うことが決定され、昭和52年夏に第1回目を実施いたしました。以下その足跡を記してみると次のようになります。
 第1回 昭和52年夏 須佐方面
 第2回 昭和53年夏 柳井方面 指導者 谷林博先生
 第3回 昭和54年夏 下関方面 指導者 藤田武男先生
 第4回 昭和55年夏 玖北・岩国方面
 第5回 昭和56年夏 長門方面 指導者 平川喜敬先生
 第6回 昭和57年夏 周防大島方面 指導者 福本幸夫先生
 第7回 昭和58年夏 萩方面 指導者 末永明先生
 第8回 昭和61年夏 岩国柱島方面
 第9回 昭和62年夏 下関・彦島方面 指導者 澤忠宏先生
 第10回 昭和63年夏 向津具半島
 以上がこれまでの夏期研修会の概略ですが、そのいくつかを詳しく紹介したいと思います。
 第5回の長門方面は平川喜敬先生を講師にお願いし、村田清風先生と吉田松陰先生について学びました。
 村田清風先生の記念館等を見学解説していただき、村田清風先生のことが少し明らかになったような気がしました。
 先生にいただいた「人間村田清風に学ぶ」のパンフレットの書き出しの部分を紹介しましょう。
「天保の大改革を指揮した村田清風は、防長きっての思想豊かな行政家であった。遺された論文や記録類は多数にのぼるがそれは、幕藩体制がようやく揺らぎかけようとする文化文政以後の、特に我が防長の政治経済情勢を知る上でに、欠くことのできない資料の一つと言えるであろう。その上、それら書簡や記録類の間を埋めて夜空に輝く星くずのようにきらめく詩歌にいたっては、味わい尽くせない多くの作品が遺されているのを知ることが出来る。」
 次は第7回萩方面の視察で末永先生から、松下村塾や松陰先生誕生地で、実地にご指導をいただきながら学ぶことが出来ました。
 末永先生は我々のために、資料を作られ見学の順序を考えて案内してくださいました。よく知っているつもりであったのですが、先生の解説により、さらに深く松陰思想の背景を知ることが出来たような気がします。最後に第9回下関彦島方面の視察について書きます。
 当時彦島の西山小学校の校長であった見好豊先生が企画して実施したものです。その報告書(研究集録第6集)により、その一部を紹介します。
 昭和62年8月19日、午後2時、県内各地より西山小学校へ集合した山口鴻峰松陰読書会の面々と一緒に、松陰・廻浦紀略の道を訪ねる夏期研修を実施した。講師は日本海事史学会会員であり、彦島のことについては隅から隅まで踏査され、調べ尽くされている、澤忠宏(彦島江浦在住)先生にお願いした。
1 獅子ケロ砲台跡
 当日は残暑厳しく、うだるような暑さの中、先ず西山の獅子ケロ砲台跡を、訪ねることにした。ここは約2千万年前から2千五百年前の断層が続く海岸で、貝化石、桂化木、奇岩が豊富に見られる、考古学、地層学の宝庫である。
 幸いにも干潮時で、全員が海岸に降り立つことが出来、海からの景観の素晴らしさを満喫することが出来た。
2 福浦の金刀比羅宮
 次ぎに訪ねたのは、福浦の金刀比羅宮である。これは、文政12年(1829)に建立されたもので、北前船の船頭たちが航海の無事を祈願するために参詣し大変な賑わいをみせたお宮である。また、この金刀比羅宮の石段は約50度の急勾配で279段あり、我々はあまりにも急なため上りは女優木暮実千代さんの生家そばの小道を通って登ることにした。
 ここで廻浦紀略を読んでみよう。
 仲六 小舟を発して福浦に至る。伊崎より二里余、金比羅祠に登り、燈籠堂の台場を検す。台場未だ築かず、余好事にして燈堂に登り、且つ其の燈箋を見、油銭の出づる所を問ふに、嚮導云はく「船頭の多く繋泊したる時乞ひて出さしむ」と、祠傍に文政10年に作る所の長府の儒員小田圭の碑文あり。祠に登るの石階未だ悉く成らず。既に成れる所を見るに新旧あり、漸を以て続成するものに似たり。因って之れを問ふに其の銭を出すこと、猶ほ灯油の如しと云ふ。石階百六十余段あり、成就せば二百階許りなるべし。因って之れを算するに、一級高さ七寸とすれば、直立十八丈の高さなるべし。
 文中に「成就せば二百階許りなるべし」と言っていた石段も、現在は279段で、松陰の予想をはるかに上回るものであった。
3 松陰が止宿した宿屋跡
 時刻も5時近くになり、暑さもようやくやわらいで来た頃我々は、関彦橋を渡り、伊崎町にあった関屋松兵衛の宿跡を訪ねることにした。この関屋には松陰は嘉永2年7月15日から20日の5日間止宿している。ここで再び「廻浦紀略」を読んでみよう。
 仲五…(略)… 伊崎、戸数もと三百軒ありしが、長府領と網代の論争起りしより活計に苦しみ、戸口やや減じて、今は二百五十軒位なり町の長さ、前町・中町・北町にて十町許りなり。関屋松兵衛が宿に上り浴して後町筋を通り会所に至り…(略)…
 以上が本会のあゆみの概略を記したものですが、会員の中川先生・講師の平川先生は故人になられました。謹んで冥福を祈ります。
 継続は力なりと申しますが、研究集録も夏期研修も、続けて行きたいと思っています。

9号目次へ戻る
 
 
松下村塾が問いかけるもの〜咸宜園との比較において〜
  下関市教育委員会学校教育課長 見好  豊
 
塾風のちがい
 下関市が九州に近い関係もあって、日田咸宜園を訪れる機会が多い。この咸宜園は広瀬淡窓が開いた漢学塾であり、幕末を代表する有名私塾の一つである。
 作家邦光史郎氏は「歴史への招待」(NHK出版第25集)において、この咸宜園と松下村塾との違いについて述べている。
 全国各地から、常時二百人程度の塾生を抱えていたというこの咸宜園からは、地方の学者は輩出したものの、幕末維新の動乱の中で活躍する人材はほとんど育っていない。そして、ひとり長州萩の小さな私塾「松下村塾」のみが、その時代を動かす人材を数多く育てているのはなぜか。
 これは、兩塾の塾風というか教育の違いー塾の独自性ーによると言うのである。
 そこで、松下村塾と咸宜園という二つの私塾(咸宜園が松下村塾より一時期ほど早く栄えた私塾ではあるが)を対比させながら、私なりに、改めて「松下村塾」の教育を問い直し、現代に形象すべき者は何かを探ってみたい。特に松下村塾のもつ驚異的な教育効果、教育力の源泉はどこにあったのか、次の五点から考察してみたい。
 
 はげしさとおだやかさ
 兩塾の違いの第一は、師弟関係の迫力(気魄)の差、緊張度の差である。
 松下村塾の主宰者松陰は幽囚の身であり、しかも、彼は国事犯・政治犯である。
 また、松下村塾は単に教育の場だけでなく、一種の政治結社的な性格を持った場でもある。塾生として入門するにしても並々ならぬ覚悟と緊張感が伴う。この緊張感が松陰と塾生の間を結びつけ、燃え上がらせていったと考える。松陰は全身全霊、真心を吐露して、激しく問答する。だから、塾生もいい加減な気持ちで講義を受ける訳にはいかないのである。両者の関係はまさに真剣勝負の連続であり、火花を散らせる人間同士のぶつかり合いの場であったのである。
 この点については、天野御民が塾で講義する師、松陰の姿を次のように紹介していることから十分窺うことが出来る。
「先生、門人に書を授くるに当り、忠臣孝子身を殺し節に殉ずる等の事に至るときは、満眼涙を含み、声を顫(ふる)はし、甚しきは熱涙点々書に滴るに至る。是れを以て門人も亦自ら感動して流涕(るてい)するに至る。又逆臣君を窘(くるし)ますが如きに至れば、目眦(もくし)裂け声大にして、怒髪逆立するものの如し、弟子亦自ら之を悪むの情を発す。」
 咸宜園における淡窓は、自然を愛し、自然に触れた心の波動を優れた漢詩にうたうことをたしなみとして奨励した。それ故に、咸宜園には平和で穏やかな塾風が流れていたのに対し、松下村塾は明日にも希望の実現を果たさずにはおかない若者の激しさ、気魄に満ち満ちていたと考えられる。
 
 「実学」の重視
 第二点はカリキュラム・学習内容の違いである。咸宜園は漢学を首とした体系的、系統的なものであるが、松下村塾は兵学・経済学・歴史学・地理学といった実学をもとに、しかも体系がなく、個別的であり、臨機応変な内容が取り上げられた。時と場と人によって、ある時は兵学であり、ある人には地理学というように「時に急して身に切なるもの」を講究したため、取り上げられる教材の選択が自由になされた。また、「野山獄読書記」にも示されているように、松陰の読みたい本が素読のテキストになることも多かった。
 
 個性の開花 
 第三点として塾生の個性を大切にする事である。この点については、「学ぶ者咸宜(みなよろ)し」という咸宜園と「来る者は拒まず、往く者は追わず」という松下村塾の方針からして、実によく共通している。
 この方針は当時の「三奪の法」と言われるものの中にも、よく示されている。入門して来る者に対して、あらかじめ三つのことを奪うー年齢を奪う・学歴を奪う・門地を奪うーという意味である。
 淡窓は「いろは歌」で「鋭きも鈍きも共に捨て難し、錐と槌とに使い分けなば」と歌っているように門弟一人一人がもっている資質を大切に育てようと努力を傾けているが、松陰も一人一人の個性を見抜く点については天才的な素質があった。
 とくに淡窓の場合、塾生も多く、いちいち一人一人に当たって指導すると言うことは、いくら努力しても、そこには自ずから限界があった。これに対し、松陰は塾生の人数も少なく、面授面受の指導を常としていたから、塾生の考え、行動を初め、全ての行動・表情・気持ちといったものが手に取るように分かり、一人一人の個性を的確につかむことが可能であった。
 その上、松陰はあのように純粋で、至誠の人であったから、塾生を心から信頼し、「お前ならできる、やれる力を持っている」というように相手への思い入れをすることが得意であった。松陰はこの思い入れを数多くの手紙と共に「送序」「名字説」「贈呈」などの文章で塾生に与え、励ましたのである。この思い入れが結果的に、塾生の個性を開花させることにつながったと思われる。
 いずれにしても、個性を生かすには多人数の予備校的、マスプロの塾ではどうしても無理であり、やはりゼミナール景色の少人数の塾でなければ実現できないのではないだろうか。その点、松下村塾は規格がピッタリ合っていたとも言える。
 
 面授面受
 第四点は塾生との直接指導であるか間接指導であるかという違いである。咸宜園の場合は淡窓を頭にして教授陣の陣容というものががっちり組まれ、組織的に動いている。いわゆる集団指導体制である。それに対して松下村塾の場合は松陰一人である。勿論、久保清太郎、小田村伊之助、富永有隣、久坂玄瑞などは松陰を補佐して塾生の指導に当たってはいるが、松陰の存在に比べればものの数ではない。しかも、多くの場合は一対一の面授面受の形態(マンツーマン的教育)をとっていて、師の全人格が肌に伝わってくるあんかくでの教授である。
 
 志を核とした人間学
 第五点として、人間学と知識学の違いをあげることができよう。
 咸宜園の教育は徹底した実力主義であり、年齢・家柄・学歴を問わず成績順位ですべてが決められていたし、月9回のテストが行われ、順次昇級していくシステムがとられていた。そして、ここで全課程を修めた優等生は諸藩校の教師に召し抱えられる者も少なくなく、いわば官吏登用の一つのステップ、資格取りであったとも言える。
 これに対して、松陰の教育は彼がいつも塾生達に「学問というものは、人の人たる所以(ゆえん)を学ぶものであって、学者になるためのものではない。また、知識の切り売りでもない。実行することが肝心である」と言っているように、知・情・意の調和のとれた人格教育を目指した。
 特に松陰が大切にしたのは情であり意である。これを松陰は志(至誠)として最も大切にした。
 
 甦れ、松下村塾
 フランスの詩人、アラゴンは「教えるとは共に希望を語ること、学ぶとは心に誠を刻むこと」(詩集「フランスの起床ラッパ」より)と歌っているが、まさに、松下村塾の塾風をずばり表現している。情意(志)を大切にした松陰もおそらく同感であろう。
 志のない時代と言われる現代にあって、人生への確かな目標を持ち、その実現に向けて己を尽くす若者を育てることや二十一世紀に望まれる人間的資質としての自己教育力、個性と連帯性などを育てるうえからも、松下村塾の教育のあり方を見直しその塾風(精神)を現代に甦らせ、継承すべきものは継承していく必要性に迫られている。
 その私案として、次図「松陰教学の基本構想図」を提示して、ご批判を乞いたい。
 
松陰教学の基本構想図(私案)
目標 知・情・意一体の教育
   弘(情)と毅(意)を正しく活用するために義(知)を学ぶ
(情意は志、知は君臣の義・華夷の弁)
具体目標 ○万巻の書を読むに非ざるよりは、安んぞ千秋の人たるを得ん
○一己の労を軽んずるに非ざるよりは、安んぞ兆民の安きを致すを得ん
 志を立てて以て万事の源となす
内 容  実学重視の教育内容
○兵学(「武教全書」「孫子」など)
○歴史学(「資治通鑑」「春秋左氏伝」「日本外史」など)
○道徳・倫理(いわゆる「四書五経」の経書など)
○地理学(地図の活用)
○経済学・数学
方法   ○共同生活体験
○一対一、マンツーマンの教育方法で
○個性(真骨頂、写本)と作文を通して
○情報の収集によって(飛耳長目)
学問の姿勢
○学問の大禁忌は作輟なり
○死して後已む
教師観  ○妄りに人の師となるべからず、又妄りに人を師とすべからず
指導観  ○気類先ず接し、義理従って融る
○涵育薫陶して、自ずから化するを俟つ
○仁義道徳に沐浴させる
 
9号目次へもどる
松門目次へ戻る
 
 
松陰をめぐる人びとG高杉晋作 前下関図書館長 清永 唯夫
「義卿三十、四時已に備はる、亦秀で亦実る、其秕(しいな)たると其の粟たると吾が知る所に非ず。若し同志の士其の微衷を憐れみ継紹(けいしょう)の人あらば、乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼(かか)の有年に恥ざるなり。同志其れ是れを考思せよ。」
 この文章は、安政6年(1859)10月26日、吉田松陰が処刑される前夜に書き残した畢生(ひっせい)の遺書「留魂録」の一節である。まさに教育者松陰の、門下生に対する最後の痛切なる呼びかけであった。
 この訴えに、長州の若者たちは見事に応えた。その穀物を実らせ、またさらなる後世へ
の種子となった一人が他ならぬ高杉晋作であった。
 高杉晋作は、天保10年(1839)8月20日、長州藩毛利36万9千石の城下町萩の菊屋横丁に、2百石取り大組士高杉小忠太の嫡男として生まれた。
 晋作が生まれた天保10年といえば、天保8年の大塩平八郎の乱に続いて、この年の5月には渡辺崋山、高野長英等が捕らえられた「蛮社の獄事件」があり、2年後の天保12年には、老中水野忠邦による天保の改革が行われるなど、3百年の大平を貪ってきた幕府体制崩壊の前夜ともいうべき年であった。
 そうした世情をよそに、晋作は平凡な幼少時代を過ごし、14歳から藩校明倫館に学ぶ。学問よりもむしろ剣術の修業に熱心な少年であったが、やがて朱子学を基本とする明倫館の旧態依然たる教育に飽きたらず、安政4年(1857)7月頃から松下村塾の松陰のもとを訪れるようになる。
 松下村塾には、時を同じくして多くの俊英達が集まるのであるが、晋作の入門は決して平坦なものではなかった。軽輩の子弟が集まり、不穏な気風の感じられる村塾に近づくことを嫌う、実直な藩の役人であった父・小忠太の保守的な意識が、晋作の行動の大きい枷ととなって、孝心厚い彼を苦しめる。当初は、父の目を隠れて、夜密かに村塾を訪れるといった状態であった。
 だが晋作は、次第に松陰に傾倒して行く。松陰が継いだ吉田家は、本来藩士に山鹿流兵学を教えるべき家職にあり、松陰もまたその奥義を極めた人であったが、彼の学問の姿勢は「朱子学だ、陽明学だと偏っていては何の役にも立つまい。とにかく尊皇攘夷の四字を眼目として、だれの著書でも、だれの学説でもその長所を取って学ぶようにしたらよいのである」といったものであった。
 それと同時に「飛耳長目」と題した情報収集記録が残されているように、国内外の正法の学習の中で、極めて現実的な思索の交換もあった。松下村塾が他の儒学塾と根本的に異なる点はそこにあり、村塾に学んだ若者達は弾力性に富んだ思考を身につけていった。
 そうした中で、洞察力に優れた晋作はたちまち「高杉の識をもって、久坂の才を行えば」と、晋作の識見、洞察力を見抜き、久坂と友に松門の双璧として高く評価した。
 やがて晋作も萩の地から旅立つ時を迎えた。安政5年(1858)7月20日、文学修業のために江戸に向かう。江戸では二ヶ月ばかり大橋訥庵の塾に学ぶが、これに失望した晋作は、幕府の学問所昌平覺に入る。
 この頃、萩にいる松陰が、尊攘運動に於ける長州藩の立ち後れを憂いて、老中間部詮勝の暗殺計画を立て、江戸の晋作等にも決起を促す事態が起こる。狂ともいうべき無謀な計画であり、江戸の情勢を知る晋作は久坂等と計り、松陰に対し時を待つべきだという練止の手紙を送る。藩でも松陰の激発を心配して再び野山獄に投じるが、幕府もまた梅田雲浜らとの関係を問うため松陰を江戸に招致し、伝馬町の獄に下す。
 この時、晋作は松陰の獄舎生活が少しでも居心地がよいようにと、必至に金子(きんす)を集めて牢名主届けまた書物の差し入れなど、師のために真心をこめて尽くす。松陰に対する敬愛の念深く謝恩の心厚い青年であった。
 しかし、二人の接触を恐れた藩では、晋作を引き離すため帰藩命令を出し、晋作は心を残しながら江戸を発つ。一ヶ月後萩に帰りついた晋作は、松陰処刑の悲報を聞くのである。松陰の死が、晋作に深い影響を残したことはいうまでもない。
 翌万延元年(1860)1月23日、22歳で山口町奉行井上平右衛門の次女マサ(後雅子)と結婚するが、閏3月7日には海軍蒸気科修業のため藩の軍艦丙辰丸で江戸へ向かう。そして8月、江戸への東北遊歴の旅に出る。自らは各地の剣客と立ち会い武術の腕を磨くための試撃行という。
 その遊歴中、水戸学の完成者会沢正志斎を水戸に訪ね、会沢門下で憂国の士加藤有隣を簡間に、兵学・蘭学に通じ開国を唱える佐久間象山を松代に、開国と富国強兵を説く横井小楠を福井に歴訪、灯台一流の学識者に会って大いに識見を広める。それらの学者は、松陰もかつて歴訪した人々であった。
 その後萩に帰り、藩の世子毛利定広の小姓役として初めて出仕した晋作であったが、文久2年(1862)に入って上海行きを命じられた。幕府が清国に使節を派遣する当たって各藩に随行員を募り、藩から推薦されての上海行きであった。晋作等51名の一行は、長崎に百日近く滞在したのち、上海に渡り、5月6日から7月6日までの二ヶ月間、上海に滞在する。
 当時、清国は大平天国の乱の最中にあり、アヘン戦争後の疲憊(ひはい)ぶりとイギリスを中心とする植民地政策の実情を目にして、これが決して対岸の火でないことを痛感、晋作は「我邦も遂に此の如くならざるか」と記し、真に国士として開眼していく。
 上海から帰って以後の晋作の行動は、志士として次第に激烈なものとなって行く。実現しなかったものの長崎でのオランダ船購入の独断契約、常陸国笠間の加藤有隣を訪ねるための亡命、血盟しての異人殺害計画、品川御殿山の英国公使館焼き討ち決行。明けて文久3年(1863)に入ると、師松陰の遺骨を小塚原刑場から白昼堂々と改葬するなど、まさに行動する晋作であった。そして、晋作が主張する、防長を一天地として割拠し、後日の討幕に備えようという「割拠論」が時期尚早として藩に入れられるとなると、十年間の暇を請い、「西へ行く人を慕うて東行く我が心をば神や知るらん」と髷(まげ)を断ち東行と称して萩郊外外の松本村に隠棲する。
 この年5月、長州藩は下関海峡で五次にわたる攘夷戦を展開、西洋の近代兵器の前にもろくも敗北をきっする。6月4日、藩主毛利敬親は晋作を召し出し、馬関(下関)台場の立て直しを命ずる。晋作は6月6日に下関に登場。豪商志士白石正一郎宅において6月8日封建制の枠を越えた新しい戦力「奇兵隊」を創設、以後、下関を中心舞台として晋作の活躍が始まる。
 
 奇兵隊は、武士、町人、百姓を問わず、進んで国事に身を投じようとする者は総て入隊が許され、長州藩諸隊結成の嚆矢(こうし)ともなり、討幕回天の原動力となった。それはまた、松陰の到達した思想「草莽崛起」にも連なるものであった。
 8月16日に起こった藩正規兵先鋒隊と奇兵隊の不幸な衝突「教法寺事件」によって、晋作は3か月にして奇兵隊総督の地位を去るが、芸州吉田、洞春公毛利元就以来の「譜代の臣」ということと「奇兵隊開闢総督(かいびゃくそうとく)」ということは、晋作が終生自負するところであった。
 奇兵隊創設を晋作のまず一つの功績とするならば、元治元年(1864)8月の、英米仏蘭四カ国連合艦隊来襲における講話使節としての見事な外交手腕、同年12月15日の功山寺決起と内訌戦(ないこうせん)の勝利による藩論の統一、そして慶応2年(1866)における四境戦争(第二次長州征伐)小倉口の戦いでの海軍総督としての指揮もまた彼の偉大な功績と言うことが出来よう。
 その間、京都進発派の説得失敗による脱藩、野村望東尼お平尾山荘への潜居、愛人おうのを伴っての四国への逃避と、ときに「不在の人」となったが、藩がまさに危機を迎えた局面には必ず登場し、これを救い、長州藩をして維新回天の功藩たらしめた晋作こそ、幕末動乱期の申し子であったろう。
 晋作は、しばしば身の危険を回避した。しかし、今こそ死を賭けて立つべきと見るや「一里進めば一里の忠、二里進めば二里の義」と、決然功山寺に挙兵、また幕府征長軍との激戦に命を燃焼し尽くす。これもまた、「拙劣な死」を避け、真に「不朽の死」を見いだせと言う師松陰の死生観に沿うものであった。
 晋作は、慶応3年(1867)4月14日、下関の地に満27歳と8か月の命を閉じる。大政奉還のわずか6か月前であった。
 
松門9号目次へ戻る
松門目次へ戻る
トップページへもどる