松   門
         NO1
             昭和60年8月1日
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創刊のことば
創刊を祝して
親思うこころにまさる親ごころ
心から心への偉大な教育
松陰の足跡をたずねて(1)
「磯原客舎」私解 東北遊日記の一首から
松陰をめぐる人びと(1)
 
 
創刊のことば
                          松風会理事長 松 永 祥 甫
 
 この会報「松門」は予てより、検討を重ねていた松風会の事業の一つで、漸く初刊の運びになりました。
 
 松風会は吉田松陰先生殉難百年を記念して昭和34年発意し、昭和36年に完成を見た松風寮の事業経営に端を発して、昭和49年に財団法人として山口県教育会から独立した事業体であります。
 
 昭和57年3月にその土地が市道建設に充てられたため、21年間に亘って経営された山口大学学生用の松風寮は廃止となり、替わって新たに山口県教育会館内に一室を得て松陰先生の資料展示、先生の研究研修及び顕彰事業を行って今日に至っております。
 
 さて、松陰先生については、余りにも先生が不世出の偉大な人物であるだけに、先生を扱った刊行物は二百種に垂んとしていると言われております。いずれにしても先生を短絡的に兵学者・志士・思想家・教育者というようなことでは、先生を正しく理解し、認識する事にはなりません。
 
 時代は外圧を受けて封建国家は危機存亡の秋であり、当時最も豊富な知識と先見性を有された先生は世界の情勢を直接自分の目で視るため国禁を犯して海外渡航を企てて失敗し、幽囚の身となり、そこに松下村塾の教育を通じて幕藩体制に取り組む有為な人材の育成の機が到来いたしました。2年の短期間ではありましたが、身命を賭しての師弟倶学の教育であり、しかも30歳にして遂に刑場の露と消えられました。
 
 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」
の歌が代表するように留魂空しからずと申しましょうか、その子弟から明治維新を導いた中心的人物が数多く出ております。松陰先生が東西に比類なき教育者と称せられる所以でありましょう。
 
 また「世に身生きて心死する者あり、身滅びて魂存する者あり」の説を引用して所見を述べておられますが、先生の信念や言行は今に生き続いているものと申し得ましょう。
 
 翻って今日、日本の現況は奇跡的とまで言われる世界最優位の経済的国力の伸張を遂げておりまして、国内的には平和で豊かな国民の生活が営まれておりますが、一面国際的には強力な圧力を受けて非常な危機感に襲われております。
 
 このような観点に立つとき、今こそ一身を国のために捧げられた松陰先生に学び、松陰精神の体得に勉めることは喫緊の要務と考えられます。
 
 この会報はそうした要請に応え、併せて松風会の活動を広く紹介しその普及発展に資せんことを期する次第であります。因みに松門は松陰門下生略で、その大事は松風会と縁の深い岸信介先生の御筆跡であります。謹んでお礼を述べます。この発刊を機として一層この研究が輪を広げることを念願して、創刊の辞といたします。
 
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創刊を祝して
                                   山口県知事
 
 郷土が生んだ維新黎明の先覚者吉田松陰先生の遺徳とその精神の普及振興を図っておられる松風会が、このたび待望の会報「松門」を創刊されるに当たり一言お祝いを申し上げます。
 
 近年、教育のあり方が国民的課題として論議され、なかでも青少年を取り巻く諸問題が憂慮されているところでありますが、21世紀を指呼の間に望む今日、教育の成否こそ国の盛衰を分ける「百年の大計」といって過言ではありません。
 
 このような時期に、県民の誇りとする偉大なる教育者吉田松陰先生の思想を伝承せんがため、本会報を発刊されますことは、誠に時宜を得たものと考える次第であります。
 
 私も、教育文化の振興を県政の目標の重要な柱とし、学校教育の振興を始め県民の生涯教育の啓発普及など「心ゆたかな人づくり」を目ざした諸施策を推進し、「活力とうるおいに満ちた山口」を想像してまいりたいと考えております。
 
 会報創刊の記念すべき時にあたり、今後とも松風会のより一層の御発展と皆様の御健勝を祈念いたしまして御挨拶といたします。
 
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親思うこころにまさる親ごころ
                                   松風会理事 浅原 見橘(故人)
はじめに
 「吉田松陰全集」が完結の声に沸いたのは、昭和11年暮れのことである。山口県教育会はその翌年の春、椿東小学校の講堂で、世紀の大作と仰ぐ全集の刊行記念大講演会を開催した。
 
 松陰の英魂蘇るという喜びに松門の同志に憧れるものたちが期せずして萩に集まってきた。当日の講師は編集に心魂を傾けられた玖村敏雄先生の熱っぽい論調に、大衆は涙ぐんで聞き入った思い出がある。その日の論旨は50年の昔に置き忘れたが、感銘の薄明かりだけははっきり残っている。
 
記念講演薄明かり 
 
 忘れかけているそのお話というのは、松陰が安政の大獄にかかわって、野山獄から江戸に引き立てられて行く松陰出発の前夜物語である。
 
 あしたの安政6年5月25日の松陰護送の責任者は司獄の福川犀之助である。予てから松陰を私淑して已まなかった福川は、24日の深夜ひそかに松陰を杉家に連れ、父母たちに心残りなく決別させた。まさに果断の好男子というべきか。
 
 思いがけぬ計らいに杉家一族門人たちも、深い感激を覚えた。滝さんはすぐに風呂を炊いた。温かい湯を使う疲れたわが子の姿を見守りながら
「大さん、どうかもう一度、無事なその顔を見せておくれよ」
と労わる母親に、松陰は微笑をうかべ
「母上こそ体を大切待っていてください。母上からいただいたこの命だけは必ず大事にいたします」
と涙ぐんだ。この親と子の視線の結びつきが性根(しょうね)である。
 
 松陰はこの10日余りを東行前の日記に熱中した。それが松陰独特の文学試論である。その試論の一夜が家族門人たちの尽きない話題をにぎやかに広げた。語り明かした夜のしらむころ、松陰は一同に丁寧な決別のあいさつを交わし、護送の籠にのって最後の野山屋敷に帰った。
 …松陰を迎えた杉家の温かい一夜物語は、教育の真実をいろどる永遠のドラマであった。
 
永訣のおわび
 
 松陰は毛利藩府の命によって萩を出発した。帰らじと思い定めし旅への感傷を涙松の寄せてふるさと路の思い出を顧みた。
 
 7月始め松陰は江戸竜の口の評定所で尋問をうけ、国事犯の容疑で伝馬町の獄屋に監禁された。10月になって勤王志士の処断が殊の外きびしくなった。
 
 死罪は免れぬと知った松陰は10月20日父・母・叔父・兄に「永訣の書」を書き送った。
 『平生の学問浅薄にして至誠天地を感格すること出来申さず 非常の変に立ち到り申し候 さぞさぞ御愁傷も遊ばさるべく拝察仕り候
 親思ふこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん』
 
 杉家一統にささげた松陰のこの涙は、孝行の極致をさぐりあぐねるものの絶叫である。
 松陰にしてはじめて言い得るこの悠大な自負と率直な自省の交錯するところに親への切ないお詫びがにじみこんでいる。
 
 親孝行とは、この中に流れる遠い人の世の倫理と情愛が結びついて「語り部」として語りつがれている不易の道である。
 
 最近、家族縁に恵まれたさる刀自の葬礼に列した。大学生の孫娘によって慎ましやかな弔辞が捧げられた。その「おばあちゃん孝行」という呼びかけが人の心をうった。忘れてはならない子供のことばである。
 
 こうして見るとき、松陰の親孝行という律儀も、女子学生のおばあちゃん孝行という愛惜もすべて日本の家に根付いている人間関係の原型ある。そこに素朴な教育の原点が芽生えてくる。世上に「いじめ」などという問題の提起が情けない。松陰に学びたいのは教育の原型としての心のやさしい親孝行である。
 
 27日断罪。辞世の一端に
「資して君親にそむかず」と!松陰の孝心、正に至れるものか。
 
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心から心への偉大な教育
                                     松風会理事 三輪稔夫
 
 安政3年5月26日夜、松陰は杉家の幽室において親族の子弟たちを前に、『孟子・盡心上・第三十六章』の「居は気を移し、養は體を移す」を取り上げ、いきなり次のように話し出した。「余一間の室に幽閉し、日夜五大州を并呑せんことを謀る」と。
 
 聴講していた子弟たちは驚いたに違いない。併呑を謀るといえば、普通、武力をもって全世界を征服することだが、松陰は手足をもがれた幽囚の身である。松陰の話には、単なる空想や嘘はないはずだが、こんなでっかいことをよくもよくも考えられることだ。それにしても、胸のふくらむ思いのため、あたりは一瞬固唾を呑んだ静けさが漂った。
 
 だんだんと話が進むにつれて、居にもいろいろと含蓄や意味のあることが先人によって示されているなと、かすかに感付けないこともない。雨露をしのぐ住まいの居は、松陰の「一間の室に幽閉し」ている現前の居である。『孟子』の本章に述べる居は、どうも境遇や環境を意味しており、人の心は王子様のような境遇に居れば自然と気高く上品に見え、また栄養が体を立派に変えるといった居と養に当たる。
 
 さらに『孟子・滕文公下・第二章』にある「天下の廣居」、すなわち万人に恥じない正々堂々たる境涯といった仁の路を指す居があったことを思い出さなければならない。
 
 松陰はおもむろに現下の問題から説き起こす。松陰の発想は本来逆方向で、『孟子』から出ているのであるが。ヨーロッパやアメリカが大艦巨舶をもって、遠く万国にわたって航行するようになってから、自然と彼等の気宇も広大になったといえよう。我が国でも海外に積極的に出るようになれば、何もヨーロッパやアメリカに較べその広大を悲観する必要は少しもないので。これが「居は気を移す」ということである。常人であれば、普通の人間であれば誰でも出来ないことはない当たり前の行程である。
 
 鎖国の上、大艦巨舶もない日本として、「巨は気を移す」ことさえ考え及ばない自分たちである。一体松陰はどこまで心の砦を築こうとしているのであろうか。松陰はそこで、「天下の廣居に居る者に至っては、亦居養の能く移す所に非ず」と、まさに大上段からの信念を吐露するのである。
 
 「余独り一室に傲睨(ごうげい、傲然とにらみつける)し、古今を達観し、萬国を通視し」え、世界の国々と共に、日本の独立を維持することを、諸君と一緒に考えてみようではないか。「五大州を并呑せんことを謀る」といったのはこのことなのである。
 
 だから松陰は『箚記』の本章を括(くく)ることばとして「萬国に梯航するを待て、始めて廣大を致す者は常人也。余が一室に幽囚して廣大を致す如きは学の力のみ」とするゆえんである。松陰ともあろう人が、世界の征服など考えるはずがない。攘夷という防衛的な語でさえ、松陰は最初馭戎(ぎょじゅう)と呼んだ。嘉永6年11月26日、肥後藩士横井小楠に与えた手紙の中でこれを使っている。馭とは馬を手綱で御することであり、道を弁えない戎を和らげて、決して他を侵さないように取りはからうことである。
 
 偉大な教育者とは、自らの学問を感動とともに巨視的に高め、相手の心に憤?(ふんぴ)をうながすことでなければならない。この点『講孟箚記・尽心上・37章』において、憤?こそ実心実事であることを説く松陰の意図を感ずる。さらに『同・38章』では一転して、相手の心を信じ、「万物我に備わる」、「良知良能」、「性善」を「造化の妙」として、心の深奥、極微の世界からの照応を忘れない松陰の魂が輝いているように思われる。
 
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松陰の足跡をたずねて(1) 〜下田〜
小学校長
 
 9月27日夕、雨に煙る下田に降り直ちに本日の宿舎清流荘に落ち着く。宿では、下田市教育長、土屋氏より松陰史跡の保存、松陰像の建設に努力された加茂郡教育会の活動、下田市民が松陰に寄せる気持ちを伺い得たことは、明日から史跡探訪をする私たちの心を一層奮い立たせた。
 
 加茂郡教育会は、昭和14年度当初、至誠憂国の士であり、教育者の権化と敬仰する吉田松陰の像を、由緒深い柿崎海岸に建立することを決議し、17年10月に完成した。松陰の心が時代と処を問わずどこでも、いつの時代にも多くの人々の心を打ち続けていることを肌で知り得て感動した。
 
 学問を修め、諸国を遊学し、至る所で文武知名の士を訪ね、同志と共に時事を討究することを重ねた松陰は、海外事情を知ることの重要さを悟り決意して下田の土を踏んだのが嘉永7年3月18日のことであった。
 
 私たちは翌日、回顧録を片手に、先ず蓮台寺にある「吉田松陰寄寓の跡」村山邸を訪ねた。下田から1里はなれた蓮台寺温泉に松陰が足を踏み入れたのは踏海の企てから身をかくすことと、疥癬治療の目的からであり上の湯に入湯中、村医者村山行馬郎と知り合った。
 
 二人の間でどのような会話が交わされ、何が機縁となったのか松陰は村山邸に奇寓することになった。回顧録3月20日の文にはじめて「是の夜渋生は下田に帰る。余は村に宿す。」とある。
 
 松陰は遊歴の際処々方々で師と仰ぎ、友として志を語り合う人を求めているが、村山行馬郎との出会いは全く偶然の機縁ではあるまいか。松陰の人間的魅力が村山を引きつけたのか。
 
 村山邸は、今も当時の面影を偲ばせるそのままの形状で保存されており特に松陰が寝起きした天井裏の二階八畳の間や浴槽が掘り下げられている低い内湯も120年前、そのままで、松陰の息遣いや体臭が漂っている感じさえした。下田踏海という大事を前に、暖かい安らぎを得た村山邸であったことが察せられる。
 
 現在は当主婦人が奇寓跡の保存管理と案内説明役を受け持たれており、一つ一つの遺品や関係資料、書籍類がよく整理されている。閑静な部屋に端座したとき、心のひきしまる感激をおぼえた。
 
 
 世の人はよしあしごともいはばいへ 賤が誠は神ぞ知るらん
 下田投獄で読んだ歌で、回顧録3月27日夜の記に述べられている。その「吉田松陰拘禁の跡」を訪ねた。踏海の壮図空しく破れ去った松陰と金子重輔がいさぎよく自首して拘禁された長命寺跡である。今は下田保健所の敷地であり、その中に御影石の碑が建ててある。松陰はその後、平滑の獄に移され、4月11日江戸送りにされた。前掲の歌をここで読み、一片の私心なく、所信に向けて誠を尽くした気持ちが、今は唯当時を偲ぶべき何物もないまま静かに目を閉じると、松陰の息吹がひしひしと感じられた。
 
 
 この後は日本の歴史の一大転機をもたらした踏海が実行された柿崎にある「松陰踏海の遺跡」を訪う。三島神社境内に建つ松陰立像は前記したように加茂郡教育会が中心となって建てたものであり、その眼ははるか東の海を凝視し、今でも踏海の企てをひめる青年松陰の勇姿である。
 その台座に
「道守る人も時には埋もれども みちしたえねば あらわれもせめ  矩方」
と刻まれている。
「道を守る人は時には埋もれ忘れられてしまうだろうが、道はたえないから、後世必ずあらわれると自分の考え、自分の行動が必ずや、引き継がれ実現するであろうと信じ」従容として、30歳の命を終えた松陰の信念を感じ涙を禁じ得なかった。
 
 柿崎弁天島の入り口「金子重輔之碑」と「松陰遺墨七生説」の碑が建っている。この碑の建立についてのエピソードを聴かされ又感激する。
 明治27年、下田の医師浅岡杏庵外4名は、松陰の記念碑を建てるべく品川弥二郎子爵に相談したところ、子爵は「松陰先生は御生前に『俺の碑よりも金子重輔の碑を建てたい』という意味の話をされていたので、そうすることが先生の御遺志に添うのだ」と話されたので明治28年12月「金子重輔之碑」が建てられたという。碑文は岩倉獄で病死した重輔を悼み、松陰が涙をのんで綴った「金子重輔行状記」が漢文で刻まれている。後明治41年松陰没後50年祭に際し、時の村長、曽我彦右衛門氏等により「松陰遺墨七生説」の碑が建ったということである。
 
 ここでも碑の建立に際し、松陰の人間としてのやさしさが強くにじみ出た話を聞かされ、このやさしさが後々の人々の心を動かしたのであると強く感じた。
 
 波静かな下田港を弁天島に立って眺めるとき、回顧録「3月27日夜の記」が思い出される。
 「…弁天社中に入り安寝す。八ツ時(午前2時)社を出て舟のところに行く……岸を離るること1町許り、ミシシッピー舶へ押付く。…又舟に還り力を極めて押行くこと又一町許り」とあるが、一町という距離感と企てが今、実現しそうになった時の気持ちに想いをいたしながら、艦の位置がどの辺であったろうかと海上を探る。
 
 この地を小舟で漕ぎ出た時、既に松陰の運命が決まった。そして日本の歴史も今までと違った方向に向けて回転し出した一瞬でもあった。その意味では、こここそ維新胎動の地ではなかろうか。
 
 想いはいつまでもつきず、去るに忍び難さを感じたがこの地に別れを告げた。松陰は回顧録、3月28日の記の終わりに
 「将に以て身を没せんとす。往事を回顧すれば、感極まりて悲生じ、悲極まりて大咲呵々、筆を投じて霹靂(へきれき)の声をなす。」
と記して、その一節を結んでいるのを見て、松陰の憂愁、悲憤が、私の胸に泌みとおる。
 松陰の下田に印した足跡は、嘉永7年春の一か月の行動であるが、その一つ一つは松陰の手と足で刻みこんだ下田である。時の流れで、松陰は悲運であったがその後、日本の歴史を大きく変えた。この事に対して今も下田の人々は、松陰を身近に感じ、心の中にいつまでも生き続けさせるために多くの方々が心を砕いておられることを知り、松陰を生んだ山口県人として深い感銘をおぼえた。
 
 訪ねることは出来なかったが、松陰の踏海の企てが空しく破れ、送り返され上陸した所にも碑が建てられていることを聞き及んだそのことについて記しておく。
 「三月二十七日夜の記」に、“上陸せし所は厳石茂樹の中なり ”と記されているように、松陰が米艦から送られ上陸した所は福浦の海岸である。この海岸の一角に記念碑が建っている。
 
 浜崎小学校前から須崎に向かって、県道を数10メートル歩むと、右手に福浦に下る小径がある。椎・トベラ・椿の低い林を抜けると、僅かな平をもつ小さい浦に出る。前方に湾をへだてて下田の街を望む。ここが福浦であり、下田に向かい右手の岩石の上に「吉田松陰上陸所 頭山満」と彫られた記念碑が立っている。
 「昭和9年10月、須崎少年団」
と記されいるそうだ。
 碑は石廊崎に真向きで、背後にウバメガシがはうように茂り、黒松も2,3本見えるということである。
 
 以上のように下田における松陰の足跡を訪ねて感じたことは、加茂郡教育会を中心として、下田の有志によって松陰の下田踏海の歴史を重視して、日々の教育実践の中に取り入れていること。松陰先生を敬慕する人々が、数度に亘り先生の遺徳顕彰の事業を計画したことなどである。
 
 明治中期から下田地域民の心底に流れてきた、先生敬慕の止みがたい心情が今日の史跡保存に連なっていると強く考えさせられた。
 さらにこれらの史跡の多くが昭和56年3月に市に移管されるまで加茂郡教育会が保存管理の大事業を続けたということである。特に昭和49年の伊豆沖地震による松陰像の倒壊に関しては、いち早く復元もされている。このように、地域の校長や教員で構成する教育会が次の世代に松陰の至誠愛国の至情を伝え、松陰精神を継承使用と念願されていることに心をうたれ下田を後にした。
 
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「磯原客舎」私解  東北遊日記の一首から
                       山口市社会教育委員  清木 顕太郎
 
 廻浦行(1849,嘉永2年)・平戸行(1850,嘉永3年)・東遊(1851,嘉永4年)そして東北行(1852,嘉永5年)と周遊を重ねるに従って、寅次郎は一回りも二回りも成長していく。
 
 人生観、使命感、行動力等々は、より明確に透徹し、徹底して変貌する。嘉永3年(1850)の9月西遊日記の序にいう。
 「心はもと活きたり。活きたるものには必ず機あり。機あるものは触に従いて発し、感に遇いて動く。発動の機は周遊の益なり」と。
 同じ二十八日の抄から、この例のひとつを読む。
 「是の夜、腹痛起こり、枕に伏して事を観る。此の快論に至り、忽然として踊り立ち、端座して机により、顔悦び口誦し、手に墨を磨り筆を把り、以て数編篇を抄録す。腹痛も亦やむ。」
 
 その後、間もなく東遊。が、「江戸に噂程の兵学者なし」と嘆息し、遂に「江戸の地に師とすべきものなし」と断じ、意を決して「用猛第一回」の壮挙を決行する。
 信義と友情、という名文を掲げ、肥後の人、宮部鼎蔵、南部藩の江幡五郎と盟約。広い立場から日本を観ようと亡命、脱藩の「東北行」である。尊攘報国という純粋な魂のみしか持たない寅次郎は、決然と「頭を挙げて宇宙を観」ながら颯颯(そうそう)と雪の東北時を歩む。時に年22歳。正に松陰、完成への旅である。
 
 明けてその正月22日、磯原(福島県、北茨城)の客舎で深夜、鼕鼕(とうとう)と鳴る太平洋の海鳴りを聞いて詠んだ一首がある。吟嘯(ぎんしょう)しようとする人、必ず躍動を覚える七言の古詩である。
 
 海楼 酒を把って長風に対し
 顔紅に耳熱く 睡眠濃(こまや)かなり
 忽ち見る 萬里 雲濤の外
 巨鼈(きょべつ) 海を蔽(おお)うて 艨艟(もうどう)来る
 我 吾が軍を提げ来たりてここに陣し
 貔貅(ひきゅう) 百万 髪上がり衝く
 夢断え 酒解け 燈亦滅す
 濤声 枕を撼(うごか)して 夜鼕鼕
 
(評訳)
 太平洋を眼下に望む高楼にのぼり、海原を渡ってくる長風に吹かれて酒を飲んでいると、思わず顔がほてり、耳朶が熱くなり、いつしかうとうとと寝込んでしまった。と、
 その中に雲と濤が重なって万里の涯から無数の大海亀が、海を蔽うように、外夷の軍艦が次々と押し寄せて来るのが見える。
 我が国、きっての大軍略家である私は自ら百万の兵を率いてこれを迎撃すべくここに陣を布いた。
 
 見給え、勇士ひとりびとりのあの面構えを。怒髪まさに天を衝くばかりの概、まことに意気軒昂、凄まじい限りである。が、あっという間に、酔いが醒めたのか、掻き消すようにこの壮大な夢が消えていった。いやはや残念なことではある。
 
 夜もすでに四更(午前2時頃)を過ぎてしまったのか、煌々と照らしていた燈火も燃え尽きて真っ暗。ただ海鳴りが遠吠えのように聞こえるだけであった。
 
 このような見るべき気概の詩はますます膨らんで、おおよそ600首にも及ぶであろう。分類すれば、学問修養の詩、肉親を思い、朋友を思い、故郷を思う詩、詠史、憂国慨の詩、というようになるであろうか。
 
 生涯歩み続けること12,000Km、詩文の交換によって志士的連帯と友情の絆を結ぶ者、全国に、藤田東湖、佐久間象山、橋本左内など百を下るまいと言う。
 
 未忍焚稿にいう
 「志を言い、詩に寄せ、筬戒(せいかい)を寓す」は30年の生涯を詩人志士として面目躍如たらしめたそれである。
 
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松陰をめぐる人びと〜杉百合之助〜
                             (故)松風会理事  石 川   稔
 
 杉百合之助は松陰の実父である。名は常道字は伯兪(はくゆ)通称を百合之助、恬斎(てんさい)と号す。天保元年(1830) 松陰はその次男として生まれた。松陰をめぐる人びとの中で松陰の最大の理解者であり、松陰が家大人と呼んで最も敬慕してやまなかった人である。東送に際して詠んだ「平素趨庭違訓誨、 斯行独識慰厳君…」の詩文が、その心情を最もよく物語っている。
 
 百合之助は身を持すること極めて峻厳奇癖とまで言われるほどの律儀者であった。恭敬素朴、寡黙にして勤勉力行の士であった。暇があれば読書に耽るという好学の習性は、父七兵衛の影響であろうか。
 
 杉家は26石という微禄の下士で半士半農の貧困な家であった。特に文化10年萩城下に四百余戸を消失するという大火があり、杉家も類焼の被害をうけた。当時百合之助は僅か10歳であった。家屋家財を失った杉家の人々は、その後松本村で借家を転々とする数年が続いた。
 
 父七兵衛は百合之助が6歳のころから、職務の関係で家をあけ、江戸に在住することが多かった。その間百合之助は父に代わって母を助け、家事農事をはじめ、弟妹の世話に至るまで細心の気配りをした。
 
 文政7年父七兵衛の死とともに百合之助は家督を継いだ。翌年護国山の南麓団子巌に家を求めて移り住んだ。周囲に人家もない草葺きの小さな家であったが、萩の城下を一望の内におさめる展望は、けだし絶景であった。
 
 文政9年、百合之助は藩の重臣毛利志摩の家臣(陪審)である村田右中の第三女滝と結婚した。百合之助23歳、滝は20歳であった。百合之助夫婦は結婚後も母や弟妹(吉田大助、玉木文之進)と同居していた。間もなく長男梅太郎、次いで寅次郎(松陰)と次々に7人の子宝に恵まれた。しかし、貧困と大家族の世話に屈することなく、後日松陰が特筆大書する如く、杉家の伝統を引継美わしい家風を築きあげた。
 
 「杉の家法(家風)に世の及び難き美事あり。第一に先祖を尊び給ひ、第二に神明を崇め給ひ、第三に親族を睦まじくし給ひ、第四に文学(学問)を好み給ひ、第五に仏法(祈祷・迷信)に惑ひ給わず、第六田畠の事を親(みずか)らし給うの類なり」(書簡妹千代宛)
 
 松陰等兄弟はこの美わしい家風の中で涵育薫陶された。さらに百合之助は幼少の二児(梅太郎・寅次郎)を率いて炎天下の山に登り草を刈り、霜の朝に薪採りをした。また田畑に誘導し、四書五経の素読、頼山陽、菅茶山の詩を吟詠させた。文政10年詔書に関しては王室の式微、武臣の跋扈を嘆き、沐浴衣をあらため、遙かに京都を拝して泣いた。
 
 厳父百合之助の教育は叱咤することではなく、自己の生活を厳しく律する生き様を通して行い、その信念と感動をを体ごと伝授した。子は父を敬い、父は子を信頼し、終始松陰を見守りながらその呼吸に呼応するごとく、慰撫と激励を送った。
 
 松陰は11歳にして藩主に謁し家学を講じた。多くの人がその出来映えを賞賛したが、百合之助は少しも喜ぶことがなく「吾が子は兵家の後なり、区々たる講説何ぞ誇るに足らんや」と言って、さりげなく増上を戒めた。
 
 また、嘉永5年、松陰は亡命の罪により士籍世禄を没収された。その時も百合之助は少しも動じることなく「汝が素志遠大なり、ひとたび誤るも国に報ゆるは尚ほ時あり、豈に勤めざるべけんや」と松陰を慰撫した。
 
 松陰が下田踏海に失敗し野山獄に在る時も、長男梅太郎を介して講読述作の便を講じ、安政5年松陰再入獄の告別に際しても、病床に枕を抱いて「一時の屈は万世伸なり、繋獄何ぞ傷まんや」と激励を送った。
 
 安政6年10月27日、松陰は江戸のおいて刑場の露と消えた。その訃報を受けた百合之助は少しも驚くことなく、遺書を読み「嗟吁、児一死君国に報いたり、真にその平生に負かず」と、自若としてかすかな笑さえ浮かべていた。
 
 松陰はすぐれた天分に加えて多くの師友に恵まれた。そして生の指針を父より授かり、その貫徹を父によって確認された。


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