松門8号 平成元年3月1日
 
目    次
吉田松陰の魅力        松風会理事 三輪 稔夫
美祢松陰研究会のあゆみ       代表 岩野 和夫
松陰の足跡をたずねてG鎌倉・新潟・米沢・東京
            萩市立三見小学校長 伊藤 令一
教学の思想全県に 県民大学講座「吉田松陰研究講座」
                山口県生涯教育センター(省略)
松陰をめぐる人びとF久坂玄瑞     萩市 末永  明
 
 
吉田松陰の魅力   松風会理事 三輪 稔夫(故人)
 吉田松陰が僅か30歳の生涯を私利私欲を度外に一生懸命に尽力した事業は国難の打開であった。下田踏海の挙に失敗してからは身の自由はなく、獄囚幽囚の連続となる。読書、書簡、著述、教育以外は何事も出来なかった。しかし、松陰はこの逆境さえ一貫の救国人間建設の事業として全力を傾注した。
 敗戦後の廃墟と平和希求、続く産業の復興と高度成長期に(松陰にも平和、民生はある)、前記松陰では間が抜けて始まらない。せめて松陰の人間尊重と教育の開眼深化等に重点を置く程度であった。その場合でも、松陰の亡命、踏海の挙、暗殺扇動、要撃策等が必ず問題となった。だが当時は幕府も藩も兵学師範を置き、仇討ちは義挙であり、鎖国と国際化が同時進行している際、松陰は死を賭けてぎりぎり最大限を生きて実行した。歴史的限界として許されると思う。歴史に限界があるから、松陰は不朽となったのではなかろうか。
 同じ事は松陰の学問や教育についても言える。兵学は実践的でなければならないが、一方武士は治者として学問を身につけて道義的実力者であることを山鹿素行以来要求された。松陰はこの先師に従って学問の社会的責任を自らに課した。今日の科学とは別物である。松陰も人・自然・事件を観察したが、その本質に迫らないことには観でも察でもないとした。また読書は思い出と結んで共感し、更に実行して考え味わい、大地に立って歩く言葉として定着を図った。これに比し近代科学は、物を分析して実験実測や検証を繰り返し、合法則性を抽出して終わる。科学自身人生を意味づけることは何もしていない。今日、学問は次第に分化して、自己の社会的責任から遠のいて、道徳と学問は分離した。しかし、教育や道徳や歴史等は本来学問の分化以前のことである。
 歴史の限界が松陰を不朽の人物にしているが、同時に松陰にはいつの時代にも通ずる『俊傑の学論』のあることを見逃してはならない。松陰を松陰たらしめたものは、実にこの点にある。「古人云はく、儒生俗吏安んぞ事務を知らん、事務を知る者は俊傑に在りと。…書を読み古今を通識せざれば必ず俗吏輩に陥り、又徒らに書肆となれば即ち亦儒生のみ。両者皆俊傑の事に非ず。因って俊傑の学何如を求むるに、簡にして要を得るにあり。国体を明らかにし、時勢を察し、士心を養い、民生を遂げ、古今明主賢相の事跡を審(つまびら)かにし、万国治乱興亡の機関を洞(あきら)かにする等数件を主体とし…」て、皇国の道の書、聖経賢伝は坐側から離さず、更に漢・唐・宋等の親炙すべき書を20編列挙している。
 この学論は嘉永6年11月6日、長崎から海外へ出ようとして果たさず、帰途再び熊本に立ち寄り、多分肥後藩家老に贈ったものと推定される。安政2年以後を松陰思想の後期とすれば、これは前期を代表する論述である。後期になれば、日本古典も出るし、中国関係の書も異なる観点から選定されたであろう。しかし本論でもすでに我が国の主体性は確立。また俗吏は古今を通識しないで事務機構の一端を片づけるに止まって難局対処に結びつかないし、儒生は博覧強記や字句に拘泥して刻下の急務との関わりを考えない。松陰の学風はここに明示されている。今われ、ここで、何を為すべきか。『士規七則』に書いた「死して後已むの四字は言簡にして義広し。堅忍果決、確固として抜くべからざる」実行が要求される。国難打開の志と気魄に尽きるといってよい。
 我が国は石油ショックにも円高にもめげず、富国の道を進んで経済大国・科学技術大国になった。だが世界から孤立しては元も子もない。松陰は安政5年正月6日『狂夫の言』に「天下の大患は、その大患たる所以を知らざるに在り」と喝破し、村塾に立った。時代と世界に通じる道義と貢献こそ、今日の大変革(心と力)の核心である。
 
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美祢松陰研究会のあゆみ  代表 岩野 和夫
 
はじめに
 美祢松陰研究会は、昭和53年4月、美祢市、美祢郡の現職の教員を中心に発足しました。最初は会の名称も「吉田松陰研究会」と呼んでいましたが、2年目から「美祢松陰研究会」と変更し現在に至っています。会員の中には発足以来の先生や休学中の先生、新しく入会された先生といろいろあります。「休学中」とは、美祢市や美祢郡の学校から他管区へ転勤のため、毎月の例会に出席が困難な先生方を一年間休学としています。このようなことで、毎月の例会の出席者は12名程度です。
 私達は、毎月一回の例会を第三金曜日の午後6時から8時過ぎまで、美祢市勤労青少年ホームを会場として輪読会を開いています。
 夏休みには、現地研修として松陰ゆかりの地を歩くことにしています。年度末には、一年間のまとめを「卓然自立」という題の簡単な冊子にしています。卓然自立という題名は「大丈夫はよろしく卓然として自立すべし」という松陰先生の言葉から引用したものです。自ら立て。人が誉めてくれるから俺は偉いのだとか、人がくさすから俺はつまらないのだというような考えはなくして、自分が自分の力を一杯に出し切っておれば、それで自分は安心が出来、何人にも引きずり回されない自分が出来る。また、「卓然自立し、千聖万賢の動揺するところとなる事なかれ」とも松陰先生は言っておられます。
 
輪 読 会
 私達の会は、発足当時は山口県教育会が編集した「吉田松陰入門」をテキストとして使いました。当初は、自主研修と講師の三輪稔夫先生を迎えての輪読会が交互に開かれていました。自主研修の時は、順番に本文を音読した後、解説とかその背景とかを話し合っています。私達の吉田松陰先生に対しての知識に差があり、そのため意見がいろいろ出て熱心な会を持つことが出来ました。一回に読む範囲は5〜6ページに決めてありますが、いつも子供達の教育について話が飛び、松陰先生の思想やその背景などが話題となって、先に進むことができないことがありました。しかし、会員同志の話し合いの中で、これからの教育のあり方や方向性がうかがえて、とても役立つことが多くありました。
 次回の解説をする役に当たった先生の苦労や皆で調べておこうという問題があり、気楽に集まれることばかりではありませんでした。「予習をやろう」という言葉がよく出されていました。
 発足して1年半頃から、吉田松陰入門の中でも「講孟余話」を中心に輪読するようになり、毎月の例会の講師として三輪稔夫先生を迎えるようになりました。会員だけで意見を交換するより、三輪先生を交えて、意見を出し合った方が有効であると考えるようになりました。子供には「宿題とか予習」を与えていながら、自分で孟子の全文や朱註、松陰先生の解説を読み、理解して会員に話すということは、大変難しいことでした。会員だけで意見を交換することから三輪先生を通して私達が勉強するというように輪読会が変わりました。しかし、自主研修していた時の情熱は変わらず、疑問を出したり、担任している子供に応用することはないかと熱心に取り組んでいます。毎回の例会に出席して、得るものがあったという充実感をつかみ、次回が待ち遠しい気持ちになることがしばしばでした。
 美祢松陰研究会が発足して2年目から、講談社の学術文庫『講孟箚記』(近藤啓吾訳)に移りました。この本は、萩の松陰神社に収蔵されている松陰自筆の原本を使用されています。この原本に「訳文」、「語義」、「参考」が納められています。
 「箚記」の箚には、鍼で刺すという意味があり、「孟子の本文の精義を引き出し、衣を刺繍して模様をつけるような文章の妙を編み出しているならば、何かと箚記の名にかなう」と松陰先生も述べておられます。
 昭和61年度で6年間、読み、講義を受けてきた「講孟箚記」の輪読研究も終わりました。原文と言っても仮名もつけられ、書き下し文になっているテキストであったが、大変難解な熟語が多く使われ、しきりに引用されている漢文、史実等にいささか閉口しながら輪読することに意義を感じ続けることができました。
 昭和62年度は松陰全集の中から「士規七則」、「留魂録」、「七生説」等をテキストにして輪読をおこないました。
 「死而後已」とか「立志以為万事之源」等の言葉の解釈や松陰思想について話し合いました。人間の死は、いずれ誰にもやって来ます。人生の目標や志を持つことが悔いのない人生を送ることにつながるのです。
 留魂録は松陰先生の遺書と考えられ、「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂」とか「至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり」の解釈や背景について三輪稔夫先生から講義と補説をいただき、松陰先生の気魄や精神に触れることができました。
 昭和63年度は玖村敏雄先生が昭和34年から41年にかけて講演された資料をテキストにして輪読をおこなっています。
 玖村先生が若い人達へ松陰の出生から死に至るまでを「松陰と現代」とか「杉家の家風」とか「江戸留学と出奔」等項目ごとに解説されています。松下村塾の教育では、武士も町人も身分の区別なく、個人に応じて課題や目標を与えられたことは、今日の教育にも通じ大切にされなければならないと思います。
 
夏期の現地研修
 夏期休業の間に、一度、松陰先生のゆかりの地を訪ねて、一日の研修を行っています。第1回は松陰誕生地の探訪と拓本を行いました。松陰先生の墓の側面や花筒、香台に刻まれた文字を研究しようということで拓本をとることを計画し、その事前打ち合わせのため萩市教育委員会に出掛けました。許可をいただき、全員が自家用車に分乗して参りました。
 第2回は、涙松と松陰東送路を萩から明木まで歩きました。松陰先生は安政6年5月25日、朝、降り続く五月雨の中、一族旧友に別れを告げ、駕籠に乗せられたまま、江戸に送られました。萩の城下を見納めの場所、涙松で止まり、惜別の情に堪えず「かへらじと思ひさだめし旅なれは、ひとしほぬるる涙松かな」無量の思いを一首の歌にされました。街道松を通して、萩市街が見えるのは、昔も今も変わりありません。明木への道は、車がやっと通れる幅であり、いろいろ遺跡もあり、昔が偲ばれます。
 私達の会員が平戸や下田、さらに東北に旅行した時に訪ねた松陰先生の遺跡について、例会の時話し合っています。
 今後は、美祢の学校や旧家にある松陰先生に関係ある記録や九州遊学の時、歩かれた道筋の調査研究を計画しています。
会報「卓然自立」
 輪読会や夏期の現地研修で学んだことを、年度末に整理して印刷しています。第1号は、昭和55年3月、それから毎年作成しています。第1号、第2号の時は、原稿を2月、3月の例会で検討しあい、意見を活発に出していました。しかし、最近は「生徒指導の中で」とか「たくましい防長っ子」とか「学校経営に思う」など書いている会員もおります。純然たる松陰研究は他の研究者に任せて、私達は、毎日の子供の教育と結びつけた内容に変わりつつあります。
 文章に残すということ、他の人に送るということで、「はずかしい」とか「書きにくい」ことも事実で、わずか2〜3頁の文章が何日もかかります。
 新しく入会の人に、冊子を見せると「毎年これを作らなければならないのか」と驚かれます。毎年のように続けて行くには、ささやかな物で、会員の満足できるものであれば、それで良いと思います。いろいろな所に送付して、その反響の大きさには、いつも驚いています。
 
おわりに
 美祢松陰研究会に対して、昭和55年度から57年度にかけて山口県教育財団から、昭和57年度から63年度まで財団法人松風会からの特別の活動援助費をいただいております。このような温かいご援助に支えられて活動を続けています。
 これからは、現職の教員だけでなく、教育関係者や社会人も加えて研究を深めて行きたいと思います。
 私達は、教育実践を支える教育理念の基底を松陰教学に求め、その現代的意義を明らかにして行きたいと思います。
 
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松陰の足跡をたずねてG鎌倉・新潟・米沢・東京
              萩市立三見小学校長 伊藤 令一
 
遊学の目的
 松陰の遊学行程は、1万3千キロに達するという。その目的は「地を離れて人なく、人を離れて事なし。故に人事を論ぜんと欲せば、先ず地理を見よ」というのが松陰の持論であった。
 嘉永4年6月13日鎌倉に瑞泉寺を訪い、進んで房相漫遊をすませ、12月14日に過書の下付を待たず亡命して東北遊学に出発する。
 東北遊日記 の序に「天下の形勢に茫乎たらば、平生の志も果すによしなし」との考えと「東北が露国の南下政策に対する国防上重要である」との遊学理由があった。
 
鎌 倉(瑞泉寺)
 研修一行は、9月29日午後、鎌倉二階堂紅葉谷を訪う。上山入口に石碑が目に入る。「松陰吉田先生留跡碑」とあり、裏面に「当山二十五世竹院和尚は、松陰先生の伯にあたり、嘉永の年22歳の6月を最初として、4回にわたり上山される」と刻し、建之者徳富蘇峰と明記してある。
 百余の石段を登り、山門に至れば「山号錦屏山」の額が掲げてある。これは、四季の景観が屏風の絵を観るように美しいという意味であろう。境内は、国指定史跡名勝庭園で、開山和尚「夢窓国師」の築庭園と聞く、庭園の老梅は、松陰上山当時からの歴史と共に今日に至っているという。
 大下一真和尚から抹茶の歓待を受け、寺歴を拝聴する。次ぎに、宝物である竹院和尚に対し「瑞泉寺住持職事任先例可令執務之状如件」天保14年8月12日、左大臣家慶(徳川12代将軍)の辞令書を始め、勝楽寺住職や13代将軍家定より円覚寺住職、14代将軍家茂より京都南禅寺住職の辞令や竹院宛の松陰の書簡の拝見を許可される光栄によくした。
 竹院和尚の初めの諱(いみな)は、恵性後に、昌?(しょういん)といい竹院と号す。寛政8年萩に生まれ、父は毛利志摩の家臣村田右中で、松陰の母滝子の兄である。少年時に萩の徳隣寺で修業後四方を行脚し鎌倉円覚寺に至り、清蔭和尚に学び後に淡海和尚に就いて印記を受け瑞泉寺和尚に栄転した秀才高徳な名僧たると共に松陰が最も信頼した尊師である。 
 竹院和尚に仏学の教授を受け相互に肝胆相照らし心肝を鍛錬陶冶され、嘉永6年9月13日松陰は3度竹院和尚を訪れた。時に海外渡航の決意を表明すれば「死して後已む」で賛同され長崎への旅銀を援助している。安政元年3月14日に4回目の訪問をして目下の事情を述べた時「直往邁進」と激励している心境は、国の存亡の期に、国禁を犯して渡海する愛国精神の発露に共鳴されたのであろう。
 萩野山獄中よりの書簡に「遙カニ瑞泉寺ノ上人ヲ憶フ」と題し「山光竹色窓ニ入テ青ク、方丈幽深錦屏ニ倚ル。今我レ囚ハレトナリテ空シク昔ヲ億フ。月中一夜雲局ヲ叩キシ」を拝読して、瑞泉寺をこころの故郷と慕う心情が伺える。
 竹院和尚のご冥福を仏前で祈念し、大下和尚のご厚意に深謝し抹香に送られ下山しながら竹院和尚が文久3年8月8日徳川家茂の辞令により就任された京都巨刹臨済宗南禅寺の末寺に都濃郡鹿野町漢陽寺があるのも何かの因縁であると思った。
 
新  潟(出雲崎)
 東京に一泊し朝9時に新潟駅に到着後直ちに出雲崎へ向かう。ここは、江戸時代に佐渡との官船が往来し幕府代官所があり、良寛上人の出生地でもある。また明治初年に日本最初の石油発掘の地としても有名である。
 松陰は、嘉永5年2月16日寒風積雪の中出雲崎に到着し、佐渡を遠望しながらも風波のため延留すること13日間の心境を「客恨悠々容るるに地なく、光は寒く残燭一星紅なり、晴を候(ま)つ船隻何れの時にか発せん、戸を撃つ雪声連夜同じ、身は寄す山河万里の外、夢は迷ふ佐渡二州の中、中宵枕を欹(かたむ)けて魂頻(しき)りに駭(おどろ)く、松響濤に和して、声勢雄なり」と一日千秋の日々であったことが伺える。
 松陰の宿跡を探索したが見あたらず無念の涙で引き返し良寛堂の多宝塔へ、「いにしへにかわらぬものはありそみと…」の良寛自筆の歌を口ずさみながら駅に向かう。
 売店で、案内図を入手し松陰宿跡を発見したが車中のこととて如何ともし難く、再来の機会を待つことにする。
 弥彦神社に向かう途中、良寛上人が寛政8年から20年間居住された五合庵を、弥彦山と角田山の山峡の国上山、山腹で見学する。良寛上人の人柄を想像したとおり質素な庵である。
 嘉永5年2月15日の日記によれば、「翳(えい、曇り)岩室を発す石瀬を過ぎて弥彦に出で、弥彦大明神を拝す」とある。
 越後国一宮明神大社弥彦神社の朱色大鳥居から参道を挟んで境内は、鬱蒼とした常緑樹の覆われ亭々と聳える老杉古欅の巨木は神々しく、万葉集「いやひこおのれ神さび青雲の棚引く日すらこさめそぼふる」の和歌を懐古しながら拝殿にぬかずき旅路の安全を祈願して、宝物殿に入る。
 越後文化発祥の源、一の宮に伝承される宝物と古文書等が整然と陳列してある中に、松陰が江戸伝馬町獄入牢中の友人に宛てた書簡が軸物として展示してあるのには驚いた。安政元年、同囚であった越後の嘯虎(しょうこ)上人が許されて越後に帰る帰る際に贈った、獄中でお世話になった礼を述べた手紙に相違ないと思うが、このような沿革の地で拝見するとは予想外なことであった。
 
米  沢
 新潟で旅の疲労をいやし米沢に着く。
 松陰の東北巡遊経路は、江戸ー水戸ー白河ー会津ー新潟ー秋田ー弘前ー青森ー盛岡ー米沢ー江戸となっている。
 国指定史跡米沢藩主上杉家墓所に参詣する。中央に謙信公右側に、3代から11代の奇数代、左側に2代から10代の偶数代の廟所が並び樹齢400年を越す老杉が並び静寂を極めている。
 米沢城跡を見学し蔵王坊高原で小憩をとる。遠山の山並みを背景に紅葉した「ななかまど」は一幅の絵である。
 松陰が、2月の豪雪連山の中を道なき道を踏破し米沢へと旅路を急いだ姿を想像すると連山が我々に奮起をうながしているようである。
 
東  京
 飯坂に一泊し、上野駅に12時半に無事到着。
 今回の研修に、松陰研究の大家、三輪稔夫先生、岩本肇先生、石川稔先生方から実地見聞のご指導を始め車中等での御高説の拝聴に深謝し袂を分かち単身世田谷の松陰神社に向かう。
 地理不案内のため時間を浪費しながら松陰神社駅に下車し拝殿で、研修結果の報告をすませ、後方の墓碑に焼香し「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」を口ずさみ御冥福を祈念する。
 隣接の寺院にある、萩市出身で明治時代三度も総理大臣として国政に参与された公爵桂太郎氏の墓前にぬかずき焼香と共に御冥福を祈る。
 荒川区南千住小塚原回向院を訪ねる。寺院は戦災のためか、鉄筋コンクリートで近代的である。
 明治維新殉難志士、安政大獄憂国の士が永眠される墓地に歩みを止め安政大獄憂士松陰を始め15名の志士に、献花焼香と共に御冥福を祈念する。
 松陰の墓石後部に20余の卒塔婆が建てられているが、山口県人の建てたものが見あたらないのには一抹の寂しさを感じた。再度墓前にたたずみ「桂小五郎・伊藤利助・飯田正伯・尾寺新之允」等の門下生が怨憎の涙を流しながら松陰の遺骸を手厚く埋葬した行為は、「この師在りて、この弟子在り」と感涙し、明治維新への原動力として躍動した業績を懐古していると、「今から橋本左内先生の供養を営むから参列しては」と寺人に誘われた。 松陰と左内は面接皆無で書簡を通して交友を温めた仲だと聞くが同志である。
 御仏の思し召しと深謝し焼香し寺院を辞す。礼を言うと寺人は「史跡小塚原回向院について」の説明をし出したので拝聴する。
 徳川幕府の初め重罪者の刑場に宛てた場所で、昔は「浅草はりつけ場」と称せられた所である。礫地場として開創されてから220年余年の間に、埋葬された遺骸は、無慮20余万と称せられるが、大部分は重罪者の遺骸である。文政5年8月南部家の臣、相馬大作、関良助の屍を埋めてから、国事犯の受刑者の死骸をここに埋める事になり安政大獄以降憂国の志士の屍は大抵此処に埋葬された。寛文7年刑死者の菩提を弔うため、当院住職第誉義観上人が幕府に懇願し草創したと結ばれる。
 松風会に深謝し筆を置く。
 
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松陰をめぐる人びと(7)久坂玄瑞(くさかげんずい)
                  萩市 末永  明
 
 久坂玄瑞は天保11年(1840)今の萩市平安古(ひやこ)八軒屋で生まれた。幼名を秀三郎、名は誠又は通武、後に義助と改める。字は玄瑞または実甫、秋湖と号した。(以下玄瑞と呼ぶ) 
 父は藩医、良迪(りょうてき)。母は中井氏、玄瑞は三男。14歳で母を、翌年兄玄機に続き父を失う。家督を継ぎ25石(寺社通りのち八組士)を給せられた。
 25歳も年長の兄玄機は当時萩藩における蘭学の第一人者で、蘭書を釈訳した医書や兵書を著した。また吉田松陰の師山田宇右衛門に蘭学を教え、勤王僧月性(げっしょう)や中村道太郎とも親交があった。このような中で育ち、早くから私塾に学んだ玄瑞の才能は、藩校明倫館に籍を置くと詩文見識共に他を大きく凌いだ。
 安政3年玄瑞17歳。九州の旅では熊本で松陰の盟友宮部鼎蔵(みやべていぞう)と会し、かねて月性から入塾を勧められていた松陰の偉大な人間性について教えられ、長崎では外夷の実情に接して、玄瑞の対外思想は大きく動いた。
 5月帰萩した玄瑞は奉呈義卿吉田君案下の書で「洋夷の跳梁と幕府の無策」を慨嘆する所信をを述べた。これが松陰と結ばれる第一信となった。松陰は返書で「議論浮泛思慮粗浅、至誠中よりするの言に非ず。僕此の種の文を悪み此の種の人を悪む」と痛烈に批判した。玄瑞は再与吉田義卿書で「読了憤激、一言有り座下に白さん」と再度持論を開陳。松陰の返書は「足下軽鋭、未だ深思せず。人其の言を易くするは責なきのみ」と冷静な思慮対処を求めた。玄瑞は「非敢好義論也、要解其感耳」と三度目の時勢の批判と対策の急を述べた。これに対して松陰は「棒読一番し従前の疑は渙然(かんぜん)として冰釈(ひょうしゃく)せり。足下決然として自ら断じ今より手を下して虜使を斬るを以て務と為せ」と玄瑞の将来に期待した。
 これを承(う)けた玄瑞は程なく、明倫館の居寮に学ぶこととなるが、松陰の期待の言葉は終生玄瑞の言動の中に生き続けることとなる。
 村塾での玄瑞の学問は日に日に進み、松陰は江?五郎(えばたごろう)への書には「玄瑞才あり気あり、僕輩の裁成する所に非ず。渠れは南山の竹なり」と評し、妹文が玄瑞に嫁す時の手紙では「防長年少第一流の人物。天下の英才なり」と書き贈り、高杉晋作と共に「松門の双璧」と称せられるようになった。
 安政5年春、初めて江戸遊学。玄瑞は薩土水(薩摩・土佐・水戸)等の諸藩の有志の士との交を始め長藩討幕尊攘活動の先駆としての行動を江戸京都に展開する道を開く。
 安政6年5月、師であり義兄である松陰東送の命が下ると、義兄小田村伊之助、品川弥二郎らと共に野山獄で大いに謀議して、松浦松洞に松陰の像を写させ松陰に自賛を求めた。
 松陰の死後、初命日には門弟と共に村塾に先師の祭を営み、百日祭には遺髪を収めた。さらに門人の氏名を刻した手水鉢・花筒を墓前に備えるなど村塾の中心的な存在として活動を続けた。
 文久2年3月、風雲急を告げる中で「梓弓はるも来にけり武士の引かへさじと出る涙かな」の一首を残して萩を後にしたが、此の歌のとおり生きて再び萩の地を踏むことはなかった。同年廻瀾条議を著して藩主に上呈。続いてイギリス公館の襲撃等を実行して尊攘の世論を勧起。攘夷親征のため天皇の加茂・石清水行幸の議を策し、長州藩の下関での外国船砲撃にも参加。七卿の都落ちにも同行する等奔走、周旋に努めたが、元治元年7月18日、蛤御門の変で傷き鷹司邸で自害。行年25才。明治24年正四位を贈られた。
 
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