目 次
県内「松陰の道」調査実施に協力を 山口県教育会・松風会(省略)
松風会理事 山本 重治
先日、全く素人の社会人の小さな集いで、松陰の名前が出たので、彼について何か承知していることをあげてみてくれないかと申したところ、20代の女性は「勉強のできた人…」、40代の女性は「外国へ行きたがった人…」熟年の男性は「性格の厳しい人…」と答え、さらに「西郷隆盛や坂本龍馬などは、テレビでどんな人かわかるが、松陰は、どうしてテレビに出ないのだろうか…」と付け加えた。
それぞれに関心を示し、松陰の一般に触れていたので、一応賛意を表し、私見を述べておいたのであるが、学校教育を含め一般社会人のために、彼の人間と活動のあとを、改めて考えて見てもよいのではないかと、虚をつかれた思いがした。
そこで、江戸末期の激動する時代に生きた松陰30年の人間像と行動の軌跡を考えながら、現代の形は違うが、同じような揺れ動く国際社会のなかで生きている我々は、彼をどのように捉え、どのように理解し、どのように受け止めたらよいか、年齢、性別、学校、社会での生き様等によってまちまちであると思うが、一応雑感として述べてみたいと思う。
歴史上の人物の評価を考える場合、人により、時代により変化があるのは当然のことながら、主観や時流に片より過ぎると、時代が変わった時、困ったことになりかねない。
明治、大正、昭和の史家、徳富蘇峰でさえも、その名著「吉田松陰」の明治26年の初版が「平民主義」の立場に立つのに対し、明治41年の改版が、日清戦争を境として展開され始めた「国家防長主義」お立場に立ち(植手通有解説)その傾向が一般的に昭和の戦前まで及んだことは、現代の国際感覚から考えれば、考慮の余地があり、そのため戦後の松陰論が、どこか精細を欠いていることも否めないのではないかと思う。
しかしながら、激動する時代に生きて、近代日本の先駆者の役割を果たした松陰の人間像と行動の軌跡をたどってみると、現代に生きる者として、汲み取り、受け止めて、日常生活や社会活動のなかで、生かしてよいものが多いのではないかと思うのである。
そのような意味で、既に論じつくされていることではあるが、頭に浮かぶ項目だけを、とりあげてみたいと思う。
○松陰の人間像
生涯変わらないものは、至誠、情熱、実践と祖国愛
○勉学第一、座学と遊学
豊かな読書と表現力「孟子」と遊学による自己啓発
○教育者としての松陰
相手の個性を見抜いた愛の指導と、その成熟への期待
○人間平等、民生第一
封建制のなお厳しい身分制度下に貫いた四民平等主義
○開明論者としての進歩的感覚外国を知って自国を考えようとした下田踏海、江戸と京都に外人講師招聘による大学創設等にみる進歩的情熱
○尊王攘夷論
激しい攘夷論は、将軍継嗣と条約違勅調印後のことで、それが維新を実現させたが、それ以前は、国防、海外知識の吸収による幕藩政治、対外政策の改善にあったことに留意ついでながら、松陰が維新の中核として、他県でも関心が持たれ、松陰の東北遊歴に関連した青森県内の「歴史の道整備促進運動」、秋田県大館市の篤志家による「模築松下村塾」の建設、また維新の一翼を担った高知県においても、民間有志によって社団法人「考える村」が設立され、中央施設「考堂」内の「先哲の間」の掲額には、松陰も世界の先哲20名の中に加えられ、その業績を学び自己を考える求道施設として一般に開放されている。
本県においても「松陰の道」等、松陰精神顕揚の計画があるのは、当然のこととはいえ、喜ばしいことである。
和木中学校 折本 章
九州遊歴の目的
西遊は松陰にとって初めての遍歴である。それは嘉永3年松陰21歳の旅立ちであった。これまで家郷に在って学問・教育に没頭していた松陰が、九州への旅を思い立ったのはどうしてであろうか。直接的には、山鹿流軍学者葉山佐内や同宗家山鹿万助などの教えを受けようと考えたからであろう。また、間接的には、家郷では満たすことの出来ない精神面の進展、拡充を図ろうとしたためであり、外国との交流の唯一の窓口である長崎の地形や外国戦艦を実際に見ることによって対外策を学ぼうと考えたからであろう。
西遊日記の序には
「心はもと活きたり、活きたるものには必ず機あり。機なるものは触に従いて発し、感に遇いて動く、発動の機は周遊の益なり」と、記されている。
先達・古人の業績に直に触れそのすばらしさに感動して人の心は奮起され、精神の進展・拡充を図るものであろう。
松陰は「人の病は思わざるのみ」と喝破し、人格陶冶において「思うこと・学ぶこと」を非常に重視した。遊歴は人を思考場面に誘い込み、机上の学問の足らないものを補ってくれる。遊歴は松陰にとって真に生きた学問であった。
私達は松陰のこうした思いを心の奥底に留めながら、松陰が136年前に歩んだ路を辿った。風清い秋空のもと、博多から急行みどりに乗り継ぎ佐世保に至る。ここからバスで鹿子前港に、さらに高速艇に乗り換え海路を平戸に向かう。
松陰は9月14日の西遊日記に「舟行一里にして平戸城下に至る。この間瀬戸にして水勢の迅疾、赤間関よりも甚だし」と記している。松陰は江向(日野浦)より平戸(舟行一里)に渡り、五十余日逗留の後、船で時津に向かっている。従って、私達の進路は松陰の進路を逆方向に辿ったことになる。平戸港で下船して市役所を訪れ、萩原博文氏のご案内で市内の関係史跡を巡る。時既に4時前。
葉山佐内旧宅跡
市役所から2キロ位進んだところで佐内旧宅に通じる小さな山道に差し掛かった。それを数分登ると山中に一軒家があった。これが佐内旧宅跡である。山道や旧宅の周辺には、人家は一軒もなくただ草木の繁るだけである。正に樹木の中に家ありといった感じで、敦篤朴実な老学者佐内に誠に相応しい幽境である。
玄関の標札には、林武雄と記されているが、家中には全く人気がない。佐内は平戸藩家老で陽明学を好んだ。松陰はここで王陽明(おうようめい)の『伝習録(伝習録)』を読んで知行合一の哲学に共感し「後巻を釈(す)つること能わず」と記している。
松陰は佐内の著した『辺備摘案(へんびてきあん)』を書き写し、戯れに評を書いて老師に見せた。すると老師は私の心と深く響き合うので、自分の稿本にもその評を書いて欲しいと懇願した。また、佐内は「吉田寅次郎は若いが優れた人物。文章もよく書ける」と松陰を称えている。
松陰宿泊屋跡
松陰は平戸に着いてあちこちに宿を求めたが、みな断られた。その間のようすが9月14日の日記に次のように記されている。「浦の町に至りて旅館を求むるに皆辞す。因って直ちに葉山佐内先生の宅に至り拝謁し其の命に因りて紙屋というに宿す」と。
松陰は平戸に滞在中ここに宿し、ここから老師宅に足を運び教えを受けた。現在は「田原石碑店」という看板が掛けられ、石碑業を営んでおられるようである。道路に面した当家のまえに「吉田松陰宿泊紙屋跡」と刻まれた細長い石碑を発見したときには、在りし日の松陰の行動的な姿が彷彿され、感激して胸の中が熱くなるような思いであった。まさに「発動の機は周遊の益なり」である。
積徳堂跡
山鹿流兵学の始祖山鹿素行は松浦29代天祥公鎮信の庇護を受けながら、江戸浅草に「積徳堂」という扁額を掲げ家塾の号として多くの子弟を教育していた。その嫡子高基も松浦侯から大変な恩顧を受けながらも江戸に留まり、松浦侯に仕えようとはしなかった。
その期待を受け入れ、初めて平戸に赴いたのは三代目つまり素行の孫に当たる高道である。1744年平戸に積徳堂を移して松浦侯に仕え、この地に定住した。こうして山鹿流学問の正統が代々平戸に伝えられるようになった。
松陰は50日余日間平戸に逗留して宗家の教えを受けている。そのときの松陰の起請文や誓詞血判が今も宗家に残されている。
山鹿家の門を叩くと、温厚そうな女性が現れた。14代山鹿高清氏夫人である。山鹿家について懇切丁寧に説明してくださった。尊父光世氏は平戸市長を務め、四民の信望厚く、後に平戸市名誉市民となり、遺影が市役所に飾られている。
松浦史料博物館
ここは松浦氏発祥の地であり松浦藩主邸跡でもある。寛政4年に作成された館内展示の平戸古地図に「紙屋政之助問屋紙類商売」なる文字を発見し思わず歓声を発した。葉山佐内邸も探してみたが発見できなかった。
長 崎
平戸から急行で長崎へ、市教育委員会米村氏の案内で崇福寺(松陰はこの裏山から長崎の形勢を展望した)高島秋帆旧宅跡(松陰は高島秋帆子浅五郎を数度訪問した)長州藩屋敷跡、出島跡等を見学して宿に着く。長崎は松陰にとっては、嘉永3年9月に7日間、11月に24日間、嘉永6年10月に6日間滞在の因縁の深い地である。特に最後の場合は露艦を目指したのに出航後となり、痛恨、思いであったであろうと追想する。
清正公廟
校内タクシー運転手森崎洋三氏は史跡に詳しく、清正公について多くのことを語ってくださり学ぶ点も多々あった。廟からは熊本城が一望でき、清正公の霊魂が熊本城を見守っているかのような感じがする。尤もこれは公の遺言であったようだ。廟は誠に華麗であるが、その中にも厳然たる趣がある。
12月12日、寒気厳しい月明かりを抜け出し高い石段を登って清正公に詣った。6歳の弟敏三郎の唖が治るよう祈願するためである。神仏への祈願など元来松陰の好んで為すべきことではない。平戸で王陽明の年譜に「先生5歳にして未だ言(ものい)わず。これより先雲と名づく。今の名に改むるに及び、則ち能く言う云々」とあるのを読んだことが参詣のきっかけとなったのであろう。いずれにせよ、人事を尽くした後の肉身の情として、祈らずにはおられなかった松陰の心中察するに余りある。
宮部鼎蔵邸址
熊本市内坪井に「贈正四位宮部鼎蔵先生邸址」と刻まれた大きな石碑がどっしりと建っている。しかし、この碑に目を止め、宮部鼎蔵の名を求めて来訪する者は数少ないという。私達松門の訪れを心から歓迎し歓待してくれたに相違ない。
宮部は1820年肥後の国田代の医家に生まれた。しかし、その業を継ぐことを欲せず、伯父について山鹿流兵学を修め、遂にその養子となった。後に田城熟を開き、肥後勤王五党の総帥として藩士の指導にあたった。
宮部は松陰の無二の親友であり、肝胆相照らす仲であった。二人の関係は九州遊歴の復路にその端を発し、東方旅行を経、下田踏海にいたってその極に達したとみることができよう。宮部を「宮部鼎蔵は毅然たる武士なり。僕常に以て及ばずと為し、毎々往来して資益あるを覚ゆ」と評していることからも、松陰が如何に宮部を崇拝していたかを窺い知ることができる。
宮部は幼少より実家と養家の4人の親によく仕え、孝により藩賞を受けたこと3度に及ぶという。家にあって後、国治まると考え「忠孝」でなく「孝忠」だと唱えたほどである。
宮部の娘が「寅しゃんの来て又黒砂糖ば食いよらす」と話したと言う。謹厳実直な印象のある松陰にはそぐわぬ話と思われるかも知れないが、兄との手紙の遣り取りなどを思えば、あり得ないことではなかろう。また、それだけ宮部に親近感を抱いていた証とも考えられよう。
横井小楠
宮部邸から200メートルの隔たりもない熊本中央女子高等学校の式内に「横井小楠先生誕生の地」と書かれた評注が立っている。校地内に産湯の跡もあったが、今はよくわからないようであった。
松陰は実学党と呼ばれた横井の教育論に傾倒し、これを長州藩にも取り入れようと考えた。松陰が非常に高く評価した人物である。発熱のため松陰が数日滞在した柳川を経由したが、そこに足跡一つ発見できなかった。これから一路小郡駅へ向かう。
松風会並びにご同行くださった先達諸氏に深謝し、筆を置く。
元人吉市立第一中学校長
はじめに
私が魂の教育者吉田松陰先生に心を惹かれ始めたのは今を去る50年前、教職生活3年目の昭和13年秋の頃であった。当時は松陰に関する図書を古本屋などで買いあさってはただ乱読していたに過ぎなかった。しかし、その後玖村敏雄先生著の「吉田松陰」にめぐり合ってからは、私はこれをもって私の教育道の柱としてひたすらに斯の道に専念することにした。しかも、40年間の教育生活にあって忘れがたい思い出の一つに、30年という短い生涯を燃え尽くされた松陰先生のその同じ30歳時に私はたまたま招集を受け、その招集時一冊の本を持って出掛けた。その本がその「吉田松陰」であった。戦後43年の今、改め燃えていた青年教師のよき時代を思い感慨無量なるものを覚える。
松陰の心を求めて
私は昭和51年3月、人吉市立第一中学校を最後に40年の教職生活を去った。その時、私の最も敬仰してやまない郷土出身の教育者、元人吉市教育長阪田貞雄先生(現在91歳)から退職記念として一冊の本を賜った。即ち昭和17年、岩波書店発行による玖村敏雄著『吉田松陰の思想と教育』という本がそれである。同時に私は山口県教育会篇『吉田松陰全集』全10巻を購入し、松陰研究による第三の人生を踏み出した。
思えば、いつの世にあっても「教育は国家百年の大計であり教育は人にある」そこで私は感ずるところあって、郷土の心ある青年教師たちに呼びかけて「松陰研究の会」なるものを発足することにした。退職後間もない頃のことである。
そして昭和57年8月24日・25日には、近くの宮崎県霧島に籠もりその一連の教師達に「松陰の心とのめぐりあい」と題して講義をし、日本の教育について論じ合う夜を過ごした。
その後、昭和59年1月18日、雪の夜、第1回松陰研究の会を私宅の如是庵で開いた。この会は以後毎月1回の計画のもとに山口県教育会編の『吉田松陰入門』の輪読を中心に研究を進めることにした。会員は在籍23名、学校の勤務終了後午後7時から開会されるのが常であった。この本は松陰自身の生々しい文とあって漢文の素養なくしては意の如くならず、その解釈もまた難を極めその輪読会は遅々として進まなかった。
しかし、それだけに求めんとしている松陰の心は見に深く刻み込まれていくものがあった。
昭和60年3月14日には、当時人吉農芸学院の院長であった小泉智謙先生(現在山口市宮野)を講師に招き、吉田松陰についての話や山口県下における松陰研究の実態などを聞く機会を得、会員一同は海岸させられたこともあった。
また、昭和61年3月17日、私は会員の求めにより、松陰先生の語録から「涵育薫陶」「悠々天地事、鑑照在明神」「学真武真文、修身正心、治国平天下、是士道也」などを座右銘として色紙に認め会員一人びとりに贈り相倶に松陰の心を求めていった。昭和62年12月16日、その松陰研究の会は4年間に亘る輪読会を終えたが、まさに風雪4年の難行苦行の研究会であった。
私は、松陰研究を更に深めるために松陰の祥月命日であり10月27日を中心に第4回目の萩の旅に出掛けた。お解きは私の教え子であり、50年間近く教育の道を倶にしてきた前人吉東小学校長、浜敏夫先生も同行され、国民宿舎萩浦荘に二夜を松陰と教育について語り明かしたものであった。昭和62年秋の暮れのことである。市かも、この秋の旅には松風会事務局の谷口不二彦先生、萩市教育委員会の松田輝夫先生に温かいご指導とご援助を賜り有難かった。この旅の記録は「松陰の心を求めて」と題し郷土の地方新聞に連載され大いなる反響を呼び、松陰の心の輪は郷土相良藩にも広がり始め新しい世紀の日本の夜明けさえ感じられた。
おわりに
私達松陰研究の会は今、その第一歩を踏み出したに過ぎない。「源は深く、流れは遠し」真の松陰の心を求めんとすれば、今後の果てしない道が広がっていくことであろう。
萩市 松 田 輝 夫
金子重之助は天保2年(1831)正月4日に生まれ、幼名を卯之助、後に貞吉また重之助と改めた。金子家は萩に隣接する渋木村(阿武郡福栄村紫福)の出身で、父茂左衛門は萩城下津守町で染物業を営んでいた。
9歳の時、松陰と親交のあった白井小助に師事し、長ずるに及び松陰の盟友土屋蕭海の私塾に学んだともいわれている。家業をいとい同姓金子繁之助の養子となり、久芳内記組下の足軽として毛利家に仕えた。
その後、酒色の失敗があり、大いに悔悟、奮起して嘉永6年23歳の時、白井、土屋両師のいる江戸の毛利藩邸に出役した。そして両師が出入りしている鳥山新三郎の私塾に学び、多くの憂国の志士と交わる機会を得、松陰との出会いを得た。
松陰は重之助との出会いについて
「九月(嘉永6年)余、策を決して西行す。時に余未だ重輔と相識らず。重輔、吾が友永鳥三平と遊び、其の議論を喜ぶ。余が西行為すあらんとするを知り、奮って余を蹤(お)はんと欲せしも未だ果さず。余、西のかた長崎に至り策を得ず、十二月再び江戸に入る。始めて重輔を見、具に語るに志を以てす。重輔大いに悦ぶ」と。
重之助の人となりについては、
「孱々(せんせん:弱々しい)たる小丈夫のみ、然れども其の眼彩爛々(がんさいらんらん)として不屈の色あり」「其の一種勇往果敢の気、勃々として人に逼(せま)る」と。 なお、重之助は、松陰の国を救おうとする大志を永鳥氏から聞くや、自分もぜひ松陰と行動を共にしようと決意し、藩に迷惑のかからぬよう藩邸を亡命して渋木松太郎と変名し、松陰に自分の志を訴えた。松陰は重之助のこの気節に感じ、志を同じくするに至る。重之助は、直ちに松陰に学問の指導を仰ぎ、まず地誌を猛然と学び始めた。松陰の門人第一号である。
安政元年3月3日、幕府が神奈川条約(日米和親条約)を締結調印するに至り、重之助は「速やかに前策を果すべし」と松陰を促し、二人は踏海決行のため五日江戸を出発した。松陰は重之助について「事を謀(はか)るや、勇鋭力前、率(おおむ)ね常に余をおこす」と。重之助の存在が大きかったことが知れる。
計画は難行し、ついに27日深夜、下田踏海の挙を決行したが、不幸にして事敗れ、自首して捕らえられ、4月15日江戸伝馬町の獄につながれた。重之助は不運にも発病し、重病の状態で9月下旬江戸から松陰と共に萩へ送還された。途中、護吏甚だ無情、松陰は身を挺して重之助をかばい続けたが、重之助の病状は悪化へと向かった。
「幸に生前一度父母を拝して然る後に長瞑せば、万々憾みなきなり」重之助の望みはかなえられたが、「吾が命竭(つ)きなん。然りと雖も天下の事は吾れ敢へて忘れざらんのみ」といいのこして、安政2年正月11日、25歳の若き命を燃焼した。松陰のいた野山獄から道一つ隔てた岩倉獄においてであった。
重之助は、踏海決行のため江戸を発し縛につくまでの記録を大日本無二遊生と署名して記述していたが、幕吏の手により不明となる。大変惜しまれている。
松陰の重之助への思いは、幽囚録に「金子重重輔行状」の項を起こして詳述するほか、他に数編を著述し、また、天下の知友にげきして死を弔う詩歌を募り、2年あまりをかけて、「冤魂慰草(えんこんいそう)」を編集し、その霊を慰めた。更に、獄中の食料費を節約し、墓碑建立の資いと「金一〇〇疋」を遺族に贈った。それは、墓前石造花筒一対「寄附吉田氏」と刻まれ現存している。
「彼の重輔は特(た)だ一経卒のみ、而して憂国の念なほ能くここに至る。其の忠義、豈に称すべからざらんや」(「冤魂慰草」よりー松陰の盟友口羽徳祐)
明治44年正五位贈られる