松門第6号 昭和63年3月1日
 
目   次
新 春 有 感               松風会監事  岩本  肇
狂人的でありながら狂人でない松陰 韓国・梨花女子大学教授
                 日本・筑波大学外国人教師 朴 俊熙
松陰の足跡をたずねてE五条・八木・信濃  厚狭教育事務所 来島俊太郎
「松陰の道」吟行                    山口県教育会 大田 恭次
松陰をめぐる人びと 佐久間象山        松風会理事 石川  稔
 
新    春   有   感 
                                         松風会監事  岩本  肇

    新しい年を迎えて、誰もが未来に向けて明るい希望を持ちたいのであるが、正直なところこの正月は、なかなかそのような気分になれなかった。いま世界には、いろいろな意味での激動が各地に起こり、そうしてそれが、四方八方から日本に向けて押し寄せて来ているように思う。しかも、日本の社会は未だにそれに対応するには至っていない。
 しかも、この重圧は、年一年と年ごとにその厳しさが増してくることを、誰もがひしひしと感ずるのがこの頃である。
 また、今年の年回りは辰年である。昔から辰年は荒れる年と言われている。しかも今年は干支で言えば六十年目毎に巡ってくる戊辰の年に当たる。戊辰の年は変革の年という。
 歴史をひもとけば、この前の戊辰の年は昭和3年である。この年は今上天皇の即位の大典が行われた年に当たり、昭和という時代の出発であったわけだ。また、この年には初めて普通選挙が行われ民権の伸長した年ともなった。眼を外に転ずれば、北支雄張作林の爆死事件が起こり、この事件がいわゆる昭和15年戦争勃発のきっかけとなったことは忘れられない。
 更に、その前の戊辰の年は慶応4年改元されて明治元年である。この年は徳川幕府が倒れて明治新政府が出来た年に当たるわけである。このように歴史を振り返れば、戊辰の年は波乱に富んだ変革の年と言われる所以が理解できるのではないか。
 今年は果たしてどのような年になるだろうか。
 思うに、戦後の日本はこれまで一貫して経済の時代であった。経済力が日本の方向を決めてきたと言ってよい。そうして経済大国日本に成長し、世界一金持ち国になったわけである。
 いま外からは、「日本は自分勝手な国」とみられ国内的には「他人はどうであれ自分さえよければよい」という風潮が広がり始めているように思う。自分が生まれ育ってきたなつかしい地域社会である故郷への人間的な愛着も、日本人として当然の誇りも失われてしまったのではないだろうか。
 松陰先生の言葉に「群夷競い来る、国家の大事といえども深慮とするに足らず。深憂とすべきは人心の正しからざるなり」というのがある。
 国家にとっての一番の心配事は、国民の道義心や国家への忠誠心の衰え、更には国民の各職域での本務感の退廃することであるという意味であろう。
 現在、日本の産業は貿易摩擦による輸出産業の不振、国際公約である産業構造の転換等で大きく変わろうとしている。これらは高度成長期以来、がむしゃらに世界中を金儲けの大将とした日本への国際的反発が高まった結果ではないか。考えてみれば、戦後の40年間日本の社会は、欲望の追求を正しいこととして、それを原動力として生きてきたわけである。
 今や私どもは、これまでの生き方を反省して、国としても個人としても、新しい生き方を模索しなければならないと思う。
 しかし、再び元に戻ることは許されない。前に向かって歩かなければならない。この困難な時勢に対処する国民的生き方を学ぶもの。それは松陰精神への回帰ではあるまいか。
 
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狂人でありながら狂人でない松陰
                      韓国・梨花女子大学教授
                      日本・筑波大学外国人教師 朴  俊熙
 
 戦後言論が自由になったせいかは知らないが松陰の見方に多少の変化があらわれている。ある精神分析学者は「江戸の仇を長崎で討つ」の諺にたとえて松陰を評価している。ヨーロッパやアメリカ等から攻められるような感じはするが「長いものには巻かれよ」だから対抗するわけにはゆかずそのくやしさを払うために身近な国々を攻めようとしたという話である。ヨーロッパやアメリカ等に対する劣等意識をアジアでは優越意識に入れ替えようとしたという見方である。その意味においては、不安感または劣等意識を潜在的にもつ者によくありがちな形の行動の取り方だということになる。つまる所狂人扱いに通ずる見方である。多分戦争が終わるまではとても言えない表現であったであろう。
 
 狂人扱いとまではいかないにしてもその他の人々の中にも結構「狂人的」であったという人々が目に付く。これは松陰をなかなか正常な人間として見ようとしないで何か風変わりの人であったと見る見方が強いことになる。これは言論が自由になったからあらわれて来たことで、終戦前にもそう考えていた人はあったが言えなかっただけだと想像する。ただ当時としては彼を称えることはいいが批判する政治的雰囲気は許されなかったであろう。
 日本で松陰に興味をもつようになってから関係の本を読んだり日本の松陰研究家の方々と話をしていく中に筆者も確かに彼が風変わりの人であったことを感じた。松陰の比較的短い人生と、その間に残した業績を見ればそう言える面が数多くある。日本の方々と話をしていく中で筆者も彼は狂人的ではあったと思うようになった。だからといって本当の狂人であったかというとそうではないととらえたい。筆者の見方からする限り、彼は「狂人的ではあるが狂人ではない」ととらえるのが正しいと思う。言い替えれば凡人ではなかったということである。あの若さであれだけの旅行をし、勉強をし、時局観をもち、世の中の成り行きを見通し、国家建設に意欲を持ち、この頃の言葉で言えば国際化を図る努力を身をもって実行した。また結果的だと筆者はとらえているが日本人教育のために努力したと言うこと等を考えてみると並の人間ではなかったと思う。その意味からだけでも彼は「狂人的で狂人でなく」「非凡なる凡人」でもあったといえる。
 
 ただ誰が何といっても彼のひととなりは儒教的雰囲気の家庭で固まり知識の源泉は水戸学を中心とする儒学が思想の基礎になったことを否定することは出来ない。人によっては彼自身が「神州」「国体」の概念を創造的にうち出したと考える方もいるようだがそうではない。水戸学を日本の国学とからみあわせながら発展させてきた先輩から得た考えであったという意味で彼の創造物ではないというのが正しいと思う。
 
 一方彼は着実で生真面目な学者でもない。これといった理論体系を整えたのでもないからである。戦後よく考えられているような革命家または政治家というとらえかた似合わない面がある。彼が政治に携わったこともなければ直接革命または革命的なことをしたこともない。そうかといってよく強調される教育家としてとらえることもどこかしっくりしない所がある。それは彼が初めから教育者になろうとしたこともなく、教育学者風にふるまったこともない。また教育自体を体系的にべんきょうしたこともない。ただ認められるのは下田事件以後監禁の身になりすることもないので同囚達に孟子の話等をしたのがたまたま彼等の好む所となり、共感を得ることが出来たので、本気になって自身の考えていることお伝える機会を得たのである。また一時軟禁状態で多少の生活の自由を得たので幼いときから見慣れていた松下村塾に何名かの若い同志と話を懸命に続けたのが教育の意味を持つようになり、考え方によってはそれだけの効果もあがったと見られたのに留まる。この効果論に対しても結構論議の余地があるようにも見える。
 
 教育者ということについては今の日本の若者が松陰に対してこれといった関心を殆どもっていないこともさることながら、松陰に関する教育を受けたと思われる中年以上の年齢層の人々でさえあまり肯定的な興味をもっていないし、研究もしていないことから伺う事が出来る。ただ一部の人々が明治維新時の功臣が多く松下村塾生から出たことをもとに素晴らしい教育者であったというくらいのものにかんじられるだけである。
 
 そうだとしてもそのこと自体に対してさえ一部では批判論があるようにも見えるし、本当の弟子は早死にをしたのに、あまり松陰にはそんなに関心を持たれなかった人が何名かいて仕事をしたといえばしたともいえるという雰囲気が今日の状況のように受け止められる面もある。
 
 その意味においては教育者的であったということは確かに言えると思う。しかしスイスのペスタロッチと似た人のような形で考えるとすればそれは松陰の本質をありのままにとらえることにはならないとするのが筆者の考え方でありとらえ方である。これが筆者が結果的に教育者的であるという点である。
 
 もう少しペスタロッチと松陰の差を考えて見るとはっきりしてくると思う。先ずペスタロッチは西洋のスイスの中でもチューリッヒに近いところで生まれたまた貧しく不遇な条件で育った。これに対して松陰は東洋の島国で山はあるが日本海という広い海に面している所で生まれ豊ではないが両親もいる安定した家庭で育った。第二にペスタロッチの生活環境と松陰の生活環境はその点風土的に差があった。差は別にも多いがとにかく差があるということはそれだけ人となりも違う可能性を背景にもっているということにもなる。第三にペスタロッチの宗教的背景はキリスト教で「愛」を基本に人間関係を考え、キリスト教自体がもともと原罪の観念から出発しているものでその罪から許されるためにも他に対していいことをしようとする傾向が強く求められたことは想像に難くない。それに対して松陰は基本的には来世よりは現実の生活を倫理的にそして「仁」を基本に生活することを目標とする儒教的雰囲気で育てられたので原罪意識が潜在的にあったとは思われない。ただ「仁」が格になっている人間観が基礎になっているためペスタロッチのような個人主義的であり平等意識的であったというよりは集団主義的であり階級意識的で上下関係をわきまえることに気を遣ったと考えられる。
 
 第四にそれでペスタロッチは自信のような貧しい状況にいる孤児を中心に集めて初めから教育に携わったのに対して松陰はそれよりは国家意識世辞意識が強く統一国家体制作りと国際国家づくりに関心を集めた。彼があれだけの旅行をした目的もまさに其処にあったといえる。紙面の関係上もう一つの要因だけをあげると、ペスタロッチは殆ど同時代に出た教育学者ヘルバルトの学問的・方法論的に教育を考えることに影響を受け、いわゆる調和主義ともいわれる新しい教育理論と方法を取り入れることにも懸命であった。これに対して松陰は教育理論はもちろん方法論的に考えながら教えるなどのことをしたのではなかった。あえていえば真剣に感銘を受けさせることには念を入れたと思う。
 
 このようにいくつかの要因だけをとらえて考えても両者の間には基本的に距離があるといわざるをえない。それでも教育をしたことには間違いがないことではないかと言われたらそれまで否定するつもりはない。ただ基本的にいって両者の性格にはあまりにも差があって、実は比較することさえおおかしい気がするということである。
 
 それでは松陰の招待は何であろうか。筆者がとらえる限り狂人的ではあるが国家発展のため統一国家体制をつくり、国際化を図ることによって国の基礎作りすべきだと考えた情熱の持主であったと思う。そして非常に純真かつ素朴ではあるが愛国的国家思想家であったととらえたい。
 
 いうまでもなく彼がそのような思想の持主になった背景を考えるとそこには水戸学の影響が何よりも強かったと考えられる。幼いときから比較的しっかりした家庭教育を受け、孟子等の儒教的教養の上に武士としての教養をも重ねて積むことを通し、国を守ることの意味を自身なみに体得することとつながっていたとも考えられる。それで全国を旅行しながら状況を実体験するとともに日本の国際的地位を自身なみに理解する努力を続けた。北海道を除いては青森から九州の南へ至るすみずみを見て歩いた。当時の経済と旅行の条件から推測する時それは今の世界一周どころか何周以上の困難を伴ったものであったと思う。このような体験的学習は自身の国内状況理解の徹底を図るための素晴らしい計画であり実践であったという意味で尤も高く評価してよいものであると思う。下田事件以後読んだ読書の広さと深さも素晴らしいものであったと共に彼を理解する上で必須の要件だと思われる。
 
 しかし彼の基本的な思想の基礎は水戸学の影響の元に下田事件までに一応固まっていたとするのが筆者の見方である。事件以後の読書と教育の過程はそれを合理化して国民を説得する、いうならば自身の立場に対する合理化作業であったととらえたい。
 
 このような意味から彼はギリシャのソクラテスに似た所があるといってもよい。ソクラテスは悪法も法でである以上従うべきだといってあの有名な弁明を残して毒を飲みこの世を去って行った。ソクラテスが東西を問わず今尚「汝自身を知れ」とともに志向の原点ともいうべきものをなしているのはまさにその点にあると思う。この点松陰も自信が犯した違法行為に対しては一応すなおに罰を受ける覚悟をし、李卓吾の考え方等を取り入れながらも死んでいかざるを得なかった。
 
 しかし彼も自信の立場をはっきり明らかにしておきたい気持ちで一杯であったであろうということは想像に難くない。筆者はソクラテス以上に強烈にそんp希望があったであろうと思う。色々の形で出来るだけのことはしておきたかったであろうとも考えられる。下田事件以後の彼の話しておいた内容、教育したもの、そして書簡等殆どすべてを筆者はソクラテスの弁明に当たるものであろうと考える。たとえ自身は弁明する気持ちではなかったにしても何らかの形で自身の意志を通したいことを希望したことには違いがないとする時そう考えても失礼ではないと信ずる。やはり松陰もソクラテスと同じく神ではなく何の変わりもない人間であった。
 
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松陰の足跡をたずねてE五条・八木・信濃
               厚狭教育事務所 木島俊太郎
 
穂高神社・わさび畑
 「病弱であった禄山自身が自己の生命について深刻に考え松陰に共感を覚えたのであろう」などと禄山の心中を偲びつつ穂高神社を経て大王農場へ向かう。
 犀川を背にした複数扇状地であり、何処を彫っても3度の自然湧水が見られ、わさび栽培に最適の地である。明治中期までは、梨の産地であったそうであるが、状況判断の的確さとしぶとさが実り、わさび発祥の地静岡と並ぶ穂高わさびを作り上げた。信州人の気骨を現すもの一つである。
 
開智学校
 開智学校の祖をたどれば、寛政5年(1793)藩主戸田光行によって開設された松本藩の学問所・崇教館に至る。常に教育の先端を行き、中央に負けまいとする気概が感じ取れる。子守教育など早くから幼児教育に目を留め、明治20年附属幼稚園を設立している点には驚いた。
 また、館内に、教育に関する資料が系統的にかつ総合的に整理され、展示されている点学びたいところである。
 更に、この開智学校が今なお長野教育の象徴として君臨していることに歴史の重みを感じる。
 松本城を見遣り、松本を後にする。千曲川を見下ろしながら松代に至る。松代町内探訪。
 
日本電信発祥遺跡
 佐久間象山がオランダの書物を読み、松代藩の鐘楼とお使者屋とを電線で結んで、日本最初の電信実験をした場所である。
 他にも、地震計、医療器、写真機など数多くの化学実験をしたという。象山の意欲の旺盛さには圧倒される。
 
聚遠楼跡
 安政元年4月、松陰のアメリカ密航の失敗に連坐し、象山も伝馬町の獄に投ぜられた後、8月松代へ帰藩し、御安町のこの地に蟄居を命ぜられた。以来、9年間この屋形のなかで過ごす。ここで省?禄(しょうけんろく)を書く。現在建物は別の場所に移されている。
 松陰が象山に入門したのは嘉永4年の夏であった。松陰は普段着まま象山を訪れ弟子入りを懇請した。松陰の姿を見た象山は不機嫌に「お前は何を求めて来たのか。ただ知識を得るためか。私は単なる知識の切り売りはしない。道を学ぶならそれだけの礼儀を正して来い。」と追い返した。
 自分の非礼を悟った松陰は、その後衣服を改めて象山を訪ねたところ、象山は快く松陰を座敷に迎え入れた。以来、二人の親交は深まる一方であった。
 象山は松陰の踏海の意志を知り、その壮途を祝って送別の詩に餞別金4両を添えて送った。吉田義卿を送る(送別の詩)
「之の子霊骨有り、久しく厭(いと)う?躄(へつさく)の群。衣を奮う万里の道。心事未だ人に語らずと雖も、忖度(そんたく)するに、或いは因有らん。行を送りて郭門を出ずれば、孤鶴秋旻(こかくしゅうびん)に横たわる。環海何ぞ茫々たる。五州自ら隣をなす。周流して形勢を究むれば、一見は百聞を超ゆ。智者は機に投ずるを貴ぶ。帰来須(すべから)く辰に及ぶべし。非常の功を立てずんば、身後誰か能く賓せん。」この夜、「禄山日記」・象山の話に時を過ごす。
 
十月三十日(木)
 千曲川を渡り、万葉の碑を眺め、赤魚・姥捨山・田毎の月などの話を聞き、信州は不思議な所で、洋風の建物が違和感を持たずに自然に溶け込んでいると思う。信州人のセンスの良さが生み出したのか、何もかも溶け込ませる勇壮な自然が醸し出すのか。豊かな自然が豊かな心を育てる。厳しい自然が気骨を育てる。自然の広大さ、山の雄大さが人の大きさを育む。
 
川中島古戦場
 三太刀七太刀跡・執念の石・土塁跡等つわものどもの夢のあとを偲ぶ遺跡が多くあり、戦国争乱の古戦場の面影を今に伝えようとしている。
 目をつむれば、喚声や太刀音が聞こえてくるようである。
 
長野市立博物館
 この博物館の構想は素晴らしい。時間(歴史)と空間(立体感)と質(内容)の三つをうまく組み合わせた総合的博物館である。市単独で24億円をかけて建設したということである。そのスケールと度量にただただ敬意。
 
真田邸・宝物館・文武学校
 真田邸は九代幸貫母「ていの方」の隠居所として建てたものである。庭園のどうだんつつじは紅葉の盛りである。つつじといっても2メートルを越す古木である。
 宝物館には真田一族にかかわる物が陳列されている。
 各代藩主の書もまた目を楽しませてくれる。八代藩主幸貫は佐久間象山等逸材を登用し、諸芸にも達し、その書は格別目を引くものであった。書は人を顕す。名君は名臣を呼び、名臣は名君によって生かされるとか。正に然り。
 文武学校は時間がないので走るようにして見る。象山の意見にもとづいて、藩士の子弟の文武の道を奨励するため、藩校として設立したものである。すぐそばに松代小学校があるが、児童たちはこの精神をどのように受け継いでいることであろう。
 
象山記念館・象山神社
 象山の書・画から始まり、意見書、愛読書に至るまで収集陳列されている。
 あの時代に洋書を読んだことも驚きだが、それ以上に、これを解読し、電気にかかわる実験や器具作成に挑戦した彼の好奇心と研究心に感嘆する。
 省?禄に「余年二十以後、乃ち匹夫も一国に繋りあるを知る。四十以降乃ち五世界に繋りあるを知る」と書かれている。象山の器の大きさを伺い知る名文である。
 松陰は自分の書いた幽囚録を象山の元へ送り閲を乞うほど彼に心酔していた。高杉晋作が「国の前途についての教えを請う」と松陰の密書を象山の元へ届けたのは、既に松陰が処刑された後であったという。
 長野を発ち、高崎を経て上毛高原に向かう。日暮れて闇路をたどり法師温泉に着く。法師は、自然のふところに抱かれて安らかに眠れるまさに秘湯である。
 最後の夜、話に熱が帯びる。松陰もこのように幾夜も語り明かしたことであろう。これからの教育を、誰がどのように方向付けて行くのか。今こそその課題に真剣に迫るべき時でもある。
 
11月1日(金)
 午後二時東京発ひかり27号に乗り、午後7時42分無事小郡帰着。
 
感想・反省
 人生は旅であるという、旅もまた人生である。現地を自分の目で、身で確かめること、そして、そこで人が人や自然とどのようにかかわっているかを確かめるという貴重な体験をすることができました。
 松陰の足跡を訪ねると言うことは、松陰がいかに生きたかということと童子に、他の人々とどのようにかかわり、自分の人生を構築して行ったかをたどりなおして見ることでもあります。
 象山は獄中で「天の将に剣ならんとするや、炉に入り、鞴(はい)を承け、碪(ちん)に座し、槌を受け、灰に塗れ、泥に汚れ、寒水に淬(たら)ぎ、越砥に斂(おさ)む。其の鉄たるやまた苦し。然れども鉄にして、その艱苦を甘受せざれば、安ぞ其の器を成就して、君子の佩(はい)となるを得んや。惟(おも)うに人も亦然理。」と書き添えたということです。
 防長教育いや日本教育の柱たらんとする松陰も、今回尋ねた森田節齋・谷三山・佐久間象山をはじめ教えきねぬ多くの人々とのかかわりの中で育ったような気がします。
 私たちも今回の経験を大切にし大いに奮起したいと考えています。
 道中の三先生のお話、それぞれに味があり、含蓄のある一言一言に感銘を覚えました。村田先生とは毎夜語り明かしました。先生の読書量と日々の生活の構えに学ぶところが沢山あり、その熱血と行動力は接する者の心を動かします。よい出会いでした。好機を与えていただいた松風会、道々御士道いただいた先生方、更に各地でお世話になった方々に対し心から感謝の意を表します。
 
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「松陰の道」吟行
                  山口県教育会 大田 恭次
 東北遊日記 による「みちのく松陰道」が修復整備され、これがロマン・ウォークの道あるいはまた、青少年鍛錬の道として活用されていることは松門第4号でも紹介されている。
 昭和54・5年頃、松陰生誕百五十周年記念事業に旧萩往還を「松陰の道」として修復されるよう山口県教育会としても県に要望したことを思い起こすのであるが幸いにこれは「歴史の道」として立派に整備、活用されている。この秋〜山口間の街道にとどまらず、東遊日記等による山口ー防府ー岩国間、更に廻浦紀略による北浦海岸、西遊日記による明木ー絵堂ー秋吉ー四郎ヶ原ー小月ー馬関に至る街道等松陰先生が跋渉された道筋を明らかにし、要所要所に由緒を解説する標識、詩碑等を建立し、これを青少年をはじめ一般県民に歩行鍛錬または松風敬慕の道として活用していただくことはきわめて有意義なことと考える。
 松風会・山口県教育会は前述の青森県の実践とも呼応し、新年度から県内「吉田松陰の道」の探索と修復を重点事業に掲げ、推進することを計画している。 
 紙上における松陰研究はもとよりのこと松陰先生の感懐をもってその道を踏破してみるならば先生の心魂が一層の実感となって伝わってくるにちがいないからである。
 幸いに涙松の箇所には涙松の歌碑、夏木原には東送詩碑、上関には帰郷夢断の詩碑、関戸には奔流滔々の詩碑、小瀬川畔には夢路にもの歌碑、呼坂(熊毛町)にも寺島忠三郎と二人の歌碑が建立され、そこを過ぎる人に深い感銘を与えている。
 その他県内跋渉の途次詠まれたものを拾ってみると癸丑遊歴日録によれば三田尻に於ける恩裁舎旧、会稽有辱、華浦桑山、懐国思家の詩、西遊日記によれば赤馬関での長山幾畳の詩、吉田では早発戴星の詩、帰家にあたっては奮然擔笈、鶺鴒原遠の詩、長崎紀行によれば明木での少年有所志の詩、縛吾集によれば三田尻での菅公廟外の和歌三首及び連霖残熟、梅霖始霽の詩、廻浦紀略によれば赤馬関における君懐奇気、雄才足振、壁立危巌の詩等がある。
 詩歌は心の叫びであり、吐露するものである。その人格、人間が赤裸々に、率直に描き出されるものである。それだけに読む人の心を動かし「鬼神をも哭かしむる」威力を秘めている。
 短い生涯の中にも膨大な著述、論叢を書き残し、測り知ることのできないほど深遠な思想、哲学、教訓の宝庫を遺産として残してくださった松陰先生の全貌を究めることは至難の業であるが、それを解きほぐす緒口は前述の意味合いから案外、その詩歌にあるのではなかろうか。
 松陰詩歌について極めて詳細に丹念にまた忠実に研究、分析した徳山大学山中鉄三教授の「吉田松陰の詩藻」(徳山大学研究叢書一)は貴重なよりどころである。終焉に至までの673編、109首、俳句63句を見事に分類、解説している。著述、論叢のおびただしさに圧倒されると共に詩歌創作の多数にのぼることにも驚嘆させられるところである。
 著作、執筆あるいは思索、言動の一つ一つとこれらの詩歌がどう結びついているかを詳しく吟味してみる余裕がないが、それぞれの時所位に触発されて詩歌の形となって詠嘆されたものであろう。それゆえにその時点での最も高調された松陰魂が結晶したものであると見ることができよう。とすれば詩歌の中に最も赤裸々なそのままの松陰像をうかがうことができるといってしかるべきであろう。
 この意味で松陰先生の人間に迫る手がかりはここにあると考えるとき、当時を再現することはできないまでもその所に立ちその感懐をもって詩歌に触れることは最も効果的な方法であるといえる。なお詩歌は声に出して詠み、吟ずることによって作者の心に迫ることができるものである。
 吟詠は詩歌の心をうたいだし、その心をわが心とする〜共感する〜ところにある。節回し、抑揚の巧拙は二の次である。それらはすべて詩歌の心をうたいだす手段である。したがって心を異にする詩歌には万葉集2,500余首にその数だけの詠法があるように千差万別の吟じ方ある。
 松陰詩歌840余すべてについてその所位に応じて吟詠できないまでもせめて県内「吉田松陰の道」を明らかにし、箇所箇所における詩歌の由緒を正し、松陰先生の感懐に浸ってこれを吟詠してみることはその心魂に迫りながら自らを鼓舞昂揚する事になるに違いない。
 このようにして日本本土の北辺・青森と西端・山口の「吉田松陰の道」にまつわる松陰詩歌吟行を提唱する次第である。
 
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松陰をめぐる人びと(5)佐久間象山
                    (故)松風会理事  石川  稔
 
 佐久間象山(さくましょうざん)は文化8年(1811)2月、信州松代藩で生まれた。幼名を啓之助、28歳の時藩の許可を得て修理と改名した。雅号象山は生地の裏山象山(ぞうざん)に因み、26歳のころから用いた。(以下象山と呼ぶ)
 象山の父は佐久間一学という松代藩士で母は荒井氏の娘まんであったが、正妻でなかったため象山も正式の嫡子と認められなかった。しかし文政8年元服の年に嫡子と公認され藩主に拝謁を賜っている。
 
 父一学は文武両道に秀でた武士であったので藩主に重用され象山もまた父同様の愛顧を蒙った。このことはどこか松陰における藩主毛利敬親(たかちか)との関係を思わせる。
 一学は孫のような象山(年齢差55歳)の養育に少なからず心を砕いた。象山は生来頭がよく記憶力抜群。四、五歳のころ父の好む易の64卦の名を全部暗誦したという。腕白も人一倍ひどく「妻女山から槍が降る。作間の家から石が飛ぶ」と言われたほどであった。しかし勉学修業には精励し、幼少時漢学剣術を父より、長ずるとともに会田流和算、馬術、水練を学び、元服後は本格的に経書詩文を学んだ。又活文禅師に師事して支那音、琴を学ぶ。父の死後江戸に遊学し佐藤一斎に入門、しかし一斎は陽明学を、象山は窮理実践の朱子学の立場をとっていたので学説が合わず、一斎の許しを得て詩文の指導のみを受けた。
 
 松陰と象山の出会いは嘉永4年(1851)松陰の第一回江戸遊学に始まる。この年5月松陰は江戸木挽町の象山塾を訪ねた。この時松陰は普段着のまま象山に入門を懇請したので象山は至極不機嫌であった。「お前は何を求めてここに来た。ただの知識か、それとも人の道を知るためか。私は単なる知識の切り売りはしない。道を学ぶのならそれだけの礼儀を正してこい」と言って追い返した。非礼を悟った松陰はその後7月20日衣服を改めて正式に入門を請い許された。しかし入門当初から必ずしも象山に推服した様子はなく、坂間塾は4,8,9の日が講義日であったが、しばらくの間さほどの熱心さ見られない。
 松陰が急速に象山に傾斜していくのは嘉永6年(1853)藩から諸国遊学の許可を得て久々に江戸に出てからである。この年松陰と前後するように米水師提督ペリーが米艦4隻を率いて浦賀に来航し、松陰は国家の危急存亡を悟り、「将及私言」「急務條議」等をもって事態の切迫を告げる。このころ松陰と象山とは互いに心をひかれるものの如く呼吸は一つになっていた。度々会し時事を論じ対策を練った。
 
 象山は幕府の勘定奉行川路聖謨(かわじとしあきら)に「宜しく俊才巧思の士数十名を撰んで蘭船に付し海外に出し、それをして便宜事に従い以て艦を購はしむべし。則ち往返の間海勢を織り操舟に熟し、且つ万国の情形を知ることを得てその益たる大ならん」と献策している。しかしこの策は幕府のとる所とならず、象山はジョン万次郎例をひき松陰に漂流策を暗示した。松陰は大いに心を動かし直ちに長崎の露艦に向かうが目的を達することが出来なかったこの時象山は松陰の志を壮として旅費と共に送別の詩を贈っている。この詩は後に松陰の下田踏海事件に関連して象山が罪を得る端緒となるものである。
 
 象山は儒学者であり科学者であり、医者であり砲術家であった。正に万能の士であるが、象山の真の偉大さはその多才にはなく、国家の前途を憂える先見の明と愛国の至情に徹した実行力にあった。この博学万能の士も晩年は不遇であった。元治元年将軍家茂の命により上洛するが、その年の7月三条木屋町で遭難、54歳の生涯を閉じた。象山の正室は門弟勝海舟の妹順子であるが子がなく、嫡子は側室お菊の生んだ恪二郎である。象山が兇刃に倒れた時はまだ17歳であった。
 
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