松門5号 昭和62年(1987)9月1日
 
目   次
松陰像を入れた校訓碑           萩第一中学校長 都築  泰
襖の下張りと吉田松陰           山口市     金本 利雄
松陰の足跡をたずねてD五条・八木・信濃   厚狭教育事務所 木島俊太郎
綿貫家に伝わる嫁に対する心得書      徳山松陰会   瀬島  肇
松陰をめぐる人びと(4)玉木文之進       松風会理事   石川  稔
 
 
松陰像を入れた校訓碑
               萩第一中学校長 都築  泰
 
 本校創立40周年並びに校舎改築記念事業の一環として、同事業推進協議会(会長槌屋文夫)から、松陰先生像の彫入された校訓碑を寄贈してもらった。
 本校校区は、松陰先生の誕生地や、墓所・松陰神社・松下村塾などの先生ゆかりの史蹟を持ち、松陰教学発祥の地であると自認しながら、それを象徴する何かが欲しいと願っていた矢先の寄贈で、心から有難く思うものである。早速に本年4月14日に除幕式を行い「至誠」を基調にした校訓を日夜心に銘じ、読書や勤労に精を出す生徒の育成に期することに決意を新たにしたものである。
 この校訓碑は、碑面が縦100p、横210p、敷石ともで高さが120pある。石材は秋穂御影を用い、彫刻家は田辺武の労作による。
 表面には、「至誠」の校訓を右側に、松陰先生像は、長径70p、短径55pの楕円形のブロンズで左側に配した。「至誠」の文字は、至誠而不動者未之有也…のいわゆる「至誠の書」の親筆を松陰神社宮司のご好意により、写真に撮って拡大したものを原型にした。従って、右上がりの書体や、戈の部分のはねなどにその特徴が窺われ、校訓に相応しい入魂になったものと思う。
 松陰先生像の原型は、京都大学図書館秘蔵の松陰像に求めた。それは、先生と身近にあった品川弥二郎などの門下生が激賞しているとおり、松陰先生の気魄や行動力を具象した青年松陰像であると考えたからである。多くの人になじまれている松浦松洞の描いた吉田松陰の肖像は熟年松陰であり、学者松陰を象徴している感が強く、現在の中学生の心を引きつけるには断層があると思ったからである。
 このような考え方は、新進彫刻家田辺武氏とも一致して、氏は京都大学を訪れ、特別の計らいによって、指定の写真家の撮影する原像を手にされた。
 また、この松陰先生像を中心に、文字の選定や、その配置、さらには、まわりのシチュエーションをも含めたレイアウトに関して、田辺氏の制作意欲実に旺盛であり、完成までに七回も私の所へ来られた。
 裏面には、松下村塾の聯(れん)から「自非読萬巻書安得為千秋人」「自非軽一己労安得致兆民」の二文を彫り入れた。これは、実物と大きさ、節の間隔、長さ、文字の全てが同じに複製された聯が本校校長室にあり、この複製品をもとに、田辺氏が拓本をとって彫刻された。なお、この複製は、瀧原翁の彫刻によるもので、三代校長田中俊資先生の図らいによる。
 「万巻の書を読むにあらざるよりは、いずくんぞ千秋の人たるをえん。」「一己の労を軽んずるにあらざるよりは、いずくんぞ兆民の安きを致すをえん。」の二文は、読書の必要なことや勤労の重要なことを諭された松下村塾の塾生訓であった。松陰先生の没後百三十年、幾度かの教育改革を経た今日、なお本校の校訓として生きていることを思うとき、不易の教育という実感を強くもつものである。
 末尾に本校の記念事業推進協議会の名を記した。総工費200万円は、今後の萩第一中学校教育に大きく生かされるものと思う。
 
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襖の下張りと吉田松陰
山口市 金本 利雄
 
 今から30数年前、私は山口へ出て家業の表具屋を開業した。
 開業した当時の仕事は、主に襖の張り替えであった。戦災を受けていない山口の町の古びた家の襖は、長い年月にさらされていて修理に手間取った。湿気に膨らんだ襖の下張りを剥いで、中の組子修理して張り上げることも度々であった。
 剥ぎ取った下張りには、いろいろのものが張ってある。大幅帳、漢籍類、謡本、手紙等、初めはそうしたものを風呂に焚いたりしていたのであるが、よく見れば、何やら達筆で書いたものもあるので丸めて倉庫にほうりこんでおいた。
 今から10年位前の夏、倉庫でその剥ぎ取った下張り類を眺めていると、手紙文の末尾らしいところに「矩方再拝」という字があるのに気が付いた。何となく気にかかるので、宛名の「治心気斎」というのを調べてみると、松陰の師であり後見人でもあった山田宇右衛門であることが分かって、これはもしかしたら吉田松陰の手紙ではないかとおもうようになった。
 私は少年時代から、吉田松陰という人を敬遠する気持ちがあった。私たちの少年から青年時代へかけて、それは支那事変からだんだん拡大し、遂に太平洋戦争にまで突入する過程の中で、皇国史観が説かれ、大和魂が鼓吹され、一億火の玉となって国難に当たることの必至が強調される中で、松陰は学校教育の指針であった。
 「松陰先生は、あの松下村塾の一角で、将来国家の干城となるべき子弟を教育した。松陰先生は偉大な教育者である。そして又、その子弟も松陰先生の教えをよく守り、…お前達はそのことを思ってやらんにゃいかん」
 当時のどの先生達も、そういったような訓話を真面目くさった語調で語り、その顔つきまでがあの老成ぶった顔の長い松陰と二重写し感じられてくるのであった。
 そんな少年時代のこともあって、私は吉田松陰については、勤めて読まないようにしていた。むしろ、そうしたものとは反対のものに惹かれる何十年であった。随って十年くらい前の私の吉田松陰についての知識は、極めて貧弱であった。
 しかし、それではいけない、吉田松陰を調べなければ、この書簡が果たして松陰のものかどうか確証をつかむことは出来ないという思いから、にわか勉強の読書と解読を始めたのである。
 私の俄勉強の中から、ほぼ概略のことが分かり始めた頃、親友の山本弘秋氏にこのことを話したことから、多くの歴史家、松陰研究者の方から松陰の筆跡に相違ないという答えを戴いた。
 
 昨年、岩波書店から吉田松陰全集復刻版が刊行されて、歴史家奈良本辰也先生の紹介によって、この書簡も掲載された。
 「矩方再拝」と署名のある松陰書簡の内容は、次の通りである。
 
 八街河洲先生座下
十八公下隠者
  此の事面悉に非ずんば鄙懐了様すべからず、此の書を呈し以て其の概を言う。餘は留めて奉款の時にあり、不乙
昨呈覧する所の紀行中、安芸五蔵の事に及ぶ者あり、五蔵未だ棺を蓋はざれば、則ち其の事尤も宜しく深く秘すべし焉、是れ僕知己の為の婆心なり、僕伏して願はくは先生僕の意を体し、匆々(そうそう)に観過して胸間に留むなからんことを万翼望する所也、昨棒ぐる所の書中、適々(たまたま)此の事を忘る、故に茲に追啓す。矩方再拝 
  六月二十八日  治心気斎先生
 冒頭の八街河洲は山田宇右衛門のことで、十八公とは、松の字を分解すると十と八と公となることから松下隠者となる。私は数ある松陰資料によって、この書簡が嘉永5年6月28日、松陰22歳の時のものであることを知ることが出来た。
 嘉永4年(この書簡の前年)松陰は藩主の参勤交代に随って江戸遊学をし、肥後の宮部鼎蔵と盛岡の人江幡五郎と東北旅行に出発する。江幡が兄の仇討ちをしたいというのに同調して、赤穂浪士の討ち入りの日にちなんで、12月15日を出発の日と決めた為に、松陰の過書手形が間に合わず、脱藩して旅立ったことは「東北遊日記」に委しい。
 その結果、松陰は萩に帰され謹慎させられるが、この謹慎中の6月28日、恩師山田宇右衛門にあてた手紙が前記の書簡である。又、文中の安芸五蔵とは江幡のことであるが、仇討ちのことは秘密にしておいて欲しいというのがこの文意である。
 萩に帰された松陰にとって、最も大きな打撃は、山田宇右衛門からの義絶である。「足下の志確ならず、大ならず」と松陰を非難し絶交した書簡が旧全集に収められている。
 しかし、それから二年後の安政元年、松陰の下田踏海事件を山田宇右衛門は浦賀防御参謀としてこれを知ることになる。
 
 文久3年、藩主の山口移鎮に随って、宇右衛門も山口に移り後河原河畔に居をかまえたという。藩の中枢にあって東奔西走したのであったが、慶応3年55歳で病没する。墓は山口の街を見下ろす天神山中腹にある。
 私の発見した松陰書簡のことが、テレビや新聞に報道された直後、九州に居られる山田家の子孫と言われる老婦人が訪ねて来られたことがある。お話を聞くと、多分明治の前半に山田家は山口を引き払って他県に出られたということであった。
 山田家が山口を去るとき、山田家のものは処分されてしまったのであろうか。ともあれ、その一部が、その後の百年近くを日の目を見ることなく、古襖の中に眠っていたということになる。
 松陰が、百年を過ぎても尚、人を惹きつけて止まない魅力とエネルギーを感じさせる人物であることは周知のことである。あるときは愛国者松陰であり、革命者松陰であり、又求道者であり教育者松陰であったことや、最初に松陰を世に紹介した徳富蘇峰以後、幾太の松陰研究所を見てもうなずけることである。時代と共に人の評価も変わることの一つの証左である。
 しかし、松陰の没後、松陰の亜流たちによって歪曲された功罪、又大きいと言わざるを得ない。
 「講孟余話」で「天下は天下の天下である」と言う山県太華 に対して「天下は一人の天下である」と言った一人の天下は、松陰の薫陶を受けた人達によって実現したが、その道は又近代日本が歩まなければならなかった帝国主義国家への道でもあった。そして70年後に惨憺たる太平洋戦争にのめりこんでいく…その中で松陰は、時代の寵児のようにもてはやされたのも事実である。
 しかし、明治政府が打ち立てた「一人の天下」の実態は果たして松陰の夢見た姿であったであろうか。
 「もし松陰が明治まで生きていたら…」という仮説は、多くの人の胸の中にある、密かな思いである。或いは別の維新が生まれたのではないか、と。
 そう思わせるものの中に、松陰という人の、人を魅了して止まない何かがある。
 私が一つの機縁によって、松陰の著述にまがりなりにも触れる気になったのは、何時の時代、どこの地でも変わらない、一つの道をひたむきに生きた一個の心の像を追ってみたかったことにある。完全な人格者、偉人としての松陰よりも、人間らしい松陰を求めたかたことにある。全十巻にわたる松陰全集の中から抜き取ってくる、人間松陰の息吹を伝えるものは数え切れない程多い。そして又、多くの学者や研究者達の指摘するところでもある。
 
 絶交後の松陰と宇右衛門のことについては、わずかに二三の松陰草稿によるより外にすべはないが、安政3年、宇右衛門は松陰の兄梅太郎を介して、松陰の講孟箚記(余話)を見たいと言ってくる。松陰の喜ぶ様子が文面に漲(みなぎ)っている。
 …賤著講孟箚記を見んことを求めらる。憤激何ぞ勝(た)へん。僕少々にして門下に親炙(しんしゃ)し、片言隻辞未だ嘗て正を先生に取らざるはあらず…伏して願はくは、先生之を視られよ。果たして道を益するか、果たして道を害するか、道を益せば是伝うべきなり、道を害せば是れ絶つべきなり…。(丙辰幽室文稿)
 
 松陰にとっての山田宇右衛門は生涯の師であり、又、ゆくてに立ちふさがる巨大な山でもあった。その山に向かって「益するか、害するか」と問いかける松陰は、あの最後の著である「留魂録」の中で、自分の生涯は「秕たると粟たると我が知るところに非ず」と自得する心に通じるものがある。
 松陰の著述が益か害か、その生涯が秕か粟であったか、それは松陰の知るところではないのかも知れない。
 しかし、今も尚そのことの真意が問われ続けているのではあるまいか。
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松陰の足跡をたずねてD 五条・八木・信濃
                 厚狭教育事務所 木島 俊太郎
 はじめに
 今回の旅は、松陰先生の「癸丑遊歴日録」の中の大和地方における、森田節齋・谷三山たちとの出会いを探ることを主たる目的としている。
 加えて、松陰先生に多大な影響を与えた佐久間象山の遺跡を訪ねることも含まれている。
 参加者は、松風会理事の三輪稔夫・石川稔・山本博一の三先生と徳山松陰会の村田正樹先生と私の五人である。
 行く先々での見聞もさることながら、旅を共にした4人の先生方から拝聴したお話も得がたい収穫であった。貴重な機会を与えていただいたことに対する謝意を表する意味で、あえて拙筆を執ることにした。
 
 「癸丑遊歴日録」によると、松陰は癸丑正月26日(1853)萩を発して旅路につく。富海より海路、兵庫・明石を経て大阪に至る。ここより陸路大和に向かい、2月13日、大和五条で森田謙蔵(森田節齋)に、5月2日、八木で谷三山に会う。その後、八木を発って津・桑名を経て舟で今尾・大垣に向かう。ここから陸路、中山道に沿い、馬籠・福島・沓掛・高崎を経由して江戸に入る。江戸で交友を温め、5月25日、鎌倉の瑞泉寺に落ち着いたとある。
 
10月28日(月)
 予定通り、午後6時30分小郡駅新幹線口に全員集合。6時52分発、ひかり20号で快適な旅の第一歩を踏み出す。車中では早速、松陰先生の話に花が咲き、たちまちの内に新大阪駅に着く。難波・橋本を経由して五條市に至る。
 
 五條市
 松陰が森田節齋を尋ねて度々足を運んだ所である。
 五條市図書館において、文化財係長新井貞子女史の御心配で、地元の郷土史家阪部鐘司(84歳)・松山照夫(82歳)両氏から、森田節齋並びに森田節齋と松陰のかかわりに付いての話しを拝聴することが出来た。
 更に、市内案内を受ける。旧邸が各所に点在し往時の面影を偲ぶ事が出来る。落ち着いた街で、代官が善政を敷きみんなから親しまれたという事である。
 
 森田節齋頌徳碑
 五條市中央公民館のそばに頌徳碑が在り、一文に「…文章を以て生徒を鼓舞す。生徒多くは慨世憂国章句を事とせず。吉田寅次郎・久坂玄瑞・原田亀太郎、其卓々たる者。」とある。二人が時事を痛論しついに師弟の契りをなしたとあるほど互いに認め合う間柄であった。
 
 森田文庵(森田節齋の父)の墓所
 貧乏人からは金を取らなかったと言う医者文庵にふさわしい地味な墓石である。向かいに、天誅組鈴木源内の墓碑がある。また、同じ墓地内に数柱の俳人の墓も在る。学問を尊んだ地域にふさわしい光景である。
 
 桜井寺
 天誅組本陣跡。桜井寺は大寺である。門柱は昔のままと言う。石段もまたしかり。当時の熱気が漂って来る感じがする。
 
 栗山家
 慶長12年建立。日本一古い民家。材はトガ・カヤ・モミ等で総て渋で磨かれている。大黒柱は一尺五寸のカヤで槍鉋で削られている。工法的にも貴重な建物である。
 
 森田節齋旧宅
 旧宅は既に人手に渡り、老女淋しく留守を守る。入るとすぐに二室があり、今は居室となっているが、昔の勉強室である。書棚だけが昔のままに残っている。一枚板の年代を経た書棚の扉を何人が、どれほど開閉したことであろう。離れは寝所として使用していたと言うことである。夜を徹しての激論も度々のことであったろう。
 提孝亭跡・下辻又七郎宅跡・乾十郎宅跡
 いずれも現状は一新し、石碑だけがその証として建立されている。紀州街道を中心に散在するこれらの位置から、当時彼等が東に西に往来をし国家の行く末を論じあったであろうと推察される。
 
 三氏の心からのもてなしと「柿の葉寿司」を土産に五条から吉野に向かう。車窓に秋色を感じ、走り去る家並みに土着の歴史を感ずる。山が険しいので列車は前後に移動して登る。夕刻、吉野に着く。旅館は岸壁に張り付くようにして建つ。壁面に登り付く蔦の紅葉が目にしみ、全山の紅葉を創造させる。宿よし、酒よし、料理よし、話は吉野の花より更によし。五条の人を誉め、森田節齋を論じて夜は更ける。
 
 10月29日(火)
 早朝の山路を歩き、ケーブルカーで下山。眼下の桜並木に混じり、楓・桃の古木は四季を通して見るに値する。
 橿原神宮前を通過して大和八木に至る。
 
 谷孫兵衛宅
 奥行き60m、建坪600坪という大邸宅、油屋・肥料屋を経て現在に至る。突然の訪問にもかかわらず、若奥様の丁重なもてなしを受ける。
 「相在室」という額の掲げられた、谷三山先生の居室に案内される。床の間に三山先生の座像が安置されている。
 松陰は森田節齋の紹介を受け三山を訪ね、筆談で問答をしている。松陰が三山から受けた影響は大きい。松陰自らそのことを人に漏らしているし、また多くの門人たちにも三山に会うこと勧めている。
 八畳の弟子達の控えの間に続いて相在室がある。部屋の前には濡れ縁があり、中庭がある。「赤門より客が出入りする。」とあるので松陰もこの右側の門から訪れたのであろう。
 庭には昔のままの石灯籠が立ち、踏み石には苔がついている。幾百人もの人がこの石を踏んで来訪したことであろう。
 谷三山先生の頌徳碑は橿原市公民館境内に在る。墓碑は小学校そばの墓地にある。興譲館塾は、肥料の倉庫場に在ったが、現在は剣道場として使用されている。
 
 京都を経由し、名古屋で昼食をとり、松本に向かう。
 木曽川を上る。進むにつれ秋色深まる。眼下の河床は奇岩相連なり、景観は極めて趣がある。木曽は木材の地。全山、杉・檜に覆われていると思ったが、雑木が多く美しい紅葉を見せている。楢・椚の黄橙色に、欅・漆の深紅色を加えた色合いはさわやかである。いずれも樹形は鋭角で雑木林帯と異なる味わいを持っている。
 木曽路を登りつめれば、山はいよいよ高く、錦織なす彩りは一つとして同じではない。深緑の植林帯も図柄として山に溶け込み、改めて大自然の偉大さを思い知らされる。
 塩尻に至り眼前たちまち開け、連山遠くに霞む。左右に限りなく広がるぶどう・長芋畑を眺めながら淺間にに向かう。
 
 10月30日(水
 浅間温泉を後に、路傍の道祖神を拝しながら安曇野に入る。
 
 碌山(萩原守衛)美術館
 赤煉瓦に蔦の絡まる洋風の美術館が、周囲によく溶け込んでいる。ロダンに師事した我が国近代彫刻の開拓者の力作にしばし見とれる。
 その内、山本博一先生が大発見をされる。日記の展示の中に、吉田松陰の名が見られるという。一同沸き立つ。
(日記の抜粋)明治32年6月27日〜松陰文に、家庭に於ける先生の書文を、殊に野山獄より妹子に与へし文を読んで感涙あり。亦松下村塾の関係分を読み又先生の教育法を略略見る。先生や自ら正直露骨磊落にして、児童に直ちに国家を説く、亦文武仏道を尊ぶ〜
同6月28日〜吉田松陰文に、死を見る。帰るがごとき信仰を見る。先生の人生観や一種の霊魂不滅説を取らる全き短命は永世其感化をのこし、最も長生きの命なりと、観世経の講義亦実に感服。父兄へ送れる謝罪と述懐、読下おぼえず催涙。〜
 〜吉田松陰文「踏海、当時の有様眼前在熱血之士捧身至国事あふれては亡命となり踏海となり、村塾教育となり。要撃の計に至りて刑に倒る。この間の文読者をして涙を惜しまざらしむ。〜
 
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綿貫家に伝わる嫁に対する心得書
                   徳山松陰会  瀬島  肇
 
 下記にかかげた書は、故楫取素彦男爵夫人壽(ひさ)様(松陰の妹)が、お子さまたちのために書かれた「嫁に対する心得書」で、その内容は育児心得である。
 この手紙形式の育児心得書は、玖珂郡周東町川越毛明(けあけ)にお住まいの元周東町長・綿貫舒之氏夫人基世様(寿様の曾孫で、楫取家から綿貫家に嫁がれた)が、今も所持されているものである。
 松陰先生が、妹千代様宛におくられた『千代への書簡』(山口県教育会館編・吉田松陰全集第7巻)にみられるものと類似面が多くある。千代様、寿様、文様ご姉妹は、杉家の立派な家風に育てられ、また兄松陰先生の教えに学ばれて、家庭教育にも深い見識をもたれていたことが、この心得書からも偲ばれる。
 人間が人間として行うべき道が失われている今の世相への警告として、この手紙形式の育児心得を書き写してみる。
 凡そ人の子のかしこきも、おろかなるも、よしもあしきも、大概は父母の教へに寄ることなり。男子は父の教えを受け、女子は母の教へを受けること多し。それゆえに、父は厳かに母はしたし。母の行い別して正しくして、胎内に子の宿れば、常にかわりて食べ物、起居までに心をつくし、いにしへ聖人の教へにも、「席正しからざれば座せず。割め正しからざれば喰らわず」とか。又「耳に淫声を聞かず。目に邪色を見ず」とか申すことも有りとか聞く。いまだ胎内に宿れる見聞もせぬ者故、母の行ひに関するもの故に、いかに小児とても生まれ出で、目も見え、耳も聞こへ、口も物を言うにいたりては、などか感ぜざるべけんや。
 教へと申しても、六歳以下のこと故、言語にて諭すべきにもあらねば、兎に角母の心正しく、身の行ひ正しくしてかりそめにも埒もなきことを話聞かせ、子を慰めむよりも、一つにても正しきよき話など。夜な夜な子を寝かせる時も、或いは忠臣孝子の咄、古へより名高き人、英雄の名など教へ、その人の詩歌など覚へ置きて教へ、子守歌にも、役にも立たぬ世間のうたなど聞かせぬ。
 守をする下女にも、正しき言葉遣ひなど、よく教へ置き万事心を用ひ、余り愛に過ぐると、子のまめやかならぬのみか、自ずから子の心ばへも、ひ弱くなりて能き人と成り難し。又賤しく育つると子の心も賤しく成る故、かかる時節になりても子供の育ちだけは古へ武士の真心にておごりにならぬ様にして、廉恥の心教ゆること第一なり。
 今の子供は多くは廉恥の心なき故、辻に買い食いすることなど、何とも思ひ申さず。是皆親の教へのとどかぬ故也。口すさみの子守歌、子心にしるしおきぬ。老のくりごと申し残し候。あなかしこ子守歌 父母のご恩深きお恵みを。寝ても覚めても忘れるなよ。
 先ず朝起きて身を清め、本の父母拝みつつ、親の仰せにそむきなく、手習い学問精出して、夫婦は仲良く睦まじく、兄を敬ひ、弟をあわれむ心深ければ、友に交わるまことあり。その身その身に引き受けし、家の勤めにおこたるな、世のよしあしを振り捨てて、われさへ勤め行くならば、天の冥加にかないつつ、子孫も栄え行くことわりを、幼心にわきまえて、生立ち給へおこたちよ。
 ねんねこ ねんねこ ねねこせ。
 この心得書は、我が国の幕末から明治にかけての時代に、良識有る母親の心であった。しかし、今の若い人々は、封建時代のことで今の世に合わないと否定されるであろう。
 戦後40年、欧米の風潮、教育が積極的に取り入れられ、祖国の伝統も文化も、はたまた日本人の生き方を教える歴史も学校教育の場で教えることを否定してしまった。その結果だけとは思わないが、規範性と倫理性を失った根無し草の如き若者の姿は、一つの悲劇である。
 今、学校教育の見直しは勿論であるが、家庭教育の見直しは急務であると思う。
 ここにかかげた「嫁に対する心得書」は、綿貫家に嫁がれた基世夫人が、今もなお保管され、吾が娘の嫁がれる日に語り伝えられたものであろう。それは、我が子の立派な成長を念じられる母親の心である。日本人の鑑となる先人の生き方を伝えることこそ、本当の歴史であり、教育の根源ではなかろうか。
 
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松陰をめぐる人びと(4)玉木文之進
                       松風会理事  石川  稔
  
 玉木文之進は吉田松陰の父杉百合之助の末弟であり、松陰の叔父である。松陰の尊皇思想、愛国心は父によって培われ、教学の姿勢はこの文之進によって形成された。
 文之進は幼名を正一、後正?(まさかぬ)と言った。文之進は通称である。杉家から出て玉木十右衛門の後を継いだ。玉木家は大組に属し中士上等の家柄であった。
 天保6年松陰は山我流兵学師範吉田家の第8代当主となった。この時松陰の教育について最も重責を感じたのは文之進であった。文之進は極めて厳格、勤倹剛直の人であった。まだ童子の域を脱しきらない松陰に対して、徹底したスパルタ教育を施した。しかし、天賦の資質を持ち、自己にかせられた使命をかすかに感じ取っていた松陰は、この厳しい試練に耐え抜いた。松陰が11歳のとき藩主敬親の御前で「武教全書」戦法編を講じたが、その見事な出来映えに藩主は感心しその師を尋ねた。側近の士が「玉木文之進」と答えた。この一事をみても文之進が松陰の教育に打ち込んだ情熱をくみ取ることが出来る。
 文之進は経史、詩文をよくし、又軍学にも長じ、松陰が幼少にして明倫館教授になったときもの後見役をつとめた。その後、藩学の都講に推挙され、又異船防禦手当掛となり、浦賀に駐屯したこともあった。
 松陰によってその名を知られた松下村塾は、天保13年(松陰13歳)文之進によって開かれた塾である。文之進は近隣の徒を集め、主として国史、家乗(毛利家の歴史)国体学等を教授した。しかし文之進の本命は学者や教師ではなく民政であった。数郡の宰判に勤め多大の功績をあげ、後、郡奉行に累進し藩政の要職についた。
 文之進が小郡代官から吉田代官に転じた時(安政4年)の業績を松陰は「吉田録」に詳述している。
 文之進は先ず貧民のリストを作り庄屋と共に戸別訪問をし、その実情を把握して個別指導をした。四郎ヶ原では二村の水利争議がもとで渡船が途絶えていたが、関係者を集めて話し合いその解決を図った。その他神官僧侶の不仲を仲裁する等、従来なおざりになっていた諸問題を次々に解決した。
 松陰はこの日記の中で文之進について次のように結んでいる。
 「持論老成にて、絶えて高奇成りがたきのことを成さず。事の自(お)ら成るを待ちて、徐ろに是を成すを尚(たっと)ぶ。」尤も功名家を嫌ひ、世人と妄(みだ)りに交通をなさず。郡吏の貪涜(たんどく)を深く悪(い)み給へども唯だ自(み)ら清廉を守り……勧農の一事に至りては、満腔の赤誠全く茲(ここ)に注す。且つ家に在る時は日々鋤犁(じょり、すきとくわ)を親(みずか)らするを以て農事尤も精(くわ)しく、其の是を訓(おし)ふること更に親切を覚ゆ。」
 文之進は厳格一辺倒の人であったわけではなく、又温情の人でもあった。安政5年松陰が処刑された直後、哀悼の情を禁じ得ず、
 「寅次郎は他国遊学以前、これという定まった師がなかったので偏に私がその教育に当たりました。今大罪を犯してこのような仕儀と相成りましたのは、全く私が浅学にして学術邪歪であったからであります。その上世人が寅二の不正狂妄の挙をなじるのを聞きますと、唯々気の毒千万で心中哀悼を禁じ得ません。しかし皇国の汚辱、天下の大事関する事には、生命を賭して皇国の安泰を冀(こいねが)う者が居なくてはならないのではないでしょうか。この事は決して叔父甥の情に溺れて申すわけではございません。」と言う意味の書を当路の人に贈り松陰の苦喪を弁明している。文之進には彦介という嗣子があり、松陰が尤も愛し期待をかけていた従弟であった。しかし御楯隊に入り慶応元年絵堂の戦で負傷し、海禅寺(小郡)で歿した。
 その後玉木家は乃木希典の弟正誼(まさよし)が嗣いだが、明治9年前原一誠の乱(萩の乱)に一番隊長となって参戦し戦死した。この乱には文之進の門下生も多く加わり死傷した。文之進は大いに憤慨し「これは畢竟(ひっきょう)平素の教育がよくなかったからである。師として国家、父兄に対し全く申し訳ない」と言い、先祖の墓前で割腹した。その時介錯(かいしゃく)をしたのは松陰の妹千代であった。
 
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