松門4号 昭和62年3月1日
                          松門目次へ戻る
目   次
 松陰北辺の旅             青森県 漆畑 直松
 吉田松陰の詩文         徳山大学教授 山中 鉄三
 松陰の足跡をたずねてC会津若松・佐渡  萩市 末永  明
 触れ合い響き合い(松陰と清風)    三隅町 平川 喜敬
 松陰をめぐる人々(3)杉 民治  松風会理事 石川  稔(故)
 
 
松陰北辺の旅  
                            青森県  漆畑 直松
 嘉永4年(1851)藩命によって江戸留学中の松陰は、家兄にあて「あなたの藩の人は国史に暗い」と友人に言われ恥ずかしい思いをしたと書いている。日本的自覚の深かった山鹿素行を先師と仰ぎながら、国史の素養に乏しかったのは吉田家に素行の「中朝事実」(津軽藩出版)や「謫居童問」が伝わっていなかったからだ。
 
 彼は前年、平戸、長崎に旅し家学の外、アヘン戦争や、ヨーロッパに関する本を読み漁り、オランダの軍船も兵学者の眼で確かめ、インドや中国を侵略したヨーロッパ諸国は、やがて日本に迫るだろうと予想したが、これから守らなくてはならない日本とは如何なる国なのか、わずかに「新論」にふれただけで皆目分からなかった。それと山鹿流兵学でヨーロッパの巨大な文明に対抗出来るだろうかという疑問も湧いていた。
 
 江戸留学はこれらの疑問に答えを得ようということと、兵学を時代の要請に耐えうるものにまで高めようと言うものであったが、次第に失望とあせりが深まるだけであった。こういう時に友人の宮部鼎蔵から東北視察の話をもちかけられ、過書の交付を受けないまま脱藩し旅立ってしまった。
 
 江戸を出た松陰は、水戸滞在1か月、水戸学の権威から日本の国柄を学び、特に桑原幾太郎からは、外敵が日本のどこを侵犯してもそれは神州全体の問題だと諭され、初めて目覚めたと述べている。その後、会津、新潟、秋田を経て弘前に着いたのは、嘉永5年2月29日で翌3月朔日、海防に詳しい伊東梅軒を訪ね2日間にわたり会談した。
 
 伊東は若くして江戸で佐藤一斎に大阪で篠崎小竹に学び、四国、九州の沿岸防備を視察し帰藩後もその方面で活躍している視野の広い人であった。彼は津軽沿岸防備の実態や頻繁に出没する外国船の装備に触れ、藩では時代遅れとなった山鹿流からオランダ兵法にきりかえていることも語った。既に外国との実践を経験している津軽に来て、山鹿流は過去のものとなったことを知らされ、松陰の衝撃は大きかった。図らずもこの後松陰は亡命の罪で、山鹿流兵学師範の立場を失うことになる。作家の邦光史郎も「外国船がよく現れるという津軽海峡を望む場所に立ったとき、松陰は自ら教える山鹿流では強大な外夷に対して何の役にも立たないことをすべて悟っていた」と述べている。
 
 弘前から寒風をついて、津軽半島を北上し絶険算用師峠を越えて三厩に辿り着いた松陰は、外国船の自由に往来する海峡を眺め、この事は津軽、南部藩だけの問題ではなく「日本全体の問題」として取り組むべきだと幕府の要人を激しく批判している。そしてこの日は、奇しくも一年前藩主に従って萩城を立った日と同じ3月5日であった。
 
 松陰にとって、北辺の旅の収穫は大きかったに違いない。私どもはこれを縁として、竜飛崎に「松陰先生詩碑」を建て、算用師峠を整備し、関係市町村28が協議会をつくり、松陰先生の精神を県民運動にまで高めようと、その足跡を辿る行事など絶え間ない努力を続けている。本年度は、相馬大作と精神的出会いとなった矢立峠を整備する。
(青森県歴史の道整備促進協議会事務局長。)
4号目次へ戻る
 
 
吉田松陰の詩文
                  徳山大学教授 山中 鉄三
 松陰の詩・歌・句を3期に分けるとだいたい次のごとくなる。
(大和書房版全集による)
 兵学者時代(10代)    詩38
 求道者時代(24歳まで)  詩117、歌3
 下田踏海後時代(30歳まで)詩518、歌106、句63
合計 詩673、歌109、句63
今回は紙数の関係上、漢詩を中心に松陰の人間像をみる。詳しくは拙者「吉田松陰の詩藻」を参考にして欲しい。
 
 1期兵学者時代の少年松陰は明倫館の教授格になっただけに兵学を通じての人生観の基盤を創る時代であるが、驚くべきことはこの期の詩はすべて風韻風趣、読書三昧、僧と語り畑をうち、魚を釣り、隠遁的超俗的趣味に終始し、脱政治的情趣に沈潜し、正に詩人的風雅の世界に逍遥することに徹していた。この隠遁的エネルギーは2期、3期には姿を消すが、2期の猛烈な求道探求の旅(約1万2千キロ、九州・四国・大和・中山道・越国・青森に亘る吟遊詩人の旅)における孤独や病疾の時に、または3期の行動派時代の蹉跌の時や囹圄の時に、1期の自然人松陰の詩人的風雅の世界に回帰する詩が多い。1期の風雅詩は38篇すべて風雅に徹しているが、右の回帰詩の65篇ばかりを加えると、103篇はすべて純粋な風韻に遊ぶ詩である。この風流的エネルギーと求道エネルギー或いは行動的エネルギーとの相関関係は、松陰研究の重大な要点だと思われる。
 
 松陰1期のこの隠遁的乃至は風雅詩について触れて論じた研究書が無いので少し紹介してみることにする。
 吟人閑にして事なし。急に筆硯を呼び詩句を思ふ。黄巻披き読めば至楽この中に在る。といった詩題に、瓶梅・春雨・春日遊歩・寓話雑詩などがあり、野水に吟遊し、禅牀(ぜんしょう)に脚を信(の)べ聊か睡を催す。「禅房、榻(とう)を仮る」の詩を見る。また「酒家小楼」では「煙霞風月吟情迷ふ」と表白する。「林亭夏目」(松陰生家〈樹々亭〉を木々と洒落て林としたものと思われる)では「林亭愛すべし自ら世塵を忘るるに足る」と脱俗の心を指向する。更に「豈に俗人を容るべけんや、山水は詩資に富み、短衣家の貧を忘る」と述べ自然人松陰の安心立命の境を示す。「人日訪山中友」でも「詩話文壇風致多し、名利の人この中の真を知るや否や」と方丈記の口調でもって隠逸の境に安住する思いを語る。喫茶香煙を愛する詩に「春夜即事」「春雨」などがある。「立ちて石泉を汲み苦茶を煎ず、此の中の幽情亦俗には非ず」「雨声昼静読書家、磁鴨(鴨型の香炉)香煙直又斜」といった喫茶という風流事に身を置く松陰である。更に「夏目雑興」「夏夜即事」にも「枯坐すれば閑にして事なく、茶気香煙聊か歓ぶ」とか「嫩吹(微風)籬(かき)を渡りて暗麝(あんしゃ)を伝ふ」という茶や香に身を浸す詩境を愛した。
 
 また松陰は漂泊隠遁性、吟人逍遥の詩質をみせている。「春日自咏」「又」の二題に「自咲(わらう)此身無定所、杖鞋随処是吾家」「吟人の迂計、門を出て去り、却て涼林も向ひ晩花を尋ぬ」という。この漂泊性が二期の求道者の旅、吟人の旅につながるのかも知れない。この俗なる人間(じんかん)に非ざる世界を愛する思いを「漁樵閑話図」に「水悠々山畳々、塵外別有幽情?(かなう)」と述べ李白ぶりに「別有天地非人間」の風狂を提示している。松陰の詩人憧憬は強く随所の詩に覗われるが二期以後になると事務論詩の頻出につれて詩人になってはならぬと自省する詩文となる。
 思想家や行動家となるに詩は妨げとなると信じたからである。それを自戒しながらも二期以後の詩の中に十代回帰心ははからずも詩人となることを拒否できない事実を多く見受けるのである。一期の十代詩をみると、おしなべて松陰は詩人である。兵学者、思想家、教育者、学者、行動者であると同時に純正な詩人的素質を身に体した人であった。私が松陰生涯を一貫するものは詩人哲学者という所以である。松陰の論文、書簡、小説、歌句などをみても詩人的直観のひらめきを否定することはできない。
 
 十代は、ともかく詩に憧れていた事実は「新夏即事」にも、「竹窓静座誦蘇詩」といい「春日遊歩」に「恨むらくわが文字に乏しく、詩料等閑に過ぐるを」と憧れながら詩才乏しきを嘆くのである。「我は愚を守り」(「客中」)読書せねばならぬと「苦熱」の詩に述懐している。「山行雨に値(あ)ふ」に「他人解するや否や吟人の意」と言い、「舟遊」には「月に対し韻趣を発し、魚を釣るは塵機に非ず、問ふ勿れ多年心事違ふと」と述べるのもすべて詩人憧憬の心といっても過言ではあるまい。この風趣遊芸の心と反比例するものに兵書の不勉強を嘆く「自嘲」の詩がある。又は「偶成」に「咲(わら)ふ我が吟哦癡(がち)癖の心」云々と、「かく詩文を学は君上を欺く」云々と自戒の詩を残し、これは二期以後の松陰に引き継がれてゆくのである。終わりに「初秋友に寄す」の詩は松陰の詩観を述べて重大である。即ち「言志寄詩寓箴戒云々」であって、詩経に謂う「詩は志なり」を詩にしたものである。この気持ちは終生松陰詩に一貫したもので、所謂叙情的詩文は「君上を欺く」結果となることだとして松陰は「詩人」になることを避けたのである。詩は情を表出するものでなく「志」を述べるものと固く信じたのである。松陰詩に自警、自戒、自省、箴戒、慨世、批判、訓戒などの多いのは思想家松陰の本領でもあり、右の信念の顕現と思われる。それは二期以降に花を咲かすのである。
 
 二期は旅の求道者時代で松陰詩の本質は一応出揃うわけで、即ち事務論慨世詩、歴史風土詩、英雄偉人詩、望郷孝敬孝弟詩、挨拶存問詩などである。これらが三期の晩年になると更に多岐に独立分化し複雑に命題化されてゆくのである。それは、時に忘我的に己を埋没するかの如くまた爆発的に己を燃焼させるかの如く、静と動はこもごもに乱れるかに見えて、しかも乱れず、或いは矛盾の中に統一を求め、統一の中に矛盾を歎く、といった諸々のテーマを常に誠実に激烈に生き貫く松陰を詩に覗い見るのであった。そのテーマを整理して簡単に紹介してみることにする。ただテーマは一篇に纒まるとは限らず諸テーマが混然と挿入された長詩も多く篇数を明確に図ることの難しいことも断っておく。
 
@忠義詩(忠孝一如、諫死思想詩、浩然の気詩など30篇)
 
A危機感慨世詩(尊王攘夷詩、愛国国防詩など約45篇)
 
B英雄待望論詩(志の詩、草莽崛起論詩など70篇)
 
C詠史詩(日本及び中国の志士英雄詩約80篇。特に中国の屈原・諸葛亮・陶潜・顔真卿
・文天祥・劉因・王昭君・伯夷叔斎・岳飛など33人。日本の楠公以下風土に即した志士英雄多数)
 
D幕府批判詩(35篇)「幕府は重く天朝は尊し」と言った公武尊崇詩もあって強(あなが)ち幕府打倒詩ばかりでないことは特に初期において顕著。また詠史詩に含まれた詩を加えると約80篇以上になる。
 
E人生観上の詩(死生観の詩を加えると百篇以上になる)私が「死の詩人哲学者松陰」という所以である。自警・自戒・自省・自照の詩、浩歎慨世、憂悶警世など。また松陰は蹉跌の人生あり理解され得ぬ失望感の歎きの詩は随所に見受けられる。
 
F兵学者流の詩。特に纏まった詩篇は少ないが随所に見られる。山・海岸・湖などをみて戦略的視点に立って作詩する。これは人物論、歴史論、地理地形論に目立ち多く孫子の兵法などが裏付けされる。間諜論や軍事操練論などの詩がそれである。
 
G矛盾的重層の詩。人生訓的述懐詩、又は中国、日本の古聖賢やその著書に対する批判や感想詩の中に、時と場所に応じて尊敬し他の処においては否定するといった一見して逆説的に見られる視点を散見する。これは門弟、友人、同志に対しても見られることで、松陰の批判的評論の精神の現れでもあり、教育者的指導精神の指導法でもある。人を見て教えを説く心である。才に応じ時代と環境に即しての方便であって、一つの定規的思想を万人に押し当てない松陰の姿勢が詩にちりばめられ、矛盾を統一総合せんとする松陰の人間像をかいま見せるのである。
 
H尊敬者への奉呈詩。65篇。その主な詩は、象山・黙霖・月性・鳥山新三郎(梁山伯とも云われ松陰が身を寄せた塾)周布政之助・大原三位(松陰が大原西下策を立てた京都の公卿)村田清風・前田孫右衛門など、また求道者時代に知った多くの人物に詩を呈している。松陰が詩や書簡を多方面にこまめに届けたのは情報蒐集の手段としても他に類を見ないほどの数であり、書簡に詩を添えるのも特色であり人間接触の方法であった。
 
I塾生友人に送る詩。約155篇。訓戒激励。教育者的檄、同志の契約、情報集めにも役立たせるため、多いときは一日に5通の書簡を書くこともあって気を抜く時がない精力である。久坂玄瑞へ33篇、入江九一へ13篇、前原一誠へ7篇、富永有隣・金子重輔へ6篇、品川弥二郎・松浦松洞へ5篇、その他晋作はじめ多くの弟子へ詩を届けている。
 
 松陰詩のフィナーレは縛吾集以下70篇で、刑死に赴く途次の詩は上述した松陰詩の諸要素を総花的に展開している。順を追って若干紹介すると望郷惜別し、幕府感格詩、自然叙景詩、志と死に賭ける詩、観恩愛の詩、大義実現詩(楠公・大石良雄)英雄詩(秀吉)尊皇詩(京都恋闕)詠史詩(日本武尊・西行・曾我兄弟・頼朝義経、中国人では孔子・方孝孺・七賢人・屈原・文天祥その他)慷慨詩、友情詩、義を守る詩、華夷の弁詩、仁政し、死生詩、終わりに「文天祥正気の詩」に答えて「松陰正気詩」で結び、あとは辞世詩まで一貫して詩の覚悟詩であって静晏と動魄の詩を結んだのである。
 
4号目次へ戻る
 
 
触れ合い響き合い(松陰と清風)
                        三隅町  平川 喜敬
 
 昔から帝王や為政者の在り方を説き、またその輔佐の道をも説く帝王学と呼ばれる学問があった。わが国には、古く中国から移入され、歴代の天皇はじめ藩政期の藩主や、輔佐の任にあたる政経家学者らの治世のよりどころとされてきた。
 
 「貞観政要」や「資治通鑑」などは、松陰や清風の時代に心ある指導者必読の書とされたものである。これらの書には、昔から中国の優れた統治下に於いては、諌議太夫という職制を置き、お上にある者は求諫の手をさしのべる責任があり、下に仕える者は納諫の義務があると説いたのである。
 
 身分統制という縦の系列厳しい封建体制の中で、お上に意見苦言を訴え、政治のやり方まで改めさせようということは、命をはってかかる程の重大事であった。この小文では、松陰と清風をその角度からのみ取り上げてみたいと思う。
 
 天保元年松陰誕生のとき48歳、すでに清風は財政に通じたやりての政治家であった。13代藩主敬親が襲封し、財政改革の御前会議あった。清風は七箇条の精魂こもる建白をした。松陰は、厳しい政局の中で清風に面識を持ち、漸くその意見を傾聴しようかとするころであった。
 
 老志士清風が、確信の風雲児松陰に大きい期待をかけ、あつい眼差しで声をかけていくのは、清風没前の10年間ばかりのことである。
 
 嘉永元年、松陰最初のオリジナルは明倫館学制の大改革についての意見書であった。清風は勿論その時、国老益田元宣とともに明倫館再興学校惣奉行の要職にあった。清風自身も積極意見の士であり、藩主敬親とのコンビによる「言路洞開」重視の構えは、松陰の力説する「聴政」の構えと全く揆を一にする、実践帝王学の発想であった。
 
 この二人の触れ合いの10年間は、長州藩の明るい明日への命運を開くべく、共に命をはってかかる言論文筆活動の時代でもあったのである。
 
 清風は恐れを知らぬ辣腕(らつわん)の老志士、松陰は利鎌の如き情熱の志士。維新から維新後まで響く如く長州藩の政局を切り開き、その基本姿勢づくりに与えた影響は、危機意識に燃えて実践帝王学の具現化に挺身したこの二人に負う所大なるものがあった。
 
 ペリー来日をその目で鋭く観察して、その足で長州藩江戸屋敷にとって帰し、火の玉の如き危機感を込めて提出したのが、有名な松陰の「将及私言」と「急務條議」であった。その中で松陰は、国家の政治体制根幹に触れることを言ってのける。迷運を吹っ切る如き「天下ハ天朝ノ天下ニシテ乃天下ノ天下也幕府ノ私有ニ非ズ」というのがそれである。
 
 そして、「憎ム可キ俗論」として、「江戸ハ幕府ノ地ナレハ御旗本及ビ御譜代御家門ノ諸藩コソ力ヲ盡サルヘシ国主ノ列藩ハ各其ノ本国ヲ重ンスヘキコトナレハ必ズシモ力ヲ江戸ニ盡サスシテ可ナリ」を指摘するのである。それは、愚蒙頑迷に対する痛烈なる批判と藩政庁の腰の入れ方についての怒りの声であった。
 
 さらに、松陰は「聴政」の段にて、政務の非能率とマンネリをつき「宵衣?食」を訴える。宵?(しょうかん)とて、君主政堂は旦夕政務に精励すべきことを堂々と発言し、「直諫」の段にては、近来直諫の風儀が地を払うが如く衰微して来たことは世も末である。急ぎ内外に言路を開き、上言したき者に対しては、深夜と雖も出座してその言を傾聴すべきであるという。
 
 お上こそ率先謙譲の美徳を発揮し、先ず何より「賢人を求める」姿勢に徹すべきである。面従腹背の徒は「口を箝(かん)して」語らざらしむるところに生じる現象であると痛感する。さらに大事なことは道徳に於いても正義に於いても東洋は優れているが、科学技術においては、素直にそのおくれを認め西洋に学ぶべきとして、「砲銃」「船艦」「馬法」について改革の急務を説く。なお「将及私言」に併せ「急務條議」として、具体的な政局の打開策、防備の改善点を説いたのであった。
 
 これと前後し、清風は「遼東の以農古」「海防」「物頭心得」と矢継ぎ早に上書する。清風はその中で、「扶桑開国以来ノ大変也」として、智力勇力財力等各々持てる力を発揮して外夷防禦の国用に供すべしと老志士の心胸を吐露し、「時乎(ときか)今なり、勢いは在上よりすべし、千言万句も身親ら行うにあり」と喝破する。さらに「某氏意見書」に於いては、条理を尽くして善政の在り方を説くのである。
 
 ついで、「野に遺賢無く、言路開けて嘉言伏す」ことなく、「天下国家の善言佳猷皆上に達し、天下諸侯の賢智謀議の助けとなり、遍く四聴を達」し得てはじめて国家繁栄安寧であるともいうのである。
 
 松陰と10年間に及ぶ思想内容の中には、藩を大切にしながらも、藩を超えて、「統一国家の形成」を目指さねば「扶桑以米大変」のこの危局は乗り切れないとする危機意識と、具体的な政局の打開策に於いて、多分に揆を一にして響き合う点の濃厚なるものあるを感じざるを得ない。
 
 清風の訃報に「大恩師逝きたり、嗚呼」と名山獄に悲憤慷慨の涙をのんだだけ、松陰の危機意識と難局打開についての論法は老志士清風の其れより更に一層深刻であることを思わないわけにはいかない。
 
松門4号目次へ戻る
 
松陰の足跡をたずねてC 会津若松・佐渡
                     萩市 末永 明
水郷線点描
 吉田松陰東北遊歴の跡を訪ねる私どもは、水戸から国鉄水郷線の列車で会津に向かった。途中に『いわきたなくら』『いわきいしかわ』の駅ががある。地図によると、いわきいしかわ駅あたりで、松陰が歩いた旧街道と国鉄が交差している。東北遊日記 によるとこのあたりのことに触れて『山聳え道窄く田圃極めて少なし。鎌田以北は少しく田地あれども亦磽?瘠鹵なり。其の山水は或いは吟人墨客の観に適すと雖も、其の農桑の業に於いては困苦もまた如何ぞや。屋の棚倉は天下の瘠地と称す。今過ぎし所は棚倉を距ること甚だしく遠からざれば、即ち造り観ずと雖も亦推して知るべきなり… 』とある。
 
 天下の瘠地と称せられたこのあたりの田地も、今では農業基盤事業が進んで整然と並ぶ一枚30,40アールの方形の乾田のあちこちに、収穫を終えたコンバインが淋しく放置せられている。この地の反収はいくらだろうかなどと推測する。郡山あたりから小雪混じりの雨が窓ガラスを斜に走る。
 
白虎隊記念館
 五合目まで雪化粧をした磐梯山、静かに水をたたえる猪苗代湖を車窓から眺め、野口英世の業績をしのぶ。寒風に枯れ葉の舞う会津若松駅に下りたった私どもは直ちに白虎隊記念館に向かった。白虎隊娘子軍をはじめ、明治戊辰の役に徳川親藩最後の拠点として悲壮な戦いを展開した会津藩と征討軍の三千余点にのぼる館内の資料は観る人の涙を誘う。そうした中で、藩校日新館絵図、同水練池、天文台跡の写真や、日新館の見学者として掲げられている吉田松陰、頼三樹三郎、佐久間象山の肖像画、「什(じゅう)の教育」等の写真資料は特に私どもの心をとらえた。
 
日新館
 早くから教育のことに着目した会津藩では、寛文4年(1664)創立せられた稽古堂は元禄元年(1688)に武士の教育を対象とした講所となった。
 天明8年(1788)の学制刷新によって、11歳から18歳までの諸士及びその子弟はすべて就学を命ぜられて一藩皆学の制度が取り入れられた。
 寛政11年(1799)藩主松平容保の命で藩校日新館が誕生、10歳前後から文武両道にわたって徹底した武士教育を受けることとなった。
 
 黒河内伝五郎の案内で日新館を観た松陰は、敷地約二万平方メートルに及ぶ館の模様を『大門の扁に過化存神と曰ひ、中門には金聲玉振と曰ふ。門の左に太鼓を置き以て時を報ず。正面の聖堂を大成殿と曰ふ。堂の左右に四塾ありて生徒を置き、又習書・神道・和学・礼式・及び学校の役所諸局あり。聖堂の右側に射場・馬埒及び印刷場・武芸師の家居及び剣槍場ありて以て其の外を圍む。東門の扁に日新館と曰ふ』と記しているが、戊辰の戦乱はこの建物を焼失させ、僅かに残る天文台跡と絵図で昔をしのぶばかりである。
 
什の教育
 藩では幼童教育にも大いに力を注ぎ、日新館就学前の6歳から9歳までの子弟は、一段0人前後の「遊びの什」という集団を作り、午前中は家庭での学習、午後は集まって「什長」の「お話」という次の八箇条の申し合わせを聞き、毎日の生活の中で「会津武士」のあるべき姿を身につけながら育てられたという。
一 年長者のいうことにそむいてはなりませぬ
二 年長者にはおじぎをせねばなりませぬ
三 うそを言ってはなりませぬ
四 ひきょうなふるまいをしてはなりませぬ
五 弱い者をいじめてはなりませぬ
六 戸外で物を食べてはなりませぬ
七 戸外で女の人と言葉をまじえてはなりませぬ
八 ならぬことはならぬものです
 また、祖先をまつる仏壇の前で、母親から切腹の稽古もさせられたと伝えられている。
 
会津の風
 『近年幕命を奉じて戌を房総に置く。初め会津の地海に遠きを以て遊泳及び操舟の術を知る者なかりしに、今は即ち漁父蜑丁にも勝る者ありと云う。近頃百機撒西(ペキサンス)砲を鋳る。口径七寸余、長さ七尺余なり。又架砲船を作りてこれを城外の東の湖に試む。』と記した松陰の日記から会津の風の一端を知ることが出来るし、「霰の如く乱れくる敵の弾丸引き受けて」遂に自刃した白虎隊士は、この地で生まれ会津の教育を身につけた16,7歳の美少年達であった。
 
 飯盛山に上り白虎隊士の墓に香を捧げる。松陰が「先師の行実に負くことなからんと欲す」といった山鹿素行誕生地を巡り、巨石に山口藩と刻まれた西軍墓地に参拝する。ともあれ会津は、武家の歴史と生死を共にした土地である。
 
真野御陵(佐渡)
 「会津新潟を結ぶ国道は積雪のため通行止め」の放送を聞きながら新潟港へ急ぐ。低くたれこめた雲。荒波にもまれてギュウイーと船体をきしませる連絡船で佐渡両津港に上陸する。
"ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり"の名歌を残された順徳帝の
真野御陵に詣でる。規模は京大和のものと比べるとはるかに見劣りがする。松陰は『萬乗の尊きを以て孤島の中に幸したまふ。何すれぞ奸賊乃ち此を為す』と、悲憤慷慨。心情を次の詩に托した。
 
 異端邪説誣斯民
   非復洪水猛獣倫
 苟非名教維持力
人心将滅義與仁
 憶昔姦賊乗国均
   至尊蒙塵幸海濱 
 六十六州悉豺虎
敵愾勤皇無一人
 六百年後壬子春
  古陵来拝遠方臣
 猶喜人心竟不滅
  口碑於今傳事新
 同行の宮部鼎蔵も亦悲憤して
 陪臣執命奈無羞
   天日喪光沈北陬                          
 遺恨千年又何極
一刀不断賊人頭
と扉に題した。(東北遊日記)
 
参道の右手、御陵に正対して建つ凛烈萬古存の詩碑にこの二つの詩が刻まれ、裏面には「大阪市人曰下伊兵衛浮田高太来拝皇陵見二先賢嘉永五年二月念八拝陵書于榜誦而感焉恐其久而漫滅乃謀勅之貞眠請余書之余乃欣然而応命焉
 昭和十一年五月
   浪華  藤澤 章誌」
と建碑の由来が記されている。方約100mの陵域に繁る老松は或いは松陰の見た穉松の今の姿か。
 
佐渡金山跡
 佐渡金山の跡を訪ねる。金山の象徴とも言われる露頭鉱坑の「道遊の割戸」が、鉛色の空を背景にして大きく口を開く。
 旧坑道に入る。油煙に汚れた曲折する坑道の奥から、機会を操るような異様な騒音に混じって、人の怒声とも思われる音が響いてくる。今もまだ採鉱を続けているのかと耳を疑って進むと、眼前に異様な情景が展開する。そこには、金鉱石採掘現場を再現した大工・採鉱夫・荷揚夫・桶場の水替人夫に混じって盗視役人などの電動仕掛け人形が配置せられ、録音テープによる役人の罵声までが流されて、視る人を恐怖の世界へ引き入れてしまう。
 
 松陰は鉱山吏松原小藤太の導きによって屏風鉱坑の採鉱製金の現場を観てその模様を『強壮にして力ある者と雖も十年に至れば羸弱(るいじゃく)用に適せず。気息奄々或いは死に至る。誠に憐れむべきなり』しかしこの鉱坑はまだよい方で『他山に至っては或いは三、四年にして既に死に至る』苦役であり『之を語るも亦以て金を視ること糞土の如き者の膽(きも)を寒うすべし』と記している。
 
 当時の鉱山が、生き地獄の相を呈していたであろうことは推察するに余りありと思われる。坑を出れば空は前にも増して暗く、やがて、宿に急ぐ車の窓には大荒れの日本海の浪しぶきが間断なく襲いかかってきた。
 
波濤の海
 旅の最後の夜を、風雪と日本海の怒濤の打ち寄せる相川の宿で過ごした私どもは「本土行き便船欠航か」の報に朝食もそこそこに両津港に急行した。
 聞けば、船は昨日午後から欠航しているという。今日の運行開始を天に祈る。松陰の佐渡への旅は出雲崎での船待ち11日。帰途は小木での船待ち6日と日記にみえる。
 11月初旬ですらこの事態である。冬の旅の苦難を推察しながら運行再開の船に乗った。
 
4号目次へ戻る
 
松陰をめぐる人びと(3)杉 民治      
                松風会理事  石川   稔
 杉民治、名は修道、字は伯教、学圃と号した。通称初の名を梅太郎と呼んだが、民政に多大の功績があったので、明治2年君命により民治と改名した。(以下梅太郎と呼ぶ)梅太郎は申すまでもなく杉百合之助の長子であり吉田松陰の兄である。松陰が短い生涯に偉大な事業を残し得たのは、天才松陰の資質は勿論であるが、慈厳兼備の両親と叔父玉木文之進等の主柱、賢兄梅太郎の影の形に添う如き友愛との賜物であったことを見逃してはならない。
 
 梅太郎と松陰は二つ違いの兄弟であった。松陰は6歳で叔父吉田大助賢良の養子となり、養父の死後家督を相続するが、生活はそのまま杉家一族との同居が続く。
 父百合之助はこの兄弟の養育には格別に意を用い、起居勤労等の生活日課は専ら父の基準に合流させ、敬親崇祖、忠君愛国の家風への浸潤、素読教育等の基礎的教養の習得に力を注いだ。慈恵賢弟の二にして一、一にして二の人間関係はこの幼少時の涵育薫陶の家庭教育によって完全に作り上げられたのである。
 
 この兄弟の稀有の人間関係は嘉永4年12月、松陰が亡命という形で実行した東北遊歴を契機として次第に顕著になっていく。松陰は亡命によって士籍家禄を失うが、家族はその素志の遠大なるを賞賛し温かく慰諭激励する。亡命の罪はなお藩典抵触を出でず、藩主の信頼厚き松陰はその内諭を待って翌年再度の江戸遊学に旅立つ。ところがこの年こそ松陰の生涯の岐路を決定する年となったのである。すなわち下田踏海事件がそれである。
 
 当時兄梅太郎は仕官初期の時代であり、下田事件の折りは相州御備場(海防屯所)で筆者役を勤めていた。しかし弟の責を負い辞表を提出し帰藩謹慎する。父百合之助も曽て盗賊改方」という司法警察関係の職務に従事していたこともあり、屏居謹慎して罪を待つのである。
 
 この事件以後松陰は江戸獄・野山獄等での獄窓生活(この間松下村塾の経営がある)、藩命による再入獄、更に東送処刑と自由行動の極度に制約された5年有余を過ごすこととなる。この長期に亘る不如意の間、松陰にとって唯一の救いは杉家一族の温かい扶助と激励であった。特に兄梅太郎は両親の慈意を体して松陰の身辺に扶助の手を差しのべ、松陰の手足となってその達意を弁ずるのである。
 
 思うに中村助四郎の指摘する如く(杉民治先生伝)、梅太郎と松陰との間には忠孝両全の黙契があったかと思われる。嘉永4年江戸留学中の松陰に、梅太郎は自作の詩を送り批判を求めた。その返書に松陰は概ね次のように述べている。
「阿兄は杉家の嫡男であり、両親弟妹に対し孝養庇翼の大任がある上に、官務家事に頗る多忙な職責であるから、徒に詩文の末枝にとらわれて、勧農富民等の実学実践の事業を等閑視されては遺憾である」と、暗に長兄は自分と異なり、官職家事を抛擲(ほうてき)して国事に奔走する余地のないことを言い、忠と孝とは相互に分任して両全ならしめようと提言しているかに思われる。又安政元年江戸獄から兄宛の書簡の中にも「国の為には如何相成り候とも少しも残念とは存ぜず候。又是れにて父母の名も忝しめ申さず候。但だ父母へ対しては不孝此の上なく恐れ入り奉り候へども、忠孝両全ならずの古言も之れあり候間、宜敷く御?(おんわび)呉々も頼み奉り候」とその意を繰り返している。
 
 梅太郎の書簡中からその片鱗とも見るべきものは、安政4年松陰宛の復書の中に「…冀(ねがわ)くは世故を以て胸懐に介するなかれ、而して事を省き志を専らにし、汝の初志を償い、親戚朋友をして、失望せしむるなかれ、若し或いは聞問不致を以て罪を問う者あらば、請う咎を愚に皈(かえ)せよ、愚将に東奔西走家々に至り、人毎に謝し、敢えて汝を煩わさず、汝勉めよや、勉めよや云々」と激励している。これは明らかに公事と私事を分任し、相互に忠と孝とを完全ならしめんと欲する意思の閃きが感知せられるのである。文久3年4月吉田家の再興は梅太郎の長子小太郎が9代当主命じられた。
 
 梅太郎は当島浜崎御代官見習、世子待講、奥阿武宰判、玖珂山代宰判等の要職をつとめ、特に飲料水に難渋していた萩越ヶ浜に水道「休労泉」を設置し、又奥阿武宰判各村畔頭(くろがしら)に、鉄製風呂釜を設置するなど、民政に多大の功績を遺した。
 明治13年松下村塾を再興し自ら塾主となるが25年閉鎖、その後萩私立修善女学校長に就任、明治43年84歳をもって逝去した。
 
4号目次へ戻る
松門目次へもどる