目 次
吉田松陰先生の画像は、門人であり義弟でもあった久坂玄瑞の熱望によって、同じく門人の画家松浦松洞が描いたものに、親友であり義弟でもあった小田村伊之助(楫取素彦)のすすめによって松陰先生が自ら賛を書かれたものである。しかもその画像は6幅あり、別に賛だけのものが2幅あると言われていた。
その6幅とは
1 杉家本
2 吉田家本
3 久坂家本
4 品川家本
5 岡部家本
6 中谷家本
であり、賛だけのものの一つは福川家本である。中谷家本の跋には、松陰先生自ら「賛を書いたもの凡七通」と記しておられる。
この外、門人の増野徳民が松浦松洞の画に文久2年2月久坂玄瑞に賛をして貰ったものがある。これは品川氏の手を経て博文館社長大橋新太郎氏の所蔵となったもののようで、昭和4年11月30日刊行の青山会館編「松門烈士遺墨集」に写真が載せられれているが現在不明である。
さきに萩市の松陰神社が昭和16年7月に「吉田松陰遺墨帖」を出版した時には、現在所蔵者の判明しているものは全部カラー印刷で入れることになり、次の5幅が入れられた。
そして、巻頭に吉田家本(現在山口県文書館所蔵)、巻末には杉家本(萩松陰神社蔵)久坂家本(東京松陰神社)・品川家本(京都大学尊攘堂蔵)・岡部家本(徳山市野村幸祐氏蔵)が入れられている。即ちこの本には中谷家本と増野家本が載せられていないのである。
熱心な松陰研究家であった福本義亮氏(号椿水、萩松本出身)が昭和8年2月に出版された『吉田松陰の殉国教育』には、右の外に松浦松洞が貰ったものが長崎市豊後町の田辺啓蔵氏に所蔵されていることが書いてある。この松浦松洞も貰っていたことは、吉田松陰全集の編集委員であった安藤紀一氏も書いておられるが、現在はふめいである。
松陰先生が野山獄在獄中大変世話になられた福川犀之助に与えられた自賛の跋の1幅は遺族の福川うの子氏が萩市立明倫小学校に寄付し、現在は萩市の松陰遺墨展示館に保存されている。
今年1月31日夜私は突然埼玉県川口市で鋳物会社を経営しておられる熊沢善三氏から電話で、松陰先生の画像や遺墨について連絡を受け、ついで速達郵便で所蔵資料の写真を送られた。そして不明であった中谷家本が現在同氏の所で鄭重に保存されていることが分かり、大いに安堵した次第である。
この画像は、松陰先生と親しかった中谷正亮が最後に賛をして貰ったものであり、中谷の死後甥の桂太郎(陸軍大将・公爵)が譲り受けられ、更に萩平安古出身の桂内閣の内閣書記官長や文部大臣になられた柴田家門氏に譲られ、明治41年10月10日に出版された徳富蘇峰著『吉田松陰』の口絵に入れられている。
大正6年3月に東京帝国大学史料編纂掛で歴史科教授用参考掛図出版に当たり、史料編纂官三上参次博士が柴田家門氏の承諾を得て掛図を出版した。
第二次世界大戦中柴田家ではこの画像を東京国立博物館に寄託しておられたが、戦後返還を受け、その後藤倉工業株式会社社長に譲られ、更に有名な古書店弘文莊の手を経て、52年6月に熊沢氏の所蔵となったのである。熊沢氏は熱心な松陰崇敬者で、東は竜飛崎まで行かれ西は平戸の山鹿家まで先生の足跡をたどられたそうである。
(付記)本稿は昭和58年2月28日萩郷土文化研究会で報告した。本稿は「史都萩」第46号に掲載されたものを筆者のご了解を得て転載させていただいたものである。ありがとうございました。
理事 三輪 稔夫(故人)
松陰精神ないし人間松陰の核と考えられる二首の和歌は次の通りである。
○かくすればかくなるものと知りながら已(や)むに已まれぬ大和魂
○身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置(とどめおか)まし大和魂
あまりにも有名なこの和歌は朗詠を聴くだけで満場涙を誘う。日本人には以心伝心である。前者は主として大和魂の作用面というか精神構造を直感的に表現している。
後者はどちらかというと大和魂の内容面に重点がかかっている。いずれこの二面については深く考えて見なければならないが、大和魂(大和心)の語源から検討しないことには誤った解釈に陥る恐れがある。
松陰はこの語を本居宣長から学んだ。本居宣長は平安時代の紫式部をはじめとする女性歌人や文学者まら学び、更にその発端を『古事記』の「随神(かんながら)の道」に求めた。大和魂を辞書的に日本人の魂(心)と置き換えては済まされないこともないが、それでは歴史のぬくもりを湛(たた)えた松陰の感受性が抜け落ちてしまう。
本居宣長は18世紀日本の偉大な思想家であった。日本人として初めて日本人の道、日本人の生活秩序を主体的意図的に組み立てようとした。実際には儒教や仏教の影響から逃れることはできなかったのであるが。
彼は先ず儒学を荻生徂徠の弟子堀景山に学んだ。荻生徂徠の古文辞学あ宣長に継承され、やがて宣長の日本と中国との比較古文辞学ともいうべきものに発展する契機をここに認めてよいであろう。とにかく宣長には文学的才能があり、儒学や医学を勉強する傍ら和歌や国文学の研究を進め、宝暦13年(1763)賀茂真淵に出合った年には『紫文要領』や『石上私淑言(いそのかみのささめごと)』という平安朝文学に関する不朽の名著を書き上げるまでになっている。翌明和元年頃からは畢生の大著『古事記伝』の起稿が始まる。
ここではたと困ることは、宣長が日本の古典に対した、松陰が宣長や古典・歴史から学んだいわゆる学ぶという付き合いの中に、自らを歴史の一部と考える自己確認を素通りしなければならないことである。さらに、書かれた言の姿以外に歴史の事実はあり得ないという我意を捨てての、松陰の「凡そ読書の法は吾が心を虚しくし、胸中に一種の意見を構へず、わが心を書の中へ推し入れて、書の道理如何と見、其の意を迎へ来るべし」に当たる点をなどを無視して、意(こころ)や事(事実・経験)に手っ取り早く及ばざるを得ないことを断っておく。
宣長は平安朝時代の和歌や『源氏物語』等の中に出てくる「もののあわれを知る」生き方に、人間の本当の意義を認め、はっきりした自覚を持つようになる。宣長自身の経験、自身の読書から。人間であれば人間同士がそれぞれ相手の心の中に入り込み、自然であれば自然の心をつかんで、お互いが感じ合い支え合って生きていく。そこに最高の充実感を味わった紫式部や赤染衛門の心ばえに共鳴共感せずにはおれなかった。だから漢学を身の飾りとして勉強した当時の男性をむしろ卑下する強い信念、漢学はしてもよいが学問に負けない「もののあわれ」をわきまえた女性達であったから、あのすばらしい文学が結実したのだと宣長は考えるようになった。
大和心は赤染衛門の歌に、大和魂は紫式部の『源氏物語』にそれぞれ最初に登場する。以後平安時代は一般に広く用いられたのに、鎌倉、南北朝、室町江戸中期までは死語となっているが、本居宣長によって再生された。当時、大和魂(大和心)の使用は、具体の場でいろいろな意味合いを持つが、共通して言える点は、人間の精神をないがしろにしたいわゆる知識人の愚かさを訴え、もっと生活に生き役に立つ気概のある知恵を強調しているといってよい。人生経験の根底は「もののあわれを知る」知恵を深め広げることだといってもよい。もっと突っ込んでいえば、日本の口承言語にこもっている心映えが漢文によってつぶされてはならないと宣長には映ったことであろう。
こうなれば宣長の『古事記』研究による「いにしえの道」「随神の道」の提唱もうなずける。『古事記』の世界には、すべての物や人や動物まで、完成した個物として出てくる。それぞれが神格や人格、物格を持ったものとして出現する。いろいろな要素を組み合わせてものを作るのではない。『古事記』の神話に出てくる個物は皆神(迦美)であり、神の子や子孫である。古代人にはそれが畏敬の念と調和の姿をもって経験され、その経験の永続がすべてであった。この世界は善と幸福だけではなく、悪と不幸が共存している。善神もあり悪神もある。吉善(よごと)の中には凶悪(まがごと)の要素があり、凶悪の中には必ず吉善の要素がある。人間は凶悪を嫌い、吉善を行おうとする。これも神の意志である。宣長は神々の名前や言(ことば)の中に、神代の人々の経験の事実と「もののあわれを知る」原型を直観し感得した。世界の調和が破れると人生に異変が起こる、これを「けがれ」と考え、「みそぎ」によって取り除こうとした。「けがれ」を払う祈りによって「まこと」の生命力を回復しようとした。こうした神秘な神々のはからいを「美知(みち)」と呼び、法則らしきもので説明したり強制する儒教や仏教では必ず誤謬が生ずると宣長は考えた。
松陰が日本の歴史に引きつけられたのは比較的遅く、嘉永4年(1851)江戸留学中、他藩人から長州人は「殊に日本の事に暗し」といわれてからである。さらに水戸に赴いて徹底的に日本史研究の必要を痛感。そこで嘉永5年、東北亡命により屏居待罪を機に『日本書紀』以下の歴史書を熟読したものの、『古事記』には及んでいないようである。ところが攘夷のことを「馭戎(ぎょうじゅう)の事」とした横井小楠あて書簡が嘉永6年11月26日、続いて同年12月3日付兄梅太郎に「備とは艦と?(ほう)との謂ならず吾が敷島の大和魂」と詠み与えていることから察すると、宣長の『馭戎慨言(からおさめのうれたみごと)』を始めその他少々は嘉永6年に読んだものと考えられる。松陰が宣長の主著『古事記伝』と本格的に取り組んだのは、安政3年11月から翌4年正月中までで、松下村塾での教育事業がようやく忙しくなる時期である。
松陰には宣長を受け入れる素地は十分出来ていた。趨庭時代から父百合之助の神道実践、特に「文政10年の詔」や「申告由来」の素読は、松陰の情(こころ)の根底に焼き付けられた。最終段階、すなわち安政6年10月20日付入江杉蔵あて遺書には決定的ともいえる次の文が認められる。
「本居学と水戸学とは頗る不同あれども、尊攘の二字はいずれも同じ。平田は又本居学とも違ひ、癖なる所も多けれど…」と。
本居学を水戸学よりも先に書き、平田篤胤の国学とは違うと断定している点等、格別大事に読みとる事が必要だと思う。
このあたりで初めの和歌に言及したい。踏海に失敗し江戸護送中、泉岳寺前で赤穂義士に手向けた歌である。「赤穂の諸士は主の為に仇を報じ、甘んじて都城弄兵(とじょうろうへい)の典を犯し、矩方は国の為に力を效(いた)し、甘んじて海外の闌出(欄出)するの典を犯す。而して一は成り一は敗る」とあるように、赤穂義士と松陰とが二重写しになっている。前半の五、七、五は平素であれば誰もが意識することを伝え、後半の七、七はいざという場合前半の意識は忘れたように振り捨て、普段は眠っている本音の情が噴出し人間全体の行動を支配する。この不思議な経験の事実、心の動きをそのまま詠んでいる。高い理想実現に熱中し本気になればなるほど不合理さえも乗り切り意味づける力を日本人は保持している。「皇国の皇国たる所以、人倫の人倫たる所以、夷狄の悪(にく)むべき所以」すなわち天地大自然も一体にした美しい日本の生活秩序に対し、西欧の道は自然や人間を征服し支配するのではないかと直観した松陰の大和魂が燃えた言葉である。
この言葉を発した下田獄での歌も同じ発想のものであった。
○世の人はよしあし事も云はばいへ賤(しず)が心(誠に改む)は神ぞ知るらん
前半は意識面、後半は西田幾多郎の無意識フロイドの潜在意識に当たる。山鹿素行は『聖教要録』に「已むことを得ざる、これを誠といふ」と松陰にとっては「誠」と「大和魂」とは完全に一致している。また日本人は昔から無意識を魂と呼んでいた。魂とは、人間の同一性を維持する歴史、経験、記憶の全体でもある。
最後に『留魂録』の大和魂は尊王攘夷の精神を留め置きたいと詠んだもので、本文は至誠の実験から始まっている。大和魂の実験と考えてもよいであろう。「馭戎」が「攘夷」になったからとて国民の連帯に変わりはない。僅か30歳の生涯を「禾稼(かか)」に見立て「四時の順環」を松陰は考える。10月も終わりに近づき、秋冬功歳の季、二度とかえらぬ死に対し「もののあわれを覚って」くれさえすれば、松陰の魂魄(こんぱく)は門下諸士の魂に生き続けることを松陰は信じた。
萩市 末永 明
伝馬町獄跡
小郡駅発の新幹線一番列車は13時前東京に着いた。直ちに中央区日本橋小伝馬町一丁目五番地、江戸伝馬町獄舎跡地の講演を訪ねる。
樹木の茂る園内は晩秋の陽が記念碑面に淡い斑紋を描く。右手奥中央に「松陰先生終焉の地」の碑。この石は萩城跡から運ばれたもの。その広報には、留魂録巻頭の
身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂
の歌が肉太く深く刻まれた丈余の碑が建ち、訪れた私どもに、七生滅賊の松陰の魂が語りかけてくる。
松陰は、嘉永7年4月15日下田踏海の罪によってここに拘致せられた。その時の回想を「生来未だ嘗て徳川氏の恩を知らず。獄に下るに及び始て幕府愛人の政に感ぜり」と述べている。
ここが終焉の地となろうと誰が予想したであろうか。しかも、東北遊歴前の手紙でその歌を採り上げて「実に人君の歌と一唱三嘆感涙にむせび…」とまでたたえた井伊直弼によって「死罪申し付ける」となろうとは。
この地について広瀬豊氏は、「松陰終焉の地として此処を確定する為に屡々(しばしば)此の地を訪ひ、古老に尋ね或いは区役所にも参ったが、始めこの地の人達は、罪人の刑場なれば不浄の地として抹殺せんとしたもので、大震災後は全くその跡形もなく、これを知る者も少なく、知るとも知らざる真似をしたものである。昭和11年1月遂にここを確定し、昭和14年6月24日、日本橋区十思国民学校校庭に記念碑を建てた」と述べている。
十思小学校
伝馬町獄跡地に建てられた十思小学校を訪う。
温厚、物静かな富山校長から前述の石碑の話を伺う。配線。占領軍の駐留とともに校区の人々は、あの記念碑に関し危惧の念を懐き、有志の手によって石碑は人知れず地中に埋められてしまった。講和条約締結と共に、当然のことながら、「記念碑再建」の議が起こったものの埋めた場所が分からない。昼夜を分かたぬ奔走の結果漸くその場所をつきとめ探し出すことが出来て現在の公園が出来上がったものである。
学校には伝馬町獄舎の二十分の一の模型がある。NHKが放送ドラマに作ったものを、獄と因縁の深いこの学校に寄贈した物。水をたたえた深い堀。堀に沿った高くて頑丈な塀。窓の小さい獄舎。
学校沿革士に載っている「伝馬町牢屋敷・牢内の図」(牢獄平面図)と対照して、おぼしいところを探し求める。西奥揚屋はどこ。仕置場はどこ。……当時を回想しての談は尽きない。
水戸へ
嘉永4年。松陰は既に畿内、山陽、西海、東海の地の跋渉を終えていた。残る「東山・北陸は土曠く山峻しくして、古より英雄割拠し、奸兇巣穴す。且つ東は満州に連なり、北は鄂羅に隣す。是れ最も経国の大計の関わる所にして、宜しく古今の得失を観るべきものなり」と、「当秋来春の間彼の辺遊歴」の願書を7月版に提出した。
幕府から「出足月より十ケ月」の許可を得た松陰は「十二月十五日を東行発の日と定め」準備に余念がなかった。ところが「十五日前数日、過書の事起り」事態は急変。しかし松陰は「夫れ大丈夫は誠に一諾を惜しむ」「亡命決し候は十二日昼なり」と山田宇右衛門・兄梅太郎に書き送っている。
12月14日。亡命の心情を「…不忠不孝事 誰肯甘為之 一諾不可忽 流落何足辞 縦為一時負 報国尚堪為」の詩に託して、已時桜田邸を後に、当初の目的地を水戸として、行程実に600里、140日の旅に出た。松陰の「留置まし大和魂」の淵源を探ねる私どもは、まだ冷めやらぬ終焉の地の感慨を胸に松陰の跡を追って、常磐線の満員電車で水戸に向かう。車窓には、松陰をして「気象高峻志趣遠 須臾勿忘川与山」と作詩させた利根川・筑波山、「阿兄今夜定何情」と故郷をしのんだ潮来に続く霞ヶ浦を観る。17時前、水戸着。夕日が西の空を赤く染める中を弘道館を訪う。遺構正面に昔を偲び、薄暮の梅林を散策。孔子廟に詣で弘道館記を納めた八卦堂を回る。ネオンの町を宿へ。宿では先着の水戸市教委古橋社会教育課長が益子教育長の歓迎の言葉を携えての出迎え。直ちに明日の打ち合わせ。(宿の人の言葉 課長さん、モー長いことお待ちでしたよ。早く来られて…)水戸の夜は歓談の中に更ける。
水府の風
水戸の朝は早く明ける。市教委差し廻しの車に乗り文化係長・学芸員さんの案内で水戸の遺跡を訪ねる。
一 偕楽園
表門近く、光圀・斉昭を祀る常磐神社。大日本史の草稿をはじめ数々の遺品を納める宝物館、義烈館の建物が目を引く。藩主斉昭が「衆と偕に楽しむ園」として此処を拓いた由来は偕楽園碑に明らかである。60種3000本の梅樹の尽きるところに建つ好文亭に上がる。亭の名は梅の別名「好文木からとったもので、春の魁として花を開くこの木を愛した藩主の意図が察せられる。三階の楽寿楼にのぼると眼下に千波湖の景観がひらける。晴天には遠く筑波山が望まれるというが、今朝は煙にかすむ。
二 藩校「弘道館」
藩主斉昭の1841年(天保12年)に開館。正門と正庁は元治甲子の変に耐えて今なお昔の威容をを留めている。正庁玄関の「弘道館」の額は斉昭の筆。正庁内に展示されている会沢正志斎・藤田東湖の像をはじめ数々の遺品遺物は、敷地総面積19000uといわれた藩校の規模・往時が偲ばれ、この地に培われた神儒一致・文武不木岐・尊皇の、水戸学の風をしたってここを訪れた有志の心がうなずかれる。
三 西山莊
市教委のご好意により、常陸太田市の西山莊まで足をのばす。ここは、光圀が晩年の約10年間を領民と接しながら「皇統を正閏し人臣を是非す」うを眼目として、大日本史編纂に着手したところ。紀州から運んだ苗を植えたという杉の老木が天を覆う向こうに見える茅屋がそれである。簡素な突上門。老公自ら大日本史の草稿に加筆したといわれる三畳の間と敷居のない次の間。朝ごとに皇居を拝したという庭前の遥拝石。静かな林間に小鳥のさえずりが絶えない。西山莊入口の駐車場から莊まで約300mの砂利道。昔のままのこの道。松陰も歩み、あの茅屋を松陰も見たのである。
水府の益
松陰は水戸滞在の模様を「水府の諸才子吾れら三人のここに在るを聞き、稍々来話し、夜々劇談して往々鶏鳴に至るを常と為す。ここを以て延留すること凡そ27日なりき」と、東征稿の中に述べている。
水戸から、萩に住む兄梅太郎に宛てた手紙には、「水戸にて逢ひ候人は皆さるものなり。永井政介・会沢憩斎・豊田彦二郎・桑原幾太郎・宮本庄一郎。…水府の遊歴は大分益を得候様覚え申し候…」と述べると共に亡命の事にふれて、「是れ素より年少の客気、書生の空論より出で候事と愧(は)ぢ奉り候へども」大平の世気義地に墜ちんとする時、国家への御奉公の心は人に対して愧ぢるところはなく、益々勇猛心を振起したいと書き送っている。
松陰は、この度の亡命のことによって翌嘉永5年5月12日に藩命によって帰萩、杉家で屏居待罪の身となった。この頃来原良蔵送った手紙の中で「客水府に遊ぶや、首めて会沢・豊田の諸子に踵りて其の語る所を聴き、輙(すなわ)ち嘆じて曰く「身皇国に生まれて、皇国の皇国たる所以を知らざれば、何を以てか天地に立たん」と。帰るや急に六国史を取りて之を読む。……」と。
同じ頃の記「睡余事録」にも、「………故に先ず日本書紀三十巻を読み、之れに継ぐに続日本書紀四十巻を以てす」とあるところをみると、「水府の益」は松陰の「国史研究の機」となったことがうかがわれる。そういえば、北畠親房が神皇正統記を書いたといわれる小田城跡の近くを、松陰は「姓名を変え、街道筋をさけて」歩んだはずであるが、日記ではふれていない。
列車運行回数の少ない水郡線に乗る急ぎ旅、五人連れの他国者を乗せた水戸市教委の車は、発車少し前に水戸駅に着いた。ここでまた松陰の記録を想い出す。「水府の風、他邦の人に接するに款待甚だ渥く、歓然として欣ぎを交へ…」と。
舌たらずの謝辞のままお別れしてしまった。常陸は修史の地であり人情の地である。
厚狭教育事務所 木島 俊太郎(故人)
「下田踏海」という、松陰の「やむにやまれぬ大和魂」を育てたものは何であったろうか。心が行為となって現れるのは、その人の人生におけるあらゆる体験の累積が濃縮されて、一つの形を決定づけて表出されるということである。
松陰の生涯は、わずか30年であったが、この間の彼の経験の量は、人並みならぬものがある。
彼の行動の量もさることながら、彼の読破した書物の量や出合った人の数からしても、その偉大さは、推して知るべしである。それだけに、ともすれば無謀とも言われかねない海外渡航の決意をした、松陰の心の背景には深いものがあると考えざるを得ない。松陰のここに至るまでの心の歴史をたどってみることによりその深さを再認識したい。
松陰は佐久間象山に、二度にわたり師事し「象山は当今の豪傑、都下第一の人」と象山を賞揚し、尊敬していた。この象山の「今日のわが国としては、だれかが外国に行ってその技術を学び、知識を取り入れることが何よりも急がれる必要事である。」という言葉に触発され、渡航の決意をした。
さらに、その壮士をほめられ、路銀と送別の詩を贈られて、この実行に及んだというとらえ方が通説である。確かに、象山の影響は強く受けているが、この重大事を誘発したものはそんな一元的なものではないと思われる。松陰のこの時に至るまでのあらゆる蓄積が、一つに結晶し、「ことここに至ってはこれしかない」という形で突出したと考えられる。
人間は幼児期に、周囲のものを見、聞き、感じる内に、その人なりの心を構築するフイルタ(選択技能)身につけてゆき、それが人生の大きな基礎となる。このフィルターの質によって同じ物を見ても、感じたり感じなかったりする個人差が出てくる。その中から何を選択し蓄積していくかということについても、その人なりの指向性がでてくるわけである。このフィルターは、経験の積み重ねにより、感度も性能も高まり、経験の累積により指向性は増幅されていく。
松陰の場合、幼少時の基盤は、父・母・叔父によってつくられた。人や家を愛する心は、父母の感化を大きく受けている。特に道のために己を滅するという姿勢は母滝から学んだものといえる。また、主君や国に奉ずるという思想は、父百合之助・叔父玉木文之進に受けるところが大きい。既にこの時に、「国を思い海外渡航に走らざるを得ない」というような生き方の芽生えがあったととらえるのは考えすぎであろうか。
松陰13歳の時、山田亦介より「長沼流兵学」を学んだ。その折、亦介より「ただ防ぐことだけを研究している時ではない。よく勉強して、海外で立派な働きをするように努めなさい」と励まされた。
21歳になり、村田清風に海外の様子を学ぶように勧められた。長崎に赴き、50日間に百余冊本を読み「外国より優れるためには、まずその国をよく調べなければならない」と思うようになった。
23歳、森田節齋に出合いその影響を強く受ける。両人意気投合し、森田節齋は松陰のような男児が得られるなら妻をめとってもよいと考えたという話が伝えられるほどの仲となった。森田節齋の紹介では谷三山翁に会う。松陰はこの谷三山に大きく心酔「谷三山先生の意見のすぐれていることには会うたびごとに驚いている。三山先生御健在のうちに早く教えを受けるようにすることが良いと思う。」と門人達に三山に会うことを勧めている。
松陰はこの三山から受けた思想的影響が大であったことを自ら人に語っている。ペリー来航の下田騒動依頼、象山に外国の事情を知る急務を告げられた時、以前、谷三山から「外国の事情を知りさえすれば、自ら対策や進む路は開ける。他に心配はいらない。」と教えられたことを思いだし、決心を固めたいということである。
堀井義治著「谷三山」によると、「これだけの達識と意気を持っておられる三山先生が、耳の聞こえぬために、活発に活動されないのは、本当に国のために惜しいことだ」とつくづく感激を新たにした。「その代わりには、若い自分が何をおいても外国に渡って勉強しなければならないと海外渡航を決意した。」とある。
この渡航について、森田節齋は思いとどまるように諫めた。象山は励まし、路銀と詩を贈った。三山は何も言わなかったが、松陰は三山の志を代行した。松陰の処刑を知った三山は、「かかる志士を討つならば、自分も討たれよう」と考え、藩主に直言する決意を固めた。三人とも年齢の差は別にして松陰にとって尊敬に値する師であるが、三人三様の対応の仕方には、また、それぞれの心の歴史があると言えよう。
椿東小学校長 中嶋 義行
松下村塾は、天保13年に玉木文之進が家塾に命名し、久保氏が後を継いだものであるが、吉田松陰先生が主宰して多数の英才を育成したため、その名が高くなった。先生が塾を去ってからは小田村伊之助がこれを率い、先生没後は久坂玄瑞、馬島甫仙等が経営に当たり、先師の精神を維持するに努めた。明治維新になってからは、玉木文之進、杉民次等が管理して、25年頃に至ったが、遂に廃された。
しかし、松下村塾における先生の教えは、現在も本校にいろいろな形で影響を与えている。特に本校は松下村塾か百余bの所にあり、初代校長信国顕治氏は、松下村塾の門下生であり、その他この学校に教鞭をとった教師には、村塾ゆかりの人もすくなくなかった。
信国校長は、37年にわたって本校の経営に当たり、本校校区の相当年輩者は、ほとんど同校長を通して先生の影響を間接的に受けているものと思われる。また先生門下生の品川弥二郎子爵は、明治22年2月5日、本校校舎落成式の祝辞に、先生の松下村塾記の一部を引用して「松下ハ萩城ノ東方ニ在テ震トス震ハ万物ノ出ル所又奮発振動ノ象アリ故ニ吾謂ヘラク萩城の将サニ大ニ顕ハレントスルハ其レ必ズ松下邑ヨリ始マラン…」と述べている。この精神は本校の開校以来一貫して流れている教育精神である。
それは、邑学を振興し、社会国家発展の原動力となる有為な人材を養成することであった。今、21世紀を目指す本校では、松陰先生の「至誠」を今日に生かし、松下村塾の「真理追究」「師弟同業」「個性尊重」の実践を学校経営の基調として、使命達成に全力を傾注するものである。
本校の校訓は、簡明に記せば次の通りである。
実行 実行を重んず すすんでおきなう
至誠 精一 道義を先とす ほんきでつとめる
恒久 不息を念とす つづけてやりぬく
この校訓の原拠は、松陰先生の「将及私言」「至誠」にあり、昭和9年6月25日に制定されている。
「竊(ひそ)かに嘗(かつ)て聖経賢傳の大旨を窺(うかが)ふに、天道も君学も一つの誠の字の外なし。而して誠の一字、中庸尤(もっと)も明らかにこれを洗発す。謹んで其の説を考ふるに、三大義あり。一に曰く実なり。二に曰く一なり。三に曰く久なり。」
松陰先生の誕生地は本校より東南一キロメートルの小高い丘にある、眼下に美しい萩の町並、その西北の端には、萩城のあった指月山がこんもりとした森におおわれ、一幅の絵を想わせる景勝の地である。「地を離れて人なく、人を離れて事なし、人事を論ずるの者は地理より始む」と先生は述べている。150年の昔、今よりもっともっと自然の豊かなこの地で貧しいながらもあたたかい家庭環境の中で幼年期を過ごした。
今この地には、先生をはじめ、その一族である杉、吉田、玉木、久坂各家の人々と高杉晋作、吉田稔麿等先生とゆかりの深い人々の墓が建ち並んでいる。また、すぐ側には、下田踏海の先生と金子重之輔の雄姿の像、吉井勇の歌碑がある。
「萩に来てふとおもえらく今の世を、救わむと起つ松陰は誰」吹く風が今の世の警鐘のように我が身を打つ。