松門39号 平成21年12月15日発行
     目  次
松陰先生没後150年に際して   財団法人松風会理事長 河村 太市
切手になった松陰先生      松風会事務局
志に生きた吉田松陰       松蔭大学講師 長谷川 勤
松陰の足跡を訪ねる韮山(にらやま)・下田・鎌倉巡検
 韮山反射炉と江川太郎左衛門  岩国市 田村 洋幸 
 下田踏海の史跡        萩市 吉屋 安隆
 鎌倉、錦屏山(きんびょうざん)瑞泉寺(ずいせんじ)      福岡県中間市 櫻井 健一
研修塾講義要旨
 武教全書講録          松風会理事 折 本  章
 
 
松陰先生没後150年に際して
       財団法人松風会理事長 河村 太市
 
 今年の10月27日は、松陰先生殉節百五十年目に当たっており、萩の松陰神社では、記念大祭と宝物殿「至誠館」の開館行事が盛大に行われました。
 松陰先生が逝かれてから150年。この間先生は、研究、小説、人生論、映画演劇等々様々な分野で取り上げられてきました。また、志士、学者、教育者等々と、いろいろに解釈されてもきました。解釈はいろいろでしたが、志の実現に向けて、ひたすらに歩み続けられたその生き方に、人びとは深い敬愛の念を惜しまなかったのであります。
 さて、山口県教育委員会は、平成21年度の「重点取組事項等」として、「ふるさとの先人に学ぶ教育の推進」を掲げ、「没後150年を迎える吉田松陰について、県下全ての学校でその生き方や業績等を題材に、授業や教育活動を通じ様々な取組を行うとともに、県立図書館、県立博物館、県文書館において、関連する所蔵品の展示を実施」するとされています。やがて、各学校での取組も紹介されることになりましょうが、待ち遠しい思いがしています。10月20日過ぎには、松陰関係資料754点が県文化財に指定されています。
 松風会におきましても、従前からの、「吉田松陰研修塾」の一層の拡充を図って参りたいと考えています。この研修塾の一環として実施します研修旅行は、今年度は伊豆下田・韮山・鎌倉方面を11月6日〜8日(2泊3日)、20名の参加を得て実施しました。
 出版事業としては、昨年度発行の『吉田松陰日録』に続いて『吉田松陰関係人名録(仮称)』を作成し、松陰研究の一助に資したいと願っています。今ひとつ、「吉田松陰読書会」が各所で開設されることを願っております。
 松風会は未だ微力ではありますが、松陰先生没後百五十年に当たり、松陰精神の普及に関し一層の努力を致したいと考えております。ご指導ご鞭撻の程願い上げる次第であります。
 
 切手になった松陰先生
   今から50年前の昭和34年(1959)、10月25日・26日、第7回全国PTA研究大会山口大会(山口県PTA研究協議会)が県内10会場で開催されました。
また、27日には、萩松陰神社において、松陰殉節100年記念大祭が行われました。これを記念して、郵政省から「松陰100年祭PTA大会記念」切手(10円、当時封書10円時代)が発行されました。
 デザインには松陰像(吉田家本)が描かれています。
 今年は、松陰先生没後150年で、10月25日には、萩市主催で「松陰先生ゆかりの地・集い大会」が開催されました。
 27日には萩松陰神社で殉節150年記念大祭が行われました。
 これを記念して「吉田松陰先生150年祭記念」切手(80円切手10枚組のフレーム切手)が発行されました。
 10枚の内、松陰先生の姿が描かれた切手が2枚あります。
 また、今年は、松陰先生門下生伊藤博文公没後100年に当たり「伊藤博文公没後100年記念」切手が発行されました。10枚組フレーム切手の1枚に、「師吉田松陰」切手(写真像)があります。
 
志に生きた吉田松陰
       松蔭大学講師 長谷川 勤
 吉田松陰が安政の大獄に連座して今年(平成21年)が没後150周年にあたる。29年の短い生涯を「立志と実行」の信念に生き、完全燃焼させた、美しく、心を打つ生涯であった。それゆえに未だ根強い人気を誇り続け、衰えるどころか、ますます現代的な意義を持って日本人の魂をゆさぶり続ける。松陰の生涯が語られるとき、志を枉(ま)げない意志的な生き方に多くの感動を誘うのである。
 松陰は、安政3年、26歳の時に、従兄弟の「加冠の儀」に贈った『士規七則』で「志を立てて以て万事の源と為す」、と人間(武士)の生き方の中でとりわけ「志」を持つ生き方の大切さを説いている。この「志」は松陰の多くの著作中で最も使用頻度の高い語であるが、時代を超えて松陰精神が脈々と生き続ける最大の理由がここにあるといっても過言ではない。松陰に学ぶ者は常にこのことを心して学ぶ事が大切である。私達は松陰から多くのものを学ぶことが出来るが、とりわけ「志を立てて生きる」という事は普遍性を持ち人間の本来的なあり方を提言しているゆえに魅了して止まないのである。それは現代人の生き方への警鐘でもあると考えられる。私は神奈川県の「松蔭大学」で『吉田松陰論』という講座を担当して、学生諸君と一緒に吉田松陰の勉強をしているが、授業では必ずこの『士規七則』を全員で読むことにしている。
 松陰にとっての「志」は個人のレベルに止まらず、国家的にも要請される。彼の主著の一つである★1『幽囚録(ゆうしゅうろく)』でも次のように言う。「今は則(すなわ)ち膝を屈し頚(こうべ)を低(た)れ、夷(い)の為す所に任(まか)す。國の衰へたる、古より未だ曽(かつ)て有らざるなり」と。松陰にとっては、士道の衰退が国家(日本)としての「志」に裏打ちされた政治意識の衰退と認識される。それが幕藩体制下にあって、祖法遵守を金科玉条に「外圧」への危機に瀕してもなお国家的自覚が欠如していた幕府の要路者への無策ぶりに、「やむにやまれぬ大和魂」として命がけの行動へと駆り立てた。
 松陰研究で多くの優れた業績を残され、「教育者・吉田松陰像」を定着させた玖村(くむら)敏雄(としお)先生は、松陰の研究に取り組むにあたり、人格的に松陰を私淑し、敬慕の念篤く、研究という知的、精神的活動がすべてに松陰について学ぼうという態度で、直接松陰に師事する弟子の姿を彷彿させるものがる。と、松陰研究に打ち込む姿を玖村敏雄先生に学んだ著者が回想している、『辻信吉・玖村敏雄先生伝』。この姿は、松陰の「志」を大切にした「生き写し」の如き生き方そのものであり、自らの使命感に従って生きた研究者の範であります。現代の若者に限らず、成熟社会の名の下に豊かな社会が現出した今、こうした生き方が切実に問われているのではないか。志が己の使命感と一体となって自覚されたとき、「生きる力」となって人生は希望や躍動感を伴った力強い生き方になってくるものである。晩年の死生観や最後の著作となった『留魂録』でも門弟たちへの自分の死の報にも哀しまないよう呼びかけている。十月二十日の『諸友宛』には次のように書かれている。「今茲(ことし)五月、檻輿(かんよ)國を去る、平生の心事具(つぶさ)に諸友に語り、復(ま)た遺缺(いけつ)なし。諸友蓋(けだ)し吾が志を知らん、為めに我れを哀しむなかれ、我れを哀しむは我れを知るに如かず。我れを知るは吾が志を張りて之れを大にする如(し)かざるなり」と。門下生たちに立志と実行を強く要請し、そして自らの死が直後に迫りながらなお諄々と語りかける強い志。門下生の人となりを見抜いて、個性に応じた志操教育を実践し、最後に自らの志に殉じた松陰。こうしたところにこそ松陰精神の不滅性がり、大きくは松陰の「至誠」であったと考えられる。それゆえに★2『至誠而不動者未之有也』を人生の座右の銘とした。最後の最後まで人を信じ切った松陰の姿である。
 失われつつある人としての道(大義)への警鐘として、常に現代的意識を失わないのみならず、永遠に生きる人としての松陰が説き続けたものを我々は受け止めかつ継承していかなければならない。そこには価値評価を超越して松陰の真剣な生き様から学ぶ事こそ、日本人としての誇りとして我々の心に生き続けなければならないと考えるのは、一人私だけではないだろう。
 現代教育に人間教育として視点が欠如していると言われて久しい。厳格な身分制に支えられていた封建社会で、人間の平等性と尊厳を認めて既成概念に束縛されずに実践した松陰の教育、まさしくそれは人間教育、志操教育の賜物であった。その「志」の堅固な生き様に対し、松陰の死を聞き、遺書を読んだ父の杉百合助は次のように松陰を称えた。★3「嗟吁(ああ)、兒一死君国に報いたり、眞に其の平生に負かず」と。「志」はその持続性をもって「志」たり得る。その意味で「立志と実行」を果たし続けた松陰の生涯は、常に我々にどう生きるかを問いかけてくるのである。
1 『幽囚録』は『回顧録』と同じく、安政元年3月27日夜に決行された下田踏海の挙を振り返ったものである。しかし『回顧録』が事件の推移を記録風に記述しているのに対して、『幽囚録』は下田の挙の動機やその意義などを、当時の国際情勢、および国内状況を踏まえて執筆された論文である。(『吉田松陰撰集』による)
2 「至誠にして動かざる者未だ之れあらざるなり」「小田村伊之助に与ふ」(東行前日記、安政6年(1859)  5月18日、30歳『吉田松陰撰集』p665,『吉田松陰全集』第9巻p574)
1 『杉恬齋(てんさい)先生伝(杉百合之助)』明治41年、吉田庫三(くらぞう)著(松陰の家系上は曾孫に当たるが、実際は松陰の妹  (千代、後芳子)の婿児玉祐之の次男で、松陰の甥になる)(『吉田松陰全集第10巻p369』
 


第8回松陰研修塾基礎コース
 松陰の足跡を訪ねる韮山(にらやま)・下田・鎌倉巡検
  日時:平成2111月6日〜8日(2泊3日)
  参加者:19 (※原本の松陰先生を松陰とのみ記す)
韮山反射炉と江川太郎左衛門
             岩国市 田村 洋幸
 
 バスに揺られて、富士山を仰ぎながら、眼前に反射炉4基が見えてきた。教科書で習ったあの反射炉だ。江川太郎左衛門の立像の前で記念写真撮影。
 幽囚録に「幕府大いに武備を修め、先ず大船の禁を除き、蘭夷に命じて軍艦・火輪舶(かりんはく)(蒸気船)を致さしめ、浦賀与力(よりき)中島三郎助に命じて洋書に依りて軍艦を打造(だぞう)せしめ、砲台を品海(ひんかい)(品川の海)に築き、百砲を桜埒(おうれつ)に鋳、韮山代官江川太郎左衛門を擢用(てきよう)し、高島四郎(しろう)太(たい)夫の禁固を免じ、土佐の漂民万次郎を召し…」とあることから、松陰は、海防に係る江川太郎左衛門の才能をよく知っていた。
 江川は韮山に反射炉を築き、銃砲を鋳造、幕府に海防意見を建議している。松陰は萩に居ながらにしてこのことを知っていた。まさに松陰の飛耳(ひじ)長目(ちょうもく)の凄さを感じる。
 反射炉とは、銑鉄(鉄鉱石から直接製造した鉄、不純物が多い)を溶解して優良の鉄を生産するための炉。銑鉄を溶解するためには千数百度の高温が必要であるが、反射炉は天井部分が浅いドーム形となっており、そこに熱を反射させることで高温を得る仕組みになっている。(名称の由来)実際にそのドームをよく観察することができた。
 資材や原料(鉄)の搬入と生産した大砲の搬出、回送などの便宜を考え、下田港に近い場所(現下田市高馬)に建造された。
 ところが、安政元年(1854)ペリー艦隊の水兵が反射炉建設地内に侵入する事件があり、韮山代官所に近い田万郡中村(現伊豆の国市中)に移転されることになる。
 反射炉は連双式(溶解炉を2つ備える)を2基、直角に配置され、4基同時に稼働可能。しかし、江川は安政2年正月、竣工を見ることなく病死し、後を江川英敏が受け継ぎ、着工から3年半の歳月をかけて完成した。
 太郎左衛門は、江川家の代々の当主の通称で、伊豆国田万部韮山(静岡県伊豆の国市韮山町)を本拠とした江戸幕府世襲の代官であった。中でも36代当主、江川英龍(坦(たん)(なん))が有名である。彼は洋学の導入に貢献し、民政や海防の整備に実績を残している。
 坦庵はそのほか教育にも熱心で塾を開き、全国から塾生が集まったという。講義室には久坂(くさか)玄瑞(げんずい)の名もあった。
 その後、江川邸を見学し、韮山をあとにした。
 
 下田踏海の史跡     
           萩市 吉屋 安隆
 
 6日夕方下田市駅に到着。思いがけず石井下田市長の出迎えを受け、一同感激する。
 7日快晴、6時13分、太平洋の日の出。宿の真正面に開けた外浦の水平線の彼方から昇る朝日の神々しさに、ふと気がつけば手を合わせている。
 下田市教育委員会生涯学習課の藤井さんと増山さんが、休日にもかかわらず案内してくださる。
 まずは、松陰と重之助が踏海の企てに失敗し、自首した先の名主平右衛門宅跡を訪ねる。
 次に柿崎弁天島に向かう。かつてここは陸繋島だったが、今は完全に陸続きである。「下田市指定吉田松陰踏海の企跡」の標柱と、2基の大きな石碑が私たちを迎える。一つは、吉田松陰七生説の碑で、明治41年松陰50年祭にあたって、地元の村長ほか有志によって建てられたもので、松陰自筆文が刻んであり、篆(てん)額(がく)は杉民治(松陰の兄)である。もう一つは、金子重輔(じゅうすけ)行状碑で、明治28年、当時の下田町長の発起で、碑石は品川弥二郎、篆額は山県有朋(ありとも)による。
 弁天様の祠は、4畳半程度の広さで、きれいに掃除されている。梁(はり)に「ささげ弁天」の額が掛けてある。松陰と重之助の肖像と簡単な説明板が見える。ここは、松陰と重之助が米艦乗り込みを決行するにあたり、2度にわたって仮眠をとった所である。
 松陰と重之助は、安政元年(1854)3月25日夜、盗んだ漁船で米艦に向けて漕ぎ出したものの、波に阻(はば)まれやむなく浜に引き返し、近くのこの祠(ほこら)で仮眠をとったのである。朝、地元民がお参りに来て二人を見つけ、仰天したという。松陰らも勿論あわてたようだ。この時点で、不審者として村役人に注進されずにすんだことは、二人にとって幸運だったというべきであろうか。
 27日、二人は上陸していた米兵に投夷書を渡すことに成功し、その深夜、いよいよアメリカ船に乗り付けるのだが、夜中に潮が満ち小舟が浮かびあがるまで「安寝」し、つかの間の休息をとったのがこの祠であった。
 祠の戸板には、「日本の長門の矩方こころざし遂げむとひそみしこの古み堂 窪田空穂」などの和歌を記した板が打ち付けてあった。 
 弁天島の先の環境緑化公園に出る。黒船をかたどった遊覧船が湾内を巡っているのが目につく。また、東海地震時の大津波に備えて外防波堤の工事をする台船が、犬走島の横付近に浮かんでいるのを望む。ポーハタン号はあのあたりに停泊していたのではなかろうか。私たちにはわりと近くに見えるが、松陰たちにとっては、いかにも遠く、難儀であったろうと、深夜の決死行に思いを馳(は)せる。
 荒波に抗して小舟で黒船に向かう場面の大きな絵を見る。重之助が布(下帯)で縛った櫓を懸命に漕ぎ、松陰は舟の中程に座って黒船を見つめている構図である。しかし、「三月二十七夜の記」を読むと、「然るに櫓(ろ)ぐひなし、因(よ)ってかいを犢鼻褌(ふんどし)にて縛り、船の両傍へ縛り付け、渋木(しぶき)生(重之助)と力を極めて押し出す。褌たゆ、帯を解き、かいを縛り又押しゆく」とある。松陰も、重之助と共に、なりふり構わず櫂を漕いだのだ。船の扱いに不慣れで、漕ぎ方も拙(つたな)い二人が必死で櫂を漕いだ有様を想像してみると、事実は「絵になる構図」とはほど遠いものだと知る。
 公園の先には、「踏海の朝」と題した、二人の銅像があった。平成2年、下田市がふるさと創生事業3千万円を投入して建立したもので、萩市の松陰誕生地に建つ像とよく似ている。違いは、台座が低く、松陰は黒船を指差し、重之助は遠眼鏡でなく記録帳を手にしている点である。作者は下田出身の大村政夫(75歳)である。二人が踏海への熱い思いを内に秘め、黒船を眺めている姿である。
 一方、熱い思い、決意を顔にみなぎらせているのは、弁天島のすぐ近くにある三島神社のコンクリート製の松陰像である。この像は、昭和17年神武紀元2600年を記念して、賀茂郡教育会が近衛文麿首相、松岡洋右外相の援助を受け、全国規模の募金で完成させている。作者は当時50歳の保田竜門である。半世紀を経て、脆(もろ)くなり崩壊の危機にあるそうだ。建立の是非はともかく、見る者を圧倒する迫力がある。補強・保存されるべきであろう。
 三島神社の境内では、子ども会の行事が行われていて、たくさんの小学生がいた。仲間の一人が子どもたちに、「君たち、吉田松陰先生を知っているか?」と尋ねたところ、子どもたちから「知ってる!」と元気な返事が返ってきた。それもそのはず、小学生対象の「郷土読本しもだ」(下田市教育委員会編集・発行)を見ると、開港の歴史6ページの内の1ページが松陰と重之助の踏海事件に充てられている。ちなみに、日露和親条約を結んだロシア軍艦ディアナ号の遭難事件の顛末は、半ページ。また、藤井さんの話では、中学校では総合的な学習の時間に、松陰をテーマにした学習が展開されているということであった。ただ、市民対象の松陰講座の類は、ほとんど開催されていないようであった。また、下田市史は未だ編纂の途中であるとのことであった。
 次に、ポーハタン号に乗船を拒否され送り返された福浦海岸、疥癬の治療のために寓居した村山邸(蓮台寺(れんだいじ)寓寄所)を重点的に見学し、その他の関連史跡や、玉泉寺など見学した。下田市での視察は半日で十分とは言えないまでも、松陰の足跡を追い松陰の思いに心を馳せることができたことは、大きな収穫であった。

 
鎌倉、錦屏山(きんびょうざん)瑞泉寺(ずいせんじ)
                福岡県中間市 櫻井 健一
 晴天の下、鎌倉駅に降り立ち、松陰が四度(よたび)訪れた夢窓(むそう)国師開山の名刹瑞泉寺に一同一路邁進した。途中、南北朝時代非業の最期(さいご)を遂げられた大塔宮(おおとうのみや)護良(もりなが)親王を祀(まつ)る鎌倉宮を遙拝(ようはい)し、やがて瑞泉寺の入口に至り、松陰も上ったであろう石段を上りきると、瑞泉寺の山門に雲水(うんすい)の出迎えを受けて寺内に案内され、赤い毛氈(もうせん)を敷いた部屋に一同端座した。正気厳(おごそ)かに満ち、毛氈は茶の接待を感じさせ、床の間の書幅を目にするものの、それへの意識は未だ漠然としていた。季節に合わせた茶菓子と茶をいただき、茶禅道のことば「喫茶去、一期一会」等を思いつつ暫(しば)し時を経た。
 その事後、大下住職のご挨拶に浴し「竹院(ちくいん)昌?(しょういん)」を下賜され、伝記並びに書幅の説明をいただいた。その内容にある種の懐かしさと新たなる感動を覚え、また学問の深さと自己の未熟さを自覚させられた。竹院禅師の真筆一書、松陰の直筆三書、この留魂の書を介して一同竹院禅師と松陰先生の御魂に触れることができたのである。松陰の書は全集に収録されているものの、竹院禅師の書は瑞泉寺においても唯これのみとのことであった。その書は端午の偈(げ)で、その大体は上記伝記に次の如く「端午山林、露蒿(よもぎ)に満つ、蘿窓(らそう)案(つくえ)に拠って離騒を読む。客来たって、半日、古今を論ず、激起す、汨(べき)羅(ら)江上(こうじょう)の濤(なみ)」
 松陰の書は勿論のことながら、私が竹院禅師の書及び伝記に注意する訳は、松陰先生殉節150年記念自修書として『吉田松陰先生母堂・杉瀧子刀自・翻刻並びに抄録集』を上梓奉納し、竹院禅師は杉瀧子刀自の兄上であることから、その人となりを知りたいと思っていたからである。更に松陰が下田踏海に当たって竹院禅師に見(まみ)えたのは、叔父甥の関係に止まらず、苦修多年にしてついに文久3年には京都南禅寺に紫衣を賜ったという高徳の人であること。また常に王室の式微(しきび)(衰えること)をなげき、同志と密かに相結合して国事に働いた人であることなどから、松陰と意気相投の間柄であったことをその伝記に知ることができたのは、竹院禅師と松陰の魂の導きであろうかとも思われるのである。

   松陰は下田踏海直前の嘉永7年3月14日、瑞泉寺に宿泊、同年3月27日決行、計画は失敗。下田踏海の志叶わず萩野山獄にあって「遙かに瑞泉寺の上人を憶ふ」と題し「山光竹色窓に入りて青く、方丈(ほうじょう)幽深、錦屏(きんびょう)に倚(よ)る。今我れ囚となりて空(むな)しく昔を憶ふ、月中一夜雲?(うんけい)(寺の門戸)を叩きし」(吉田松陰全集6巻p68)と賦している。

   一同、瑞泉寺を辞するに当たって、徳富(とくとみ)蘇峰(そほう)の書による「松陰吉田先生留跡碑」と共に皆の英姿を写真に留め、松陰の足跡を偲びて瑞泉寺を後にし、松陰が詣でた大江広元(おおえのひろもと)公並びに毛利(もうり)季光(すえみつ)公の墓参に歩を進めたのである。

   白籏神社と染められた籏に沿って行くとやがてある石段を上り、先ず詣でたのは源頼朝公の墓所である。征夷大将軍に任ぜられ、幕府などによる武家政権を確立、それは足かけ約680年間、王政復古の大号令まで続いたのである。墓碑はさほど大きくはなく、鎌倉武士の質実剛健を彷彿させるものであった。

   頼朝公墓所の右手後方の石段を上った所に、左から毛利季光公、大江広元公、島津忠久公の墓碑が列を為している。三公の御霊(みたま)に詣でて、なんと不思議なことではないかと内心驚いたのである。毛利氏の祖季光公、島津氏の祖忠久公、両公の後裔(こうえい)がついには薩長連合により見事に王政復古を為したのである。武家政権の始末がこの鎌倉のこの狭い上記二カ所の墓所に凝縮されているのである。誠に歴史は畏(おそ)ろしいものである。 

   鎌倉を去る間の自由行動に、応神天皇外(ほか)を祀(まつ)る鶴岡八幡宮に参拝した。参拝後、予てより関心のあった静御前(しずかごぜん)に係るポストカードと歴史画集を巫女(みこ)さんに選んでいただいた折、当時の舞殿(まいどの)は舞殿右手の若宮と回廊で結ばれていたとのことで、舞殿を一周し往時を想いながら静御前の故事、源九郎義経が兄頼朝の不興を受け、雪の吉野に本意のない別れをなし、その頼朝の命による鶴岡八幡宮の奉納舞に、万歳の祝の曲を舞うべきを死をも覚悟した離別の悲曲ーよしの山峰の白雪ふみわけて入りにし人のあとぞ恋しきーしづやしづ賤(しず)のをだまき繰り返し昔を今になすよしもがなーと声も高らかに謡い舞納めたとのことである。義経に対する烈々たる節操、幕府大将軍頼朝の権勢を恐れぬ貞烈19歳の手弱女(たおやめ)の意気は、日本女性の典型として恥ずかしくない天晴れ(あっぱれ)なものとして今に伝えられている。ポストカードと歴史画集を選んでくれた巫女さんの面影がしなやかな静御前のように感じられ、冬晴れの若宮大路を草莽(そうもう)の臣たる吾、松陰の万分の一なりともこの世に微力を致したいと考えながら、芳賀矢一作詞「鎌倉」を口ずさみつつ鎌倉駅に向かって歩いた。

   また旅をしよう!旅は感動であり、余生(よせい)興起(こうき)の源であり、「発動の機は周遊の益なり」(吉田松陰全集9巻「西遊日記序」p25)とあれば。
 
(第8回松陰研修塾基礎コース2年次1回,2009、6、20,山口県教育会館)
研修塾講義要旨 「武教全書講録
            松風会理事 折 本  章
1 はじめに
@ 藩政時代に鑑(かんが)み、現代人が失ったもの。
 先ず、学ぶ目的に根本的な相違がみられる。松陰は「学は人たる所以(ゆえん)を学ぶなり」として、人たる所以は「忠孝を根本」とすると考えていた。己を修め国のために尽す真心が学問の根底に存在しなければならなかった。生命と尽忠(じんちゅう)報国(ほうこく)を天秤に掛けて、尽忠報国を重しとし、常に私(わたくし)に公(おおやけ)が優先した。次の和歌はその心情をよく表している。これに比べ、今日学ぶ目的は、私的感情が中心となり、将来安心で安楽な生活を送ることを志向する。公の存在感は薄く、私が大きく浮かび上がっている。
 「君がため捨る命は惜からで 只思はるる国の行すゑ。」長井雅楽(うた)1819〜63,幕末の長州藩士。名は時庸、字は雅楽。藩主の新任が厚く直目付に進む。文久元年幕府の開国政策に対し「航海遠略策」を建議し、主命を受けて江戸で公武周旋に当た ったが、建白書謗詞事件のため失脚。帰萩後切腹を命じられた。『吉田松陰撰集』)
 「咲いて牡丹といわれるよりも ちりて桜といわれたい。久坂(くさか)玄瑞(げんずい)1840〜64、長州藩士。名は通武、玄瑞は号。松陰門下生。妻は松陰の妹、文。文久2年、藩論を公武合体から尊皇攘夷に一変させた。元治元年、禁門の変を指揮し負傷して自刃。25歳(『吉田松陰撰集』)
 次に、疚(やま)しき行動の抑制力となっていた恥の文化が廃(すた)れ、恥の感覚が鈍り恥を恥と感じなくなってきた。以前はいじめのような恥ずべき卑怯な行為は、親の面汚(つらよご)しと責められ、親は世間様に顔向けができないとして非常に悲しんだ。しかし今日では、万引き、横領、詐欺、セクハラ、不義不正など、あまり恥という意識がなく、誠に破廉恥(はれんち)と言わざるを得ない状況になっている。
 男らしさ女らしさが、はっきりしなくなった。授乳一つを考えても、男女の特性の相違は明らかである。然るに、天与の性別や特性を一律に考えようとする嫌いがある。らしさの喪失は人間性の喪失であり、日常生活に自然な状態が保てなくなる。お茶を入れることを女性の任務と決め付けることは問題であるが、時間が許せば義務としてではなく自然な行為として、しなやかな手で出してもらえれば、非常に感じがよい。その行為に応え、力仕事や危険な仕事などがあれば、男は進んでそれを手掛けるようになる。力ある者が力なき者に腕力を用いて服従させようとする、DV(ドメスティックバイオレンス)などは男らしさの喪失であり、男として実に恥ずべきの至りである。女性が天与のらしさを失えば、男性もまたらしさを失い、社会は味気ない混沌(こんとん)とした状態に陥る。スポーツの試合などにおいても男女別にする必要はなくなる。
 親心子心の希薄化が憂慮される。親殺し、子殺しの事件があちこちで起こっている。温かく信頼し得る親子の関係は、その後の人間関係の根本を形成する。真の孝は万徳の根源であり、孝に根差さない徳は本物ではない。重い罪を犯した人が、周囲からそんな人には見えなかったと徳を称(たた)えられる話をよく聞く。表面上は有徳の人に思えても、幼き日の親子関係に何らかの問題があったと思われる。親と共に汗を流し、苦労し合った親子関係こそ、本物の徳性へと発展していく。
 最後に耐性の欠如が甚だしいことだ。現代人は切れ易く、切れて善良な庶民に大きな迷惑を掛けることが問題だ。これはハンドルとブレーキの利かない暴走車にも例えられる。論語の中に子路(しろ)と孔子の問答がある。子路が孔子に「君子も亦窮(きゅう)すること有るか」と皮肉っぽく尋ねた。曰く「君子固(もと)より窮す。小人窮すれば斯(ここ)に濫す」と。君子も勿論窮することはある。ただ、小人は窮すれば人の道を踏み外して狂乱する。目標達成のための忍耐が強く望まれる。

A 忠言(諫言(かんげん))と甘言。
 家康は「諫言は一番槍より難し」として、諫言をよく受容し重んじた。耳に逆らうことを言う者は忠臣であり、心に叶(かな)うことのみを言う者には奸臣(かんしん)が多く、よくよく心を用いて聞かなければ大変な事態に陥る。防長にはこうした忠言を寛大に受け容れる伝統があった。上に立つ者は、とかく自らの意に沿う甘言を好み、苦言を嫌うため徳行が進まず、誠心なき諂(へつら)いに唆(そそのか)され惑わされて大事を誤りかねない。甘言は私心を秘蔵しているが故に、特に気を付けねばならないという考えは、忠臣たちに共通する考えであった。上杉謙信は「心に貪(むさぼ)りなき時は人に諂うことなし」と純真な胸の内を披瀝(ひれき)している。
B 米百俵の教育精神
 「国家百年の計は若者の教育にあり」と言われる。短所を補い全人的な人間を育てるには教育以外に術はない。戊辰戦争によって廃虚と化した宗家長岡藩の窮乏を見かねて明治3年4月、支藩三(み)(ね)(やま)藩1万1千石から救援米百俵が贈られた。庶民はこれで急場がしのげると期待していた。ところが、象門の2虎(吉田虎之助と小林虎三郎)と称えられていた小林虎三郎は、この百俵を配分して食してしまえば、一時に消えてしまう。それより百俵を将来の千俵に更には万俵に活かすため、明日の人づくりを目指して国漢学校設立資金に充てようと説いた。
 今の苦しみや窮乏に堪え、よりよい明日を築くため、国漢(国文と漢文)学校設立を目指した。遠謀(えんぼう)深慮(しんりょ)の結果、多くの人材を育て上げ藩や国の興隆に成果を上げた。萩の松下村塾と越後長岡の国漢学校は象山門下の兄弟校。師象山は「天下の事を委(ゆだ)ねるのは胆略の吉田子を可とし、我が子を委託して教育せしむるは学識の小林子を可とする」と評価した。米百俵の精神を心に留め、人間教育に関わって欲しい。
 小林は生後間もなく疱瘡(ほうそう)に罹り、高熱で左眼を失明、顔には無数のあばたが残った。悪童にそれをからかわれても、決して人前で涙を流すようなことはなかった。成長後も風疹という病魔に取り付かれ生涯苦しんだ。負けん気は強いが、人を怨(ねた)まぬ気持の優しい子供であった。劣等感に苦しめられ友の少ない内気な人間になった。「興学私議」に「日本が欧米諸国に流されようとしているのは、誰もが学問を怠りなまけているからである。早急に若者に勉学を奨励し、人材を育成しなければならない」と説いている。
 
2 山鹿(やまが)素行(そこう)と松陰
(1)先師と仰いだ要諦
 松陰が素行を先師と仰いだのは何故か。素行の名は義矩(よしのり)、松陰の字は義卿(ぎけい)、名は矩方(のりかた)。また素行の字は子敬(しけい)、松陰の字は子義(しぎ)、いずれも素行の名の一字が用いられている。果たして意図性もあってのことであろうか。もっとも、吉田家の先祖は、初代重矩から第六代矩達まですべて「矩」の一字を用いているから、これを踏襲したものであろう。
@ 国体の尊厳を説き日本を中華(ちゅうか)とした
 多くの知名な学者が「尊外卑内」、つまり外国を尊び日本を卑下(ひげ)する中で、堂々と「尊内卑外、内貴外賤」を説いた。日本の国体の何たるかを悟り得た貴重な学者であった。松陰が先師として素行を崇拝した記述は随所に見られる。例えば「万世の俗儒が「尊外卑内」の思想に陥った時代に、独り卓然として異説を排し、上古神聖の正道を究め、中朝事実』を選ばれたる深意を考えて知るべし、吾れ願はくは闔族(こうぞく)(一族全部)相謀(あいはか)り、志を励まし、先師の行実(こうじつ)に負(そむ)くことなからんことを欲す」など。
松陰を崇拝した乃木(のぎ)希典(まれすけ)は、『中朝事実』(歴史書。山鹿素行著。日本の皇統を明らかにし、日本の古代における理想の実現を述べたもの。中朝とは日本のこと。)を非常に有益な書として共感熟読し、大正天皇や皇太子(後の昭和天皇)への遺品として献上した。
 朱子学が徒(いたずら)に高遠なる理論を弄(もてあそ)ぶのみで、実際社会に及ぼす功果が何程あるかということに疑問を抱くに至り、或は仏教の門を叩き、或は老荘の旨を伺わんとしたが、何れも満足できず、後世の教説を一切捨て上古聖人の真精神を明らかにする事に心を決し、『聖教要録』を著した。恵心、法然、親鸞が、教祖釈尊の真精神である一般衆生(しゅじょう)の救済を取り戻そうとした復古運動に似ている。
A 内を思わぬ平生の覚悟
 『武教全書講録』の巻頭にある「開講主意」には「先師曽(かつ)て北条安房守(あわかみ)の宅に召し出され、赤穂謫居(たっきょ)(罪により遠流)の命を承(う)けられたる時の事を見ても、先師平日の覚悟筋を知るべし。」北条安房守は遺言を書かそうと配慮したが、素行は「外出時は何時も身辺整理をしているので、今更なにも心残りない」、「心底これにて動き申し候事は聊(いささ)かもこれなく候」と遺言をきっぱりと辞退した。松陰は武士としての潔さ、覚悟、品格に深く感動した。先師と仰いだ所以(ゆえん)である。

 又赤穂の遺臣亡君の仇を復したる始末の処置を見ても、大石良雄が先師に学び得たる所知るべし」と記されており、如何に素行を崇拝していたかがうかがえる。憂喜に当たってその志す所が変じ、心が定まらないのは普通の情である。この時に確乎(かっこ)として心を動かさないのが大丈夫(だいじょうふ)である。すべては天の命ずる所なりと覚悟して、妄動妄作しないのが命に安んずるという大精神である。
B学識の深さ
 素行は九歳にして四書・五経・詩文を覚え、同僚の中で彼の上に出る者はいなかった。未だ三十歳ならずして名声赫々(かっかく)(光り輝く)、将軍家光も彼を配下に加えようとした程の英才であった。こうした学問の深さにも感服したと思われる。また、久保清太郎(1831〜78、名は久清、通称は清太郎。松陰の外叔久保五郎左衛門の長男。松陰の兵学門下生。松下村塾の振興に尽くす。維新後、山口藩参事・度会県権令を歴任。明治11年、48歳 で亡くなる)には「僕も武教全書を研究する事数十年、全書の意味少しは会得(えとく)(つかまつ)り居(お)り候(そうろう)」と書き送っている。以上からも、松陰が生涯にわたって、素行を先師と仰いだことが容易に推察できる。
2)相反する師弟の思想
 素行は松陰にとって武士的経歴の出発点であり、素行の学問を踏襲している。そして、先師として崇拝する素行の信服者であるが、二人は人間的に、かなり掛け離れた存在である。

@ 尊皇論について
 以下は松陰が食らいついて反論したいような素行の考えである。「保元平治(1156〜59)の末より朝廷の政(まつりごと)衰え、武家これを補佐し、遂に武臣の威天下を平治せしむ。これより朝廷日に衰え、武家の政道日に新なり。朝廷これを憤りて武臣を滅ぼさんことを志すと雖も、遂に事ならず。これ事ならざるには非ず。朝廷朝廷の道を失いて、名は王者にして実は王道を失いて、武家頗る王道を得ればなり。天下は有道に帰して無道に帰せず。水の低きに流るに同じ。何ぞ今の世において、専(もっぱ)ら古(いにしえ)に反(かえ)らんことを願うや。天の与(くみ)するところ、武家にあって公家に非ず。天下の是非は公論にして、私を以てすべからざるなり」。
 さらに、松陰が最も崇拝した尊王家・楠木正成についても、既成秩序を無視して向こう見ずな尊皇討幕論は認められないと批判的である。後鳥羽・後醍醐の悲運に無条件に悲憤の涙を流す松陰の心事に照らせば全く相容れない。皇室を崇拝し、諫言を根底に置く松陰が激しく反駁(はんばく)したい所であり、絶対に容認できない所である。しかし、これらについての反論はその遺著には見られない。
 佐藤直方(さとうなおかた)や三宅尚齊(みやけしょうさい)などは、我が万世一系の国体の尊厳なる所以を認めず、血統を以て皇位が定まるのは野蛮の風であるとし、寧ろ中国の禅譲放伐(ぜんじょうほうばつ)論(位を世襲せずに有徳者に譲ること)を可なりと論じている。「士規七則」の第二則には「凡(およ)そ皇国に生れては、宜(よろ)しく吾が宇内(うだい)に尊き所以を知るべし。蓋(けだ)し皇朝は萬葉一統にして、邦国の士夫世々禄位を襲(つ)ぐ。・・・君臣一体、忠孝一致、唯だ吾が国を然(しか)りと為す」と記され、争いによって系統が次々に入れ代わっていく他国には見られない、和平的万世一系(永遠に同一の系統が続くこと)に価値を見いだしている。
A 規則について
 素行は「天下を治める道の要は規則を立てること」と説き、規則を厳重にして、人間を鋳型にはめ込んで育てようとしている。松陰はむしろ規則をできるだけふるい落とし、指導者の徳や集団の和(なご)みでもって教化しようとする。師弟や同志の気持ちが通じ合うことが、人間教育にとって最も重要だと主張する。松下村塾にも規則が設けられた跡(『吉田松陰全集』第10卷p292,「松下村塾規則」安政4年(?))はあるが、塾生はそんなものは見たこともないし、知りもしないと述懐している。規則は有名無実であったようだ。
B 利欲について
 浅野侯は「貴公の賢を以てせば諸侯必ず招致するものあらん。苟(いやしく)も万石(まんごく)に足らざれば即ちその招聘(しょうへい)に応ずるなかれ」と告げているが、素行の気持を代弁したように思われる。実際、素行は松江、紀州、加賀などからの召抱(めしかか)えを知行(ちぎょう)不足を理由に辞退している。松陰は禄高の高低など主君に仕える要件ではないと考えていたから、禄高に拘(こだわ)る素行には尊敬の念は湧かなかったはずである。
 孔孟も控え目に論じている利欲利心を積極的に肯定し、「先儒無欲を以てこれを論ず。それ誤謬(ごびゅう)の甚だしきなり。人欲を去る者は人に非ず、瓦石(がせき)に同じ。人欲は善行の基礎。排すべきは欲ではなく欲の「惑い」である。この利心あるより聖人に至るべし。利を本とする故、この道立ちて行われ、君君たり、臣臣たり。この利心失却せば、君臣上下道立たず」と利を正しく生かす道を奨励している。
 先儒は天理とは私心なきことと考えている。それは性善説にとらわれた考えであり、大きな誤ちである。これは日常・現実を掛け離れたものであり、人の本性には人欲はないものだという。この考え方によると、天理と人欲とは天地の如くはるかに掛け離れたものとなる。義と利とは、そのような関係にあるものではない、それらは表裏の関係にあって、互いに離れることはない。義と利とは調和的に共存するものであり、これを「義と利の和」というとしている。人欲とは人情の欲である。人でも物でも、いまだかつて情欲のないものがあったであろうか。食欲、性欲などは、情欲の自然の姿である。
 ただ、人欲というものは必ず度を過ぎるもの、満足することを知らぬものである。そこで聖人が教えを設けてその情欲を節制するというのも、また必然であり自然である。もし人の欲望が満たされたとすれば、家来も人民もいなくなり、耕す者も、造る者も、商う者もいなくなる。君臣の秩序があって、この世は落ち着いている。国・家・身を利するために実力で争うことになれば、上下の者が互いに利を取り合い、君主を殺し、親を蔑(ないがし)ろにして、徹底的に相手から財を奪い尽くそうとするに至る。そうなれば禽獣(きんじゅう)同然、互いに食い合っているような状態に陥る。そこで聖人は情欲を節することによって、人としての道を教えた。ここに主従の関係が成り立ち、修身・斉家(せいか)・治国(ちこく)・平天下の状態が出現する。
C 君臣の結合について
 利を君臣結合の本とする素行と父子の情を君臣結合の本とする松陰とは、これまた相容れないはず。凡そ人の人たる所以は私心を除去するにあり。これ聖学の工夫なり。寡欲、薄欲などは松陰が最も重んじた所である。この利欲という面においても、両雄は相容れない。一方では先師と崇拝しながらも、他方では相容れない関係にあり、全く対照的な師弟とも見られる。素行は君臣共に利心がある故に結び付いていると現実的な理論を主張する。

D 赤穂浪士の討入について
 素行は「君の仇を報ずる事、これ勇士の節に死するの大義なり。但し君の仇というに仔細(しさい)あるべし。その君無道にして、天子命じて罰せられなんば、仇を報ゆるの義あるべからざるなり」という論を持っていた。この論に基づくと、主君浅野長矩は殿中で吉良に切り付け国法によって罰せられ、浪士は都城(とじょう)(江戸)で兵を動かす禁を犯して切腹を命じられた。この一件を素行はどのように裁くであろうか。
 家中における主従関係の道義は、国家の立場に優先することはできなかった。主従関係に即して忠臣義士であっても、国家の秩序を乱した限りにおい
ては不義の士である。主君のために命を捨てることを眼目とする古い武士道と、仁義の実現を眼目とする新しい士道(都城における弄兵(ろうへい)の禁)との衝突がある。泰平の世で武士道の頽廃(たいはい)を憂えていた状況が大きく味方し、世間の人気では前者が圧倒的に勝ったが、実際の事情は後者が支配した。赤穂義士を武士の鑑と仰ぐ松陰は、これをどのように感受したか。
(3)山鹿素行略伝
一六二二年(元和8、1歳)8月16日、会津若松に生まれる。3代将軍家光就任。
一六三〇年(寛永7、9歳)林(はやし)羅山(らざん)(朱子学権威,1583〜1657、江戸初期の儒者。幕府の儒官林家の祖。徳川家康から家綱まで4代の将軍の侍講)に入門。この年までに四書・五経・詩文を読み覚える。これにも松陰は感心している。
1632年(寛永9、11歳)松江城主二百石で召抱えたいとの申入れを父が断わる。
1636年(寛永13、15歳)北条氏長の門に入り甲州流兵学を修める。
1652年(承応2、32歳)十二月浅野長直に仕え、翌年赤穂へ向けて江戸を発つ。
1656年(明暦2、35歳)『武教小学』『武教全書』を著す。
1659年(万治2、38歳)落馬して負傷。大石良雄生まれる。
1660年(万治3、39歳)浅野家を辞任。初めて津軽信政邸を訪れる。
1665年(寛文5、44歳)父貞以病没。『山鹿語類(やまがごるい)』『聖教要録(せいきょうようろく)』を著す。
1666年(寛文6、45歳)大目付北条氏長の呼出しを受けて赤穂へ謫流される。
1669年(寛文9、48歳)『中朝事実』を著す。
1675年(延宝3、54歳)赦免され赤穂を出発、8月江戸着。赦免後は経芸を廃業し、時流と合わないため、処士(在野の士)を集めることを禁じられる。『配所残筆』を著す。浅野長矩9歳、大石蔵之助17歳。
1685年(貞亨2、64歳)侍医の治療を受けるが、9月26日積徳堂(せきとくどう)に没す。
1702年(元禄15、素行没後17年)赤穂四十七士吉良邸に討ち入る。
 
3 武士道とその品格
@ 泰平な世の武士道
 徳川時代に入ると世は安泰となり、大きな戦争はなくなった。武士はその戦争を介在して生れたものであるから、武士としての主たる任務はなくなった。しかし、いつ誰が謀(む)(ほん)を起こすか分からない。「治に居て乱を忘れず」の名訓もあるように、泰平な世においても、なお多くの武士を抱えていなければならなかった。苦心して得た平和も、いつ何時破れて再び戦乱の世に戻るか計り知れない。

 ここに武士としての新しい職分が求められなければならなくなってきた。耕さず、製造せず、商わずして農工商の上に位置する、言わば遊民となった武士の職分が、三民に納得されるよう定められなければならなくなった。戦乱の世であれば命を賭けて戦い、これによって三民を護るという目に見える職分があった。従って三民も武士としての任務を認めない訳にはいかなかった。ここに仁義の実践を眼目とする新しい武士道が生まれることになるが、これによって武士たる者は三民の尊敬を得ることが強く望まれるようになった。ここに教義としての仁義的武士道が勃興(ぼっこう)することになる。この武士道は実践的な中世の武士道に儒教的精神を溶け込ませたものであった。武士道の鼎(かなえ)の三脚は「智、仁、勇」であり、これらの実践が強く求められた。
 新渡戸稲(彼の著書『武士道』は、1895年(明治32年)病気療養のためアメリカ滞在中、38歳の時英文で著される。同年アメリカで、翌年日本で出版される。その後、版を重ね1905年(明治38年)第10版に際し、増訂を施された。『武士道』新渡戸稲造著、矢内原忠雄訳、岩波文庫より)造が掲げる武士道の七つの徳目は、義(正しい道)・勇(強さ)・仁(優しさ)・礼(徳を高め品を醸す)・誠(徳を貫くもの)・名誉(武士の花)・忠義(行動の原理)である。武士道には、人間同士が互いによりよく生き、社会生活を円滑に営もうとする先人の知恵が含まれている。戦乱の世の武士道は人格的・絶対的、泰平の世の武士道は観念的・相対的である。これは、禅(仏教)、神道、儒教が融合したものである。仏教は死生観、死への近親感、生への侮蔑(ぶべつ)、運命に対する安らかな信頼、不可避なものへの静かな服従、危険や災害に対する禁欲的な冷静さを諭し、神道は仏教を補完するもの、主君に対する忠誠、先祖への崇敬、孝心、自然崇拝からくる愛国心を教え、儒教は道徳的な教義、政治道徳、五倫(君臣の義、父子の親、夫婦の別、兄弟の序、朋友の信)など生活に直結する道徳原理を示唆(しさ)した。徳や道理のない愚君に対しては、切腹覚悟で諫言(かんげん)することも要求された。その精神は、社会の安泰繁栄を求め、万民がより良く生きられるようにという公に根差すものであった。三民の間に人倫を乱そうとする輩(やから)があるならば、速(すみ)やかにこれを罰して天下の人倫を正す任務も背負っていた。文武の才徳を必要とする所以である。
A 武士としての品格
 鳥獣、草木、虫など万物は、精いっぱい努めて自らの食を求め、生き長らえている。武士がその職分を果たさないで生きるなら、武士は賊民であり生を偸(ぬす)む遊人と言わざる得ない。ここに武士の存在理由をはっきりさせる必要が生じてくる。武士は自らの職分を明らかにしようと努め、その職分を究明することによって、はじめて武士らしく胸を張って生きることができる。
 徳川幕府は武士に対して、他の階級においては見られない特別の修養を要求した。それは文武、忠孝に励み、仁義、悌、信、勇などを実践して三民を護り、三民の模範となって尊敬を得ることであった。文や武に偏らず、文に励み武に励み、文武両道に秀でることが求められた。腰の刀は武士たる名誉と勇気と正義・誠実の象徴、刀の濫用は堅く戒められた。

 「花は桜、人は武士」、桜と武士を重ね合わせて武士を美化する誉言(よげん)である。僅か三、四日、華麗に咲いて潔く散っていく桜花に人生を投影し、他の花に見られない格別の美しさや品性を見いだしている。死を嫌い恐れるかのように未練がましく茎にしがみ付いたまま、色あせ枯れていく薔薇(ばら)、しかも刺(とげ)を含んでいる薔薇などとは比べ物にならない。潔さ、惑わぬ覚悟なども武士の品格である。武士の訓育の第一義は、品格を高めることである。平穏な社会では、巧言(こうげん)令色(れいしょく)(口先がうまく、顔色を和らげ人喜ばせ、媚び諂うこと)を弄(ろう)する者、上に諂(へつら)う者、賄賂(わいろ)を贈る者などが、忠臣よりも優遇されがちになるのは、特に配慮を要することであった。野に咲く一輪の花に美的感情を抱き、小鳥の囀(さえず)りに耳を傾ける美しい情緒は、人間の傲慢(ごうまん)を抑制し、暗く沈んだ心に力と光を与え、心の安定化装置の役割を果たす。武士は如何(いか)なる状況下にあっても、自己の苦しみや不快で、他人の愉快や平穏を掻(か)き乱すことがあってはならない。
 容貌(ようぼう)は天命の性心を容れる器である。内に存する思いが不正であるならば、容貌もその通りに動いて外部に表れる。義や礼といった論語の徳目も、それを幾ら知識として身に付けていても何の役にも立たない。内側から湧き出してくる無意識の行動には到底及ばない。知識が先立って逡巡(しゅんじゅん)(ぐずぐずすること)するようでは、知識は却(かえ)って邪魔でさえある。学習者の心に同化し、その人の人格に融合されるときにのみ真の知識となる。
 
4 武教全書講録 
(1)序
@家学山鹿流を継ぎ、幼少より山鹿先 師の書を読む
 才能に乏しく思慮も浅薄で、よくその精義を明らかにすることができない。最近、親戚(しんせき)子弟の希望に応じ、全書の講義を一通り終えることが出来た。講義する中で、自分の戒めとしたいこと、子弟に銘記させたいこと、軍事の実務、適切緊要の論などは、他日の放出を慮り皆記録して保存、今後の講究の基礎にしたい。その一を挙げて百を廃する如きは、他人の笑罵(しょうば)(あざけり)を辞せざる所である。
(2)開講主意
@ 先師平日の覚悟筋、中朝事実を撰ばれた深意を知るべし。
 全書講義の主意は何であるか、各人よく考えて欲しい。武門・武士である以上、その職分である武道に勤め、皇国の大恩に報いなければならないことは当然である。しかし、実行している者は古今にわたり甚だ希(まれ)である。よく道を知るならば、どうして勤め報いない者があろうか。その道を知ろうとするならば、よくよく先師の教戒を講究し守るべきである。
 多くの書物の中で、何故自分が殊更に先師の書を信仰するかといえば、先師の教えはこの書を読めば詳しく解るからである。その一端を挙げれば、赤穂謫流(たくりゅう)(寛文5年、素行は『聖教要録』を著し公然と官学である朱子学を批判したので赤穂に流された。(『吉田松陰撰集』p370)
の際の身の処し方を見ても、平生の覚悟筋は十分に知れる。また、赤穂の遺臣の亡君の仇を復した顛末(てんまつ)を見ても、大石良雄が先師に学んだ点を知ることができる。
 国恩の事に至っては、万世の俗儒が外貴内賤を唱える中で、独り卓然としてその異説を拝し、『中朝事実』を著した深意を知るべきである。以上の二事は、繰り返し巻き返し説き続けたことであるから、胸中にしっかりと留められていることであろう。願わくば一族相謀り、志を励まし、先師の行実に負くことがないよう願いたい。
(3)武教小学序
 この序の主意を理解すれば、士道も国体もその大略を会得するに至る。士道は無礼(ぶれい)無法(むほう)、粗暴狂悖(きょうはい)(道に背き我まま)の武に偏っても済まず、記誦(きしょう)詞章(ししょう)(詞章を記憶して暗誦すること)、浮華(ふか)文柔(ぶんじゅう)(うわべばかり華美で文飾に耽り弱々しい)の文に偏しても済まず。真武真文を学び、身を修め心を正しくして、国を治め天下を平らかにすること、これが士道である。武士の使命と自覚を訴えている。
 異国の書を読めば、とかく異国を善しとし、我が国を却って卑しむようになるのは学者の通弊である。神州の国体が異国の国体と異なる所を知らぬからである。これぞ先師が『武教小学』を著された理由である。士は農工商の業なくして、三民の長に押し上げられている所以をよく悟るべきである。
 士の末端となって少しでも農工商から離れれば、修身、斉家、治国、平天下に心を配り、世の治安、政の和平を輔佐し奉るの誠心がなければならない。民のために災害禍乱を防ぎ、公財を成し政治を輔佐することを以て職としている。然るに今の士は、民の財産収益を絞り、君の俸禄を偸む。職務に思いを致さず、職責を全うしないならば天下の賊民と言わねばならない。素餐(そさん)、徒食(としょく)するなかれ。
 学問は物に格(いた)り知を致さんがためで、異国の俗を習うためではない。格物(かくぶつ)致知(ちち)(事物の道理を究め知識を深くする)は「大学」にあるが、事物の道理を深く究めて、知識を磨き、天賦の明知(明らかで優れた智恵)を深めることである。神州の大体を存し、万国の器械を採用すること、漢土聖賢の書を講究して、我が国忠孝の行を資(たす)くは、究理の学である。

(4)武士たる者が守り努むべき10項目。
 (10項目にわたって詳しく述べているが、長文なので標題設定の趣旨のみを記し、詳細な内容については割愛する。)
@?夙起(しゅくき)夜寐(やび)(早く起きて晩く寝る)
 朝早く起きてから夜遅く寝るまで、日夜職務に精励する「夙起夜寐」を以て一篇の標題としている。武士たる者一日の教戒を洩(も)らすことなく述べ、以下諸篇の綱領となっている。一句一句を実行し、徳を養成すべきである。人間は浩然(こうぜん)の気(天地の間に充満している元気)がなければ、才も知も生かされない。人の本心から自然に湧き出てきて、如何なる大敵や攻略にも恐れず、安楽・遊興の場合にも正体を失わず、確固として守り励む気である。浩然の気を養うのは、平旦(へいたん)の気(夜明け方の清らかな気分)を養うことより始まる。
A 燕居(えんきょ)(閑居在宅)
 この篇は特に首篇中より燕居の士を抜き出して、閑ある時の作法を述べたものである。凡そ武士の一日は、諸氏に謁(えつ)し来客に応対するの外、武芸を習い、武義を論じ、武器を点検するの三事があるだけである。毛利公の政治や教育を考えても、一号一令みなこの三事である。武芸を習うは、手足を自由にし、骨節の働きをよくし、身を軽く、身体を慣れさして、身を戦場において真剣に訓練する。
B言語応対(言葉の品則)
 大要は三件である。吉凶、戦や賓客等持て成しの礼に通じ、言葉の品則を考えることが第一件。常に言うべきことを言うが第二件。言ってはならぬことを言わないが第三件。正しくない言葉、弱々しい言葉、卑しい言葉というのも、皆この三件に基づいて考えるべきである。
 使節の一つの言葉が、国の栄辱軽重に関係し、言葉によって両国の和親を進めることもあれば、戦争の契機となることもあるから、深く思慮しなければならない。 
 柔弱の言、鄙劣(ひれつ)(卑劣)の言は最も慎まねばならない。言語が正しくなければ、その行はずるく必ず乱れる。
C ?行住(ぎょうじゅう)?坐臥(ざが)(日常の立ち振る舞い)
 この篇は敬の一字を説いたものである。敬は即ち備えであり、武士道においてはこれを覚悟という。非礼を為さず、過(か)(ごん)を慎み、門を出ずればいつも大切な国賓に会うような心持で応対する。また、いつ敵に遭っても良いようにを用意する。これを備えという。
敬・備は怠、即ち油断の反対で、常に覚悟を保ち、油断のなきようすべきである。外出時に家内のことに心を用いてはならない。就寝時も武器を傍(かたわ)らから離さず、夜警を厳重にし、死人のように前後不覚に熟睡してはならない。器機や兵隊が備わっていないとしても、敬・備・覚悟ができておれば、外敵を防ぐであろう。
D 衣食住(質素倹約を旨とする)
 志士は道に志す人物、つまり君子のことである。武門に生れて武道を磨き、国家の洪恩(こうおん)に報じ、父母の美名を顕わさんと心掛ける者は、どうして悪衣悪食を恥じる暇があろうか。恥じないのは、心は仁義の道を楽しむことで満足し、衣食等外物は、士の心を動かすものでないからである。
 粗衣粗食を肩身狭く感じ、居心地のよい住宅に住みたがる者は、志士とはいえない。久保翁(久保五郎左衛門)は衣食住に倹約で質素を好み、古器物、名書、名画など一つも所蔵しなかった。 熊沢蕃山(1619年〜91年、江戸前期の儒者。名は伯継、号は蕃山、字は了介。中江藤樹に陽明学を学び、岡山藩に仕えた。(『吉田松陰撰集』p296による)の家には、懸物は僅かに義経の弓流しの図と源重之の歌の二軸があるのみである。

E 財宝器物(富は覚悟を鈍らせる)
 この篇は衣食住と関係が深いので、前篇でほぼ要点を述べた。これに與受(よじゅ)(与える・受ける)の篇を加えた3篇を学んで、倹約と吝嗇(りんしょく)(けち)の区別を理解すべきであろう。俗人には、倹約の一層徹底したのが吝嗇と考える者が多い。両者は全く別の二事である。
 倹約は義を主とし公共のために節約することである。主君の用に提供し、朋友の難儀を救い、身分賤しい人々の貧困を救うのである。吝嗇は利欲を主とし、私のために節約し贅沢(ぜいたく)をすることが目的である。天下の財宝は天下公共の物、公共を益してこそ価値がある。
余計な財宝器物を弄(もてあそ)べば、気も弛(ゆる)み物質欲に捉(とら)えられて、奉公のために家を忘れることができず、いつでも一命を捨てる覚悟が鈍る。家を思う余りに義を捨てて死を遁(のが)れ、謗(そしり)を受け、汚名を父祖に及ぼす。人面獣心である。

F 飲食色欲(飲色に酔い武士の職務をれない)
 この篇は何度も繰り返し、熟読(じゅくどく)玩味(がんみ)して武士道を悟るべきである。一飲一食より男女の寝室に至るまで、片時も武士の職務を忘れないことが肝要である。節制なく懶懦(らんだ)(怠け弱い)に陥り気根を弱くしては武士道に欠ける。飲食男女のことがあっても、その身体を弱まらせず、その心を緩(ゆる)めることのない者こそ、真の武士というべきである。身を修め、家を斉え、三民の手本となるべき風格が備わるようになることが、武士の心掛けるべきことである。
G 放(ほう)鷹狩猟(ようしゅりょう)(6益・2害)
〈6益〉
・田畑を荒す鳥獣を殺し、民が受ける害を取り除くこと。
・地理に詳しく農政の利害を考え、戦争や防衛の作戦を考えること。
・風俗や民情を察知し、政治の善し悪しを反省する。
・山河跋渉(ばっしょう)して手足を快活、骨節を柔軟にし、武術を生き物に試みること。
・士卒の強弱勇怯、武芸の巧拙、機転の敏鈍を試みることができる。
・草鞋や股引の作り方、風雨霜露の凌(しの)ぎ方、弓銃の携帯の具合、船馬使用 の便不便などを試験できること。
〈2害〉
・獣をほしいままに殺し、狩猟に耽(ふけ)り、獲物をむさぼり、遊戯に耽って武士の職務を忘れ去ってしまうこと。
・人民の労力や財物を使い、田園を荒して顧みないこと。暴する者は必ず荒し、荒らす者は必ず暴する。暴と 荒とは一体的である。
H 與受(よじゅ)(与える・受ける〜物品の価値と人格の対比)。
 この篇の趣旨は、人に物を与えるのに、倹約と吝嗇(りんしょく)との区別があり、人から物をもらうのに、貪欲(どんよく)と清廉(せいれん)の区別があることを述べたものである。貪欲と清廉の区別については、義の当否を考えて辞退か受納を決し、敢(あ)えて物の多少や軽重を計るのではない。俸禄の外になお物や金を求め、而も贅沢三昧に費やしてしまう武士もいる。財物を蔵一杯に死蔵するなど実に憐れむべきである。死蔵の財を困窮者に施して、自分の徳を褒(ほ)め称(たた)えてもらおうとする驕慢者など、士としての当然の道理を失っている。日頃士卒を養なわざれば、戦場に臨むに際して、一人の家臣も主人に随う者はいない。財禄があっても之を施さなければ、士卒の来り服する者なく、与えることその分を超えれば、財尽きて禄乏しくなる。施與(せよ)(施し与える)も道義によってするのでなければ、義ある所の士が来ない。犬や猫に投げてやるような事をしては乞食もこれを受け取らない。
I 子孫教戒(武士道を伝える)
 『武教小学』は、「夙起夜寐」を大綱とし、以下の8篇がその細目となっている。武士の道はこうしてほぼ備わった。結末の1篇が「子孫教戒」を論じたものであるが、その義はほとんどこれまでの9篇で述べられている。それを自分自身が実行して、武士道を子孫に永久に伝えようというのがこの篇の主意である。後継者がぐうたら者であれば、その家は断絶しその身は滅びる。その趣旨を奉じて、自分は「七生説」(楠木正成の精神が、朱舜水(しゅしゅんすい)に、また自らのうちにも伝わり生きていることを実感した松陰は、そこから精神の不滅を確信し、これを理気の説で説明する。そして楠公その他の優れた人々 と理を一にしている自分の精神を七生の後の人々までもこれを受け継ぎ、奮い立って欲しいものだと願う。『吉田松陰撰集』p355)を作った。凡そ大丈夫(だいじょうふ)(意志が強く立派な人物)と生れたからは、雄大な志を立てなければ、人と生れた甲斐がない。
 宗族や郷里の子弟に至るまで、誠心誠意を注いで、彼らの心底にまで徹し、その天性の良知を感動発奮させ、更に次々に続いて千万世も絶えることのないようにしないでおかれようか。教戒の根本、武道の眼目は、大丈夫(意志が強く立派な人物)となることである。富貴に誘惑されて心を乱し、貧賤に苦しんで節操を変え、威光や武力に圧迫されてその志を屈してしまう人であっては、事に臨んだ時なんの頼みにもならない。
 幼稚の間は天然自然の気を受けているだけで、心に自主というものがなく空である。然るに習慣日に長じ月に益して遂に善となり悪となる。教戒するにはその知を正し、勇を養わしめ、物事を信ぜしむる心を作らなければならない。言語が解るようになったら、師を選び交友を考え、人品賤しからぬ人物に育てる。
 以下、女子教育の重視を長々と述べている。夫婦は人間関係の根本で、一家の盛衰治乱の境目は、全く夫婦の関係の如何(いかん)にあるといえる。故に先ず女子を教戒しなければならない。男子が如何(いか)ほど武士道を守っても、婦人が道を失う時は、一家は治まらず子孫の教戒も絶えてしまう。夫は官に仕え内を知らないから、武士の妻は夫に代わって内を治める義務があり、内外の別をはっきりさせる。

 女子の特色は体の柔と心の順にある。これは自然の性質であるが、この柔順を制するに果断(かだん)を以てする事が肝要である。女子教育には大略三つの方法がある。和歌、俳句、茶湯などの遊芸を以て楽しみとする者、貝原の書物や心学者たちの書物を以て女子の教えとする者、これらは柔順、幽閑、清苦、倹素の教えはあるが、節烈、果断の教えに乏しい。変事の際はこれで十分とはいえない。先師の「柔順を以て用と為し、果断を以て制と為す」という教えは、双方とも全うさせ、学ぶべき第一の教書である。
 忠臣は二君に事(つか)えず、烈婦は二夫を更(か)えず。礼記にも「夫は再娶(さいしゅ)(再婚)の義あり、婦は二適(にてき)(再嫁)の文(あや)なし」とある。妻は夫を以て天とし、再婚の由がない。現代貞烈の婦人が少ないのは、父兄の教戒が十分でないからである。それは彼ら自身が主君や親に仕えるのに、忠孝の心がないからである。
この弊を改善するためには女学校の創設が必要である。士大夫の寡婦で貞操に優れ、学問に通じ、女子の仕事をよくする者数名を選んで女学校の校長とし学校に寄宿、8歳以上の女子を学校に通わせて、手習、学問、家政について学ばせ熟練させる。女子教戒の本は、恐れながら君公の後宮より始め、倹素・貞操・学問・勤勉・閑静さを以て、吾が国の女子教育を統一していかなければならない。

編集後記
 今回、寄稿くださった長谷川勤氏、研修塾塾生田村洋幸氏・吉屋安隆氏・櫻井健一氏に厚くお礼を申し上げます。また松風会河村理事長、折本理事にもお礼を申しあげます。
 長谷川氏は、11月8日研修塾巡検で鎌倉錦屏山瑞泉寺を訪問中の私達にわざわざ、さいたま市から会いに来られました。塾生一同感激しました。     (松風会事務局長)