松門34号
平成17年4月1日発行
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幕末維新期における自他認識の展開(博士論文要旨)
  東北大学大学院文学研究科助手 桐原 健真
松陰ゆかりの地(津軽)を訪ねて 松風会事務局
第18回松陰教学研究会講義要旨
松陰の魂に誠を刻み込んだ父母の生き様
      防長新聞編集局員 折本  章
 
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博士論文要旨・吉田松陰研究序説―
 幕末維新期における自他認識の転回  
     東北大学大学院文学研究科助手   桐原 健真
本稿執筆の目的
 本稿は、幕末維新期という近世から近代への転形期において、吉田松陰(一八三〇〈天保元〉〜一八五九〈安政六〉)が、この時代状況をいかに認識し、さらにはいかに思考したかを明らかにすることを目的とするものである。本稿が松陰を主題として選んだ理由は、彼がのちの明治維新を主導した長州藩における理論的先駆者であったからではない。彼の思想や行動が、この幕末維新期という転形期を、彼自身の意図を越えて、極めて鮮明に表現しているからにほかならないからである。
しばしば幕末維新は「復古」と「開化」の相克として描かれる。しかし松陰が、「自我作古」(我れより古を作す・「松如に復す」一八五九〈安政六〉年二月二二日)を標榜したように、幕末における「復古」は、一面では決して過去の焼き直しではなかった。山鹿流兵学師範吉田家を封襲した松陰が、その家学の伝統の重圧を感じつつも、洋式兵学と和式兵学との間にある絶望的な較差を前にして、「旧に率はんと欲せば則ち時に随はざる能はず」(「漫筆一則」一八五〇〈嘉永三〉年九月)と伝統兵学からの離脱を模索し始めるに至ったように、むしろみずからの持つ「伝統」や「古典」を最大限読み替え抜くことで、新しい時代を切り開こうとしたのである。
一九世紀中葉における新たな世界史的状況に臨み、松陰がこれをいかに把握し、かつその中にみずからをいかに位置づけたかを明らかにすることが本稿の最終的な目標である。
 
第一部 幕末維新期における「国際社会」認識の転回
第一章 はじめに
第一部では、一九世紀中葉の世界史的状況の中で、吉田松陰における「国際社会」認識の転回を明らかにすることを目的とする。本来、この問題は「対外観」ないしは「対外認識」の問題として論ぜられるものであるが、本稿では一貫して「自他認識」ということばで表現する。第一部を始めるにあたり、この「対外観」の問題を、あえて耳慣れぬ「自他認識」ということばで分析する意味を述べたのが本章である。
すなわち、それまで単に「夷狄」あるいは「異人」としか認識されなかったものが、みずからに対峙する具体的な「他者」として認識されるに至るとき、そこには対象としての「夷狄」の変化ではなく、むしろそれを認識する主体の意識の変質こそがある。本稿では、幕末維新期におけるこの自他双方に対する認識の転回を、同時に考察するために、他者認識の意味合いが強い「対外観」の語を避け、自他認識の語をもって考察するのである。
第一部ではまず西洋という新たな他者の認識がいかに転回したかを、松陰の思想形成の展開とともに考察し(第二〜三章)、つぎにアジアについて、松陰の「雄略論」に関わる個別問題として論じる(第五章)。
 
第二章 「西洋」と「日本」の発見
本章では、安政期以前の吉田松陰における三つの側面での転回を、その思想展開とあわせて明らかにすることを目的とする。この三つの転回とは、
一 松陰の他者認識(「国際社会」認識)の転回
二 自己認識の転回(ネイションの自覚)
三 兵学における転回
である。前二者は松陰における自他認識に関する基本的な視座として位置づけられる。一方、第三は兵学者たる松陰自身の自己意識――自分がなにを・どのように守らねばならぬのか――に深くかかわるものであり、これこそが松陰における自己および他者に対する認識を架橋させるものにほかならなかった。以下、時系列的にこの転回を略説しよう。
一 長州藩兵学師範期 
この時期の松陰は、アヘン戦争以後の「異賊共取囲」む「我が神州」という国際的状況を知識としては知りながらも、日本全体を防衛する意識を有することはなかった。松陰の意識はあくまで防長二国という部分を出ることはなく、「我が国砲術の精確なる事遠く西洋夷に勝り候」(「水陸戦略」一八四九〈嘉永二〉年三月一日)と言うように自らの兵学に絶大な信頼を寄せていた。だがこの信頼は崩壊の時を迎える。彼は「西夷銃砲」の威力を知るのである。
二 西遊期(平戸・長崎留学) 
この西遊行で松陰は、蘭商船に乗ることでその大きさを知り、また多くの海外事情書を読んだ。その中で最も彼に影響を与えたのがアヘン戦争の実態――清国の徹底的な敗北――を赤裸々に描いた魏源の『聖武記附録』であった。
松陰は『聖武記附録』中の「徒に中華を侈張するを知り、未だ寰瀛の大なるを観ず」ということばを「佳語」と評し、また「夫れ外夷を制馭する者は、必ず先ず夷情を洞ふ」べきだとする意見に賛同している(『西遊日記』一八五〇〈嘉永三〉年九月一七日条)。そこには、もはや「外夷」を単なる異物としてではなく、一箇の脅威として――自らに対峙する他者として――見做す態度が生まれていたのである。
平戸において松陰は、明確な脅威としての「西洋」という他者を認識し始めたものの、脅かされる自己(=守るべき自己)について認識するには――ネイションとしての「日本」を自覚するには――まだ時間が必要であった。
三 水戸遊学期 
水戸で会沢正志斎と交わった松陰は「身皇国に生まれて、皇国の皇国たる所以を知らざれば、何を以てか天地に立たん」(「来原良三に復する書」一八五二〈嘉永五〉年七月以前)という強い自負を得た。この「皇国の皇国たる所以」という観念こそ松陰に「ネイションとしての自己意識」(=「日本」の自覚)を与えたものである。そして「日本歴史」を耽読した松陰は、兵学者としての自らの存在意義を「長州藩」を越えた「皇国」を守る点に求めるに至ったのである。ここに封建的分邦に生まれ育った長州藩兵学師範吉田大次郎個人の自己意識の拡大(藩国家から日本国家へ)を見出すことが出来よう。
四 ペリー艦隊来航以後
 ペリー艦隊の来航という現実の脅威に臨み、松陰は藩主に「将及私言」を上書している。そこでは西洋兵学の全面的な導入と挙国一致による国防体制の確立が高らかに謳われており、封建的分邦の意識はもはや姿を消している。松陰にとって西洋諸国家は、もはや排除されるべき異物ではなく、自らに対峙する他者として、対等に認識される存在となっていた。この諸国家との対等の観念こそ、松陰を当時の攘夷論の大勢から大きく異ならしめているものであった。
松陰は、まず平戸において他者(=西洋)の存在を認識し、そして水戸において「ネイションとしての自己意識」をもたらす観念に触れた。この自己と他者とに対する認識が二つながら相俟って諸国家間の対等という観念へと松陰を導いたのであり、そこには「彼を知り己を知る」兵学的思考が、西洋に対する知識と日本に対する意識とを架橋するものとして強く作用していたと結論するものである。
 
第三章 松陰と白旗
前章では、松陰における「西洋」と「日本」の発見の過程を、彼の思想形成に沿って時系列的に明らかにした。本章は、松陰における国際社会認識の具体像を、非交戦の意志を表明する信号旗である「白旗」という「西洋の法」を松陰がどのように認識していたかを明らかにすることで、描き出したものである。
兵学師範時代には、白旗は「外夷の法」であり、これを「遵守する」ことを「人に致さるるに近」いと断じていた松陰は、この「外夷の法」をそれゆえに拒否するのではなく、むしろそれを「国際社会」において必要な限りで承認するに至ったのである。このような松陰の思想的転回は、貿易すらも許容する態度へとつながっていったのであった。
 
第四章 「国際社会」への編入・参加と「華夷秩序」の読み替え
本章は、「国際社会」の法を必要な限りで承認するに至った松陰における「国際社会」認識の論理について明らかにすることを目的とするものである。具体的には「万国公法」受容以前の幕末日本において、華夷意識に基づく自民族中心的な自他認識をいかに乗り越え、西洋列強を中心とする「国際社会」に対してみずからを開き、また同時にみずからの全体性を形成しようとする試みがなされたかを、安政期の松陰を中心として考察した。
近藤重蔵の編纂した外交文書集の『外蕃通書』(一九世紀初頭成立)を詳細に検討し、外交文書の正しい書式を追究し、『外蕃通略』(一八五七〈安政四〉年三月六日成稿)を著した松陰は、国際秩序を「帝国―王国―辺境」というヒエラルヒーでとらえるに至った。しかし、このヒエラルヒーにおける帝国は、かつての「中華」のように、唯一の存在ではなく、日本と同様に独立国である諸国家に対して与えられるステイタスにほかならなかったのである。
松陰は、みずから有する既存の思想体系の中にあった「帝国―王国―辺境」という国際関係概念に加え、「敵体」・「敵国」(対等国)という儒学的概念を〈諸〉帝国間の「敵体」という形に読み替えることで、現前する「国際社会」を理解したのである。かくして日本型華夷意識は、このような「読み替え」を経ることによって変容せられ「国際社会」への編入に対する準備となった。また松陰の「帝国」概念は、対外的な独立を確保する論理であったのと同時に、天皇(=皇帝)を元首とした日本の新しい国家像を形成する出発点となったのである。
 
第五章 吉田松陰とアジア――「雄略」論の展開
 本章は、日本という「自己」を包摂すると同時に、また一箇の「他者」でもあった、いわば矛盾した存在としてのアジアに対する認識が、松陰にとっていかなるものであったのかを論じたものである。
 松陰におけるアジア認識を論じるとき、必ず主題となる一つのことばが「侵略主義」であろう。松陰が「雄略」と呼ぶ、海外への領土拡張の主張が、日本帝国主義によるアジア侵略が国策であった敗戦前に、高い評価を受けていた事実は改めて繰り返すまでもない。戦前において、松陰の「雄略論」を排外的膨張主義と規定し、日本帝国主義に対する批判に代えた人物が、H・ノーマンであった(『日本における近代国家の成立』一九四〇年)。
 「四夷を懾服」する「雄略」を「皇国の皇国たる所以」と見做していた松陰は、アジアに対する軍事的侵略(「懾服雄略」)を積極的に肯定していた。その意味で、松陰を侵略主義者であると指摘することは正しい。しかし、その「侵略」の対象は、カムチャッカやオーストラリアのような、いまだ「無主の地」である「辺境」だったのであり、それは「承認されることのない主権」(Peter J. Taylor, 1989. Political geography: world-economy, nation-state and locality. 2nd edit.)を犯している限りで、みずからの主権の領域を画定する近代国家の当然の権利でもあった(ただしこのような解釈にはずれるのが朝鮮「王国」の問題であった)。
 だが、このような軍事的膨張論は、一八五八(安政五)年以降、より平和的な交易を中心とした「航海雄略」へと転回していく。そもそも松陰の「懾服雄略」という「皇国の皇国たる所以」とは「日本が日本として独立するである方法」であった。それゆえ、松陰はみずからの軍事的プレゼンスを積極的に確立する必要があったのだが、一八五六(安政三)年八月の「転回」(第二部第三章)により、天皇の存在そのものを「皇国の皇国たる所以」すなわち「日本が日本として独立している理由」と考えるに至って、そのような積極的軍事力の行使の傾向は消えていったのであった。ここにおいて、アジアは、貪欲に境界を画定すべき辺境としてではなく、諸国家が互いに関係し合うべき交易の場として認識されるようになったのである。
 
第二部 吉田松陰における思想形成とその構造
第一章 はじめに
その最初期においては、「我が国砲術の精確なる事遠く西洋夷に勝り候」(「水陸戦略」)と、無批判にみずからの優越性を認める自民族中心主義的思考を示していた松陰が、自己―他者に対する認識の転回により、世界の中の日本というあらたな自己像を確立するに至ったことを、第一部で明らかにした。引き続き第二部では、このような松陰の自他認識を支えた思想的背景について、松陰の著作を、作品論的にではなく、その瞬間その瞬間における彼の思想的表明として把握し、彼の思想的転回の軌跡を追うことで明らかにしていくことを目的とするものである。
 
第二章 『新論』受容の諸相
――その公刊以前を中心に
本章においては、幕末維新期における思想状況を、「志士のバイブル」ともいわれる会沢正志斎の『新論』受容の諸相を通して確認していく。
今日われわれは、『新論』を、後期水戸学を代表する国体論の著作として理解しているが、その公刊以前においては、必ずしも国体論の書として受容されていたのではなかった。長州藩の天保改革を主導した村田清風(一七八三〈天明三〉〜一八五五〈安政二〉)が筆写した「国体篇」「長計篇」を含まない写本(『海冦秘策』京都大学附属図書館尊攘堂所蔵)の存在は、『新論』が「国体論」としてではなく「兵学書」として受容されていたことを意味するものである。
また『新論』の国体論を受容するものたちも、それを全面的に受容したわけではなかった。とりわけ、公刊以前の版本の一つである『雄飛論』(鶴峯戊申書下カ、一八五〇〈嘉永三〉)では、「神州」という儒学的な日本の自称を「本編に神州と有を、今改て皇国と為す」と、国学的なそれに改めているのである。このことからも、『新論』が全的に受容されたのではなかったことがわかる。
また『新論』の古い地理認識は、『新論』支持者にとっても不満とするところであった。しかし会沢にとって、新興国アメリカの存在を認めることは、『新論』的世界観の破綻を意味するものであった。なぜなら、会沢が「神州は東方に位し、朝陽に向ふ」と日本の尊貴性を主張したのは、儒学経典である『易経』に基づくその東方性(「帝出乎震」)と、極西たるアメリカの未開性に求めていたからである。地球が丸い以上、本来的には極東・極西の区別はないはずであるが、会沢は文不文という事実を推して日本の東方性=「東方君子国」性を主張できたのであって、新興国アメリカの存在はその前提を否定するものであった。
しかしこのことは一方で、万邦無比たる日本国体の理論的根拠を、万世一系や君臣一体といったみずからの論理にのみ求めざるを得なくなり、近世儒学とりわけ近世国体論においてなされていた原理としての儒学経典による自己検証という反省的契機すらも喪失させていくこととなった。しばしば指摘される近代国体論の「魔術的な力」(丸山真男『日本の思想』一九六一)は、まさにこのみずからの論理によってみずからを、そして世界までも語るという自家撞着的な独善性に由来していたのであり、まさに『新論』の国体論は、その儒学性を喪失させることによって、近代国体論のイデオロギーとなりえたのである。
 
第三章 吉田松陰における思想上の「転回」
――水戸学から国学へ
 松陰は水戸で会沢正志斎に会い、統一国家(皇国)としての日本の観念を教えられたが、松陰がいつまで水戸学の影響下にあったについては、いまだ論議のあるところである。本章は、彼の思想が一八五六(安政三)年八月の「転回」を経たのち、水戸学から国学へ大きくシフトしたことを明らかにしたものである。これは次の二つの点から論証することができた。
1 松陰の読書ノートである『野山獄読書記』の分析から、松陰の読書傾向が水戸学の著作から国学の著作へ移行した点。
2 「転回」後、松陰は会沢の下で学ぶために水戸に留学していた友人赤川淡水に宛てて、水戸学的な尊王敬幕を主張する淡水を真の尊王家ではないとして糾弾していた点。
水戸学は日本の存在理由を儒学(とりわけ「君臣父子の大倫の正しき」こと)に基づいていた。しかしそれでは、より「大倫の正しき」国が現れたときは、日本の存在理由は相対化されてしまう。それゆえ「転回」を経た松陰は、日本固有の天皇の存在自体に基づいていた国学の主張を受け入れてみずからの活動を展開させていったのである。
 
第四章 論争の書としての『講孟余話』――吉田松陰と山県太華、論争の一年有半
前章では、松陰の尊王論の基盤が、水戸学から国学へとシフトしたことを明らかにした。日本独立の根拠をその固有性としての天皇に求めた松陰は、みずからの尊攘論を転回させ、あらたな日本の自己意識を獲得するに至った。松陰にとってこの自己は、「国際社会」における諸国家と対等な独立存在であり、天皇は内外における日本の主体性を表現する「元首」にほかならなかった。この「転回」以前にも見ることのできた固有性への傾向を、松陰はいかにして発見したのであろうか。それは、『講孟余話』をめぐる朱子学者山県太華との一年有半にわたる論争の過程において見出されたものであった。本章は、この『講孟余話』をめぐる論争の基礎的考察である。
奈良本辰也氏を始めとした先行研究において、この太華の「講孟箚記評語」は、『講孟余話』完成後に著されたと考えられてきた。しかし、本章で明らかにしたように、松陰はまず『余話』の「滕文公篇」までを送り、それに対し太華が評語を返したことから、松陰と太華の論争が始まったのである。そしてその後の数次にわたる『余話』と「評語」の往復の結果、『余話』は完成したのであり、その意味で『余話』を完結した体系的著作と見做すことは適当ではない。
『余話』を論争の過程として見たとき、松陰の思想の深化が、実に太華の評語による反駁の結果もたらされたことがわかる。たとえば、「天日の嗣永く天上と無窮なるもの」(『余話』「梁恵王下八」)などという、松陰の極めて水戸学的な天皇観の表明に対し、「天日とは太陽をいへるにや…極めて大怪事なり」と太華が論難したことで、松陰は「天子は誠の雲上人にて、人間の種にはあらぬ如く心得るは、古道曾て然るに非ず」(『余話』「万章篇下二」)というように、かつてみずから主張していた、現人神天皇観をみずから否定したのであった。このような太華の影響を考慮に入れなかったからこそ、先行研究は矛盾した『講孟余話』の叙述を解釈できなかったのである(ただしこのような天皇観は再び転回する。次章参照)。本稿が提示した視座は『余話』および松陰研究の新たな指標となろう。
 
第五章 吉田松陰の神勅観――「教」から「理」へ、そして「信」へ
松陰は、「皇国の道悉く神代に原づく。則ち此の巻〔『日本書紀』神代巻〕は臣子の宜しく信奉すべき所なり」(『講孟余話附録』「講孟箚記評語の反評」)というように、日本神話――とりわけ「天壌無窮の神勅」への「信」を強く主張していた。しかし、このような「神勅」への「信」は、生来のものではなかった。むしろ兵学師範時代の松陰は、宗教を人心掌握の手段=「教」としてとらえていた。そこには、治者意識から来る抜きがたい愚民観があったのである。そしてこの「教」としての宗教観は、「祭は以て政となり、政は以て教となる」ことを主張する水戸学と交わることで、一層強くなっていったのであった。
だが脱藩・密航を経て萩野山獄に投ぜられるに至り、みずから「世の棄物」と呼ぶような存在になったとき、松陰の愚民観は大きく後退していった。それは、ペリー艦隊密航の罪で江戸に送致された際の駕籠を舁く被差別民の青年たちとの実際の交わりなども影響していたであろう。かくして「教」としての宗教は退き、代わりに宗教をきわめて合理的に理解する態度のみが松陰に残ることとなった
「天壌無窮の神勅」を「異端怪誕」と見做し、また超越的な存在を不可知なるものととらえることによって、合理的な神観念を主張するに至った松陰は、宗教をもはや「教」としてではなく、ただ「理」のうちにとらえるようになっていった。しかし、このような合理的態度とりわけ「神勅」に対する態度は、やがて本章冒頭で見たように、「論ずるは則ち可ならず。疑ふは尤も可ならず」という絶対的な「信」へと大きく転回していくのであり、この「転回」を導いたのものこそが、本居宣長の『直昆霊』であった。
『直昆霊』は、「皇国」の存在理由を普遍的な「道」や「徳」に基づくことを拒否する。なぜならば、このような普遍的規準で「皇国」の存在理由を説いた場合、日本天皇が「不徳」な場合、あるいはそれよりも「有徳」な人間が登場した場合、「皇国」は「皇国」である根拠を失う可能性を有している。その意味で「万世一系」は、単にこれまでそうであったという単なる事実であって、これ以後もそうであることを何ら保証するものではなかった。まさに宣長はこの事態に危機感を抱いていたのであり、それゆえ「有徳者為君」説を否定し、絶対的でそれ以上因果を遡及できない「神勅」に、「皇国の皇国たる所以」を見出したのである。一八五六(安政三)年八月の「転回」により、みずからの尊王論の基盤を水戸学から国学へと大きく転回させた松陰が宣長に強く共感した点はここにあった。
松陰にとって、「日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば正気重ねて発生の時は必ずある」(「堀江克之助宛」一八五九〈安政六〉年一〇月一一日)ことを保証する「神勅」が真実であると信じることは、みずからの尊攘運動の成就を信じることであった。すなわち「天壌無窮の神勅」は「皇国」たる日本が、未来永劫独立不羈でありつづける「神聖な約束」にほかならないと、松陰には考えられたのである。
松陰にとって「皇国の皇国たる所以」の模索は、その生涯のテーマであった。かつてそれは「聖天子」による「四夷懾服」であり、さらには万世一系・君臣一体に求められていた。しかし「転回」を経た松陰は、「君臣の義、講ぜざること六百余年、近時に至りて、華夷の弁を合せて又之れを失ふ」(「松下村塾記」一八五六〈安政三〉年九月四日)と主張するに至った。それは松陰に、武家のレジーム(君臣の義)および西洋列強の存在(華夷の弁)という国内外の現実を強く認識させ、新たなる「皇国の皇国たる所以」を模索することを求めたのであった。そして、その彷徨の末に見出されたのが、「天壌無窮の神勅」への「信」だったのである。主体的な尊王主義者――それが、松陰が最終的にたどり着いた立場であった。
 
第六章 幕末における普遍と固有
松陰にとって、「天壌無窮の神勅」は、日本の独立とみずからの尊攘運動の成就を保証する「神聖な約束」であった。しかし松陰は、それがあくまでも「万国皆同じ」な「鴻荒の怪異」であることを忘れることはなかった。すなわち、「神勅」は「皇国」固有の「神聖な約束」であって、「万国」における普遍的な「約束」ではなかったのである。松陰にとってこの日本の固有性がいかに位置づけられていたのかを、本章では松陰と太華との論争を中心に明らかにした。
松陰は、日本の固有性(「皇国の体」)を主張するのと同時に、世界における普遍(「五大州公共の道」)の存在を認める点で、矛盾した思考様式を成している。この矛盾を含んだ松陰の固有主義に比べれば、確かに日本の固有性を特殊性に解消する太華の徹底した普遍主義(「天地間一理」)は、合理的な妥当性を有していたといえよう。しかし、はたして太華の普遍主義は、現前する諸国家の相違を乗り越えうるものであったかについては、疑問を呈せざるを得ない。太華の「天地間一理」とは、あくまで形而上学的な「理」に基づく抽象的普遍であって、「天下」における具体的問題に対応しうるものではなかったのではないだろうか。
松陰は、日本の固有性(「皇国の体」)を主張する一方で、その固有性を単に日本のみだけではなく、世界万国相互に認め、その相互承認にもとづいて、世界における普遍(「五大州公共の道」)がかたちづくられると考えていたのであり、この点にこそ明治国家において喧伝された「金甌無欠」の「国体」とは異なった、松陰における日本の固有性の模索の意義があったのだと言えよう。
 
結   論
幕末維新期は、一九世紀中葉の世界の地球規模化という世界史的状況に臨んだ人々が、現前する西洋を他者として認識し、またそれとは位相の異なる他者としてアジアを認識し、さらには自己として日本を認識する自他認識の転回過程であった。この点で、松陰のペリー艦隊密航とその投獄とは、当時の人々に「寸板海に下す」ことを知らしめた、「鎖国」の終焉を象徴する事件であった。
「航海雄略」のような主張自体は、当時の知識人において必ずしも特異なものではない。しかし松陰においては、その「雄略」の主体が、天皇に求められたというところに特筆すべき点があった。松陰は、「皇国の皇国たる所以」を天皇の存在、さらには「天壌無窮の神勅」という固有性に求めることによって、日本が日本として独立することを根拠づけたのであり、また「敵体」・「敵国」という儒学的概念を読み替えることで、天皇を対内・対外双方の主権が収斂する「元首」と位置づけ、国内外における政治主体の問題を解消し、日本を名実ともに「帝国」=独立国たらしむることを目指したのだと結論するものである。
 
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松陰ゆかりの地(津軽)を訪ねて
 04年6月8日から、2泊3日で、松風会役員等8名、松陰の『東北遊日記』の跡を訪ねて、津軽を旅した。
 
松陰室 (弘前市元長町19)
 養生幼稚園と名の入った門をはいると、右側にアイグロマツが聳える立派な庭があり、庭を眺めながら玄関を入るとそこは松陰室である。ここは伊東広之進(梅軒)の旧宅で、嘉永5年(1852)3月1日、吉田松陰と宮部鼎蔵が訪ねて、会談した部屋が当時のまま保存されていた。部屋の正面に松陰の画像を掲げ、その一隅に偉人棚を設け、先哲の遺品、遺墨が陳列してある。松陰画像の左側には、大正6年に山県有朋から贈られた扁額が掲げてある。
 扁額には「半日高堂の話」と松陰先生の漢詩の一節が横書きにされ、その後に縦書きで「松陰先生詩中の語をとりて松陰先生記念会の為に題す 大正六年七月 門下生 有朋」と書してある。
 元長町には伊東家が2軒並んでおり、1軒が藩の医師、もう1軒が藩校の先生、伊東広之進(梅軒)宅であった。この2軒は血縁関係はないそうである。
 梅軒は14歳で藩校稽古館に入学、24歳で藩校の教授となる。28歳の時、江戸遊学を許され昌谷五郎、佐藤一斎、朝川善庵、東條一堂に師事、鳥山新三郎と親しく交わり、翌年には大阪に遊学し篠崎小竹に入門、安藤太郎、月性と交わり、さらに翌年は淡路へ、そして中国・九州と5年間遊学の後、故郷の弘前へ帰った。
 津軽に帰ってからは、北方警備の海防の任に当たり、戊辰戦争では諸藩への使者となっている。
 もう一方の伊東家の重は安政4年に生まれ、東奥義塾に学び、明治19年(1886)に東京大学医学部を卒業、帰省して家業を継いだ。東大に入学した頃、義塾でジョイン・イングに英語を学んでいた伊東は、英語の授業に出席しなくてもよく、理学部に学んでいた義塾の学友岩川友太郎のすすめでモースの進化論の授業を拝聴した。このことが生存競争、優勝劣敗、自然淘汰の学説と幼児から学んだ東洋哲学、日々現実に看る患者とその生活背景等から、人類の競争力に勝利する条件を具体的に示した『養生学』を生むこととなった。
 明治27年、この養生学をもとに「養生新論」を聞く「養生会」が始まった。明治38年には伊東重が購入していた梅軒の旧宅を事務所として財団法人養生会が発足した。
 明治41年は、安政の大獄で処刑された吉田松陰の50年祭で、松陰神社(東京世田谷)で盛大な祭典が行われた。それに参加する機会を得た伊東重は深く感動し、弘前でも記念会を開くことを決意し、明治44年3月1日「第1回吉田松陰先生記念会」を開き、以後一度も休むことなく続けられ、今年第94回が行われた。94回も続けて行われていることに敬意を表するものである。その松陰室に座し、時の過ぎるのも忘れていた。
 
弘前公園(弘前城)
 次ぎに弘前城へ出かけた。現在は敷地面積約50万平方キロの公園として整備され、天守閣・3つの櫓・5つの城門・堀が残っていた。テレビ等での桜を見たことはあるが、ソメイヨシノやシダレザクラの大木が大きな枝を広げているのを目にし、歴史を感じることが出来た。
 
佐和家
 夜は養生会の会員8名と松陰が食事をしたと言われている佐和家(現在は和風レストラン)で交流会を開催した。松陰先生の詩が吟じられ、やがて「長州・津軽交流会」なる会の名前まで出る有様で、次は山口か萩で是非お迎えをして開催したいものである。
 9日は、心配していた雨が上がり、巡検には絶好の天候に恵まれた。9日・10日は小泊村の柳沢良知氏の案内で津軽を一回りする。8時30分に小泊から2時間かけてやって来たジャンボタクシーに乗り込み、ホテルを出発した。20分ばかりで藤崎町松陰止宿跡とされる「さとかつ商店(当時は川越家)」前に着いた。
 
藤崎町松陰止宿跡(藤崎町藤崎)
 松陰は朔日に続いて2日にも伊東梅軒を訪問し話が弾み、「辞して出づれば即ち已に申なり。城市を離れ、一橋を越え、藤崎に至りて宿す」と書いているように午後4時を過ぎて出発したので、遠くまで行くことが出来ず藤崎で宿をとったものであろう。
 
立佞武多の館(五所川原市大町)
 私達は藤崎を後に北へ進み、1時間と少しで五所川原市へ着いた。「立佞武多の館」を見学した。ここでは省略する。
 
田川松陰先生渡船記念碑
 次ぎに市内の田川松陰先生渡船記念碑を訪ねた。石碑は五所川原線下田川バス停留所傍らの土手に設置されていた。石碑は高さ130cm、横52cm、厚さ10cmで表に「吉田松陰先生渡船記念碑」、裏に「吉田松陰ハ夙に我ガ国防情勢の巡察ヲ企テテ遠ク津軽ノ地ニ入リ西北海岸ニ至ラントセシ際当時著名ノ要路所謂赤堀道ノ渡船場ナリシ此処ヲ通過シタルハ實ニ今ヨリ八十九年前ノ嘉永五年三月三日齢二十三ノ時ナルコト先生手録ノ東北遊日記 ニ明カナリ若シソレ先生ノ事歴ニ至リテハ既ニ世顕著ナル所以テ教化ノ玉杙トナスベシ 皇紀二千六百年 昭和十五年十二月中川村大字田川」と彫られている。
 本来なら、金木・中里と北進すればよいものをなぜ岩木川を渡ったのでのであろうか。松陰自身は「此れより金木を経て中里に至る是れを本道と為す。土人の誤る所となり赤堀に至る」と地元の人が間違って教えたと書いている。
 海原徹氏は『江戸の旅人吉田松陰』(ミネルヴァ書房)で「…この辺りは、一望田園風景の中を岩木川が蛇行しているだけでなく、近くに十川や旧十川、放水路などが幾つも流れる分かりにくい地形となっており、松陰等が道を間違えたのも当然のように思われる。あるいは道案内をする津軽なまりが、今一つ聞き取れなかったのかも知れない」と。また奈良本辰也氏は『日本の旅人15、吉田松陰 東北遊日記 』(淡講社)で「五所川原から金木を経て中里に行く道が本道である。ところが、道を尋ねた土地の人が間違えて教えたので、彼等は赤堀に出た。舟で岩木川を渡って、その西岸を西に下り、さらにもう一度渡って富野に行くという道をたどった。そのまま北に行けば何でもないのに、ずいぶん廻り道をしたものである」と。
 私は、地元の人が松陰達の言うことを十分理解できなかったか、松陰達が津軽弁をよく聞き取れなかった上の間違いだったのではないかと思っている。
 この記念碑を見ているとき地元の人が軽四から降りてガイド役の柳沢さんと話している言葉は半分くらいしか聞き取れなかった。話の要旨は、冬になるとここは凍てついて車がスリップして石碑が邪魔になるので、近くの小学校へ移したらどうだろうというものであったらしい。これは渡船記念碑であるから、川の側に建てるのが望ましいと思った。できれば道の反対側の川土手がよいのではと勝手なことを考えた。この石碑は今後どうなるのであろうか。(その後学校へ移転が決まったそうだ)
 
神原之渡し(金木町神原)
 松陰達は田川から対岸の芦屋に渡り、約10km北上し、繁田から神原へ渡船し、蒔田の田中家で昼食をとっている。神田橋の神原側土手に「神原之渡し」の石碑が建っている。石碑の北側には「史跡 神原之渡し」、東側「史跡 十三、館岡街道吉田松陰ゆかり之地」、西「のぼる真帆くだる片帆のしげくして 船うたたえぬ川の面かな 八幡宮社司十三代笹木千影」、南「賛助 金木町町長 田中勇治 建立者 白川 兼五郎 筆者 吉田翠石」と。
 
吉田松陰先生昼食の場所(金木町蒔田)
 次ぎに蒔田の「吉田松陰先生昼食の場所」の記念標柱を訪ねた。標柱は木材のため朽ちが始まり、揮毫は全て消え、基礎のコンクリートも崩れが始まって、彫られた関係者の名前も分からなくなっている。この標柱は昭和25年10月、蒔田小学校職員の手によって建立されたものである。松陰は舟から上がり約1500m歩いてここへ来たものであろう。
 松陰達が訪れた時は豪農紺屋田中長十郎家でその後家屋は嘉瀬村山中利雄の手に渡ったが、屋敷はその後蒔田小学校となり、現在は吉田賢一氏所有となっている。
 蒔田には当時「川港」があり、常に川舟が数10隻集まっていた。米や木材などを十三湖に運び、鰺ヶ沢を経由して上方へ運ばれた。
 松陰達は昼食場所から再び川港へ戻り、川舟に乗って中里町富野まで下っている。この間約3kmだが、道が川に沿っているので舟に乗るよう進められたのであろう。
 私達は、次ぎに太宰治の生家「斜陽館」を訪ねたが、ここでは省略する。
 松陰達は豊岡、八幡を経由して中里町に入り亀山の加藤九八郎家(現在戸主加藤俊輔)に宿泊している。訪ねたが昔を語るものは何一つなかった。
 
吉田松陰遊賞之碑(中里町今泉)
 次ぎに私達は「吉田松陰遊賞之碑」を訪れた。石碑は高さ285cm、横80cm、厚さ27cmである。松陰は日記に岩木山を映した十三湖を「真に好風景なり」と書いている。
 石碑の表面には「吉田松陰遊賞の碑 蘇峰管正 敬書」、裏面には「松陰先生曾遊記念碑 嘉永四年十一月長藩士吉田松陰與肥藩士宮部鼎蔵北遊自江戸至水戸越五年正月(途中略)
 青森県知事正五位勲四等守屋磨瑳夫撰 従五位医学博士 久保木保壽 書 昭和六年歳次辛未五月 」
柳沢氏訳文「嘉永4年11月、長州藩士吉田松陰、肥後藩士宮部鼎蔵と北遊す。江戸より水戸に至り、越えて嘉永5年正月会津・新潟を経て、佐渡に航す。更に北奥に入る。行き行きて内潟今泉七平を過ぎたちまち万頃一碧(広くて一面碧色)鏡の如きを見る。汀渚盤回(周りは全て渚である様子)雲煙呑吐(雲や霞が立ちこめたり引いたり)鳧鴎?翔(かもやかもめが高く飛び回る)漁歌互答(漁夫の歌声が聞こえる)にして白扇の天外に懸かるは津軽富士なり。二士行旅にあるは五閲月(月日がたつこと)。つぶさに艱苦を誉め、是に至りて始めて快適の顔を開くと言う。嗚呼、海内名勝を以て称する者千百何限りなく而して名士その輝きを揚得せざればすなわち霧中の花、雲外の月たるのみ。百世と雖も知ることなし、央豊の耶馬渓、頼氏(頼山陽)に依り以て著たり。我十三潟二士に頼りて以て彰る。東西呼応神州の美をなすは、もとより其の所なり。ただ此の地を以て一方に僻在し、その美遠く見えざるを憾みとなすのみ。輓近舟車の便(近頃の交通の便)千里比隣の如く、もろもろ昔日に比するに双刀を帯び以て峻嶺を攀づ(のぼる)駕一葉以て怒濤を凌ぎその難易苦楽景して如何ぞや。余知る其れ千里を遠しとせず来者日に相踵ぐべきを。このごろさとの有志胥謀り石を建つるを諸江渚にはかり、余(自分)嘱に応じて之を記す。」
 またこの由来について次のように書かれている。
「嘉永四年(1851)勤皇の志士吉田松陰は、江戸遊学中友人宮部鼎蔵と密かに東北の旅に出た、ときに松陰二十三歳。学問を磨き情報を収集し、北方海岸の防備を視察するためである。
 秋田藩領から矢立峠を越え、弘前、五所川原を経て嘉永五年旧暦三月四日此の地を通り、波穏やかな十三湖を遙かに霞む岩木山の絶景にしばし足をとどめた。その日記には
「…真に好風景なり。」と記している。これを記念し、昭和六年地元有志等は、明治、大正、昭和の三代にわたって活躍した言論人徳富蘇峰の揮毫になる記念碑を建立したが倒壊したため昭和三十九年建て替えた。
 この碑も風化による破損が著しくなったので、当初建立した碑に基づいて復元し、平成四年三月この場所に移したものである。 平成四年三月 中里町長 塚本 恭一」
 松陰と同じように磯松、脇元を経て小泊村へ入った。正午をかなりすぎていたが、ライオン海道を通り、下前の大福食堂で昼食をとった。地元の漁師さんが経営しておられ、朝獲ってきた魚がテーブルに並んだ。盛りつけられた刺身は食べても食べてもなくならい程の量であった。
 
松陰小泊止宿跡
 松陰が宿泊したとされる当時庄屋だった太田半次郎大阪屋跡(現在浜町のオワラ宅)を訪ねた。しかし、当時を物語るものは何一つなく、松陰の日記から想像するのみであった。「戸を推してこれを望めば、松前の連山咫尺(ししゃく)の間にあり、駅を出て海に沿いて砲台の下を過ぐれば、砲(おおずつ)二坐安(お)く、板屋を以てこれをおおい、砲長口径つまびらかなるを得ず、行くこと二里にして海を離れて山に入る」
 次ぎに新しく作られたマリンパーク(海水浴場)から砲台が置かれていた丘を遠望した。小説「津軽」の像記念館・村役場を表敬訪問したがこれは省略する。
 
みちのく松陰道
 小泊の町を後に左手に海を眺めながら北上した。やがて傾り石(かたがりいし)のみちのく松陰道の入口を示す立派な石碑があった。石碑の表には「右 みちのく松陰道 青森県知事 木村守男 書」、裏面には「平成八年七月建立 青森県歴史の道整備促進協議会 協賛 小泊村 財団法人むつ小川原地域・産業振興財団 嘉永五年三月五日、維新の先覚吉田松陰と盟友宮部鼎蔵がこの川沿いに三厩に越えた。命名はその故事による 漆畑直松 識」と書かれている。石碑は黒御影石で、高さ210cm、横50cm、厚さ21cmである。この漆畑氏は「松門4号(昭和63年3月1日松風会発行)に「松陰北辺の旅」と題して寄稿しておられる。
「(前略)松陰にとって、北辺の旅の収穫は大きかったに違いない。私どもはこれを縁として、竜飛崎に「松陰先生詩碑」を建て、算用師峠を整備し、関係市町村28が協議会をつくり、松陰先生の精神を県民運動にまで高めようと、その足跡を辿る行事など絶え間ない努力を続けている。(後略)」
 また、「松門22号(平成8年5月31日松風会発行)」に「悲願、みちのく松陰道を」と題して、みちのく松陰道がどのようにして整備されたか詳しく述べられている。私達はここから算用師峠を越えて、三厩へ抜けるいわゆる「みちのく松陰道」はまたの機会にし、車で竜泊(たつどまり)ラインを30分ばかり走り、竜飛崎に着いた。
 炎のように燃える松陰の心を表現したと言われる「吉田松陰詩碑」には『東北遊日記 』3月5日の漢詩が彫られていた。石碑の横面には「吉田松陰先生、幕末の大先覚 三十歳安政の大獄に刑せらる門下の英傑みな維新の大業に参ず
 先生二十三歳西暦一八五二年早春盟友宮部鼎蔵と共に東北の海防を実地踏査せんと小泊より残雪を踏みて竜飛の南方算用師峠に到り憂国の至情を詩に託す 嗚呼 昭和四十一年十月三日 有志一同」、裏面には「吉田松陰先生詩碑建設同志会 会長 佐藤尚武 副会長 阿部竹之助 工藤久吉 理事 神 守男 種市悌三 吉田啓三 近藤達夫 小山内吉松 幹事 花田弥郷 中館太郎
漆畑直松 協力 陸上自衛隊第九師団 三厩村 題字並詩文揮毫 佐藤尚武 彫塑 小坂圭二」と書かれていた。
 松陰は竜飛崎には足を運んでいないが、日記に「小泊・三厩の間、海面に斗出するものを龍飛崎と為す」と書いている。
 
三厩側から記念碑みちのく松陰道
 次ぎに私達は、三厩側から「みちのく松陰道記念碑」を訪ねた。小泊と同じ大きさの碑で、表面には「みちのく松陰道 青森県知事 木村守男 書」、裏面には「平成九年六月建立 青森県歴史の道整備促進協議会 協賛 むつ小川原地域・産業振興財団 三厩村 青森銀行頭取 井畑明雄 みちのく銀行頭取 増田孝助 志を立てて以て万事の源と為す 吉田松陰」と。 
 
大泊鋳釜崎の記念碑
私達は今別の町を通り、与茂内海岸の松陰が通ったという「松陰くぐり(地元では陰くぐりと言う)」を車窓から眼下に眺め、大泊鋳釜崎の記念碑を訪ねた。石碑には『東北遊日記 』3月5日の一部「小泊・三厩の間〜(途中省略)〜路者漠然として省みざるを 嘉永五年(一八五二)三月五日小泊から算用師峠を越え、三厩から南下した松陰は、津軽海峡の異変を、藩を越え日本的視野で捕らえている。二十三歳であった。」と書かれていた。
 
袰月の松陰止宿跡小倉家
 松陰は「上月を発して平舘に出づ」と書いているが、これは松陰の聞き間違えで、上月ではなく袰月(ほろづき)ではないかと言われている。私達は袰月の松陰止宿跡小倉家の前を通り平舘村台場跡に着いた。
 
平舘村台場跡
 説明板には次のように書かれていた。「平舘台場の由来 台場は寛政文化の頃、近海に異国船が出没するようになったところから、幕命によって津軽藩が外ケ浜海防施策として嘉永元年十二月に築いた西洋式砲台場である。台場は海に沿い高さ一丈二尺の土台を
積み上げ横十間、縦五十間位の長方形状に並べ、全面は所々を切断して砲門とした。二箇所に入口があり、台上一帯に松を植え、中央は低く海上から見透かされぬ用意がなされている。原型のまま保存されているのは、全国的にもまれである。
 かの有名な吉田松陰が嘉永五年(一八五二)三月七日北風吹く雪どけの頃歩くのに難渋しながらこの台場と附近の情景を「東北遊日記 」に記している」と。
 松陰が5日間かけて歩いた道を私達は、車を利用して1日で廻り、平舘村根岸の不老不死温泉に宿をとった。
 
 6月10日、午前8時、不老不死温泉を出発。気温が下がり霧が深い朝である。陸奥湾に沿って海岸道路を南下し二ツ谷(松陰は二矢村と書いている)を通過した。この附近には海岸に沿って家が建ち、船小屋が並び、ホタテを陸揚げしている最中であった。
 松陰はここから舟で青森港へ向かった。私達の松陰の足跡を訪ねる旅はここで終了、帰途についた。
 (財)養生会理事長小笠原豊氏、小泊村文化財保護審議委員柳沢良知氏の御尽力により、今回の旅ができたことを深く感謝するものである。
 交通機関や情報の発達した現在の旅からは、想像できない松陰達の旅であったと思う。厳冬の最中、よくもみちのくまで行ったものだと今更ながら松陰の心を強く感じた。また、津軽の人の松陰への思いを強く感じることができた。
(文責 松風会事務局)
 
 
参考・引用文献
『吉田松陰 東北遊日記 』奈良本辰也著、淡交社
『吉田松陰の東北紀行』滝沢洋之著、歴史春秋社
『江戸の旅人 吉田松陰』海原徹著、ミネルヴァ書房
『吉田松陰 津軽の旅』柳沢良知著、柳沢良知出版
『月刊弘前』平成13年4月号
 
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第18回松陰教学研究会:04,12,4
講義要旨
松陰の魂に誠を刻み込んだ父母の生き様
常に我が子を信じ励まし続ける家族の気高さ
              防長新聞編集局員 折本  章
 はじめに
 最近漢字を知らない人が増えている。漢字は難しいかも知れないが含蓄に富み、漢字を大切にしないと日本の文化が廃れるのではないか。現在の教育では我慢して取り組むことや、思いやりが大切である。
 松陰の志を最もよく継承したのは乃木希典である。彼は松陰の志を実践に移した人である。乃木の弟が玉木家へ養子にいったので、希典も玉木家へ出入りをしていた。玉木文之進は常に、松陰の半分でもよいから勉強したら素晴らしい人間になれると言っていた。乃木は松陰の精神を学んで忠実に武士の鑑のように生きた。乃木は次のように言っている。
「五のものを十と見るのは傲慢である。」「十の力を持ちながら五と見るのは卑屈である。」「五を五と見る。十を十と見るのが人間の在るべき姿である。これが自信につながる。だからあるがままの自分の姿を追い求めていくのが人間の発展につながっていく」
 これが松陰の根幹を流れる精神でもあると思う。
 松陰は誠を孟子の精神に見習って実・一・久と説明をしている。実は嘘、偽りなく本当にそのように思って実行すること、
 一は専一でそのことだけに心を向ける。山に入って獅子に出会った。矢を一本射る。射止めたら自分の命は助かる、しかしもし射ることが出来なかったら獅子に殺される。そのとき何を考えるか。全身の力を込めて獅子をねらう。これが一である。雑念がなく没頭すること。
 久は久しい、いつまでも、死ぬまでそのことを続けることである。これら三つが皆揃って初めて誠となる。
 孝行では親を大事にして感謝・敬愛する気持ちが本心でなければならない。ところが財産めあてなど下心があって親孝行をするのは一ではない。これは誠ではない。財産とか自分の利益を考えるのは本物ではなく、これは誠ではない。
 親を見るのもくたびれたと言って途中で投げ出すのも誠ではない。実一久が一体となったとき誠が存在する。松陰はこの誠を貫き通したと言ってよい。これが松陰のすばらしさである。
 
(1)松陰研究を振り返って
 「先賢の志に学ぶ、二十一世紀の教育を問う」(ジャパンインターナショナル総合研究所発行)に私も原稿を寄せている。最近の教師の志の衰退を憂い、出版されたものである。私は学生時代から松陰の研究に取り組んだ。だが「天の高さは高山に登らざれば知れず」の心境である。
 幼児がお月様をとってくれと屋根に上がれば、少しはお月様に近づくかも、さらには山へ登ってみれば、しかし全く近づくことはない。松陰の偉大さは勉強してみて分かるもので、未だ以て全く近づいた気がしない。
 松陰が久坂玄瑞に出した手紙に「教育は己を成して、人自ら信服するようにしなければならない」と書いている。何もしなく、教師が存在するだけでこの人は素晴らしいと信服されるような師にならなければ駄目であると。無為にして人を導くような教師でなくてはいけないのではないか。教師に限らず上に立つ者は皆同じである。
 宮本武蔵が晩年熊本の洞窟に籠もり座禅を組んでいると、和尚の肩や膝には蛇が上がったりして遊んでいるが武蔵の方へは寄りつかない。自分には殺気があり蛇がそれを感じて寄りつかない。まだまだ修行不足であると反省したそうだ。子供たちは、教師がどんな教師であるか直感的に感じ取るものである。
 孔子が君子と話をするとき大事な三点を挙げている。
 一つは「言未だ之に及ばすして言う、之を躁(あせり)という」。自分が言うべき時でないのに相手の話に口を挟んで発言する。これは焦りである。人の話はじっくり最後まで聞いてそして自分の意見を述べる。
 二つめは「言之に及びて言わざる、之を隠という」。自分が言うべき時に何も言わない。これは隠れて相手に気持ちが伝わらない。
 三つめは「未だ顔色を見ずして言う、之を瞽という」。相手の反応を見ないで自分勝手にしゃべる。これでは何も見えない。
 
(2)二十一回猛士の説
 実家杉の漢字には二十一の形がある。養家吉田も二十一回の形がある。
 松陰は寅年生まれ、虎の長所は猛である。猛はいわゆる激しさであり、天の声、誠である。松陰はこの猛の実践という使命感を抱き、それを実践せずにはおられなかった。普通の生活では、このようにすればこうなるからやろうとか止めようとか言うけれども、これは猛ではない。猛を実践することが松陰の生き様そのものである。
 このような猛を二十一回行って日本の上に立ち込める暗雲を払いのけるのだと言う精神である。今まで松陰は3回猛を働いた。あと十八回残っていると。高杉は猛を十八回残して亡くなられた松陰先生は、さぞかし悔やんでおられるだろうと書き残している。松陰はこれを狂とも言ってる。
 
1 学問や農事に励み清貧に 生きる肉親
(1)実家・杉家の家庭環境
 @ 失意と悲哀
 松陰が失意のどん底にいるとき家族が温かい言葉をかけた。そのような父母の心を苦しめることはとても辛かったが、国に殉ずるためには、そのようなことは考えてはおられなかった。
 A 女子教育の重視
 これは母を見本にしたのであろうと思う。
 B 大孝とは身を立て道を行ひ、名を後世に揚げ、以て父母を顕するは孝の終わり也。途中では親不孝に見えても最終的にはそれが真の孝となる。
 小孝は単に骨肉の父母にのみ敬愛を尽くし喜ばせ安心させ、親に迷惑をかけないようにする閉鎖的孝養をいう。親孝行したいときには親はなしと言われてきたが、現在は親孝行したくないのに親がいる。親孝行するもしないも金次第。などと言われ残念なことである。現実には多いことかも知れない。
 
(2)労作を通した人格形成
 松陰の学問は田畑で行われたと言ってもよい。汗を流すことの充実感を両親は体で教えている。現在はこのようなことがなくなった。一日汗を流し風呂に入り一緒に食事をしながら、今日も頑張ったなと言う充実感を味あわせることが大事である。杉家は風呂を常に炊いて心身の疲れを癒していた。
 
(3)学問の重視
 「学というものは進まざれば必ず退く、故に日に進み、月に漸み、遂に死すとも悔ゆる事なくして始めて学というべし。」「学問の大禁忌は作輟なり。」と松陰は言っている。
 進みつつある教師のみ教える資格ありとよく言われたが、同じ事である。最近は人の言動や栄進などに左右される者が多いが、これを「水急ぐとも月は流れず」水が濁流になって勢いよく流れていても、お月様は何も気にはせず、翌日にはまた昇ってくる。いわゆる自分のペースで、止まらず歩み続ける姿勢が大切である。
 「人は源あるの水を以て志とすべし。科に盈たずして進むことありては、誠に愧ずべきの至りなり」。松陰が孟子の言葉をもとに言ったのである。水が地下からこんこんと湧きだし池にいっぱいに溜まり池からにじみ出ている。湧き出す源のある人間に成らなくてはいけない。すぐ枯れてしまうようでは人として恥ずべきの到りである。湧く源は勉強である。
2 父母の励ましのことば
「汝が如く書を読まずして話ばかりすれば、話す事尽くべし」
 兄の梅太郎は話し好きで、あちこちで話をしては帰りが遅くなる。父が本を読まず話ばかりでは出て行くばかりで知識が溜まらないぞと兄を戒めた。
 松陰が御前講義(親試)で藩主からお褒めの言葉を賜った。近所の者がお祝いにやってきたとき父が言った言葉である。
「我が児は兵家師範家の後なり、区々たる講説何ぞ誇るに足らんや」
 (おまえは兵学の跡取である。これくらいのことで満足していてはならない。おまえはもっともっと伸びる力があるのだと励ましの意を込めた。)
 15歳の親試の時、藩主は見事な講義に感心し、更に試す意で、いきなり予定していない「孫子虚実篇」を講じさせたところ、松陰は見事な講義をしたので藩主は「七書直解」を褒美に与えた。
 松陰は「試験というものは日にちを決めて実施すべきではない。期間を決めないでいきなりやらないと駄目である」とも書き残している。すごいことである。
 21歳の時、「篭城の大将心定めの条」を講じた。城に立て籠もり戦うときには殿様の気迫・気概が配下に及ぼす力は莫大なものである。殿様が腹を切る覚悟で篭城すれば皆の力がでる。このようなことは藩主に言えるものではないが、松陰が言えるのは自分の事は考えない誠の心の現れであるからである。私情を抜きにして善と思うことを述べると、皆が納得してくれるものである。
 松陰が宮部鼎蔵と東北へ日本の防備の状況を視察のため旅行を計画していたところへ、江?五郎が兄の仇討ちに行くので一緒することとなり、縁起(赤穂浪士討ち入り)をかつぎ12月15日を出発と決めた。藩の許しは得ていたが、過書(通行手形)が届いていなかった。それがどうしても間に合わず、松陰は困った。手形のないまま出発すれば脱藩の罪に問われることは分かっていながら、義気を貫くため決めた日時にそのまま出発する。旅から帰り士籍と禄を失い浪人となる。その時父が行った言葉。
「汝が素志遠大なり、一たび誤るも国に報ゆるは尚ほ時あり、豈に勤めざるべけんや」
 この親にしてこの子ありというべきである。失われるものは自分のことだけで天下国家には関わりがないことである。松陰を動かしたのは義である。流れた水は水車を回すことは出来ないが、水車を回すべき水はいつも流れている。過ぎ去ったことを嘆いても仕方がないことである。藩主への温情や家族への連累を断ち切るために猛気が必要であった。藩主は「国の宝を失った」と悲しんだ。
 ペリーの船で外国へ渡ろうとして失敗し(下田踏海)、野山獄へ入れられた。当時父は盗賊改方(警察署長)であったが、怒気もなく国禁を犯した息子を称賛さえしている。
「過書はいかが、相成候やの事。用事之れあり候はば、廉書にて御申越しの事。詩作は受取の事…」
 松陰は罪と恥を分けて考えている。恥は自分の私欲・私情などが根底にあるときで、国を守らねばならないという公益的な行いは罪ではあるが恥ではないと思っている。
 ペリーの「日本遠征記」には「この事件は我々を感激させた。教育ある日本人二人が命を棄て国の掟を破ってまでもその知識を広くしようと炎え立つような心を示したからである。日本人は誠に学問好きで研究心の強い国民である。…日本の将来に実に想像も及ばぬ世界を拓く…」と述べれている。
 泉岳寺の前を護送されるとき、松陰は赤穂の浪士と自分の行いとの違いは何処にあるのか。浪士は成すべき事を為して笑って地下に眠っているのに、自分は罪人として送られている。気持ちは同じではないかと兄に書を送っている。
 「かくすればかくなるものとしりながらやむにやまれぬやまとだましい」
 兄が松陰に次のように言っている。
「汝が挙、大人・玉丈人は敢えて怒らず、大怒は愚一人のみ」
 大怒は自分だけだと弟を慰める兄弟愛の深さが滲んでいる。これは本当に怒っているのではないことが窺われる。
 野山獄から自宅幽囚の身となり、親族の前で野山獄の孟子の講義の続きをした。母親がその時皆に「大さんのお話が始まるよ、さあ早く聴きましょう。」と言った。このような雰囲気が杉家にはあった。
 井伊直弼が勅許を得ないで条約を結んだ。松陰は怒り行動が過激となり、藩も松陰を抑えきれなく、このままでは松陰も藩も危ないということで再び野山獄へ入れられた。
 その時、父は病の床で獄に赴く我が子を励まし元気づけ教戒を与えた。父は危篤状態であったので、入獄を延ばして欲しいと懇願し、許された。何日か過ぎて父の病気も快方に向かい、獄へ赴いた。その時声をかけた。
「一時の屈は万世の伸なり、繋獄何ぞ傷まんや」
 弟子たちも過激な松陰の言動に同調できなくなり、思う
ようにならない松陰は断食を始めた。その時母が松陰に手紙を書いた。我が子の絶食を救おうとする母の一念には、国家や忠義の言葉は一言もなかった。
「たとへ野山やしきに御出候ても御ぶじにさえこれ有候えば、せいになり力になり申候」 あなたが生きてさえいてくれれば、それが励みになり精にもなるのでどうか短慮をやめてくれと言って、つるし柿を送っている。
 通説では、江戸送りの前日、24日に獄司の福川犀之助の計らいで家に帰し告別をさせたと言われているが、反論もある。母は大喜びであったが、同志の訪問等で親子で親しく話す時間はなかなか取れなかった。僅かな時間を風呂で過ごし、また元気な姿を見せてくれと頼んだ。松陰は二度と元気で帰れるとは思っていなかった。
「大さん、もう一度御無事で機嫌のよい顔をきっと見せておくれ」
 松陰は「囚窓客去って夜沈々、限りなき悲愁またまた浸る。万里重ねて傷む父母の志、三十年益なし邦家の心。狂頑の弟なほ豪語を為し、友愛の兄強いて放口を助く」と詩を賦した。
 父は松陰の処刑を聞いて次のように言った。
「嗟吁、児一死君国に報いたり、真に其の平生に負かず」
 松陰の遺書「親思ふこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん」
「平生の学問浅薄にして至誠天地を感格でき申さず…今はた誰をか恨み咎めんや」
「吾を死地に措かんとするを知りてより更に生を幸ふの心なし、これ平生の学問の得力然るなり」。自分が死に向かっても怖いと思わなかったのは学問による力であった。
 松陰が処刑をされた日、父は首を斬られながらも非常に快さを感じる夢を見た。母は松陰が元気な姿で只今と帰ってきた夢を見たと言っている。これも風呂の約束で現実に出来ないことを果たしたことになるのではないか。
 松陰は猛の精神・大和魂を貫き通して生きた人である。歴史は物的証拠がないので人によって取り方が違っている。松陰はぺりーを殺そうとしたとか、あまりにも美化され過ぎているとか、説は沢山あるが、自分なりに研究をしてとらえて欲しい。 
 
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