松陰と父(陶山長)                

        山口県立大学 事務局長   陶山 具史

私が十代後半の頃、父が「そろそろこういう本を読んでおいた方が良いだろう」と言って一冊の本を渡してくれた。その本の表紙には玖村敏雄著「吉田松陰の思想と生涯」とあった。以来、何度か拾い読みしたことはあったが、身を入れて読むこともなく、本棚の片隅に置いたまま三十余年が過ぎた。昨年父が亡くなり、葬儀などが一段落してほっとしているときに、この本が目に留まった。父は一体どういうつもりでこの本を私に奨めたのだろうと思いながら、初めて本格的に読んでみた。読み進むにつれて、父が折りに触れて話してくれていたのだが、私自身はすっかり忘れていた松陰の数々の言行やその背景が簡潔に記されており、一気に読み通した。

父は松陰が「諸君功業 僕忠義」と門下生に述べたと言っていた。この言葉はずっと記憶の中にあって時々思い出していたが、「忠義」というのは毛利の殿様に忠義を尽くすという意味だろうか、そうだとすればありふれた言葉であり、解せないことだなどと思いながら、そのまま時が過ぎていた。今回読んで初めて「忠義」の意味が、自分の志(思想信条)への忠義であること、そして「至誠にして動かざる者未だこれ有らざるなり」という信念に基いた松陰の行動規範でもあったことが理解できた。おそらく父は「功業」もさることながら、それだけが人生で価値あるものではないと私に言いたかったのであろう。

それにしても、松陰の生涯がその言葉どおり如何に志に「忠義」であったか、そしてその後の時代の成り行きがその信念どおり如何に「至誠にして動かざる者これ有らざるなり」であったかを知って、全く心底から驚きを禁じえなかった。松陰の生涯は、「功業」などの世俗的な価値観からすれば蹉跌の連続であり、功なき人生だったと言えよう。下田渡海といい江戸取調といい、その目的を達成するためにはより効果的な無難な方法があったのではないかと思わしめるところがある。しかし志への「忠義」の観点からすれば、その言行は至誠をもって忠義を尽くしており、間然するところがない。そして、その後の時代の展開は、松陰の至誠に動かされた人々が身命を賭して新時代を切り開いていったものであった。松陰が死の直前に記した留魂録の次の一節を読んで感動しない者があるだろうか。

「吾れ行年三十、一事成ることなくして死し、禾稼の未だ秀でず実らざるに似たれば惜しむべきに似たり。然れども義卿の身を以て云へば、是れ亦秀実の時なり、何ぞ必ずしも哀しまん。(中略)。義卿三十、四時已に備はり、亦秀で亦実る、其の秕たると其の粟たると吾が知る所に非ず。若し同志の士、其の微衷を憐み継紹の人あらば、乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年に恥ぢざるなり。同志其れ是れを考思せよ。」

松陰がこのように記して刑死した後、同志の士はその遺志を継紹し、まさに後来の種子となって維新の回天を成し遂げ、松陰三十年の生涯を恥じざるものとしたのだった。このような歴史の流れに鑑みるとき、私は松陰の信念であった「至誠にして動かざる者未だこれ有らざるなり」という格言が真理述べていることを実感する。松陰がその志に対して至誠を以て忠義を尽くしたこと、そのことが志を同じくする人々を動かし、ついには時代を動かしたのであった。しかも、この真理が、今日からわずか百五十年ほど前の身近かな時代の中に実際に姿を現していたことにもまた感慨と驚きを禁じ得ない。

 ところで、松陰の生涯を見るとき、唐突であるが、私はイエス・キリストの生涯を思い出さずにはいられない。イエス・キリストは約二千年前のローマ帝国の支配下にあって、人々を救わんとして、自己の信仰を貫き通し、それ故に三十代の若さで刑死したという。功名を求めず人々の幸せをひたすら願ったことといい、死をも辞さなかった信念といい、時の権力者に処刑されたことといい、(世俗的な観点からすれば)一事成ることなく三十代で死亡したことといい、その遺志を継いだ人々が新時代を切り開いていったことといい、両者には多くの共通点がある。キリストは「一粒の麦 地に落ちて死なずばただ一粒にて終らん 死なば数多の実を結ばん」と述べたというが、留魂録の先の一節と極めて近い言葉である。松陰の時代は欧米列強が世界各地に進出し、諸民族の独立を次々と奪い、ついにその勢力が日本に及んできた時代であったから、松陰の言行は日本の自立・自存に焦点が当てられている。これを民族自決の原則が承認されている今日に敷衍して解釈すれば、松陰の言行は人間一人一人の自立・自存を願うものだったと解することができよう。キリストの言行における時代の反映とその普遍的な意義の解釈についても同様の事情があるようである。

いずれにしても、松陰という先人を日本人が、また人類が持ち得たことは、例えようもないほど幸いなことであったと私には思われる。自己の功名や身命を投げ打って、誠心誠意人々のために尽くした人物が歴史上実際に存在したという事実、そしてその遺志を継いだ人々が日本の自立・自存を成し遂げたという事実、さらには日本の自立・自存が先例となって、植民地支配に苦しんでいた世界の諸民族が自立・自存に向けて希望と勇気を得ることができたという事実は、極めて貴重な事実であり、世界史的な意義を有すると言える。松陰の言行は、単に日本人にとってのみ意義があるのではなく、世界の人々にとっても意義があると私は考える。もちろん、人間が自らの長命や富や栄達を望むことは、それが他人に犠牲を強いるものでない限り、否定されるべきものではなく、むしろアダム・スミスの「神の見えざる手」の理論に見られるように経済社会を豊かにする上で望ましいものと私は考えるが、それはそれとして、松陰のように民族や人間の自立・自存をひたすら願って、自分個人の栄達や身命を顧みない言行が極めて貴重であることもまた強調されるべきである。このような人間がかつて地球上に存在したという事実は、我々の行動を省みさせる鏡となり、利己的な欲望にくじけそうになる我々を勇気づけ、ひいては、我々の社会の在りようを誤りなき方向に導いてくれるものと考える。

このような考え方からして、吉田松陰に対する私の姿勢は、イエス・キリストに対するキリスト教徒のそれと同様の「宗教的な敬愛」の姿勢がふさわしいと思われる。具体的には、キリスト教徒の活動と同様に、松陰の言行の普及啓発や史蹟の保存や敬愛行事などの様々な敬愛活動を行うことである。イエス・キリストの言行は二千年に渡って語り継がれているが、吉田松陰の言行も人類の歴史とともに未来永劫語り継がれるべきものと考える。

私がこのような考えを持つに至ったのは、先に述べたように父の死を契機としたごく最近のことである。私は松陰について多くを知らないし、ましてや今日の日本や世界で松陰に対する敬愛活動がどのように行われているのかほとんど承知していない。おそらく既に様々な敬愛活動が行われていることであろう。父は晩年、松陰研究会に所属し、定期講読会や史跡巡りなどにも参加していたようである。私も、松陰の言行をさらに知るとともに、微力ではあるが、上記のような敬愛活動をできる限り行っていきたいと考えている。

注:吉田松陰およびイエス・キリストに対する敬称・敬語はこのような文章の慣例にならい略させていただいた。

陶山長先生について

 県内小中学校長歴任、元山口県教育会事務局長・専務理事、松風会監事・理事

 平成14年2月23日ご逝去

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