松門第31号目次
 松門第31号の発刊に当たって
 草 莽 臣
 第5回松陰研修塾基礎コース1年次報告
  理事長あいさつ
来賓祝辞
研修内容
講義要旨「松陰と二人の女性」
松陰研究団体 萩松朋会の活動
 15年度研修計画
 最近購入図書の紹介
 松風会役職員
             ホームページトップに
                    松門トップ目次へ


松門31号発刊に当たって
           理事長 松 永 祥 甫
 二十一世紀の特色の一つに科学技術の止めどもない進展があります。その創造の目的は人間のより文化的生活の実現によって人類の幸福増進に寄与せんとするものと思います。しかし日々現実に起こっている自然現象、社会事象を捉えて見ても、世界規模においてこれに及ぼす人間不幸の火種になっているものが続出しています。
 
大きくは現在国際問題の最たるイラクの武装解除対策に発する戦争、小さくは国内に頻発する諸問題、例えば若者の集団自殺事件や貴金属類の盗難事件などがあります。イラク問題は世論の影響を無視できないまでも、一国の国策樹立で解決できることもなく途方もない大問題で国家間の良知に係るもので暫くは成り行きを見ることが賢明と思います。
 

   集団自殺事件、貴金属盗難事件の原因は前者は自分を毀損する行為であり、後者は他人を毀損する行為であり、何れも新鋭な科学的用具を用いて目前の欲求を満足しようとする行為と思います。
 科学知識の創造はもとより教育の力によらなければなりませんが、それは人間幸福のための手段であります。ですから科学知識の向上はもとより好ましいことではありますが、同時にそれを用いる心の在り方が根本において最も大切なことと思います。心の在り方は具体的に眼には見えませんが、幸い数千年に渡って培われた来た足跡、軌跡があります。それは道徳であり、儒教の精神であります。人間には生命があり有限であります故に、心の煩悩があります。これを除去、これから解脱する意味において宗教があります。日本では幸い神道、仏教、キリスト教それぞれ国民の中に消化されております。その道徳も外圧によっては一時歪められた時代もあります。

 今日の日本の国状は、自力では国の独立は保持できません。同志提携か、傘の中にいるか何れかの外に現実の道はありません。侮(あなど)られず、信頼される国がせめて独立への道であります。日本国民の資質の向上が絶対要件であります。
 時代は急激な変化をし続けています。而も一国存亡の危機に直面しています。明治維新前夜と好一対の感が致します。吉田松陰先生が各方面の関心事、救国の先覚者としての位置づけが定着しつつあることは誠に喜ばしいことと存じます。
「志を立てて以て万事の源と為す。交を択(えら)びては以て仁義の行(こう)を輔(たす)く。書を読みて以て聖賢の訓(おし)へを稽(かんが)ふ」
 この士規七則の一文を見てもさこそと首肯されます。
 当松風会は孔孟の教え即ち儒教の道を学びこれを自己のものとして蓄え留めて、あらゆる事象、対象にこれを身命を賭して投げかけ偉大な事蹟を残された吉田松陰先生に学ぶことを目的として事業を致してきています。平成十四年度には研修塾基礎コース講座を三回、研究会を一回開催しております。また十二年度・十三年度の講座・研修会の全ての講義等を一冊にまとめました。これらを熟読玩味し、時代の展開の資となれば幸甚に存じます。
 報告書      教学研究会    
目次へもどる
 
草 莽 臣
         理 事  大 田 恭 次
 一昨昨年四月、同年兵戦友会が鞆の浦で開催され、参加したついでに鞆の浦の遺跡、名所を探訪した。
 まず、重要文化財に指定されている磐台寺観音堂(ばんだいじかんのんどう)(阿伏兎(あぶと)観音)を手始めに沼名前(ぬまなさき)神社能舞台(国重文)山中鹿之介首塚、鞆城跡と続き、福禅寺境内の朝鮮通信使遺跡(国史跡)等である。
 福禅寺の対潮楼(たいちょうろう)から眼下に広がる弁天島、その奥の仙酔島の鳥瞰はまことに見事であり、絶景というほかない。細い海峡となった前景に弁天島が浮かび、二層の楼閣を中心に左右に広がる岩礁は宮女の姿にも似て、折からの大干潮で、裳(もすそ)の形をなして十二単(じゅうにひとえ)の優美さを思わせるたたずまいである。
 お寺の対潮楼から眼下に見下ろされる海峡、弁天島、仙酔島、その右方に広がる芸州灘、四国連山の大パノラマは一日中、また四季を通じて見る人を感動させてくれるに違いない。 この対潮楼は、この地に停泊した、かっての朝鮮通信使一行が必ず宿泊し旅情を慰める格好の場所であり、「日東第一形勝」と感嘆せしめた。当時の遺品もいろいろと寺に保存されている。
 多くの文人墨客も、古来、この地に足を止め、この景観を楽しんでいる。それを示す万葉歌碑もこの地に残っている。

 頼山陽(らいさんよう)もこの地を愛した一人である。対潮楼の壁に山陽の詩の拓本がかけられている。全部書き留めて来ることができなかったが、「平地生雲気横天(下略)」といった書き出しである。この詩の最後に「草莽臣襄」を署名されてあるのを見て、ドキリとした。
 「草莽」は吉田松陰先生が二度目の野山獄にあって最後に到達した魂のひらめき、悟道の極地であったものと受け止めていたのに、頼襄(山陽)が先に「草莽臣」と喝破していることに異常な感動を覚え、両者の気概には相い通ずるものがあったのではないかとしみじみと思ったことである。松陰先生が時勢を憂え、寡勢、大勢を覆えすことのできない苦悩の中で「草莽崛起(そうもうくっき)」に活路を見出し得た歓喜は山陽の憂国の至情に通ずるものと感じた次第である。
 なお、山陽は、お寺のすぐそばの対酔楼に投宿し、ここで「日本外史」を筆稿している。今もその二階門の一部が残っている。山陽は「日本外史」に憂国の至情を結晶させ、松陰先生は野山獄の苦悩を「草莽崛起」に結晶させたものと思わずにはいられない。
 ただ山陽の「草莽」は自らを「民草(たみくさ)」の一員とするへりくだった言い方に用い、松陰先生の「草莽」は自らを含めた民衆の蹶起(けっき)を呼びかけたものと考えられ、用途の相違があるように思われる。

 内外激動の昨今、日本丸の舵取りは一部のものに任すのではなく、正義のもとに結集された、国民大衆の判断と行動に委ねられるべきとの真の民主主義に立脚した「草莽崛起」に目覚めるときであると痛感させられる。
 
参考(草莽について)
『孟子』万章下七章
「万章(ばんしょう)曰く、敢()えて問ふ、諸侯にみえざるは、何の義ぞや、と。孟子曰く、国に在るを市井(しせい)の臣と曰ひ、野に在るを草莽の臣と曰ふ。皆庶人を謂う。庶人は質を伝えて臣と為らざれば、敢えて諸侯に見えざるは、礼なりと。」
野村和作宛(松陰書簡)安政六年四月四日『撰集』六二九頁
「…故に人は吾を以て乱を好むとも云ふべけれど、草莽崛起の豪傑ありて神州の墨夷(アメリカ)の支配を受けぬようにありたし。…」
北山安世宛(松陰書簡)安政六年四月七日『撰集』六三二頁
「今の幕府も諸侯も最早粋人(すいじん)なれば扶持(ふち)の術なし。(酔っぱらいであるから助けるすべがない)草莽崛起の人(在野から奮い立ち尊皇攘夷の志のある人)を望むほか頼みなし。」
野村和作宛(松陰書簡)安政六年四月十四日『撰集』六三七頁
「海外行の書(松陰の内意を受け増野徳民が、大島(萩市大島)に流罪になっている安富惣輔の所へ渡ることを記した書簡)、逐一披閲(ちくいちひえつ)、残る所なし。感々。左候て草莽崛起の論も御同心下され(賛成してください)、是れよりは相共に精心刻苦して(まごころをこめて努力すること)学問すべし。」
目次へ戻る
 
第5回松陰研修塾基礎コース1年次終了
開  講  行  事

主催者あいさつ
         理事長 松 永 祥 甫
 
 皆様おはようございます。第五回松陰研修塾基礎コースを開催するにあたり一言ご挨拶を申し上げる。
 本日は県教育庁棟久指導課長様、鎌田県小学校長会幹事長様、また受講生の皆様をお迎えし盛会に開催できますことを心からお礼申し上げる。
 理事長挨拶
 今日の社会は科学・経済・宗教・その他組織機構が複雑に絡み合い、急激な変化進展をしており、落ち着く先の予想がつかないのが現状である。そして、不安と動揺の中に置かれている感が強い。
 一九世紀の初頭以来欧米各国はアジア制服を目指して潮のごとく押し寄せていた最中、依然として封建社会の存続、危うく国家存亡の瀬戸際にあって真に一命をなげうって救国の路を拓かれたのは吉田松陰先生の至誠にその原点を求められると思う。
 松陰先生は不世出な教育者で思想家である。生まれながらにして天倫の才に恵まれた方で、それをいち早く見通されたご家族が偉いと思う。家庭環境、時代背景、友人・恩師、藩公までも松陰を国の宝とまで思われるような先生になられた。接する人全てが例外なく先生を大成に導いていくというそういう条件が備わっているのである。
 先生の魅力は先見性に在ったのではないか。私ども先の見通しができないのが現状であるが、歴史上の人物は先見性をもたれた方であると思う。先を見通したり、悩みのある時は先見性を持った人格にふれる事が大切と思う。松陰先生に学ぶことの大切さを常に感じている。
 かつて中学校一学年の時、叔父に「吉田松陰と呼び捨てるとはなにごとか、先生と呼べ。」と指導を受けたことを強く感じている。九十歳以上になっても松陰先生に接することが出来ることを嬉しく思っている。
 松風会は平成三年度に第1回松陰研修塾を開講して第三回までは三か年を一コースにしていたが、第四回から二年のコースに切り替えている。皆様の中には最初から出席をいただいている方もある。日常座臥先生が側に付いているという安心感を持っておられるのではないか。
 この講義は松陰研究の第一人者である河村先生・石原先生に担当していただく。
人生は因縁で結ばれる、このご縁を大切にして、合い睦み、励まし合って社会に奉仕、かけがいのない人生を有意義なものに致されたいと思う。
          
 
来賓あいさつ
        山口県教育庁指導課長  棟久 郁夫
 
 第五回松陰研修塾基礎コースの開催に当たり、一言お祝いを申し上げます。
 本研修に御参加の皆様方には、平素から山口県教育の充実のために多大な御人力をいただいていることに対して、まずもって心から感謝を申し上げます。
   課長挨拶
 また日々の教育活動に御多用の中、自らの成長を目指されて、二年間の研修に取り組まれる御熱意に対して、深く敬意を表する次第であります。
 さて、本年度から、完全学校週五日制のもと、新しい学習指導要領が全面実施をされました。この実施においは、各学校が「ゆとり」の中で「特色ある教育」を展開し、子どもたちに学習指導要領に示す基礎的・基本的な内容を確実に身に付けさせることはもとより、自ら学び自ら考える力などの「生きる力」を育むことを目指しております。
 その実現のためには、知識・技能のみならず、学ぶ意欲や、自分で考え自分で判断する力、自分で表現する力などを含めた総合的な力である「確かな学力」や、自らを律しつつ他人と協調し、他人を思いやる心や感動する心などの「豊かな人間性」、さらにこれを支える「健康や体力」などをゆとりのなかで子どもたちが身に付けることが大切となります。
 県教育委員会としましては、「山口県教育ビジョン」の教育目標に「夢と知恵を育む教育の推進」を掲げ、子ども一人一人の個性のさらなる伸長と、豊かな人間性や社会性の育成を目指して、時代の要請や子どもの実体を踏まえた教育改革を積極的に進めているところであります。
 具体的には、まず子ども達の校種間の移行をスムーズにするための、山口県独自の指導体制である「夢つなぐ学舎づくり」についてでございますが、今年度新たに、中学校入学当初の様々な課題に対処するために、中学校一年の学年編成基準を三五人以下に改めた「ふれあう学び舎づくり推進事業」をスタートさせたところであります。
 また中高の連携教育や高大連携教育についても新たな事業をスタートさせ、幼稚園・保育所から大学までの校種間の移行をスムーズにするための事業が整ったところであります。今後それぞれの事業を充実させていくことにより、「山口県らしい教育」の一層の具現化を図り、一人一人の児童生徒の個性や特性に応じた教育が推進できると期待しております。
 その「山口県らしい教育」の根本に松陰先生の教えが脈々と受け継がれておりますことはよく知られております。財団法人松風会におかれましては、「至誠留魂の松陰精神を学び、その精神の普及を図りそれを現代に生かす」との理念のもとに広く活動されておられますことは、誠に時節柄、意義深いものがあり、その成果に心から期待を寄せているところであります。
 おりしも、二一世紀に入り、政治・経済等の大改革とともに教育界におきいても大きな改革が進められている今日、本研修におきまして幕末から明治維新という未曾有の変革期に対し新しい時代を切り開く、見事な先見性を発揮された松陰先生の生き方や遺徳を学ばれますことは、今日の教育課題を解決するにあたりましても大変有意であり、本県教育の充実にも大きく寄与するものであると確信しております。
 最後になりましたが、本会の一層の御発展を期待致しますとともに、塾生の皆様が御健勝にて御研鑽されますことを祈念し、挨拶とさせていただきます。
   研修塾1年次1回目参加者    
目次へ戻る
 
研 修 内 容
第 1 回 (14,6,29(土)山口県教育会館) 
 講  義 「吉田松陰の生涯」     松風会理事 石原 啓司
 座談会・自己紹介・どんな学習を期待するか
 講  義 「今改めて松陰に学ぶもの(志を育てる教育)」
                    松風会理事 河村 太市
 
第 2 回 (14,10,26(土)・27(日)山口県萩青年の家・萩市内)
 講  義 「生家,杉家について」         河村 太市
 講  義 「萩と松陰(巡検事前研修)」   
               史都萩を愛する会会長 松田 輝男
 実践発表 「萩市松朋会の活動」        
                萩市松朋会事務局長 阿武 博道
 現地研修「松陰ゆかりの地」            松田 輝男
 座談会 「松陰から何を学ぼうとするのか」
 講  義 「松陰と二人の女性」           松田 輝男
 講  義 「尊王攘夷思想と松陰」          石原 啓司
 
第 3 回 (12,2,22(土)山口県教育会館)
 講  義 「『武教全書講録』を読む」         河村 太市
 講  義 「幕末の外交と松陰」           石原 啓司
 輪  読 「『士規七則』」              河村 太市
目次へ戻る
 
 
講義要旨
松陰と二人の女性
          松陰研究家  松田 輝夫
         
はじめに
 この夏、萩市市制七十周年でしかも松陰が東北地方(特に津軽)に行ってから一五〇年目になる。それを記念して中学生二〇名が会津・津軽へ行った。一般市民は津軽だけの参加で、私は一般市民の中に入り参加した。
 津軽では松陰の通った跡に石碑が次々と建てられている。松陰は竜飛崎までは行けずに小泊(こどまり)から三厩(みんまや)へ行ったのだがこの間六キロは道がなかった。なぜなら防備のために他国人を通させないためであった。松陰は山坂を越えて行ったが、当時は雪が三,四尺、小川を渡るのに膝を没するような所を渡ったとある。
 この道を青森の有志の人々により遊歩道に修復され、「みちのく松陰道」と名付け松陰を顕彰している。
@小泊の中学二年生は、元服式の代わりにこの道を踏破するそうだ。この度の津軽の旅は、「みちのく松陰道」の踏破が最大の目的であったが、残念なことに当日は大雨で地元の人の忠告により危険で行けなかった。
A松陰が立ち寄った弘前市の伊東家では当時の部屋をそのまま残してある。そこでは明治四十四年四月二十九日(松陰が訪ねた日の陽暦日)から「松陰祭」を行い、今年は九二回目だそうである。
B青森には、松陰に感動した方が多くて「みなさんが来られたから松陰先生は喜んでおられますよ」と言われた。なぜ青森の人たちがこんなにも松陰に関心を持っているのかと考えさせられる。
C寒さの厳しさがよくわかる青森の人だから、こんなにも寒いとき、国の危機を患いよくも山口から北国の果てまで来たものだと強く感動したのではなかろうか。
 三三年間かけて「みちのく松陰道」を作ることに全力を注がれた漆畑さんが挨拶をされた。その中で「あの明治維新を長州の人がやった。次は北の果ての青森がやる番だ。」そういう願いを込めて顕彰をされていた。現在の山口県・萩市はどうかなと反省させられる。
 
 これから本論に入る。
 『松陰全集十巻』の「吉田松陰関係人物略伝」には二五三名が載っており、その内女性が四名である。一人は母親の瀧、二人目は吉田の養母久満、次に今日のテーマ、久子と登波である。
 久子については田中彰著『松陰と女囚と明治維新』(NHKブックス)に詳しく書かれている。登波については古川薫著『討賊始末』及び豊北町滝部の人達が書かれたものもある。
 
一 女囚高須久子
 「安政元年十月松陰が野山獄に入りたる時の同囚にして獄中唯一の女囚なり、当時三七歳在獄二年なりき。藩士高須某の妻なりしが、寡居後素行上罪ありて投獄せらる。松陰はこの女性をも獄中教化運動に導き入れたり。往復の和歌数首あり。」『松陰全集十巻(「吉田松陰関係人物略伝」)』
 この文の「素行上の罪」と言うのが分からなかったが、布引敏雄氏(かつて山口県文書館勤務、現在大阪明浄大学教授)が文書(もっんじょ)の中から関係資料を見つけられた。
 高須家は大組で父が五郎左衛門、久子は一人娘なので養子を取る。高須家は三一三石で萩藩としては石高が高い。主人が亡くなり未亡人となる。子どもは女性二人で長女に嘉永三年(一八四二)養子を迎える。
 久子に関するものでは和歌のみが残っている。松陰と久子についての記録は『松陰全集・往復の和歌数首』のみである。下関市の小説家古川薫氏は、この和歌のやりとりを通し小説『吉田松陰の恋』を執筆し、松陰唯一の恋として取り上げている。初めは『野山獄相聞抄』として出版され、後に文庫本として出された。内容的にはおもしろいと思うが、恋があったかどうかはみなさんの判断に任せる。
 
(一)安政二年(野山獄)
◎「獄中俳諧」秋
○酒と茶に徒然(つれづれ)しのぶ草の庵  松陰
 谷の流れの水の清らか         久子
○四方山(よもやま)に友呼ぶ鳥も花に酔ひ 久子
 蝶と連れ行く春の野遊         松陰
◎「詩文拾遺」松陰の遺墨になかったが、『吉田松陰全集』編集に関わり広瀬豊氏が高須家に行かれて初めて分かったものである。家宝として保存されていたようである。
○高須未亡人に数々のいさをしをものがたりし跡にて
 清らかな夏木のかげにやすろへど人ぞいふらん花に迷ふと 矩方  
○未亡人の贈られし発句(ほっく)の脇とて
 懸香(かげこう)のかをはらひたき我もかなとはれてはぢる軒の風蘭
 同じく
 一筋に風の中行く蛍かなほのかに薫る池の葉
◎「送別詠草」安政二年十二月
○鴨立ってあと寂しさの夜明けかな 女久子


 
 松陰が数々のいさおし(手柄)について語ったとあるが、田中彰氏が原文を見たら、「いさし」とあった。「いさし」は「詳しく」と言う意ではないか。いろいろ身の上の事を話したのではないだろうか。このような解釈をすれば、親しく話をしたのだなと思うと、恋心のことをいわれれば、そうではないかなとも思うのである。
「鴨(かも)」は俳句では季語になっているので間違いないと思うが、これを「鴫(しぎ)」ととらえるならば、松陰の号「子義(しぎ)」の読みと同じである。それをもじっているのではと言う説もある。「鴨」は「鴫」の書き間違いだと言い切る人もある。
 松陰が野山獄に二回目に入った時には以前にいた者は殆ど出獄をしていた。これには松陰が大きな役割を果たした。この獄には本当の罪人は三人で、後は借牢で入っていた者であった。富永有隣を松陰が引き取って松下村塾の教授に迎えたことは既にご承知の通りである。富永有隣は一三歳で御前講義をした人であるからとても優秀であった。しかし、高須久子はまだ残っていた。
 
(二)安政六年五月(二回目の野山獄)
◎「詩文拾遺」(高須家にあった文書から見つかった)
○高須うしのせんべつとありて汗ふきを送られければ  矩方
 箱根山越す時汗の出でやせん君を思ひてふき清めてん
○高須うしに申上ぐるとて
 一声をいかで忘れん郭公(ほととぎす)  
◎「東行前日記」
○手のとはぬ雲に樗(おうち)の咲く日かな   
※ 樗は栴檀(せんだん)の木
 これだけの資料でのみ、松陰と久子のことを理解することは出来ない。
 
二 寡居後素行上に罪ありて投獄
 「毛利家文庫」の「御仕置帳」に『高洲彦次郎并母祖母共御咎一件』の記録が出てきた。これに、伊藤半七郎の「聞合覚」が含まれている。その内容は次のようなものであった。
 久子はやっと養子を迎えほっとし、三味線が大変に好きであり、三味線にこった。芸能関係にかかわる人は、当時は被差別部落の人であった。この人達を家に呼んで夜遅くまで、あるいは夜明かしまでやっていることが、養子の父の耳に届いた。このようなことがあってはならないと問題にした。当時は被差別部落の人を差別しなかったら罪になる。そのような状況であるから、物を食べさせたり家に上げたりすることはいけないことであった。すぐ親戚の一室に囲い調べさせた。例え三味線が好きだと言っても度が過ぎるとして罪となった。
 その時高須久子が、「御尋に付申上候」として、「すべて平人同様の取扱」をしたのであり、御不審の儀はないと言っている。結論としては、「…其の科遁れ難(とがのがれがた)く候、之より野山屋敷差越(さしこ)され候の事」そして、嘉永六年に野山獄に入れられる。久子は明治元年頃に出されたそうであり、いつ亡くなったかは不明である。高須家の墓は萩のお寺(海潮寺)にあり、先祖代々の墓はあるが久子の記録がない。東京に出た後亡くなったのではないかと考えられる。
 松陰は「私著目録」を作り、これに朱で○を書いてあるのは捨てないでと書いている。その中に、「討賊始末」「登波一件」は含まれている。松陰にとって大切なものであったと言える。松陰と久子との関係は、次の登波にかかわって付言することになる。
 
三 烈婦登波
 古川氏著『討賊始末』では、幸吉の妹松は、登波の妹としている、これは下関に残っている記録がそのようになっているからである。古川氏は三角関係で書いておられるがこれは間違っている。
 また松陰は登波に会いに行ったとあるがこれも間違いである。文の中に「余は」とあるがこれは当時代官であった周布政之助のことで、松陰は周布に頼まれてこの文を書いた。周布政之助は会いに行っているが、松陰は行っていない。 
   登波の碑・その説名
「長門國大津郡向津具上村(今の油谷町)川尻の山王社宮番幸吉の妻なり。文政四年冬夫幸吉の妹のことより、舅・弟・義妹を殺害し、幸吉を傷けたる備後の枯木龍之進なる者あり。登波長らく夫の病を看護し居りしが、後文政八年二十七歳の春復讐の旅に上り、普く海内を探索すること十七年、遂に龍之進その頃豊前の英彦山に在るを知り、仇を報ぜんとするに、藩はこれを止めて逮捕の吏を遣はす。龍之進捕らえられて後自殺す。藩その首を豊浦郡滝部村に梟す、天保十二年三月なり。安政三年藩主その孝義を表彰し、翌年平民に歯(し)す、登波時に六十歳なり。松陰この事歴に感じ「討賊始末」なる一書を作り、又松浦松洞をしてその肖像を書かしむ。四年九月中旬登波夫幸吉の墓を索めて石見に赴く途上萩に過るや、松陰杉家にこれを止宿せしめたり。」(『吉田松陰全集十巻』関係人物略伝)
 松陰が登波のことを知ったのは大津の代官をしていた周布政之助が、例え被差別部落の者であっても女でありながら二〇年かけて敵討ちをしているが、なかなかできないことであり、後世に石碑を建てて残したいと、松陰に文章を頼んだ。碑文は周布政之助が書くことになっているが松陰は周布の立場で文章を書いている。松陰は登波の情報を聞き、その情報をメモしたことが「登波一件」に書かれている。
「文政辛巳(四年・一八〇一)十月二十九日夜、…」登波の父(甚兵衛)の家滝部で事件が起きた。幸吉の妹(松)は結婚したが主人(枯木龍之進)は全国を回り歩く浪人暮らしだった。妻松を実家においたままの主人枯木が帰ってきて、そして別れ話が起こった。その夜甚兵衛・勇助・幸吉・松が切られ、幸吉だけ生き残った。(登波のみ油谷町の家に一人残っていた)
 登波は四年間主人を看病しやっと主人が独り立ち出来るようになったので敵討ちに出かけた。登波は役人に敵を捕らえるように嘆願したが聞き入れられなかった。一五年間全国を探し回り英彦山にいることを突き止めた。帰って役人へ敵を取りたいと申し出たが役人は動いてくれない。登波は下関まで出かけた。そこで役所もやっと腰をあげた。逮捕したが枯木が自殺したので、その首を持ち帰り晒(さら)し首とし対面させた。対面をして敵討ちは終わったことになる。実に二十年間を要した。
 幕末の忠孝の最高は敵討ちであった。
「謂(おも)へらく、幸吉は身先に歿すと雖も、而も志は実に其の妻と同じければ、則ち夫妻は宜しく永く其の宮番の職を免じて、良民に歯することを得しむべしと。」(烈婦登波の碑) このように平民にすると言うことを周布政之助が言っている。この申し入れは受け入れられなかった。この石碑の建立はそのままになり建設されなかった。周布政之助が代官を代わり、この話は立ち消えとなった。松陰は文章のみを残しており、野山獄に再び入ったときにこれを持参している。
「右擬稿粗(ぎこうほ)ぼ成る。而るに宮番の良民に歯せしは、藩に故事なし。ここを以て庁議遷延し、建碑の事も亦姑(しばら)く停止す。然れども烈婦の事跡はここに至りて其の粗(あらまし)を得たり。後に作る者あらば、将た取る所あらん。丁巳七月既望、識す。戊午の冬、登波特に良民に歯す。而して公輔(周布政之助)は則ち去りて他の職となり、建碑の事遂に復た議せずと云う。重ねて識す。己未五月」(烈婦登波の碑)
 松陰が江戸に立つ時はそのままであり、残念がっている。
 碑文を書いた際「…余頃ろ心に一文を構ふれども、事、考據に待つあり、にわかに能く弁ずる所に非ず。因って厳に一月を課し、諸君を謝絶し他業を廃棄し、以て之を成就せんと欲す。」(諸生に示す)この件について松陰が全力を尽くしていたことが理解できる。
 
四 松陰の実践
 松陰は安政五年六月頃に碑文を書いているが、それを機会に登波と交際を始める。第一に松浦松洞に登波の肖像画を描かせている。
「今茲(ことし)七月、余、大津の烈婦の事を紀して成る。松洞蹶起して曰く、「古人を舍てて今人を貎(ぼう)す、是れ有用の尤(ゆう)(優れたもの)なるものなり」と。因って筆を提(ひっさ)げ紙を持ちて、将(まさ)に直(ただ)ちに大津に走らんとす。曰く、「当今二国、貌すべきの人尠(すくな)からず、況(いわん)や天下の大をや。吾れ乃(すなわ)ち隗(身近な者)より始めん」と。」(丁巳幽室文稿:松浦松洞大津に之き烈婦を貌するを送る敍)
 現在その絵は残っていない。松浦は登波に会って、「主人があなたを追ってどこへ行ったか分からないと云うではないか」と言ったようである。登波はそれを一番気にしている。石見の津和野に行き倒れで亡くなった人を祀ったほこらがあると聞いて、それが主人ではないか津和野へ行く予定にしていると。
 登波が津和野へ行く途中、松陰は会って、書いたものを確かめ訂正している。
「…未だ其の死せし所を知らず。而かも登波年且(まさ)に六十なり、斯の行亦難し。歳丁巳九月十六日、登波吾が松下を過ぐ、余止めて之れを宿せしむ。登波寡言沈毅、状貌猶ほ丈夫のごとく、利七首(あいくち)を懐(ふところ)にし、起臥暫(しば)しも離さず。道太来り見て、其の事に感じ、其れをして自ら其の名を書せしめ、余をして之れに跋せしむ。」(丁巳幽室文稿:烈婦登波の書に跋す)
 松陰は松下村塾の塾生にも話をしている。松下村塾例話にもこのことが載っている。
 登波は津和野から帰る途中にも立ち寄っているが、丁度松下村塾が出来る途中であったため、権助の家に泊まらせたとある。
 松陰は良民にするための努力をするが、なかなか困難であった。
「…初め周布政之助兼翼(すふまさのすけかねすけ)御代官たりし時、政府へ申出でたれども、政府にて先例なければ、事姑く止めになりたり。已にして、政府より郡方(こおりがた)へ、先例はなきかと問ひければ、郡方本締佐藤寛作(さとうかんさく)對(こた)へて曰く、「昔秦人松を以て五大夫とす。是れ何ぞ先例に預らん。天下孝義より重きはなし。登波賤しと云へども、豈に松の比ならんや。松の功、豈に登波の孝義にしかんや。且つ宮番かかる復讐せしことも又先例なし。非常の事なれば非常の賞素より当れり。」と。
 松陰がいなかったらこのことは出来なかったであろう。松陰が野山獄で高須久子から、「平民同様に扱ったのだ」と言うその言葉が松陰の思いの中にあり、注進することにつながりがあるのではないか。
 再び野山獄へ入ったとき、高須を「高須うし」と云ったのは尊敬の目で高須を見たのではないだろうか。そんな気がする。はじめは「高須未亡人」と言っていた。
 松陰が松下村塾に泊めたというのは分かるが、それを許した家族、杉家はすごいなと思う。松陰は士農工商は職業別だと言っている。藩にも人材登用の雰囲気がこの時期にあったことが伺える。
 
五 塾生が受け継いだもの
 松陰が亡くなったとき、高杉と久坂は自分の思いを手紙に書いている。高杉は必ず幕府を討つんだと周布政之助に出している。高杉は江戸で獄に繋がれた松陰のために奔走する。高杉は松陰先生の言われた通りにその後の人生を歩いている。久坂は入江九一に松陰の死を悲しむときではない。松陰の志を受け継がねばならないと皆を団結させた。「一燈銭申合」もその一つである。久坂は五年後に禁門の変で亡くなる。実に四天王と言われた人の二人が亡くなり、一か月前には池田屋の変で吉田稔麿が亡くなっている。
 高杉が功山寺で立ち上がった時は伊藤が三〇人の力士隊を連れてそれを助けた。吉田稔麿は「屠勇取立策」を提出し、これがゆるされ維新団を組織した。冷泉雅二郎は「御楯隊司令」を勤めた。これが四境戦争の芸州口で大きな働きをした。
 松陰の人間観を門下生が受け継ぎ、明治維新胎動の大きな働きとなった。
 
六 松陰の人間観
 松下村塾で塾生が結束をしてやりきったのは、松陰の教えが良いのは勿論であるが、やはり松陰の人柄が大きかったのではと言う思いがする。
 戦前は軍隊において松陰は神様にまつりあげられていた。萩出身と言うことで、私は常に叱咤(しった)され注意を受けたので、戦後松陰がいやになっていた。
 昭和二十六年に奈良本達也氏が『吉田松陰』を出版された。これがきっかけで、人間松陰が言われるようになった。松陰は人権と言う言葉は知らなかったが、幕末の階級制度の厳しい中で、士農工商は職業別だと書いている。
「煙管を折るの記」をみると、松下村塾では足軽の子であろうが、魚屋の子であろうが、一つの輪の中でお互いに言いたいことを言ってる。高杉は二百石の武士の子、外では魚屋の子が自由に話せるような間柄ではない時代である。松下村塾では皆で自由に討論がなされていた。
 松陰は儒教と兵学を学んた。松陰は塾生には常に孟子を教えている。
「乃(すなわ)ち其の情に若(したが)へば則(すなわ)ち以て善を為すべし、乃ち所謂(いわゆる)善なり。若()し夫れ不善を為すは才の罪に非ざるなり」(『講孟余話』告子第6章)(人の本性が物に触れて発動するのが情であるから、そもそも自然の情のままに行動するならば、必ず善をなすはずである。「性は善なり」ということになる。しかし、仮に不善をなすようであれば、それは本性のはたらきである才の罪ではない。物欲のために本性のはたらきが狂ってしまったのである)
 松陰はまとめとして「故に孟子の書を読む者、真に心を斯に留め議論に渉(わた)らず、只事実を学ぶべし。先ず己の性を真に善と篤信(とくしん)し、良心の発見、惻隠(そくいん)・羞悪(しゅうお)・恭敬(きょうけい)・是非等を拡充し、或いは物欲邪念起こることあらば速やかに良心を尋ね来たり、其の自ら安じ自ら快き所を求め、悔吝なき如くすべし。人を教導するにおいて亦然り。然るときは性善の外復た気質の説を借ることなし。」(『講孟余話』告子第六章)と言っている。
 人間は、自分の本性が善であることを徹底的に信じて、それを拡充していく努力をすればよいとする。そういう生き方をすることが大切である。
 松陰は人を善と信じて失敗したことがあっても、悪と疑って後で悔やむようなことは絶対にしないと言っている。松下村塾の約八〇人位の塾生の内、松本村が四〇パーセント、萩全体で八〇パーセント、萩外は十七人位である。今の高等学校の校区である。松本村には秀才ばかり生まれたはずはない。どうしてこのように有用な青年が輩出したのであろうか。
「村塾、礼法を寛略(かんりゃく)し、規則を排落(はいらく)するも、以て禽獣夷狄(きんじゅういてき)を学ぶに非ず、以て老莊竹林(老子・荘子・竹林の七賢人)を慕(した)ふに非ざるなり。特()だ今世礼法の末造(まつぞう)、流れて虚偽刻薄(きょぎこくはく)となれるを以て、誠朴忠実を以て之を矯揉(きょうじゅう)せんと欲するのみ」(『諸生に示す』松陰撰集四八九頁)
 集団の教育で大事なことは「気類先ず接し義理従って融(とお)る。区々たる礼法規則の能く及ぶ所に非ざるなり」とし、最初に気持ちや意志が通じ合うことにより、道理や義理を理解することができる。集団の中にはいろんな子どもがいる。その子ども達の心が通じ合い、励まし合う子になるように努力することが大事だと言っている。松陰はそのことに力を注いだ。
 学級においても子ども達同志が励まし合うと言うような状態になれば、教師が勉強せよと言わなくても子供達は勉強する。自分の能力が百であれば、二百にも、三百にもなる。反対に心を通わせるどころか、いじめのある学級であれば、能力は五十にも最後は零にもなってしまう。松陰はこのこと(心を通わせる)を一番大切にしたのではないかと思う。
 
七 松陰の人間観をたどる
(一)遊学中のこと
「加藤公に祷(いの)る」(身体障害者)
「…是の夜、月明朗、単行して清正公に詣づ、豪気甚だし。…」(『吉田松陰全集』第九巻「西遊日記」八三頁、「附録西遊詩文)熊本に赴き弟の敏三郎のことを加藤公にいのっている。
「佐渡金鉱を観る」(鉱夫)
「…嗚呼、之を語るも亦以て金を視ること糞土の如き者の膽を寒うすべし。孰れか又之を夷船に棄つるに忍びんや。…」(『松陰全集』「東北遊日記」第九巻二二五頁)鉱夫の労働を見届けて、金を使っている人々はこの実態を知っているのかと嘆いている。
「夷もまた人」(アイヌ人)
「…其の人物旧(ふる)くは蝦夷(えぞ)人種に係りしも、今は則ち平民と異なるなし。夫れ夷も亦人のみ、教へて之を化さば(教化する)、千島・唐太(からふと)も亦以て五村と為すべきなり。而るに奸商(悪賢い商人)の夷人を待つ(待遇する)は、則ち蓋(けだ)し人禽(にんきん)の間を以てす(畜生のような扱いをする)と云ふ。噫(ああ)、惜しむべきかな。(『松陰全集』「東北遊日記」九巻二四五頁)東北遊でアイヌ人が共に生活している姿を見て、これは素晴らしいことだ、蝦夷ではアイヌ人は人間と禽獣の間くらいの扱いを受けている。これは困ったことだと。
「番人に大道を説く」(牢番)
「…叉て宿にて番人等寝ずの番をなす故、亦為めに大道を説き聞かすること下田の獄に在る時の如くにして、更に快なり。余生来の愉快、此の時に過ぐるはなし。因みに云ふ。三島にて□□三四人出づ、皆年少気力在る者、余が話しを聞きて大いに憤励の色あり、去るに臨みて甚だ恋々たり。…」(『松陰撰集』「回顧録」一六三頁)下田で牢に繋がれ自分の純粋な気持ちをよく聞いてくれた。別かれるときには恋人と別れるようだった。人生でこんな嬉しい事はなかったと書いている。
 
(二)野山獄
「罪は事にありて人にあらず」(『福堂策下』)
 罪は事件についてのもので、人にあるのではなく、事件について反省しておればもとの人間になるとしている。罪は病の如しと言っている。
「人賢愚ありと雖も、各々一、二の才能なきはなし、湊合(そうごう)して大成するときは必ず全備(ぜんび)するところあらん。」(『福堂策上』撰集二七八頁)
 いろいろ賢いとか、劣るとか差はあるが、誰でも一つや二つの才能は持っている。優れた才能を総力をあげて伸ばしていけば、必ず一人前の人間になる。だからだめだときめつけないようすること。このことが松下村塾で実践されている。
 
(三)婦女教育
 杉家の女性の学習会で松陰は指導をしている。松陰はこの学習会を「婦人会」と呼んでいる。最初は母の瀧が中心で、続いて千代が中心になってすすめられた。松陰は明倫館の男だけの教育でなく「女学校」をつくれと書いている。
 
おわりに
 現在、萩では菓子に「松陰」と名前を付けたり、やたらと松陰とは言っているが、松陰の精神を生かす動きが感じられない。松陰の精神を実践する動きがなくてはいけないのではないかと強く感じている。
 かつて、被差別部落の中の学校に一〇年間勤めた。そこで経験し感じたことをまとめると次のようになる。
 第一は理屈・理論で物事は解決できないこと。人間の一番大切なことはこの子を何とかしたいと思うその気持ちである。だから同和問題の知識を勉強するだけでは、解決出来ないと思う。最近は処世術が生き方の心棒になり人間性がおろそかにされている。人間は如何にあるべきか、日本人は如何に在るべきかという心棒がなくなり、このままでは日本は滅ぶと司馬遼太郎氏は書き残している。今の教育はその心棒が狂っているのではないか。
 第二に人間は好きこのんで罪人になったり、悪人になったのではないということ。
 第三は人間は例外を除いて、お互いに分かり合えることが出来るということ。
 私がこのことを体験した後に、松陰を勉強して、自分の思ったことを既に述べておられ、大きな自信となった。
「松陰と二人の女性」について述べたが、この内容は、日本における今日の人権問題の重点課題である同和問題に関わっている。松陰の人間観のすごさに驚きすら感じる。松陰先生と今に学ぶ意義の大きさをしっかり噛みしめて欲しい。
 目次へ戻る
 
松陰研究団体の紹介
 萩松朋会の活動
阿 武 博 道
阿武先生    
 
はじめに
 萩市では、吉田松陰のことを尊敬と親しみをこめて「松陰先生」と呼んでいる。
 萩松朋会は、各学校で経営の重点などに採り上げられている松陰のことばが、どこから出ているかを探ろうというところから出発した。
 
一 萩松朋会について
(1)会の目的
 吉田松陰に関する資料の研究、実地踏査等によって、教師としての資質を高め、教育実践の実をあげることを当初の目的として、昭和四十年代後半になってから出来た。ところが平成六年頃から会員に退職する人も増え、「教育実践の実を上げる」を「生涯学習を目指して研修に励む」というように変えた。
(2)会の変遷
 末永明先生を会長に市内の有志教員約八名で、昭和四十七年に出発した。最初は、会長宅で吉田松陰読書会という形で始めた。ちょうど大和書房から「松陰全集」が発刊されるという巡り合わせもあり、三巻の「講孟余話」の輪読で会を始めた。次の年から末永先生のご配慮で教育会・松風会に相談し補助金もいただき会の運営が楽になった。
 昭和五十年頃から人事異動で他管区に出る人が多くなり、メンバーの入れかわりがあった。そこで五十八年度から、名称を「萩松朋会」とし市内の小学校に会員を募り研修を始めた。これが現在の名前である。
 昭和六十三年四月から萩市教育委員会の支援によりサンライフ萩を会場に読書会を持つようになり、転出していた会員も戻り、現在の会員がそろって出席できるようになった。
 平成六年度から弘長純忠先生が会長となり、会の研修内容もより充実してきた。
 平成十三年七月から教育会萩支部の藤原会長のご心配により萩市の中央公民館で会を持つようになった。現在会員は一五名となっている。
 
二 萩松朋会の活動内容
(1)主な活動は、会の発足当時から継続している「輪読会」である。日時は、毎月第三金曜日、または土曜日の夜七時三十分から九時三十分までとしている。内容は、最初は「講孟余話」の輪読、続いて五十年代から「松陰読本」「吉田松陰入門」を輪読した。昭和六十年代から「講孟余話」に戻り、現在はその三回目である。同じ事を何度もやっているがなかなか内容を十分理解するに至っていない。

(2)教育会萩支部との共催事業として市民対象の「松陰を学ぶ会」を毎月最終火曜日に開催している。会ではこの活動に協力し地域の文化活動に資するということで関与している。この会は昭和五十八年から開催し、末永明先生が指導しておられたが、平成十一年度から末永・松田両先生の指導により、会を再編成し運営してきている。
 昨年度から、教育会出版の「松陰先生に学ぶ」をテキストに研修を続け、会からは松田・弘長・阿武が講師として参加している。会の仲間が積極的に指導者として関わっているので盛り上がりが感じられる。今年度は市民の松陰先生への関心度が高まり会員が二五名になっている。
 次に「子どもが学ぶ松陰先生」を夏休みに開催している。当初は市教委生涯学習課が主催していたが、平成十二年度から教育会萩支部事業として開催するようになった。運営については、松朋会に任されているのが実情である。指導助言・運営全般にかかわっている。市内校長の協力により四〇名の参加者があった。

(3)教育会萩支部主催の「松陰に親しむ会」への協力をしている。これは毎年松陰が生まれた八月四日に開催している。指導者の派遣として松田・弘長先生が当たり、司会・進行等運営に協力している。

(4)平成六年度か十年度までは夏期休業中に「松陰と道」を手がかりに萩近辺の往還を歩いた。十一年度からは松陰先生にかかわる史跡を探訪している。

(5)毎年十一月二日頃教育会萩支部で開催している「松陰の道歩行大会」に参加し運営にも関わりを持っている。

(6)講師を招いての研修会は、必ずしも実現ができていない。最近は会の先輩に指導して貰っている。

(7)会報の発行をしている。毎年同人誌「松朋」として、活動をまとめている。

(8)今年度から、吉田松陰の文書の中から、多くの人が引用したり、感動や感銘を受けたり、人生の指針として取り上げられた言葉を「吉田松陰語録集」としてまとめることとした。方法としては、「松陰撰集」から適切な言葉を抜き出し、「松陰全集」を参考にし出典を明らかにし参考文献を加味し、親しみやすい「語録」を作成したいと会員で手分けをし、推敲している。来年四月完成を目指している。
 
おわりに
 私どもは、山口県の教育に携わっておるが、同じ教師の仲間にも「松陰の海外渡航の企て」に対し、「国禁を犯した行為」として違和感をもっている人もある。私は、江戸時代の身分制度の厳しかった時代に、自分の地位も身分も捨て去り海外渡航を企てたのであるから松陰の純粋な勇気は素晴らしいと思っている。国のきまりであっても後世から見れば誤りがあることも多い。国禁を破ったと一概に否定することはできない。
 私達は会の活動を通して、松陰の人間的魅力を探ること、人間としての生き方を学ぶこと、教師としての使命感を確立すること、そして松陰の思想で共感出来ることを人生の指針ともしていきたい。このような考えで活動を続けている。
(第五回松陰研修塾基礎コース一年次二回目の実践発表から)
 
目次へ戻る
 
平成15年度研修計画
平成15年度第17回『松陰教学研究会』
日 時:平成15年12月6日(土)〜7日(日)
場 所:山口県婦人教育文化会館(カリエンテ山口)                           
内 容:講 義(教育者松陰の真髄・孟子と松陰・現代教育と松陰など・吉田松陰の生涯)
    輪 読・実践発表(松陰教学に実践)
    情報交換(松陰教学から学ぶもの)
参加費:不要
 
第5回松陰研修塾基礎コース
2年次(15年度)
  1 回 平成15年6月28日(土)山口県教育会館
      講 義(防長の教育風土)
講 義(孟子と松陰)
      実践発表(松陰をどのように学ぶか)
  2 回 平成15年10月18日(土)〜19日(日)
平戸・長崎現地学習
参加者負担 15,000円(宿泊費・食費)
  3 回 平成16年1月24日(土)山口県教育会館
      講 義(松陰の人間観と教育)
講 義(「留魂録」を読む)
修了式
参加費不要
    参加をお待ちしています!
 
最近購入図書
『武蔵野留魂記』永冨明郎著、宇部時報社
『吉田松陰上巻』童門冬二著、学陽書房
『吉田松陰下巻』童門冬二著、学陽書房
『吉田松陰、二十一世紀への光』佐藤薫著、第一法規
『久坂玄瑞』武田勤治著、マツノ書店
『吉田松陰と我家』伊豆下田蓮台寺温泉松陰遺跡保存会
『人と思想・吉田松陰』高橋文博著、清水書院
『人と思想・孟子』加賀栄治著、清水書院
『人と思想・佐久間象山』奈良本辰也・左方郁子著、清水書院
『吉田松陰』(ワイド版)徳富蘇峰、岩波書店
『吉田松陰・講孟余話ほか』松本三之助他訳、中央公論社
『いま吉田松陰から学ぶこと、松陰語録』童門冬二著、致知出版社
『萩・見聞』市制施行70周年記念誌、萩市
『高杉晋作』村田峰次郎著、マツノ書店
『高杉晋作史料第一巻』一坂太郎編・田村哲夫校訂、マツノ書店
『高杉晋作史料第二巻』一坂太郎編・田村哲夫校訂、マツノ書店
『高杉晋作史料第三巻』一坂太郎編・田村哲夫校訂、マツノ書店
『素顔の吉田松陰』前野喜代治著、成文堂
『田中助一先生遺稿集』田中助一著、萩市(郷土博物館編集)
『続・田中助一先生遺稿集』田中助一著、萩市(郷土博物館編集)
 
最近寄贈の図書
『吉田松陰、中公新書』田中彰著、中央公論新社(著者田中彰氏から)
『吉田松陰門下生の遺文』一坂太郎著、世論時報社(萩市森田栄介氏から)
『吉田松陰全集』(全13巻)山口県教育会、マツノ書店(玖村勲氏から)
『維新史回廊入門書・長州五傑』野村武史著、内外文化研究所(著者野村武史氏から)
『山代風土記』中村良雄著、広瀬印刷(著者中村良雄氏から)
『江戸の旅人・吉田松陰、遊歴の道を辿る』海原徹著、ミネルヴァ書房(著者海原徹氏から)
 
その他の寄付
寄付金 松谷良子(広島市)
寄付金 松田輝夫(萩市)
鎌倉蓮台寺の写真2枚(四つ切)清水一夫(防府市)
松永祥甫翁卒寿記念写真集(15冊)藤永寿敏(山口市)
 
松風会役職員一覧
役職名   氏  名
理事長    松永 祥甫
理  事   二木 秀夫
理  事   大田 恭次
理  事   谷口不二彦
理  事   岩本  肇
理  事   河村 太市
理  事   石原 啓司
理  事   濱本 研一
理  事   吉村 洋輔
理  事   岡本早智子
理  事   藤永 寿敏
監  事   原田 寿男
監  事   西本 正彦
事務局    室  謙司
FAX/TEL 083-922-1218       
Mail: shohukai@gold.ocn.ne.jp    
URL: http://www9.ocn.ne.jp/^shohukai/   
 
目次へ戻る
ホームページトップへ戻る