松門  NO2  昭和61年3月1日    松門目次へもどる
 
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みちのくの松下村塾                   井町新熊
松陰神社の参拝者  インタビュー 語る人 松陰神社宮司 佐々木一男
                聞く人 松風会理事   石川  稔
松陰の足跡をたずねてA     小学校長
英傑の理想           下関女子短期大学教授  上田 孝治
松陰をめぐる人びと(2)杉滝    松風会理事      石川  稔
 
みちのくの松下村塾
                        井町 新熊
 秋田県大館市に篤志家の熱意によって、模築松下村塾が完成したのは一昨年10月のことである。落成式に萩市が招待されたので私が参列することになった。
 
 大館に行くのに国鉄を利用することにした。それは新潟から羽越本線、奥羽本線を乗り継いで大館に行けば、ほぼ松陰先生の東北遊歴のコースに重なることになり、まことに興味深く思ったからである。
 列車に乗ると車窓からは、松陰先生の日記に出てくる山・川・島や村落などの名前が、記述の通りに顔を見せてくれるのが甚だ愉快である。『海に沿いて大川に至りて宿す。この間海上に常に粟島を見る。……』とある所ではまさに粟島が見えるし、男鹿の『二島かとおもひ、やや近づきて又一島かとおもひしに、長浜に至りて初めて其の内地と連れるを知りぬ』の記述も現状そのままである。
 
 さて大館市は広々とした盆地の中心にある活気の感じられる町である。市の職員の方のご案内で落成式場に着いた。「竹村記念公園」と筆太の文字の彫られた石の門柱を見ながら進むと、そこに松下村塾はあった。周囲は樹木や芝生が植栽されベンチも置かれて、小公園として美しく整備されている。敷地の一方は一段低くなって、ちびっ子広場に続いている。公園の中央にある村塾の建物は、萩の松下村塾そのままである。「松下邨塾」の名板や床柱の「自非読万巻書……」の聯、門下生の写真から説明版まで現物とそっくりに置かれている。施工者は萩にも来て、村塾を十分に観察調査し資料も調えて帰り、慎重に設計施行されたもの。見事な出来映えである。
 
 模築松下村塾は大館出身の成功者故竹村吉右衛門氏の遺志と寄付金により、(財)大館鳳鳴高校振興会(竹村氏母校の後援会)が建てたものである。
 振興会は、松陰先生の思想は、大館出身の先覚者の影響が甚大であったことと、竹村氏の郷土愛を語り継ぐために模築したと語っている。
 竹村氏は生前その動機を次のように述べておられる。
 「自分が生まれ育った郷土に何かお役に立たせていただきたいと。青年時代人間形成の上で最も強い刺激を受けたのは松陰先生である。 

はじめにもどる
 
 
松陰神社の参拝者(インタビュー)
語る人 松陰神社宮司 佐々木 一男
聞く人 松風会 理事 石 川  稔
 
石 川 お邪魔します。今日は松陰神社の参拝者につきまして、思い出話やお感じになっていることをお聞かせ下さい。
佐々木 それでは終戦後のことからお話申しましょうか。
 終戦直後は参拝者も少なく、どこの神社・仏閣も同じでしたが、ずいぶん荒廃いたしました。そのころのことで今も忘れられない思い出があります。
 
 昭和23年の春、徳山のある女学校の生徒が3班に分かれ、3日間続けて参拝に来られました。その中で1班と3班は何事もなかったのですが、2班の参拝の時でした。引率の先生が生徒をお蔵(松陰神社の神殿)の前に並べて「敗戦によって神社・仏閣はこのように荒廃したが、松陰先生というお方は戦前にも増して世の中に出られるお方である。将来家庭の主婦となり子女の教育に当たる者は、松陰先生の教えをよく噛みしめて心に刻みつけて置くように。」と諭され、松下村塾や杉家旧宅を見学されました。
 今思うと、この先生は偉い方だったなあと敬服いたします。
 
 昭和24年の春ごろから参拝者も年々多くなりました。そのころもう一度感心したことがありました。
 丁度秋の例大祭のときでありました。祝詞(のりと)奏上のときでありましたので私どもは平伏していて周囲の光景は見えませんでしたが、小学校高学年か中学1,2年位の修学旅行生だったと思います。引率の先生が「松陰先生は教育の神様として多くの方がお敬い申しているお方である。だから今日萩に来たおみやげは、品物を買って帰ればいいということではなくて、松陰神社にお参りしたその気持ちを大切にし、それを家に持って帰ることだ。」とおっしゃいました。それを私どもは平伏したまま聞いたのですが、祝詞が終わったときには、もう生徒も先生もいらっしゃいません。みんなで今の先生は偉い先生だなあと話したことです。これはやっぱり、先生が偉いんですね。
 
石 川 そうですね。子どもを引率してお宮やお寺に参拝すると言うことがありますが、同じ参拝しても、先生によってその意味ががらっと変わるということですね。
 
佐々木 やはり終戦後のことですが、修学旅行生を引率して来られましても、そこの玉垣のところに生徒を集めて「君たちだけで自由に参拝して来なさい。」とか、引率しておられても、お宮は避けて、史跡だけを見学して帰られるという先生もありました。私がまだ若くて元気なころでしたから「先生、今のやり方は違うんではありませんか。ここで注意されなくても、学校をお出になるときご指導になるのが本当ではありませんか。子どもの中には、親から『萩に行ったら松陰神社に行くだろうからよくお参りして来なさいよ。』と言われている者もあることでしょう。しかし、先生が神社を避けて引率されたら、お参りしようと思っていた子どもは、お参りできないではありませんか」と申し上げたものです。
 
石 川 終戦直後の一時期、たしかにそういう時代がありましたね。公教育において信教の自由を妨げることはいけませんが、神社、仏閣と関連をもつ大事な教育は現代もたくさんありますね。要はやはり先生の教育観ということでしょうか。ところで新しい神社が出来ましたのはいつ頃だったでしょうか。
 
佐々木 昭和29年でした。その翌々年の31年に隣接して松門神社ができました。これはご承知のように旧神殿のお蔵をそのまま松門神社の神殿にしたものです。
 昭和34年には松陰先生没後百年の大祭が盛大に行われました。さらに昭和42年の明治百年が一つの契機となって参拝者が飛躍的に増加しました。
 
石 川 現在どのくらいの参拝者があるのでしょうか。
 
佐々木 毎年4月に市の観光課が、観光客の概数を発表していますが、200万位ではないかと思います。観光客の調査をするのには松陰神社が最適(萩の観光客はほとんど松陰神社に参拝する)なので、市の方が入り口に居てバス1台は45人とか、乗用車なら3人、4人とか基準を決めて調べておられます。しかし、若干の誤差を考えますと、まあ、185万から200万人というところでしょうか。
 神社の前に歴史館がありますがあれにお入りになる方が参拝者の約1割と見ていますので、だいたい20万でしょうか。
 
石 川 あの歴史館はどういういきさつで出来たのでしょうか。
 
佐々木 神社神道では教化ということを非常に重視しています。幸いにこの神社には松下村塾や幽囚の旧宅が保存されていて無言の教化の場を持っているわけです。そこで私はかねてからもう一つ「目で見る松陰先生の御一代」ということで、何かいいことはないかと長年考えていました。一時はいくつかの絵でそれを構成してみようかとおもったこともありました。
 ところが昭和52年でしたか、NHKの「花神」が放映された年に、今の歴史館、あれはもと体育館でありましたが、そこで大村益次郎の一代を人形を使って展示したことがありました。私はいいヒントを得たので、早速その「ろう人形」をお作りになった社長にお会いして「私はこういう計画を持っているのですが、人形を使ってできるでしょうか」と相談を持ちかけたわけです。
 社長の話では「それはできます。」ということで、私の方でもいろいろ資料を提供したり、講談社の絵本を探して来たりなどそて、一年で会館に漕ぎつけました。社長も大変ご熱心な方で月に一度は必ず、多いときには二度も東京からみえておりました。
 
石 川 そうすると経営はその会社がなさっているのですか。
 
佐々木 そうなのです。C・P・Aという「ろう人形」を作られる会社ですが、神社の方はあの建物(旧体育館)をお貸ししているわけです。あの建物は昭和34年の百年祭の時に、高松宮様がお見えになり祭礼後の直らい会場として作られたものです。
 
石 川 参拝者の数は季節によって多少相違があるのでしょうか。
 
佐々木 以前はお正月、それから春、特に4月5日が一番多いときです。6月の農繁期にはいりますと一時少なくなり、8月の夏休みになるとやはり家族連れの方が多く、9月の中頃から10月、11月の中頃まで一般の方や修学旅行の生徒さん達と続くのですが、今は年間を通じて余り変わらなくなりました。多い月少ない月はありますが、緩やかなうねり程度です。例えば今年なども夏休みが終わって少し途絶えるかと思っていたら9月に入って意外に多くの参拝者がいらっしゃったりいたしました。
 
石 川 そういう現象の変化というのには何か理由があるのでしょうか
 
佐々木 そうですねえ。まあ最近は旅行ブームなので、業者の方々が比較的閑散な時期をねらってツアーを計画なさるようなことが原因かもしれません。バス会社なども閑散期には料金を安くするなどのサービスをしておりますから…。
 
石 川 最初から松陰神社にお参りしようという気持ちでいらっしゃる方と、観光がてらいらっしゃる方がおありと思いますが、その点について何かお感じになることがありますか。
 
佐々木 そうですねえ。お参りされる方々を一般には観光客と呼んでいますが、われわれはどこまでも参拝者と考えているわけです。観光とはご存じのように「国の光を見る」ということで、よその国のよいところを見て、自分の国の悪いところを直そうということのようです。ここでは幸いなことに、たとえ観光の目的でおいでになっても、松下村塾があり、旧宅があるので、そういう遺跡を御覧になると、松陰先生の偉大さに打たれ、自然に松陰神社へもお参りしようという気持ちになられるようです。
 全国には沢山の神社がありますが、御祭神とそれに関係のある遺跡が同じ場所に存在しているというのは、極めて珍しいことだと思います。
 
石 川 そうですね。松陰先生の生涯は30年という短い生涯でしたが、遊歴と獄中を除けば後はこの杉家旧宅で生活をされ、あの村塾で門人の教育をなさったのですから、遺跡といいましても心に迫るものが違いますね。
 
佐々木 先ほどお話しました徳山の先生のおことばのように松陰先生は戦前にも増して世にお出になり、今までにないほど沢山の参拝者がありますが、戦前も決して少なかったわけではありません。私は昭和6年からここに参りましたが、朝早くから起きて掃除をしていますと、もう団体の参拝者の方々がお入りになるという状態でした。当時は山口から来られても萩に一泊しておられました。
 
石 川 最近の学生さんに関して何かお感じになることがありますか。
 
佐々木 よその神社の話を聞きますと、学生さんのひどいいたずらが随分あるようですが、ここではそういうことはほとんど見かけません。何か感じるものがあるのでしょうか。
 最近では、九州大学とか茨城大学の学生さん達がおみえになって「ここで読書会を持ちたいので部屋を貸してください」などと申し込まれた例もあります。グループでいらっしゃって史跡見学を、歌を呼んだり読書会をもたれたりしました。
 歴史館の中には感想ノートが置いてありますが、その感想文を読みましても「松陰先生は今までよく知らなかったが、この一代記を見て本当に偉い人だということを知った」という感想が沢山あります。
 
石川 お忙しいところ本当にありがとうございました。
 
はじめにもどる
 
 
松陰の足跡をたずねてA津軽
                      小学校校長
 台風一過、さわやかな津軽への旅立ちであった。松陰の東北行とは逆の道順で東北新幹線、東北本線を乗り継ぎ一日がかりで青森への旅を楽しむ。渋民、三戸、野辺地と過ぎ行く駅の度に「東北遊日記」と読み合わせながら車窓に移り変わる景色を楽しむこと数時間、陽が西の端に傾く頃、浅虫に降り立ち明日からの行程に心を躍らせながらも、みちのくの夜を楽しむ。
 北の海は蒼く、紺碧の空は遠方よりの友を歓迎するにふさわしく、それに応じて私達も心を躍らせて今日一日の案内役を引き受けていただいた漆畑先生と合流した。
 漆畑氏は青森県歴史の道整備促進協議会の事務局長で特に吉田松陰先生を敬仰され「みちのく松陰道」の整備に心を尽くされている方である。
 青森湾に沿い津軽線で蟹田まで行き、そこからは手配の車で平館まで松前街道を北に走る。途中松陰が青森まで便乗した二矢の集落を過ぎた。平館には松陰が北辺防備のようすを見た中で最も作りがよいと記している砲台跡を見たが、今も昔の面影を偲ぶことができた。車はさらに袰月(ほろづき)海岸道路を三厩(みんまや)へと走る。途中松陰が日記に「上月に宿す」と書いている所を探したが上月の地名はなく、袰月という集落がある事から土地の人の発音からこのように聞き取り書き記したものと思える。
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 三厩へ着く。車を乗り替え、算用師峠、竜飛崎を訪ねた。松陰が小泊(おどまり)から三厩への難路「寒沢(さむざわ)」と名付けた峠を見る。小川に沿って山地に入ると、そこにはアオモリアスナロの原生林に囲まれた山道がある。その道こそ、今は歴史の道整備促進協議会の手で整備され「みちのく松陰道」と名付けられ、ハイキングをしながら歴史について学ぶことが出来るようになっている、かって松陰の歩いた道である。算用師峠お入口には大きなアスナロの原木に「みちのく松陰道」と刻まれた標柱を見ることが出来、この津軽の地にも松陰は生きているとの感激を新たにし、しばしその場に立ちつくし去るに忍びない気持ちにさせられた。
 去年の今日巴城を発し、
 楊柳風暖かに馬蹄軽し。
 今年北地更に雪を踏み、
 寒沢丗里路行き難し。
 行き盡す山河萬夷の険、
 滄冥に臨みて長鯨を叱せんと欲す。
 時平らかにして男児空しく?慨す、
 誰か追わん飛将青史の名。
と松陰が難渋した算用師峠に別れを告げて竜飛崎へと向かう。竜飛崎には松陰は直接訪れてはいないが「戸を推して望むに、松前の連山、咫尺の間在り」と3月5日朝、小泊の宿から津軽海峡の狭さと海岸防備の必要性をこめて記している。竜飛崎から見る北海道は屋型まで手に取るように見えたが、この海峡の下では長い年月と優れた技術によって青函トンネルが貫通へ向けて掘り続けられている。竜飛崎は、その本州側の基地となっている。ここにも前掲の松陰の詩碑が推進協議会の手で建ててあった。
 アオモリアスナロとブナの原生林の中に海抜500メートルの津軽山地を一本の林道は私たちを日本海側へと運び小泊に1泊する。
 ここで松陰ははじめて松前の山々を見た。そしてその余りに近きことに驚いた所であるが、三度車を乗り替えて十三湖を眺めながら中里を目指す。途中湖の広がる向こうに岩木山の美しい姿を見ることが出来る所がある。ここは松陰もその日記に「真に好風景なり」とほめている。ここには「吉田松陰遊賞の碑」が建てられ、その文字は徳富蘇峰が筆をとったものであると中里の人々は、その美しい景色と共に松陰をいつまでも誇りたたえている。
 
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 中里町役場では助役から歓迎を受けると同時に町誌にある藩政時代、北辺の海に出没した異国線船に人々が感じていた事などが残されているのを見せて貰い、松陰の国を思う心とその先見性、行動力にまたまた驚く。さらに車を乗り継ぎ金木を経て五所河原から弘前へと急いだ。途中、赤堀なる所では廃校となった学校跡に「松陰昼食の地」と記した小さな木碑があったが、その台がコンクリートの手作りである。話によれば当時の教員の手で作られた物のようであり、コンクリート台に刻んだ6,7名の名前も今では判読さえも出来なくなっている。残念であった。
 
 さらに岩木川に沿って行くと道端に「松陰先生渡舟の跡」という石碑があり、横に渡舟場のあった由来などが書かれた説明版もある。ここは「みちのく松陰道」の経路に当たる。車は夕暮れの五所河原、鶴田、藤崎と一面のリンゴ畑を走り続けて弘前を目指す。
 
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 矢立峠を越えた松陰は碇ケ関を過ぎ、はじめて津軽の地で宿したのが、弘前であり、さらに津軽藩の事情を知るために訪ねたのが儒者、伊東広之進(梅軒)であった。暮れて弘前に着いたが、その足で会談をした「松陰堂」を訪ねる。ここは伊東家や弘前市によって保存され、今でも訪れた者に当時の会談の熱気を感じさせられる。
 
 式台をあがると正面の襖に松陰が算用師峠を越すときに作った漢詩が書かれ、会談の部屋の周囲は、「東北遊日記」が漢文のまま8枚の襖に大書きされ胸を打った。なお正面に掲げられている「半日高堂話」の扁額は山県有朋の書であり、訪ねた人に松陰の面影を強烈に印象付けるに十分である。しばし座して広之進と松陰の会談の様子を想い、感動のこみ上げる中で、手にした東北遊日記の三月朔日、二日の項を読み会い、遠い津軽で松陰が伊東広之進という友と出会い、喜々とした会談の状況を推察するとき、それは熱気あふるるものであったと思う。
 
 男児北夷陲を略せんと欲す、
 いかにせん吾に百萬の師なきを。
 なお忻ぶ 半日高堂の話、
 幸に此の行為に一奇を添えしを。
 
 松陰は「談論之を久しゅうし」と別れを惜しみつつ弘前をあとにしている程である。白萩の花がほのかな灯りに浮かぶ庭を後に宿に入る。松陰もこの弘前で二夜を明かしているが静かな宿の一室で山口から訪ねた者と一日案内をしていただいた漆畑先生を囲んでの話は松陰によって結ばれた縁の強さを感じさせた。
 
 津軽での松陰の足跡を訪ねる旅をして深く感じることは、松陰は東北行を通してその土地その土地の人の心を動かすものがあったということである。しかも、そのことは150年の歳月を経た現在も、それぞれの人の心に生きているということがこの度の旅を通して分かった。即ち何事にも誰に対しても「至誠」を尽くされたのである。
 
 次に、津軽の地に松陰の心を今日の世の中に広め、語り続けようとする活動が熱心に展開されているということであり、松陰との関わりがあることに誇りさえ感じている。
 「みちのく松陰道」の整備と青少年育成活動、さらには詩碑建立活動、松陰読本青森版の発行等々、松陰の足跡を偲び、松陰に学ぶ県民づくりに努力されている状況を知り、山口県人として、冷や汗の出そうな気持ちにさせられたものである。
 山口県人であるわれわれは、もっともっと松陰研究と実践活動を教育現場に普及振興しなければならないと強く決意して筆を置く。
 
はじめにもどる
 
 
英傑の理想
           下関女子短期大学教授 上 田 孝 治
 松陰先生の遺文を拝読していると、思わず目を見張るような名文に出会うことが?々(るる)あります。その二三を紹介しますと、例えば弘化4年、先生18歳の時の未焚稿「寡欲録」の中に
 「自ら以て俗輩と同じからずと為すは非なり、当に俗輩と同じかるべからずと為すは是なり。蓋し傲慢と奮励との分なり。」
という文があります。気を付けなければ見逃してしまいそうな文章ですが、近頃特に感銘を深くしています。私はかって図書館に職を奉じたことがあり、全国の研究大会等にも出席する機会がありました。その際、盛んに図書館人という語が使われていたのを思い出します。耳慣れぬ言葉で、しかも何だか独りよがりの気もして好きになれませんでしたが、その後同様な言葉を各方面から聞くようになりました。今では議会人、文化人、大学人、新聞人、音楽人等々と随分多く使われています。特定の職業に就いている人々を第三者がなんと呼ぼうと、それは勝手なのですが、ここで△△人と呼ぶのは殆どが自称なのです。だとすれば「寡欲録」に言う「自ら以て俗輩と同じからずと為す」気持ちがいささかでも働いておりはしないか、万一そのような意識があったとすれば、それは傲慢のしるしだから排すべきだと先生は言われるのです。それならば、万事平等円満、他人と同じ程度に程々に過ごしさえすればそれで良いかというに、さに非ず、"当に俗輩と同じかるべからず"と思って奮励努力、大いに自分の能力を発揮しろと続けて居られます。”同じからず”と゛同じかるべからず゛、僅か三字しか違わないのにその間に天地雲泥の差を認めて、自ら戒めのことばとされている先生の見識には敬服の他はありません。
 
 同様に僅かの差で意味の全く異なる語が有名な「七生説」にも見られます。これは大楠公を仰慕して草された文章ですが、その初めの方に
 「私を役して公に殉(したが)ふ者を大人となし、公を役して私に殉ふ者を小人となす。」
と記されています。もとの漢文に直すと“役私殉公”と“役公殉私”の四字ずつとなります。公と私の両者を取り替えただけで大人と小人、月とすっぽんの違いを示された先生の着想の見事さは全く頭が下がります。然し感心するのは先生の学識であって、この文章の指摘するところはまことに深刻です。公私の意味が本文とやや異なりますが、由来わが民族は“役私殉公”、隣人同胞や国家社会のためには一身を犠牲にし得る国民だと高く評価されてきました。然るに大東亜の戦い一度敗れて後は、多くの統計資料の語るところ、国家や同胞のために進んで難に当たらんとする義烈の精神は極めて寥々たる姿となりました。代わって“役公殉私”我がため、我が仲間のための要求願望は汗牛充棟もただならざる有様で、大人国が次第に小人国に変わりつつあります。大楠公を慕い、七度生まれ替わりたいと願われた先生は、今日再生して果たしていかなる文章を草せらるでありましょう。
 
 申すまでもなく「講孟箚記(講孟余話)」は先生の述作中有名なものの一つで、私共数人、みなさんの驥尾に付して細々ながらその講読を続けています。お陰で内容を詳しく見る機会が得られて仕合わせていますが、最近この書物の最終章、尽心下第37・38章の所で
「萬世の為に太平を開く」
という語があることを発見しました。ここでこの語句出合うことができるとは全く読書の喜びであります。この語について、年輩の方々はそれぞれに深い思い出をお持ちと思いますが、私は8月15日の当日、これをシンガポールの台上で拝聴しました。急に隊長集合があって馳せつけたところ、大隊長より私共数名に対して「終戦の詔勅」の朗読があり、戦いの終わりを告げられました。敗北の無念さは言語に絶しましたが、詔勅の終わりの辺で耳にしたこのお言葉は強く耳に残り、ともすれば挫けんとする私共の心の支えとなりました。そして敗戦国の君主という悲運にも拘わらず、希望を掲げて雄々しく進まれんとされる御心を拝して、何ほどかお力にならなくてはという気持ちがその後の私の生活を律することになりました。それにしても
 為去聖継絶学、為萬世開太平。
と近思録にあるこの名句が、早く先生の着目されるところとなり、「講孟箚記」の最後を飾っていることは感慨深いことであります。
 
 さて先生は幕府の安政の大獄に連坐して江戸に連行され、遂に刑死されました。この非業の死に際会してすらも「留魂録」等珠玉の名篇を残して居られることは、私共がいかに賞揚してもことばの足りないところであります。その中の一つ「縛吾集」の最後の詩、文天祥の正気歌に和して作られた長詩の終章を次に記します。
 願わくは正気を留め得て、
 聊か山水の色を添へん。
死して、なお祖国の山河の美しさに貢献したい…と。英傑の理想の何と麗しく、何と高雅なことを痛感する次第であります。
 
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松陰をめぐる人びと(2)杉 滝
                     松風会理事 石川  稔(故人)
 
 杉滝は松陰の実母、萩藩士毛利志摩の家臣である村田右中の三女として生まれた。杉家と村田家は藩士と陪臣という家格の違いがあったので、滝は結婚に先立ち、児玉太兵衛の養女となり、杉百合之助に嫁いだ。
 
 当時杉家の家計は甚だ苦しく半農半士の自給生活を強いられていた。家格は違っていても村田家の方は、比較的裕福であった。松陰の生まれた護国山麓の山宅は、百合之助と滝の結婚に際し、婚資として村田家が用立てたと伝えられている。
 
 滝が嫁いで数年間の杉家の家族は、夫と姑のほか二人の義弟吉田大助(松陰の養父)、同玉木文之進(松陰の師)も杉家に同居していた。そのうち長男梅太郎が生まれ、つづいて次男寅次郎(松陰)長女千代が生まれた。杉家は文字通り大家族であった。
 
 滝は生家では体験したことのない貧困と大家族の世話という艱難を一身に担って励んだ。姑への孝養は言うまでもなく、夫に仕え子女の養育につとめ、かたわら農事を助け、自ら馬を使った。
 
 松陰三・四歳のころ姑の妹が病気のため杉家に寄遇した。この時も滝は貧困多忙の中を三児の養育をしながら病人の看護につとめた。それでいて不平不満の言動は微塵も表さず、常に温容慈顔をもって家族に接した。姑は涙して滝に感謝し、峻厳で聞こえた義弟玉木文之進でさえ「丈夫も及び難し」と絶賛した。
 
 こうした滝の包容力は万人に及んだ。安政2年松陰は野山獄から出て杉家幽囚の身となるが、その後松下村塾を主宰して門人の指導に当たった。この時も滝は門人達をわが子のごとく愛し、寝食、身辺の世話に貢献した。また客人の来訪を心から歓迎し、風呂と食事を接待することを無上の喜びとした。
 
 松陰の限りない人間愛は、たぐい稀な杉家の家風によって培われたものであろうが、とりわけ母親滝によって育まれた面が大きい。
 
 安政元年下田踏海に失敗した松陰は、同年10月、江戸獄から萩の野山獄へ移った。杉家の人々は獄囚生活をおくる松陰に、能う限りの慰撫の手を差しのべた。特に滝は母の慈愛をそのまま獄中に持ち込むかのように衣食住に関し細心の心遣いをした。松陰の好物を誰よりもよく知っていた滝は、それを調え、湿気の多い獄中生活を心配して、油紙の敷物を作り、不潔不衛生を防ぐために、度々着替えを届けた。その連絡役はほとんど松陰の兄梅太郎が当たった。
 
 松陰再入獄後の安政6年1月時勢の急迫を察知した松陰は、獄中から門人達へ次々に指令を発するが、頼む高杉、久坂等の門人と意見を異にし、ことごとく事志に反し、遂に激憤して絶食を決意する。この報に接した百合之助、滝及び文之進はそれぞれ書を認め松陰の短慮を諫めた。特に滝は書面に手作りの食物を添え、「此の品わざわざととのへさし送り候まま、ははにたいし御たべ頼み参らせ候」と嘆願する。遂に孝子松陰は絶食の決意を翻すのである。
 
 滝は繊細な神経を持ちながら極めて楽天家であった。如何なる事態に遭遇しても狼狽することなく苦面も見せず、自らその場の光明となろうとした。「苦しい、困ったなどの語は女の口にすべき言葉ではない。」と自らも戒め、娘達にも教訓した。明るい家庭、健康な家庭を作ることが女の使命だと信じていた。滝の生家村田家の子女の教育が偲ばれる。
 
 明治の世となり、杉滝の名声は一躍世に顕れ、遂に乙夜覧に達し、皇太后皇后両陛下より御下賜の栄に浴するに至った。信心深い滝は念仏唱名を以て養老の楽事となし、「生きて朝恩に浴し、死して楽土に遊ぶ、人生の幸福之れに過ぎず。」と神仏に感謝した。しかし今、この偉大なる母の名は墓石に刻まれることもなく、「杉百合之助、同配(配偶者)之墓」とのみ記されている。
 
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