松門
    NO25

平成10年3月20日(1998年)

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自然から学ぶ

義烈と奉公

第12回松陰教学研究会(略)

平成10年度松風会研修計画(略)

吉田松陰撰集の構成(略)


自然から学ぶ
                                                  県立高等学校長

 朝、学校へ出かける前、庭の給餌箱に野鳥の餌をやることにしている。餌は朝ご飯を少し残したものに、釜を洗ったときに出てくるご飯粒やパンのかけらを混ぜたものである。毎朝のようにやるので、くれるのを待っているらしく、ハシブトガラス、ムクドリ、スズメ、カワラヒワ、シジュウカラ、キジバトなど様々な野鳥がその餌をついばんで行く。しかし、よく見ると大きい鳥から小さな鳥へと順番があるらしく、大きい鳥が食べて逃げるのを、小さな野鳥は遠くの木陰でちゃんと待っている。

 これが冬場ともなると様子が違ってくる。自然界に餌になるものが乏しくなり、大きな鳥がなかなか逃げてくれないと、小さな野鳥は集団でこれを追っ払ってしまう。また、スズメとばかり思っていたら、チャッ、チヤッと鳴き、スズメの鳴き声と違うのでよく見て図鑑と比べて見ると、ウグイスであったりする。あの春に鳴くウグイスの素晴らしい鳴き声からは想像もつかない鳴き声に驚いたりもするのである。いずれにしても、餌をついばむ所作は野鳥によってそれぞれ異なり、愛らしく、興味が尽きない。

しかし、ときにはこんなことも考えるのである。こうして彼等に餌をやることが、彼等にとって本当に為になることなのか。野生の厳しさを損ないはしないかと。やはり、ほどほどにというのが良いのかも知れない。

それでも、餌をついばんで飛んで行くとき、どの鳥も「ありがとう」と行って目配せをしているようで、彼等から学ぶことが多いのである。

それに、うれしいことに、ある日から不登校の生徒が一緒に餌を与えてくれるようになったことである。その子の父親が何回も尋ねて来て、悩みを聞いているうち、野鳥への給餌の話をして、私の留守中餌をやってくれないかと持ちかけたのがきっかけである。私が用意した餌を彼が給餌箱に入れて、縁側に一緒に座って観察する。

はじめは、学校に行きたくてもどうしても行けない、そういう彼の心の葛藤が痛いほどに伝わって来た。それが今では、野鳥を媒体として、段々とものが言えるようになってきており、野鳥に大変感謝しているのである。しかし、まだ、学校へ行かないかとは言えない。

そもそも、野球、テニス、バスケットや音楽など、部活動で苦しい練習に耐え抜いている生徒には心の張りがあり、明るく目が輝いているものである。そういう友達を見て、一層あせりを感じていた彼が、野鳥の観察を通して、小さな動物もそれなりに一生懸命生きている、生きることの喜びを感じ取り、徐々に心の落ち着きを取り戻してくれているように思えてならない。

私は言いたい。君がそこにいてくれるだけでよい。共に生きてくれるだけでよいのだと。あせるな、そのうち、やる気が出て来るよと。

吉田松陰先生も言っておられる、
し情の至極は理も亦至極せる者なり。常にへらく、凡百の事皆情の至極を行へば、仁用ふるにふべからず」と。

教育にも不易と流行があるが、今こそ原点に立ち返って、生きているだけでも良いのだという価値観を基盤として、至誠一貫、仁愛の精神のもとに人間愛を貫いていく気概が必要である。

やがて、ウグイスが美しい声で鳴く頃には、彼も、卓然自立、自らの力で学校へ出て来てくれるようになるのを心から願っている次第である。

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義 烈 と 奉 公

                                                    県立高等学校教諭

はじめに

安政5年(1858)5月、長州藩は朝廷に忠節、幕府に信義、祖宗に孝道という藩是三大綱領を決定している。この綱領は、幽囚の吉田松陰先生(以下、松陰と記述)の「狂夫の言」・「対策一道」・「愚論」等の一連の上書建白による影響が大きいとされている。

天朝に真心尽くすという理念を据え、幕府が正道を歩むなら、洞春公(毛利元就)以来の志を損なわないというものである。綱領決定の経緯について、『修訂版・防長回天史』(第二編。句読点は筆者挿入)によれば、

 13日、当職益田弾正、急に当役以下諸吏員を自邸に招集して、議する所あり。議に者 皆曰く、是れ皇国の大事なり。我公にして忠言を薦むれば、上は以て朝廷幕府に対し忠節信 義を缺(欠)き、下は以て毛利氏の祖宗に対し承順奉仕の道を失ふなりと。14日眛爽弾正 登庁、再び其案を議し、ねく一門の老臣を招集して之が意見を求め、異議なきに及び即夜 政之助をして携へて東行せしむ。
とあり、江戸から帰藩中の毛利敬親に国相府案の裁下を求めて、周布政之助を遣わしている。さらに同書中には、

 吉田松陰、詩を以て其行を壮にする。当時、政之助と松陰等志士と其議論を上下し、意気頗 る相投ず。
とある。『松陰詩稿』中の「周布公輔の東行を送る」の詩の一節には、

 周布公って曰く死は一死のみ、に死するは何ぞ国に死するの忠にかんと。
とあり、藩是には松陰の一連の建策が通じ、松陰の意向が反映されていることが容易に推測できよう。

 松陰の生涯において、初志を貫徹した命題が数多くある。藩主毛利敬親に尽くした忠義の念もその一つである。本稿では、松陰の愚直なまでの意識を考察してみたい。

1 江家とその伝統

 松陰は著述や書簡に江家という語句をしばしば用い、併せてその伝統を語る。例えば『丙辰幽室文稿』の「又読む七則」(安政3年11月23日)では、

 我が大江氏は源をより分かつ。
として、毛利氏が皇朝の系譜に繋がる大枝(後の大江)氏に由来するとしている。続いて

 吾が父執林百非翁(林真人)常に余にへて曰く。「我が江家は遠く皇統に源し、世々文学 を以て天朝を輔けたてまつるは、実に我が公歴世の任なり。
としている。頑迷を承知しつつ、毛利氏の遠祖が皇朝に依拠することに執着する。

 このこだわりは、既に一年あまり前の『野山獄文稿』の「良三の東役を送る序」(安政2年9月6日)に、

  我が江家は源を天よりち世々皇室に藩たり。
という敬親自らによる発令(9月朔日)の意味が大きい。また、来原良三へは

 節を立て始めをふる、斯れ義士たり。難を救い勲を立つる、斯れ忠臣たり。

として、行相府の出仕赴く友人を督励している。藩主による皇室に藩たりという言葉は、獄中の松陰にとって欣喜雀躍の思いであったことが容易に推察される。藩主への信義が最終的には皇朝への忠節に至り、君臣、君下の関係が一本化されるからである。そして、長州藩における尊皇の草莽とその崛起論も、この皇室と藩の関係から絶対化されていくと考えるのが妥当であろう。

2 忠義の絶対性

 松陰には、どうしても乗り越えなければならない使命があった。その使命は、癸丑・甲寅の事変(1853年・ペリー来航、1854年・和親条約締結)を境として大きな変容を遂げることとなった。藩の兵学教授という形式的使命ではなく、我が国の内憂外患に処する生き方が求められたのである。それは同時に長州藩の進む方向であり、他の雄藩に遅れてはならぬとする悲痛な心の叫びである。そこで、松陰は解決の方向性を忠義の概念に求める。皇朝の系統を有する毛利公へ忠義は、両者(天朝・幕府)を同時に尊崇しても背反せず、大義を誤らないとするのである。事実、松陰は国内外の急速な展開にあっても、自己の極限状況まで諫言的立場を貫いている。あの倒幕を明示したとされる安政5年9月9日付の松浦松洞宛書簡で、君側の奸とした水野土佐守を、

 一人の奸猾さへし候へば天下の事は定まり申すべく候。
と排斥をしているが、その前部には

 (尊王攘夷の素志を相挫き候様)天朝・幕府へ対し奉り相済まざるものに付き、

と記している。また、追伸部には、

 天朝尊く幕府重し。
と附言している。

 松陰にとっての癸丑・甲寅は、安政元年3月の下田踏海事件となった。この後、野山獄入獄・自宅幽室となり、行動の自由が完全に失われる。しかし、逆境になればなるほど、松陰の心が燃えたぎる。松陰にとって忠義の概念は、すでに固定化されていたものであった。安政元年8月、行相府に提出した『将及私言』の「大義」の項には、

 普天の天朝の天下にして、乃ち天下の天下なり、幕府の私有に非ず。
とする。この天下論は、幽囚時にますます先鋭化する。安政3年に限定し、数例あげてみよう。

 まず、兵学門生の斉藤栄蔵(のち松下村塾門下生)に松陰が添削結果を意見した『丙辰幽囚文稿』中の5月23日付けの「斉藤生の文を評す」では、

 評、天下は一人の天下に非ずとは、是れ支那人の語なり。(中略)謹んで接するに、我が大 八州は皇祖肇むる所にして、万世の子孫に伝へたまひ、天壌と窮まりなき者、他人覬覦すべ きに非ざるなり。
とし、漢土の禅譲放伐と本邦の皇朝連綿との比較をしている。

 次に、臣下の責務は藩主への忠勤であり、勤王僧黙林との往復書簡(8月18・19日)には、

 僕は毛利家の臣なり、故に日夜毛利に奉公することを錬磨するなり。毛利家は、天下の臣な り、故に日夜天子に奉公するなり。
として、奉公する二つの対象が矛盾せず、一本に絶対化される必要性を強調している。

 そして、秋以降は自著『講孟余話』の評価をめぐり、元明倫館学頭の山県太華と熱い論争をする。太華による「講孟箚記評語」(下の二)では、松陰の天下論(天朝の天下、一人の天下)に対して、

 天下は一人の天下非ずして、天下の天下なる理は、我が国といへどもこれあるを知るべきな り。
として、太華は自らの国史観を引用して時節を正当化させようとする。両者の数度にわたる論争では、「天下の天下」等の解釈をめぐって太華の論理に軍配をあげる節が多い。しかし、松陰は尺忠の対象が明確でないなら、藩や我が国の護持が保てないと考えるため、自説の狭小を問われても、あくまで、「一人の天下」に拘泥している。

3 藩主への忠義

 安政5年末、学術不純を理由に、再獄の身となった松陰は、行動の自由を失う。めまぐるしい情勢の中で、一縷の望みを託して、要駕策(村塾生が3月初旬の藩主参加の列を伏見で迎え、尊攘派公卿に引き合わせて上洛し、勅許を得て幕政過失を正す)を画策する。藩主に寄せる想いには、敬慕に値する特別な心情があった。江戸在住の高杉晋作宛書簡(2月15日以前)には、
 追懐の一年が溢れ、
小子今公様への忠心止む能はざるは抑々故あり。小子幼年より深く御知 遇を蒙り、往年は御前会にも婁々召し出され親しく徳音を伏聴仕り、一々肺肝に徹し候。
とし、その続きには、(東北)亡命・墨夷行(下田踏海)があっても、上書建言を許された恩義に感謝している。

  したがって、ずっと諫言や諫死を考え続けてきた松陰は、藩主を勤王の魁に奉ることが、天朝への報いとする。想像に難くない悶々たる心情も、再獄中という得意な状況を考慮するならば、以下の事例も背徳たり得ないと思われる。東送までの安政6年の書簡のうち、藩主への落胆ぶりと思われるものを拾ってみよう。

 父百合之助との往復書簡(3月2日)には

 御初駕も彌々五日の由、道も道義もなき世の中に相成り、一日生き居り候事もうるさきこと に存じ奉り候。
としている。同月の入江杉蔵宛書簡(20日)には、

 君心巳折の四字、幾度思ひ返しても腹が立ってならぬ。
とある。別の杉蔵宛書簡(4月22日頃)の「自然説」に、

 吾が公に尊攘をなされよといふは無理なり。尊攘の出来る様なことを
へて差し上げるがよ し。
と、尊攘の方法に論及したものもある。これら意外に、この時期の著述にこの類の記述がみられぬこともないが、先の書簡同様に感情の直截表現のみに終止している。内憂外患に加えて再獄という二重の苦難、尊塾の同士結合を唱えるとき、短慮の至りでなく、あくまで忠義の念は失われていないのである。

 逆に、本藩の誇りと藩主への報恩も多く記している。このうち、草莽論に固執した4月初旬、有名な北山安世宛書簡(7日付け)には、

 されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にしても忘るるに方なし。草莽崛起の力を以て近くは本 反を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州に大功 ある人と云うべし。
として、自説の正当性と長州藩の誇りを他藩人に力強く示している。また、杉蔵との獄中往復書簡(5月中下旬)には、杉蔵が、

 我が君公は尊攘の御志は毛頭之れなく、
と師に寄せている。書簡中の行間に松陰の文字が記されているが、この部分には松陰の筆致がない。要駕策挫折に伴う藩主発駕に自信の気魂が失われたという種類の表現はあるが、松陰には熟成の激烈な一言に値するような記述が残っていない。それは、推論の域になるが、『講孟箚記』(梁恵王上・首章)にある「義を後にして利を先にする」ような生き方を、松陰が求めて来なかった誇りに起因するのではあるまいか。また、生涯にわたり、藩主に尽くし続けた忠義にも通じる敬慕の想いに拠るのではあるまいか。

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