松門12号 平成3年2月1日
松陰からのメッセージ(平成の幕開けに向けて)(財)松風会理事 太田 恭次
生涯学習の先駆者吉田松陰先生 山口県教育委員会教育長 高山 治
野山獄における福堂策 萩松陰先生を学ぶ会会員 松田 輝夫
防府松陰研究会の歩み 会 長 小川 善博
県内松陰の道調査終わる (財)山口県教育会・(財)松風会
松陰からのメッセージ(平成の幕開けに向けて)(財)松風会理事 太田 恭次
平成2年は国の内外にわたってまさに激動に継ぐ激動の年あった。明けて平成3年も中東情勢はいよいよ緊迫の度を加え、遂に戦争に突入した。
そうした中にも我が国が平和を維持し、繁栄を続けていることは大きな幸せである。しかしひとり、我が国だけが繁栄を謳歌していることは許されない厳しい国際情勢にあることが次第に国民の意識に上がってきたとはいえ、果たして充分といえるのだろうか。その端的な例は世界に貢献する日本を掲げながら中東の危機に対する貢献策について、臨時国会まで開いた結果は何が打ち出されたのか、そして今、湾岸戦争にどう対処してしていこうとするのか、世界が納得する積極策が打ち出されなければならない。新しい平成の年が吉田松陰殉難130年、明けて平成2年が生誕160年と続いたことが今の日本に警鐘を乱打しているように思えてならない。
徳川300年の安逸を打ち破り、新しい時代への変革に起ち上がった松陰が
「天下の大患は其の大患たる所以を知らざるに在り」
と警告した叫びは、戦後の大平に馴れて、いわゆる平和ぼけといわれる日本人に我が国及びこれを取り巻く世界の危機に対して正義ある秩序を確立せよと呼びかけているのではなかろうか。更に浦賀にペリーの軍艦をその目で見るや
「実に目前の急、乃ち万世の患なり」
と直ちに万世の患を取り除くため何をすべきかの行動を起こしている。
世界の秩序をどう確立するかの重大なテーマに対して我が国が何をしなければならないのかを一人ひとりが真剣に考えていかねばならない。しかもそれは一国の利害打算からではなく、世界の正義に立脚していなければならない。
「士の道は義より大なるはなし。義は勇に因りて行われ、勇は義に因りて長ず」
の士規七則の条はわれわれに大きな指針と勇気を与えてくれる。
昨年の11月は天皇即位の大礼、饗宴の儀、大嘗祭と一連の国家的行事が挙行され、改めて日本という国家を再認識し、外国にも再認識してもらう結果となった。そして、これをめぐっての憲法論議、奉祝に対する賛否の行動が渦巻いた。
とかくのことはあったとしても新憲法下、象徴天皇の御即位をはじめとする一連の行事は国の慶事であり、外国もすなおに祝ってくれたと思う。また、古式ゆかしき式典の中にも日本の古き、よき伝統が漂っていた。日本の国に生まれてよかったと実感したことである。
「身、皇国に生まれて皇国の皇国たる所以を知らざれば何を以てか天地に立たん」
この松陰のいう「皇国」を新憲法、象徴天皇、主権在民下の日本と置き換えれば、日本人の国家認識の在り方を示すものと言えよう。われわれは果たして日本国家の之本国家たる所以を知っているのだろうか。世界に通用し、国際社会で尊敬と信頼を受けるには、まず、「我が国は…」という確たる国家認識を持ち、その上で外国、異文化を理解し、尊重し、協力していくことでなければならない。これなくしては
「何を以てか天地(世界)に立たん」である。
昨年は教育界に」も様々な事件があった。教師と子どもの間の人間関係の問題、校則・生徒指導の問題等々である。その遠因、近因は複雑に絡み合って容易に解きほぐす術もないが、要は教育の原点に返り、真の教育を再建することにつきる。それは勝因の言う「涵育薫陶」の教育にかえることである。
平和の幕開けが松陰殉難130年、生誕160年と続いたことは偶然ではなく、この激動、変遷の時代を切り開くべく、松陰が甦ってきたのであり、21世紀に向けて数々のメッセージをおくっているのである。
生涯学習の先駆者吉田松陰先生 山口県教育委員会教育長 高山 治
昨年は吉田松陰先生生誕160年にあたり県下各地で松陰先生に因んで記念行事が行われ、松陰先生が山口県の誇りとする偉大教育実践者であることを改めて再認識することができました。
生涯学習の先駆者松陰先生という見方で考えますとき、野山獄での前途に全く希望のない囚人に、それぞれの特技を見つけ出し、共に学ぶ姿勢と獄全体を学習の場に変えられたこと。
また、松下村塾では青少年に広く門戸を開き学びたいものは身分に関係なく受け入れ、個性を伸長する教育をされ、優れた人材を育成されたことが挙げられます。まさに松陰先生は現在に通ずる生涯学習の推進者、指導者であります。生涯学習時代を迎えた現在、県教育委員会では教育重点施策の最重点事項に生涯学習の推進を取り上げ、県民一人ひとりが生涯を通して、「いつでも」「どこでも」「だれでも」学ぶことのできる生涯学習の実現に向けて鋭意取り組んでいるところであります。
今後も松陰先生を先駆とする防長教育の伝統を基盤に21世紀の明日を開く心豊かな人づくりに努めて参りたいと考えています。
野山獄における福堂策 萩松陰先生を学ぶ会会員 松田 輝夫
安政元年(1854)、松陰は踏海の大計に挫折、「父百合之助へ引渡、在所に於いて蟄居(ちっきょ)を申し付ける」という幕府の判決であったが、帰国するや借牢として野山獄生活を強いられた。
こうした状況の中で、松陰はこの挫折を人生の再出発として猛然と精進の日々を重ねた。そして、更に野山獄の福堂化に努め、野山獄開設以来の獄風大刷新を成し遂げたのである。これは、松下村塾の活動に匹敵する教育実践であり、松下村塾教育への大きい踏み石として、改めて考察の必要を痛感させられる。
松陰は、野山獄入獄8ヶ月後の安政2年6月に「福堂策」なる小論文を発表している。それには、後魏の孝文帝が言った「智者は囹圄(れいご、牢獄)を以て福堂とす」は、道理にはかなうが実態はそう簡単なものではないと次のように述べている。「余獄に在ること久し、親しく囚徒の状態を観察するに、久しく獄に在りて悪術を工(たく)む者ありて、善思を生ずる者を見ず。然らば、滞囚は決して善治に非ず。故に曰く『小人閑居して不善を為す』と、誠なるかな」と。そして「但し是は獄中教なき者を以て言うのみ。若(も)し教ある時は何ぞ其れ善思を生ぜざるを憂へんや」と言明し、福堂策として10項目の具体的施策を掲げ示している。
松陰がこうした確信を抱きえたのは「余野山獄に来たりてより、日々書を読み文を作り、旁(かたわ)ら忠孝節義を以て同囚と相切磋(せっさ)することを得、獄中駸々乎(しんしんこ)として化に向ふ(どんどん獄中がよい方向に進んでいる状態)の勢あるを覚ゆ。是れに因りて知る、福堂も亦難からざることを」と述べている。
では、こうした実践がどのようにして進展していったのであろうか。松陰の記録を通してその主な要因を探ってみたい。
第一には、松陰の卓然自立の学問精神の姿であろう。松陰は講孟余話に「好んでしょを読み、最も古昔忠臣・孝子・義人・烈婦の事を悦ぶ。朝起きて夜寝(い)ぬるまで、兀々孜々(こつこつしし、一心不乱)として且つ読み且つ抄(しょう、抜き書き)し、或いは感じて泣き、或いは喜びて躍り、自ら已(や)むこと能(あた)はず。此の楽しみ中々他に比較すべきものあると覚えず」と述べている。入獄1年2ヶ月で読書約620冊に及んでいることは衆知の通りである。これが同囚の目を引き、松陰との問答が始まり、安政2年4月「獄舎問答」にまとめられる。そして、同じく4月から有志による松陰の孟子の講義が始まり、更に6月からは孟子輪読会に発展し、福堂化への実践が展開された。松陰は講孟余話の中で「師」について「己が為にするの学は、人の師となるを好むに非ずして自ら人の師となるべし。人の為にするの学は、人の師となるに足らず」と述べているが、獄中の松陰は正にこの説の実践者であった。
次には、生き甲斐のある人生の生き方を説き、共感による共に学ぶという松陰の姿勢である。松陰は、学を講ずるの意を講孟余話の中に述べている。「今旦(しばら)く諸君と獄中に在りて学を講ずるの意を論ぜん。…人と生まれて人の道を知らず。臣と生まれて臣の道を知らず。子と生まれて子の道を知らず。士と生まれて士の道を知らず。豈に恥ずべきの至りならずや。若(も)し是れを恥づるの心あらば、書を読み道を学ぶの外術あることなし。已(すで)に其の数箇の道を知るに至らば、我が心に於いて豈に悦ばしからざらんや。『朝(あした)に道を聞きて夕べに死すとも可なり』と言ふは是れなり」と。そして「相共に斯(こ)の道(人の人たる道)を研究し、縲紲牢狴(るいせつろうへい、牢獄に囚われの身)何物たるを知らざるに至らば、豈に楽しみの楽しみに非ずや。願はくは諸君と偕(とも)に是れを楽しまん」と。共に学ぶ楽しさを説いている。共に学ぶ進展の過程については、次の書簡からも推察できる。
安政2年6月、月性宛には「平生の志、確然不抜、愈々益々同囚を切磋す。近日獄中駸々として風に向ひ、其の未だ学に就かざる者十に僅か二三なるのみ。乃ち司獄に至るまで亦来たりて業を請ふ」と述べている。2ヶ月後の8月、兄梅太郎宛には「吉村・河野及び頑弟(松陰)三人志を同じ力を叶(かな)へ、獄中の風教を興し候積もりにて、吉村は発句を以てし、頑弟は文学を以て、外に富永子書法を以て人を誘し候。今は此の三種の内なにかを学び申さぬ人迚(とて)は之なく、且つ孰れも出精の趣きなり。此の勢いにて三五年を過ぎ候へば必ず大いに観るべきもの之れあるべくと相互に喜び居り候」と報告している。僅か2ヶ月で獄中の風教は急速に進展している様子がよくわかる。同囚がお互いに優れた才能を生かし学び合う実践を展開しているのである。
第三には、松陰の教育実践の基盤に、人間を信頼し大切にするという人間観が貫かれていることである。そしてこのことが最も重要であると思う。教育は人間の可能性を信ずる人間信頼が出発点である。
松陰は踏海の挫折で囚われの身となるや、番人達に向かい、人倫の人倫たる所以、皇国の皇国たる所以などを訴えた。すると番人達は「涙を揮(ふる)って吾が輩の志を悲しまざるなし」と。また、江戸へ護送の途次も「亦為に大道を説き聞かすること下田の獄に在る時の如くにして、更に快なり。余生来の愉快、此の時に過ぐるはなし」と述べている。挫折の身に希望が湧き、人間に対する見方が大きく飛躍する貴重な体験をしている。これは、入獄して囚人に対する対応に大きい影響を与えたと考えられる。松陰の卓然自立が独り善がりの歩みでなく、新入りとしての努めに励み、同囚の病気について医員青木研蔵に壮だ案を持ちかける等の優しい心配りが、同囚の閉ざされた心を開かせる要因になっていることを見逃すことはできない。
福堂策には「人賢愚ありと雖も、一二の才能なきはなし。湊合して大成するときは必ず全備する所あらん。是れ亦年来人を閲し実験する所なり。人物を棄遺せざるの要術、是れより外復たあることなし」と。人間の生まれ持った才能を総力をあげて育てていけば、どんな人も一人前の人間として認め合えることができると断言している。
また、講孟余話には「余寧(むし)ろ人を信ずるに失するとも、誓って人を疑ふに失することなからんことを欲す」と述べ「先ず己の性を真に善と篤信し」、そして「至誠にして動かざる者未だ之れあらざるなり」を確信するに至っている。松陰が多くの経書の中から、性善説を説く「孟子」を主として取り上げていることもうなずかれる。
そして、松陰は「学は、人たつ所以を学ぶなり」とし、人間の値打ちは人の人たる道を求め、それにどう立ち向かっているかを視点として、身分や家柄など名利に惑わされない人間本意の評価をする人間観を、より確かなものにしている。これが、鋭く個性を見抜き、適切な指導を与えた松陰の真骨頭を育んでいったといえよう。
松陰の同囚への思いは、同囚が自立し、自由への身となって社会復帰できることであった。「人命は至って重し。一人も、十人も、百人も、みな同じ。吾れ今一身を顧みて、野山の事を顧みずんば、囚徒十一人、ついにまさに天日を見ずして死すべきのみ。一人を以て十一人に替えば、吾れまたもとよりその身を顧みざるに足るなり」と。出獄後直ちに釈放運動に身を挺し、安政3年10月に7人、安政4年7月に1人、計8人の釈放を成し遂げている。人間松陰の松陰足る本領の面目躍如たるものを痛感させられる。
なお、こうした松陰の教育実践を、側面より支援した家族をはじめ、司獄更には知友たちの大きな支えについて言及できなかったし、また、挫折からの自立や人間観の形成などのおさえも不十分なまとめとなったが、またの機会に補いたいと思う。
防府松陰研究会の歩み(松陰の教えの中に生き方・あり方を求めて)
会 長 小川 善博
防府松陰研究会の全身は、今から19年前の昭和42年2月27日に遡る。松陰研究にご造詣の深い河村太市先生(現県立大学教授)を敬慕して集まった会で、それが今日に及んでいる。初心者の私たちを、学究的な雰囲気の中で親しみやすく懇切に教えていただいた。ご自宅を会場として、参考図書をすぐ書斎から出されていた。
発足当時、会員は8名であったが、昭和45年頃には19名を数えるまでになった。
初期の読書会では、まず、バートランド・ラッセル著「教育論」を読み始めた。当時は、学習理論研究の盛んな時代であったように思う。ブルーナー著「教授理論」馬場四郎編著「授業の探求」、中江和江・山住正巳編著「子育ての書」などを輪読した。
松陰研究のスタート
そして、昭和48年頃から松陰研究が始まった。
玉川大学出版教育宝典「山鹿素行・吉田松陰集」の講孟余話(抄)をテキストにし、松陰の難解な文章を河村先生のご指導を受けながら読み進めていった。輪読のときには、なかなか内容の把握ができない文章が、先生の明快な講義により、あたかも目の前のもやが晴れるように松陰の深い思想が理解でき、また、意味深い教訓に出会い、心を躍らせ充実感を満喫しながら夜道を帰ったことが思い出される。
会の後半は、感想や日頃の実践上の問題などを話し合い、これが、当時若く経験の少ない者にとっては、疑問を解決する絶好の場であったし、教育に対する考え方も育てていただいたように思う。
その間、金山政秋氏が事務局を担当し、当時、多忙な中で参考資料として「論語」の引用文を、毎回手書きのプリントで配布してもらい、今日までお世話して貰っている。
その後、先生のご多忙により昭和56年頃一時中断のやむなきに至ったのである。
草かげろう 落ちて声やむ 読書会
防府松陰研究会の発会
読書会復活の声に機運が高まり、河村太市先生、山口県教育会事務局長陶山長先生(故人)の励ましもあり、全市内の教職員に呼びかけて、昭和62年6月12日「防府松陰研究会」が発会した。
本会は「往く者は追わず、然れどもしの前日の善意を忘ることなかれ。来る者は拒まず、またその前日の過悪を記すことなかれ」を中心として、同好の士が集まり、松陰先生の人間観・教育観・人生観に学び、自らの生き方に資すると共に、松陰精神の啓発普及に努めようと話し合った。
毎月第2金曜日を定例会とし、発会以来30回余を重ねている。
テキストは、当所「吉田松陰入門」(山口県教育会編)であったが、昭和63年7月から「吉田松陰全集」の講孟余話に入り、本年度は、講孟余話公孫丑下第3章から輪読している。
会員は、22名で平素概ね10数名の出席で継続されている。例会は、会員が互いに進んで読んで解釈をし、河村先生に指導していただいている。その後、座談に入り、気軽に感想や教育に対する問題などを話し合い、時には話がはずみ、一般社会問題にまで及び、それがこの会の魅力の一つになっているように思う。
松陰の足跡を訪ねて
平成2年11月11日に、かねて話題になっていた「松陰の足跡を訪ねる会」を実施した。
当日は、絶好の秋の行楽日和に恵まれ、車2台に分乗して9時に防府を出発した。
萩は、たまたま吉田松陰生誕160周年記念行事の最中で大勢の観光客で賑わっていた。
松陰神社・松下村塾で
松陰神社参拝後、松下村塾で松下村塾聯「万巻の書を読むに非ざるよりは、寧んぞ千秋の人たるを得ん。一己の労を軽んずるに非ざるよりは、寧んぞ兆民の安きを致すを得ん。」を改めて読み説明を聞く。
塾の左側の屋舎は、塾生の協働によって作られ、屋根瓦を葺くとき、品川弥二郎が誤って赤土を落とし、松陰先生の顔を汚し、先生が「師の顔に泥を塗るか」と言ったという話を聞き、工事の様子と心温まる師弟関係を想像した。
吉田松陰の墓所
松陰をはじめ読書会の資料に出てきた人たちの墓に詣で、これまでは書物上の理解であったが、心の接近と感動を覚えた。
萩のホテルの食堂で昼食。その後、野山獄・岩倉獄を見学した。現場に立って、松陰が獄中で学問をする環境を醸成し獄囚を感化し、お互いが師となって学び合う松陰の心の広さなど読書会で語り合ったことを思い起こし、一層感慨を深くした。
続いて、防府にゆかりの深い「滝鶴台」の墓に詣でた。鶴台は、右田郷学時観園において28年間の長い間教育にあたり郷学の復興に努めた。鶴台の妻竹女は、袂(たもと)に白糸と赤糸とをいれ日々修養に努めたという話は有名である。
涙松の遺跡
この度の道筋で会員の最も関心の深かった所は、この「涙松の遺跡」であった。萩往還の道を車で登る。涙松の遺跡近くの道路右手上に大きな松野切株が無惨な姿を見せていた。
たまたま、そこを通りかかった年配の女性の方が「この松が、一番枝振りがよく道の上に覆い被さるように立っていた。私は市の人が切るんじゃろう思いました。本当に惜しいことで」と残念がっていました。
また、松陰先生について「偉い先生でした。子どもさんがおらず後が絶えたことが残念です」と言葉を残して去っていった。
松陰が死を決意して護送されていく時、萩城下が一望できるこの地に立って故郷との別れをした心境を思う。
ここから、さらに道を上り大屋刑場跡や駕籠建て場、当時の街道の杉並木などを見ながら歴史の道について陶山先生から説明を聞いた。
さらに、帰防の途中、明木の歴史の道に寄り、一升谷に風雨による損壊を防ぐための石畳道が300メートルにわたり、残されている話など、初めて訪れたこともあって、印象深く改めて歴史に興味をそそられる。
秋の日は短い。夏木原に着き東送の碑・氷室などを見て六軒茶屋・一ノ坂建場跡に行く。駕籠建場や茶屋などが復元されていて興味深い。往還一番の難所といわれる坂道に立って、会員から駕籠を担いでの上り下りは、さぞ大変だろうとの声が出る。
これまでは、書物の上だけの知識であったが、実地見聞の裏付けにより深く理解することが出来て、これからの読書会が一層楽しい物になるであろう。
今後も「防府松陰研究会」は会員の温かい触れ合いの中で、実学的な立場から、教育の在り方・人間に生き方を求めて、松陰研究を続けて行きたいと思う。
山口県教育会・松風会
昭和63年度に着手した県内「松陰の道」調査事業が関係者の多大なご尽力・ご支援によりようやくこのほど全コースの調査を完了した。この間、特に文献調査委員の方々にはそれぞれ専門的に懇切丁寧なご指導を賜り、現地調査委員会の方には、炎暑極寒もいとわず実地調査に当たられ、詳細な報告書を作成していただいた。ここに心より深謝申し上げる次第である。
松陰遊歴の足跡
松陰20歳から25歳までの数年間は、勉学と憂国の一念に燃える東奔西走の旅の連続であった。西は長崎平戸から東は遠く青森県竜飛岬に至るまで、県内外1万数千キロにも及び、全国殆どの地域を踏破している。その道筋追って見ると、
@ 萩―山口往復(1847/18歳)
松陰年譜(全集10巻)によれば、弘化4年3月「周防国湯田に遊ぶ」とあり、はじめて山口までの萩往還を往復したと思われる。もっとも後に護送されて帰萩の際、明木市(あきらぎいち)で「少年志すところあり柱に題して馬郷を学ぶ…」の詩を作っており、このあたりまでは以前から来ていたのであろう。
A 北浦海岸視察(1849/20歳)
嘉永2年「水陸戦略」を書き認(したた)められて、御手当御内用掛(おてあてごないようがかり)に任ぜられていた松陰は、前年6月須佐(すさ)・大津(おおつ)・豊浦(とようら)・赤間関(あかまがせき)にかけての巡検を命じられ、道家竜左衛門(どうけりゅうざえもん)等と共に海岸防備の実情調査に当たり、同年7月23日に完了した。「廻浦紀略(かいほきりゃく)」はその時の日記である。
B 九州遊学(1850/21歳)
家学、山鹿流一方の宗家山鹿万助(やまがまんすけ)を訪(と)い、葉山佐内(はやまさない)への従学を主目的としてかねてより、希望していた九州遊学が許可され、嘉永3年8月25日萩を出発、平戸、長崎をはじめ九州各地を巡歴、同年12月29日帰萩した。はじめて藩外へ出た松陰は多くに人に会い、萩では手に入らぬ書籍をむさぼるように読破し抄録した。平戸や長崎で得た中国や西洋の知識、特に欧米列強の競って我が国に迫り来る状況を肌に感じとった衝撃はその後の行動にも多大の影響を与えた。また、この旅で、生涯の知己となった熊本の宮部鼎蔵(みやべていぞう)など多くの同志をも得た。押し寄せる外夷に対して日本の国防をどうするかせきたてられるように、故郷に向かって赤間関街道を急ぐ若き松陰の姿が目に浮かぶようであり、「西遊日記」はこの旅の記録である。
C 第1回江戸遊学(1851/22歳)
翌嘉永4年、今度は藩主の参勤交代に随行し、待望の江戸遊学が決まり、3月5日萩を発って萩往還(山口から小郡をまわる)―山陽道―東海道を勇躍東上し、4月9日江戸藩邸に着いた。この間のことは「東遊日記」されている。
江戸での松陰は当代一流の碩学(せきがく)に従学し、全国から遊学に来ている同友と交わり、学問の広さ深さに目を見張ると共に一面真に師とすべき人を見いだせぬさびしさも感じていた。
またこのとき、熊本県で知り合った宮部と共に鎌倉の瑞泉寺に、伯父竹院和尚を訪ね、相模・安房の海岸を踏査し、藩主への進講や武術の稽古も怠らず猛勉強と多彩な活動の月日を過ごした。
D 北遊歴(1853/23歳)
嘉永4年12月14日から翌年4月5日まで、宮部と共に東北地方を巡遊した。この旅行は東北各地の状況視察が目的、藩の許可は得ていたが、今一人の友人江帾五郎(えばたごろう)との約束を守り、過書(かしょ)の交付を待たずに亡命して出発したのである。この旅行は特に水戸の学風に触れて、国史に対する眼を大きく開かれ、会津・佐渡・青森等各地を巡って民情を探り多数の知名の士に会って論談を交えるなど有益な旅であったが、脱藩の罪はまぬがれず、江戸藩邸に自首して出た松陰は、直ちに待罪人として帰国命令が出された。
嘉永5年4月18日、江戸を発って萩に向かったが、「而して僕は則ち憂心隠々たり(憂いいたむ様)、時に諧謔(かいぎゃく)を以て自ら遣(や)るのみ」(宮部宛書簡、全集F127p)と記しているように寂しいたびであった。帰萩後、山縣半蔵(やまがたはんぞう)に宛てた手紙に「…阪港より船を発す…」(山縣半蔵宛書簡、全集F129p)とあり瀬戸内海を船で下り富海(とのみ)か三田尻(みたじり)に上陸して萩に向かったものと思われる。
E 第2回江戸遊学(1853/24歳)
亡命の罪より士籍を削られ世禄を奪われて父百合之助の育(はぐくみ)となったが、阪主はこれを惜しみ、百合之助に内諭して10か年間諸国遊学を請わしめ、嘉永6年正月藩府はそれを許可した。
松陰は君父の至恩に感激しつつ、再び江戸を目指し正月26日、萩を後にした。この度は、富海から乗船し、摂津・河内・大和・伊勢・美濃・信濃を経て5月24日、江戸着、鳥山新三郎(とりやましんざぶろう)家に投じた。この間沿道の知名士十数名を訪ね、多くの収穫を得ている様は「癸丑遊歴日記」に詳しく記されている。
F 江戸から長崎へ(1853/24歳)
嘉永6年6月3日、江戸に着く松陰を待ちかまえていたかのようにペリーが軍艦を率いて浦賀に入港した。松陰は直ちに急行して事情を探り、浪人の身ながら禍の及ぶおも顧みず、「将及私言(しょうきゅうしげん)」「急務条議」等次々に上申し、同志と共に日夜、時事討究に没頭した。この頃師事していた佐久間象山(さくましょうざん)等と謀り、海外視察のため、長崎に来泊中のロシア艦に乗船の決意をし、9月18日江戸を発った。途中京都―大阪を経、海路豊後鶴崎に上陸、熊本で宮部等と会い、10月27日、長崎に着いたが、既にロシア艦は出航後であった。この間のことを「長崎紀行」に残している。再び熊本を経て下関に渡り、赤間街道を通って11月13日萩に帰ったが、松陰のあとを追って萩へ来た宮部等と三度江戸を目指した。この度も、富海から乗船、海路大阪に着き、京都・伊勢・尾張を通り沿道に知名の士を訪ね、中山道から江戸に入った。
G 下田踏海失敗・萩へ護送(1854/25歳)
金子重之輔と共に米艦に乗船して海外に赴かんとし、江戸を発ったのは嘉永7年3月5日であった。米艦を追って下田港に至り乗艦の機を伺っていたが3月27日夜(実は28日午前2時)柿崎弁天島から小舟を漕ぎ出して漸く米艦に上がり、必死に同行を頼んだが聞き入れられずに遂に送り返された。2人は自首して縛につき、4月15日江戸伝馬町の獄に拘置された。9月18日、幕府は松陰等に自藩幽閉を命じ、同月23日、檻輿江戸を発ち、10月24日萩に着いた。藩府は松陰を野山獄(のやまごく)、金子重之輔(かねこしげのすけ)を岩倉獄(いわくらごく)に投じた。
下田踏海の失敗によって、九州遊歴以来続いた松陰の旅は終わった。しかしこの間に体得した松陰の勉学経験と思考の成果は、その後展開される松陰教学の基礎を培うものとして大きな意味を持つものであった。
H 東送(1859/30歳)
下田踏海以来5カ年の歳月が流れた。安政6年5月14日午後野山獄獄中の松陰に兄梅太郎から東送の命のくだったことが知らされた。松陰は直ちに「至誠にして動かざる者未だこれあらざるなり」(孟子)「吾れ学問20年、齢(よわい)も亦而立(じりゅう)なり。然れども未だ斯の一語を解すること能わず。今茲に関左の行、願はくは身を以てこれを験さん…」の決意をする。
いよいよ5月25日朝、檻輿萩を後に帰らぬ旅に出ることになった。護送の列は折から降りしきる五月雨の中、松陰が幾度も通いなれた萩往還を江戸に向けて粛々と進んだ。護送途中に松陰の残した詩歌は「縛吾集(ばくごしゅう)」、「涙松集」にまとめられている。
○ 松陰と旅
「時勢の進歩に遅れまいとすれば自然の防塞の中に慢心していてはならぬ」と松陰が長老村田清風(むらたせいふう)に四峠論をもって諭されたのは少年の時である。山田宇右衛門(やまだうけもん)に「坤輿図識(こんよずしき)」を贈られた世界の大勢に眼を開くように教えられたのは17歳の頃である。同じ頃松陰は「余平生地理に昏きを憂ふ…略…夫れ地理の学係る所のものは甚だ偉なり。政を布(し)く者は地理の宜しき所に因り、兵を用ふるものは地理の便なる所に依る。故に治にして政を布く者、乱にして兵を用ふる者は皆宜しく譜(そらん)ずべき所なり。―」(題防長地図)とも述べ、早くから地理の重要性に着目していた。後に金子重之輔に学問の仕方を問われた時も「地を離れて人なく、人を離れて事なし。故に人事を論ぜんと欲せば先ず地理を見よ」と答えている。
「心はもと活きたり、活きたるものには必ず機あり、機なるものは触に従いて発し、感に遇いて動く、発動の機は周遊の益なり」と西遊日記冒頭に記された言葉は、いみじくも遊歴の真意を的確に表している。
松陰の旅はもとより名所史跡を見聞し、風景を楽しむ行楽の旅ではない。各藩各地の情勢をつぶさに視察しその地誌・民風・文教・政治・経済等の実情を探り、兵学者の立場から防備の状態を調査するのみならず、全国の知名な学者を求めて従学し各地の同志を探して交友を深め、常に優れた書籍を手に入れて読破し抄録するなど学術の研究修業、情報収集の旅であり、至誠憂国の一念を貫く実践行動の旅でもあった。そのために、また捕らえられて護送される罪人の旅でもあった。
多くの自然と人と社会と文化との出会い、それらとの積極的な係りと体験を通して、松陰の理論と感性は厳しく磨きあげられ時代に卓越する広い視野と高次の思想が形成されたのである。松陰にとって遊歴の道は修学の道場であり、四夷襲い来る動乱の中に至誠憂国の大志を貫く実践の場でもあった。
○ 歩行大会
萩往還をはじめ、北浦海岸・赤間関街道・山陽道・瀬戸内海を松陰はその時々の様々な思いをもって幾度か往復した。その思いの一端を文や詩歌に託して遺してもいる。今それ等を繙(ひもと)きながら松陰の辿った道を辿りつつ思いを往事にはせ、松陰の心の言ったに触れ、更には郷土の歴史や地理に関する理解と認識を深め、併せて心身鍛練の機会とするならば一石何鳥もの効果がある。萩往還、山陽道の一部では既に数年前から歩行交歓大会が実施されている所もある。県内「松陰の道」の中には歩行コースとして、マラソンコース・サイクリングコースとしてもてkいとうな箇所が幾つもある。今後是非青少年をはじめ一般県民の参加するスポーツの道としても大いに活用されることを期待して已まぬところである。
それにしても既に人々の歩行絶えて久しく昔の街道も今は雑木雑草におおわれて歩行困難な場所も少なくない。これ等は是非今後地元のご協力を得て修復整備も図りたいものである。
「松陰の道」調査に基づくガイドブックを目下、実地調査報告書に基づいて作成中であり3月末には発刊の予定である。是非ご活用いただきたいと念願している。
(文責 山口県教育会事務局長 陶山 長(現在故人))
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