松門11号

平成2年9月1日

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松陰先生生誕160周年を迎えて  理事長 松永 祥甫

松陰精神の継承と発展を 山口県議会議長 河野 博行

松陰の郷関と道         理 事 三輪 稔夫

小さな歩みを続ける松陰会    世話人 瀬島  肇

松陰先生生誕160周年を迎えて  理事長 松永 祥甫

 松陰先生は天保元年(1830)寅年、8月4日、萩郊外松本村(萩市)の毛利藩士杉百合之助の次男として生まれ、幼名は虎之助、後に寅次郎と改められましたが、丁度今年は生誕160周年に当たります。生誕地萩市はもとより山口県としても数々の記念事業が目論まれています。これとタイアップして、本会も山口県教育会と共催で吉田松陰テーマ展、松陰輪読会、記念講演とシンポジュウムの集い、山口県学校吟剣詩舞道大会、青年教師松陰研修会等を次々と開催いたします。

 今、我が国は世界の経済大国として国際問題に重要な役割を担って行く責任の地位に置かれておりますが、その偉大さは畢竟国民の英知と勤勉、根本には教育尊重に外なりません。ここまで到達した日本は、再び前者の轍を踏むことがあってはなりません。国際間に信頼を増幅し人類の福祉に貢献する国となることが、日本国の今後進むべき道と考えられます。一層胸襟を開いて国際感覚を身につけることを志し、自己を高めることが国民共通課題と存じます。このように考えますとき、今一度先生の生涯を一瞥することも無意味ではないと信じます。

 先生は質実にして勤労に励み学問を尊重する家系、家庭に生まれ育ち、特に山鹿流兵学の師範家である吉田家を継いでからは兵学を志し、22歳で兵学の奥義に達し、極秘三重伝という最高位の免許を受けておられます。先生の成長期は、幕藩体制が経済的にも破綻に瀕しており、且つ欧米諸国の重圧の加わって来た時代で、国民的意識の自覚を要する、極めて大切な時期の到来ということになります。

 先生はいち早く時勢を先取りし、身のやすきは考えずに、四国、九州、中国、近畿、東海、北陸、奥羽地方全部を国防的見地から研究視察、旁ら先覚者を訪ね、更に自らの火苦悶研究にも孜孜として怠るところはありません。

 「天下漸く変革の兆しあり」と喝破し、幕府の時局対応に決断無しと見ては「官よくこれを断行することなし、予が航海の志、実にここに決す」として踏海の挙に出ますが、失敗に帰し、郷里萩野山獄の人なり、ここでは1年2ヶ月の間に618冊の読書という精力ぶり、その傍ら司獄(刑務所長)を含めた囚人の人間教育、赦されて生家の家囚となっては家人への孟子の講義、やがて風を望んで私淑する者が相次ぐようになって松下村塾が形成されます。

 塾教育の主眼展は志を立てよ「立志万事の源を成す」でその志は直面する民族の冀求を救い日本国の独立を守り、国家の繁栄に貢献し、国民の生活を安定させるため新しい国をけんせつすることを内容とするものであります。

 塾教育の2年4ヶ月間、に国情は内外共に急を告げて参ります。子弟倶に、深く実践活動に係わるようになり、遂に再入獄、やがて東送、3回の取調の後死罪となります。時に安政6年(18591027日、齢30歳であります。先生神去りまして、子弟奮起し明治の鴻業樹立となります。松陰先生は将に維新の先覚者、教育者の最高峰なる所以であります。

 この記念すべき年に当たって、広島県の松陰崇敬者好永忠行氏の松陰関係愛読書346冊外資料多数をご遺族財満澄子氏氏よりの山口市歴史民俗資料館、に寄贈、それを本会に寄託され、只今好永文庫として松風会展示室に展示してあります。

 さらに、最近新刊の名著「明治長州の三宰相」(著者徳山大学理事長三坂啓治)の那珂にも松下村塾での松陰先生と門人との関わりが明確に述べられています。

 いずれにしても、松陰先生は、私どもに不滅の光を与えてくださり、日本国の進展と共に永久に生き続けられる方であります。

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小さな歩みを続ける徳山松陰会  世話人 瀬島  肇

 今思えば14年前である。私は徳山市立馬島小学校長として赴任することになった。学校経営の拠り所を「松陰の心に求める」ことを胸に秘めての着任であった。

 当時、徳山小学校では河口正人校長先生が「素読教育」を実践しておられた。以前『教育実践』(山口県教育会発行)紙上に、三輪先生が、松陰幼少年時代の素読を通しての『素読暗誦考』を書かれておられたのでその内容に深い感銘を覚えると共に、学校教育に取り入れ、実践したいと考えていたところであった。早速私は河口先生の実践に学び、学校の先生方と相談し、協力を得て、4/5/6年生を対象にして実行に移してみた。以来8ヶ月継続。また毎月1回の学年別の学年集会で、『松陰読本』を教科書に授業を実施したりもした。その頃一緒に取り組んだ先生方が、現在各地の学校で素読教育を実践されていると噂に聞き、嬉しい限りである。

退職後、縁会って徳山大学松陰会に再就職。そこでの仕事の一つに「学生信和会」があった。玖村敏雄先生講演録『吉田松陰の思想と生涯』(山口銀行厚生会編)『士規七則』『留魂録』等を教材に読書会を毎週月曜日に催したり、春秋2回、萩・長府に学生らと訪ね、史跡を探訪して松陰先生、門弟の方々を偲んだりした。

 同時期に、河口先生が市民・教員有志で結成されていた徳山松陰会の世話役を私が引き受けることになり、今年で6年目を迎える(結成されてからは7年目)。この会には組織も規約もなく、出入りも自由である。だだ今会員16名だが、仕事の都合もあって平素は7,8名集まりになる。私たちは3名になっても、この会を継続していこうという合い言葉で今日に及んでいる。同会員で専門に松陰研究をしている者はいないが、各自各様に勉強して集まってくる。時には指導者を招いて指導助言を受けたいとの要望もあるが、諸般の事情で思うに任せないのが実情である。また世話役の私自身が、十分ななしえないにもかかわらず、各会員の情熱と努力に支えられて、松陰会は着実に推進されてきた。

 徳山は、吉田松陰の思想を継ぎ、その教育の実学体現者として生き抜かれた故玖村敏雄先生の出身地である。その先生を私たち会員は拠り所としている。会員の求めている玖村先生の著書として『吉田松陰』(岩波)『吉田松陰の思想と教育』(岩波)等がある。先生は『吉田松陰全集』(岩波)編纂にも従事されていた。前述した『吉田松陰の生涯』は、山口銀行新入社員・中堅社員研修で講演された記録であり、玖村先生がなくなられる直前に完成されたものである。玖村先生の伝記としては、『玖村敏雄先生伝』(辻信吉・ぎょうせい出版)がある。

 私たちは毎年玖村先生のお墓にお参りをしている。お墓の周囲の除草、松陰の『士規七則』を口ずさんでの礼拝は、気持ちを清浄にし、新しい意欲をわかせてくれる。

 徳山市(現在は周南市)大字下上の菊川公民館の前庭には「玖村先生像」が建てられている。玖村先生が広島高等師範学校で教鞭を執られていた昭和10年頃、故玖村敏雄・故西川平吉両先生を中心に、毎週1回、松陰読書会が開かれていた。この像はその時の門弟達を中心に建立されたと聞く。

 当時玖村先生に師事していた川上喜蔵先生(現在呉市在住『僧黙霖と吉田松陰の往復書簡』の著者)は、82歳という高齢にもかかわらず、玖村先生の正月命日には今も墓参されている。また、門下生の一人である吉村忠幸先生(現在札幌市在住)は、札幌大学女子短期大学部研究紀要に「吉田松陰先生の教育像」という論文をまとめておられる。

このお二人に巡り会うことができた。そこで、これを機会に、当時の松陰読書会の様子を拝聴して、私たちの会の指針にしている次第である。

 徳山松陰会は、毎月第二、四木曜日の午後6時から2時間、徳山市民館を会場にして、輪読会をしている。今、輪読資料として、『講孟余話』(近藤啓吾註・講談社文庫)及び『孟子』(小林勝人訳注・岩波文庫)を用いている。吉村忠幸先生からは、「なるべく原文を繰り返し読むこと」をお手紙で助言をいただいていたが、難解個所が多く、力なさを感じている。私たちの歩みは遅々として進まない。

 幸い昨年2月、三輪稔夫先生をお招きしご指導をいたっだく機会を持つことが出来た。当夜の研修は、会員が平素抱いていた質疑から始まった。先生は私たちの質疑を中心に講義をされ、また質疑の上に立ってのご指導をしてくださった。最後に憂国の志士吉田松陰の「俊傑の学」について講義をされた。「国体を明らかにする」「時勢を察する」「古今明主けんそう賢相の事蹟をつまびらかにする」「万国治乱興亡の期間を洞かにする」等現代の教育界で問われているものに通ずることばかりで、会員一同深い感銘を受けた。松陰の、何を成すべきかという「時務」の解決のための学問は、教育に携わるものに大いな示唆をあたえてくれた。これを契機に会員の意識はより確かな自覚に高まっていったように思う。なおこの夜の講演の様子は、会員の手で文字化し、冊子にしてある。

 私たちの松陰会では、その一カ年の歩みを中心に、会員各自の考えや研究を会報にしてまとめている。誰言うとなく、輪読を終わって、ついこのままにしておくのは何としても惜しい。自分なりに感想なり、これから得た課題への取組なりをまとめておこうということになり、冊子(会報)にしたのが始まりである。それが現在5号までに至っている。手前ごとで恐縮だが、執筆者延べ50名、総数244ページに及び、多忙な中で執筆に当たられた会員の方々の真摯な気概が伝わってくる。私たちの会の分身ともいえるものであり、今後もぜひ継続して行きたいと思っている。

 今日、価値観の多様化がよく言われている。自分の価値観、哲学の根拠となるものは、いろいろあって当然しかるべきであろう。ただ問題なのはその根拠を持っていない場合である。

 国際理解のためには、他国の文化の理解と同時に自国の文化の理解が必要である。さらに郷土の理解を抜きに自国の文化は語れない。ギリシャをはじめとするヨーロッパ人は2専念以上昔の自国の教育者・哲学者たちを誇りとし、彼等の考えを今も勉強している。同じように山口県にもわずか百年ちょっと前に、素晴らしい教育者・哲学者ある吉田松陰がいた。

 外国人に日本のことを尋ねられて分からないことを私は非常に恥ずかしく感ずる。同様に他県の人から郷土出身の松陰のことを尋ねられて、答えることができない人を見るときや、他県の方が研究が盛んと聞かされるとき、非常に恥ずかしく感ずるとともに、一抹の寂しさを覚える。情報化の時代であるから、生きる根拠となるもに触れる機会は多いだろう。ただ、山口県にいればその根拠の一つになりうるもの、即ち松陰に触れる機会が特に多くあることを若い方々に知って欲しい。

 最後に同会のメンバーで青年教師であるM氏・N氏が最近『教育実践』に投稿した論文の一部を紹介して、本文の終わりとしたい。

 「生きる拠り所、志を持つことの大切さは誰しも心得ていようが、実際は何となく毎日を過ごしていることが多いのではあるまいか。将来への夢や希望が希薄になりがちな今日、幕末の過酷で熾烈な体験者の松陰の言説は私たちにいかに「生きる」かということを鼓舞してくれる。…会員と討論を重ねているうち、いつしか閉会の時刻となっている。その日解釈した分量は僅かばかりで、2/3頁のこともしばしばである。結論が出ぬままに終わることもある。やはり各自が抱える課題は、そう簡単に解決できるものではない。むしろその討論の中で、また新たな課題が生じてくることもある。しかし、この輪読会を通じて「生きること」「信じること」等を模索した時間は、大きな充実感、満足感を与えてくれる。…」

 「…先日の徳山松陰会での論点は、この『講孟箚記』は誰のためにつくられたものかということであった。時の権力者(武士)に向けてか。つまり、松陰がこの『講孟箚記』で述べている思想が、前者ととるか後者でとるかで、変わってくるのではないかと感じたからである。解釈を誤ってはいけないという危惧が私の頭にあった。

 しかし、ある会員きから、「あなた自信はどう考えますか」と質問された。これだと思った。松陰がどう考えたかは今問題ではない。松陰の思想から、自分自身は何を学び取るのか、松陰教学の何を自分に生かすのか、そこが重要なのである。

 まさにこれだと思う。今の世の中を見るにつけ、松陰から得るヒントは数多い。」

松陰精神の継承と発展を 山口県議会議長 河野 博行

 本年は、松陰先生生誕160周年という記念すべき年でありますが、今日、松陰先生の御遺志が我が山口県民の心の中に脈々と受け継がれておりますことは、誠に喜ばしい限りであり、また誇りでもあります。

 松陰先生は、孟子の「至誠にして動かざるもの、未だ之れ有らざるなり」の言葉を信じ、非常なる覚悟の下に果敢に実行に移され、日本中の志ある者に救国の使命感と勇気を呼び起こさしめ、明治維新の原動力として、尊い生き様を厚生の人々に示されたのであります。

 最近、青少年にかかわる痛ましい事例を聞く度に、慈愛の精神を持って弟子達の個性を伸ばす教育をされた松陰先生の教育精神の普及の重要性を改めて痛感するのであります。

 私も一政治家として、松陰先生に習い、時代に対する先見性を持ち、県民の皆さんに夢と希望を与える明るい未来への展望を提示し、その先頭に立って「死して後已む」の精神で事に当たる決意を新たにしているところであります。

 どうか松風会におかれましても、山口県の更なる発展のため、21世紀を担う青少年をはじめ、県民各界各層に対し、伝統有る防長教育の根幹である松陰教育の普及啓発に、一層の御尽力、御活躍を賜りますよう、念願する次第であります。

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松陰の郷関と道         理 事 三輪 稔夫

 萩―明木間の旧萩往還に沿って超勤代を象徴する有料道路が企画され建設中である。萩往還はそこにそのままかつての姿を露呈し、萩市街とその近郊は過ぎし遺跡を多く維持して前近代を語りかける。豊かな自然と歴史と文化を生かして近代後の地域活動化を方向付ける観を感ぜずにはおれない。

 シュペングラーの『西欧の没落』を取り出すまでもないが、西欧の文化文明が唯一絶対でないことは彼の論旨である。しかし日本がその異質・特殊性を主張しても始まらない。不変の舞台で英知をもって検討を要する今、世界は二極構造が崩れ、激動の時代に突入している。

 萩往還は藩府萩にとっては天下・世界に開かれた唯一の幹線道路であった。松陰はこの道によって、勇んで旅立ち、悲嘆や再起の決意を秘めて帰った。また唐丸籠や錠前付網掛かり駕篭での通過を余儀なくされた。

 萩往還はいうまでもなく萩―山口―三田尻(山陽道に接続)間で、明木橋を渡って右折する関街道(馬関に至る)を分岐する。明木―萩間は2里、械(かせ、悴)ケ坂の急坂を萩方面に越した処に一里塚が昔のまま残っている。有料道路トンネル萩出口料金所・駐車場の西側、旧刑場跡地に続いて建っている。この一里塚が械ケ坂全体のほぼ中央にあって、萩から械ケ坂に取り着く処に涙松の遺跡があり、械ケ坂を東に越して少し歩くと明木橋である。

 松陰との関係で最も有名であるのは涙松である。安政6年5月15日、松陰を乗せた護送の駕篭が大屋の涙松の根かたに止められた。ここは萩城下が一望できる。護送役も松陰に、故郷との別れを思いやり、ゆっくりとわらじの紐を締め直して休憩をとった。松陰は萩城と自宅の方向を見渡して。

 帰らじと思いさだめし

 旅なればひとしほぬるる涙松かな

と、訣別の一首を詠んだ。幕吏に対して「至誠の実験」を志しての東送である。

 関所が有るわけでもないので、郷関を何処に設定するかは、地形や施設や個々の思いで違って差し支えない。松陰にとっては涙松であり、械ケ坂の急坂を越した処であり、明木橋ででもあった。

 松陰最初の藩外遊歴は嘉永3年8月25日、21歳、九州平戸を目指した途でもあった。

 『西遊日記』巻頭に「晴れ。早発ち。械ケ坂を越えて夜明く」とある。この日記の序は9月にできる。

 道を学び己を成すには、古今の跡、天下の事、陋室黄巻(狭い部屋での読書)にて固(もと)より足れり。豈(あ)に他に求むることあらんや。顧(おも)うに、人の病は思わざるのみ。(一般に人の欠点は書物の知識だけで思考を広げない)。則ち四方に周遊するも何の取る所ぞと。曰く(松陰の答え)「心はもと活(い)きたり、活きたるものは必ず機(心のはずみ)あり、機なるものは触に従って発し、感に遇いて動く。発動の機は周遊の益なり」と。西遊日記を作る。

 すなわち、読書情報だけでは志とその実現に不安がある。藩内はもとより他藩の事物、天下の現状に直接触れ、歴史や地理、人物や文化を結び、感動を誘う学問にまで高め深めなければならない。かって16歳、藩の長老村田清風を訪ねた。

 諸国を遊歴せんければ駄目だ。この城下の片隅に蹲んでばかり居っては、書物の虫になるばかりだ、

と教えられた。この『四峠(しとう)論』をかみしめる松陰であった。

 更に松陰には、明木橋を郷関とし、志を主題とした詩がある。安政元年1024日、松陰25歳、金子重之助と共に二つの唐丸籠での帰郷の際である。前日の夕刻、明木駅に着いたところ、4人の護送役が松陰の籠のそばに来て「引渡処は野山屋敷福川犀之助云々」と伝えた。「杉百合之助へ引渡し、在所に於いて蟄居」とは異なる。金子は出獄の時から「病篤く、気息偃(えん)々」、苦しみ通しである。明くれば24日、白昼罪人を運ぶ唐丸籠で萩御許(おもと)町を通って野山獄と岩倉獄に着くことになる。

 松陰は出獄以来、五言古詩で雑感を綴ってきた。明木橋で次の詩を残した。

  少年志すところあり

  柱に題して馬郷を学ぶ。

  今日檻輿(かんよ)の返、

  是れ吾が昼錦の行。

  (明木橋を過ぐ、橋は萩を去る2里なり。予、幼児ここを過ぎ、戯れに司馬相如昇仙橋に題するの語を題す。今又ここを過ぎ、之を思うて慨然たり。

 この詩を単純に解すれば、少年時代に明木橋を過ぎて以来の志を貫いた結果、今日、唐丸籠で罪人としてのお国入りとなった。しかし、我ら2人は心に錦を着て、白昼城下の人々の前に、姿を表すのだ。「重之助よ。よいか。そうだぞ」と、金子を励ますための松陰の呼びかけでもあった。

 たしかに『五十七短古』全体を通観すると、護送の厳しさもあって後悔や無念さが随所に感ぜられる。「余、獄を出でて国に至る。浴せず梳(くしけず)らず」とか、「菲(ひ)才」、「志漫(みだ)りに大きく」、「蹉跌(さてつ、しくじって囚われの身となった)」して実態のない「虚名」を悲しむ詩が目に付く。一方、「浩然の気」、「雄飛の心」、「報国の念」なども見逃せない。

 そこまで広げなくて、この詩だけに着いてみても、松陰の思い出がぎっしり詰まっている。松陰は少年時代(幼児と後語にある。従弟玉木彦介の元服を祝した歌に「今日よりぞ幼心を打ち捨てて人となりにし道を踏めかし」)、多分15歳に近づいた頃明木橋を渡った。前漢成都の司馬相如(字は長卿)が若い頃長安の都に行く途中、昇仙橋(蜀城の北10里にある)の柱に「赤車駟馬(せきしゃしば、4頭立ての馬車王侯をさす)に乗らずんば汝の下を通らず」と題した故事を思い出し、松陰も明木橋の柱に題した。すなわち松陰は自分の字を「義卿(ぎけい)」と決めることにした。字は自分でもつけるが、多くは師につけてもらい、人生の理想、士の志を示すもの。松陰は義を重んずる人になろうと、馬卿(長卿)に見習った。「戯れに」から察せられることは、帰還はどうみても高位高官ではない。しかし、この詩は卿以上の誇りもある。松陰は20歳以後一時盛んに今一つの字「子義」を用いた。「義卿」と同義であるが、微妙な相違も感じられる。

 事実、藩府は松陰たちを厄介者扱いにし、重罪犯人として白眼視した。ただ村田清風は次のように讃(たた)えた

是は極くよい事をやってくれた。何か思い切った事をせんければ役に立たぬ。ぐずぐずして居ては埒があかぬ…。事の成敗はどうなるともその志を天下に顕したら、心は既に西洋に行っているわけではないか。これがことの端緒というものじゃ。『村田清風翁事蹟』以上三ケ処の郷関、松陰の志の重要な起点で、拡充・深化・実現への機の希求点となり、ついにその終点でもあった。

立志は、実学を重視する山鹿流兵学では逃がすわけにはいかない。この伝統が明治を導いた。松陰は6歳で家職を受け、ただちに叔父で父執(父の友人で父志を伝える)でもある玉木文之進から家学と経学の指導を受け、常に「苟(いやしく)も報国の念あらば慎んで凡士となる勿れ」と戒められた。「報国の念」が志の大方向を示し、何を具体的に決めて進むかは学問によって松陰自ら発見する以外にない。「凡士」ではできないことである。志←→学問→←実行の過程が実学と呼ばれるもので、士は農工商等の道徳的軌範となり、またそれを指導して始めて社会的責任を果たすこととなる。『西遊日記』序文巻頭の「道を学び己を成す」、「学道成己」がこれに当たる。『講孟箚記・尽心下第8章』に「余孟子の読を受けてより二十年」とある。安政3年の松陰は27歳であるから、7歳で『孟子』を、意識的に始めている。(幼児の素読は別)。義は孟子の義を感得したと察せられる。

次に『箚記・万章下』で、「孟子の学経史を兼ぬ」と松陰は書く。歴史とはただ過去を研究することではない。昨日の自分を思い出すと同じく、過去を甦らせる人であって歴史家の名に価する。松陰は歴史の事実を過去からの情報として眼光紙背に徹する読に高めた。と同時に今は「為すあらんと欲するに非ずや」として、、「書は古なり、為は今なり」の学問態度を身につけた。更に嘉永4年第1回江戸留学中、個別的な古人の勉学や事業を鑑とする程度ではなく、本格的に『史記』から始めなければと気付き、また水戸では日本史研究に触発される。結局、「歴代の史を歴観し、その断じ難き所は古人の衆論を以て己が工夫を加えば人間の大義自ら明らかならん」と考えるようになる。

また、西遊や東北遊等で明確に得た今日の国防・民生情報はペリー来航によって現実の守備範囲となり、松陰は次第にこれを『俊傑の学論』へと高めていく。

魁(さきがけ)は常に反感を買い、死さえ覚悟しなければならない。天の使命と体して、至誠の実行以外にない。松陰は海外の情報をも道の連続として急務と考え、名付けて「下田踏海の挙」とした。しかし、失敗に終わった結果、松下村塾での後起人の育成となるが、松陰の夕刻の実学は、一言一句が魂から魂への呼びかけとなり、その活力の発揮へと繋がる。

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