松門10号 平成2年3月1日

目   次

「松下村塾」の模築に思う 山口放送株式会社代表取締役会長

             (財)山口県教育会会長  野村 幸祐

吉田松陰研究                      萩松朋会 代表 末永  明

松陰の道歩行大会                     山口県教育会 大田 恭次

青年教師松陰研究会有意義に終わる

松陰をめぐる人びと(9)宮部鼎蔵 熊本大学非常勤講師

                   元熊本市文化課長 鈴木  喬

「松下村塾」の模築に思う 

                   山口放送株式会社代表取締役会長

             (財)山口県教育会会長  野村 幸祐

 平成元年11月、萩の「松下村塾」を原型通り模して山口放送前庭に再建し、同月24日、平井県知事、河野県議会議長、高山教育長等々多数の来賓の出席を得て、落成披露を行いました。この日は、吉田松陰先生殉難の安政6年1027日から数えて、130年目の前日に当たります。

 偉大なる先覚者吉田松陰先生は、維新の黎明に先駆けて「松下陋(ろう)(そん)と雖も、誓って神国の幹たらん」と喝破され、「死して後已む」の気魄を持って、子弟同業、実学の教育を行われました。

 この18畳半の粗末な塾舎から、維新回天の原動力となった幾太の俊傑が輩出し、松門の双璧、久坂玄瑞・高杉晋作などは若くして国難に殉ぜられ、伊藤博文、山県有朋、野村靖等々、明治新政府の中核となって日本の進展に大きく活躍いたしました。

 現在我が国は、世界が眼を見張る経済大国にまでのし上がりましたものの、敗戦と繁栄の陰に、大事な日本人の魂を見失い、道義頽廃、エゴ横行の浅ましい世相に目を覆うもののありますことは、心あるお互いの寒心に堪えないところであります。吉井勇は「萩に来てふと思へらくいまの世を救はむと起つ松陰は誰」と歌いましたが、30歳にして国難に殉じられた松陰先生の、愛国の至情から迸(ほとばし)り出る気魄と行動力こそは、我等意識革命の鑑であり、今の世にあってその精神を学びつつ、反省奮起したいと願うものであります。

 この塾舎の模築に当たっては萩土建河村社長に厳密な調査測量を依頼し、永年怩懇(じっこん)の笹川良一会長にお願いして船舶振興会から一部助成を受け、地元徳山の福谷産業の献身的ご協力によって完成いたしました。

 思い起こせば、私は「刑死問題その他を中心とした松陰研究」を、3年がかりで広島文理大の卒業論文としてまとめました。これは、それまですべての松陰先生の伝記には、小塚原と誤記されていた処刑の場所を、日本橋の天馬獄内とするものであります。なおこの考証の結論は、当時、松陰門下唯一人の生存者であった渡邊蒿蔵(わたべこうぞう)翁(当時90歳)を萩の自邸に訪ねて、考証の正しいことの要点を、念のため自署いただいたものを巻末に添付して居るのであります。

 今やベルリンの固い壁はうち砕かれ、自由と平和を求める東欧諸国などの激変ぶりは、我々の予想を絶し、世界変革の歴史が大きく書き改められつつあります。かって尊王討幕の烈しいノロシに点火されて、幾太の俊傑を輩出したこの松下村塾こそ、六百年の武家政治を、王政復古、明治維新に書き改める日本歴史の大きな変革となったことを考え併せますとき、まさに感無量のものがあります。

 当社では、かねて放送の公共性と、地域に奉仕する社会的使命に鑑み、利益の社会還元に力を尽くして諸種の事業を推進して参りましたが、村塾の再建も、その根本理念を同じくする一連の社会奉仕による精神作興の「貧者の一灯」であります。

 平成2年の本年は、松陰先生生誕百六十年に当たり、県を各種の記念行事が展開されることと存じますが、

「只々(ただただ)公明正大、十字街を白日に行き候如くにて天命に叶はば成るべし、叶はずば敗るべし」(吉田松陰)

の熱情と信念を持って、松陰精神の復興と、更に新たな実践を希求して止まない次第であります。

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吉田松陰研究 
                     
萩松朋会 代表 末永  明

 昭和47年(この年、ルパング島で残存元日本兵が現地警察隊と交戦、一名志望、一名負傷のまま逃亡の報があった)の夏のころであったと記憶する。当時萩市明倫小学校勤務の田中浩氏(現萩市教育委員会社会教育指導員、元小学校長)他数名の方と教育雑談の集いをした時のことであった。話が私が私の勤務校の職員研修資料として配付していた松陰全集からの抜粋記事を刷りまして、この方々にお届けしていたことに関連して、田中氏から「吉田松陰全集が発行されて手元に届いているから、これを機に皆で読んで見ようではないか」という提案があり衆議一決。早急に実施をと具体策を講じることとなった。

 10月には「吉田松陰全集第3巻(講孟餘話集録)」が教育会から郵送されてきた。

 1111日、前記の書籍を手に、田中浩、横山貢、三好豊、阿武博道、木村浩の諸氏が夜道をおして私の家に集まって輪読会の初会を開いた。

 この日は、吉田松陰が孟子の講を開いた日にちなんで設定したものであったが、松陰のこの日の講義(註)は、以後の私共の教育実践をはじめ読書会を継続させる上で、強い心の支えとなるものであった。

 (註)吉田松陰全集第3巻173P、孟子離婁(りろう)下第四〜八章「君子と王道政治。仁義と王道の関係を説くにはじまって為さざるの志、為すあるの業(者と狂者)に及ぶもので、その根底には涵育薫陶、人を養って善につくことにある」と説いている。

 以降、田中氏宅と私の家を会場に、概ね月2回、土曜日の夜を集会日として輪読を続けた。

 会は、通常、予め決定している章(項目)を全員で朗読。続いて当番会員が講釈。あと(途中も)参加者は自由に私見を述べ、又は参考資料や文献を紹介するといった過程をたどり、時の経るのも忘れる程であった。

 続いて弘長純忠、松田輝夫その他の方々の参加を得、相互に参考図書の持ち寄りや紹介を通して会は継続せられた。

 平穏裡に進んでいた読書会の会員組織に思わぬ変化が生じてきた。毎年行われる教職員の人事異動によって、辞令一枚で萩の地を離れて他教育事務所、他教育委員会への転出や、山大附属学校や県教育庁職員への採用等による人事異動によって、萩市内学校勤務者は僅かに2名という事態が生じるまでになった。

 しかし、そのような状況の中で(現在もそうであるが)任地と萩の間百余qの夜道を往復される会員には、実に頭のさがるおもいであった。

 『この灯を消してはならぬ』と萩市内の学校を訪問して校長先生に「入会勧誘」をお願いしたところ、嬉しいことに、教職経験2〜3年の若い方々を中心に約20名の参加を得ることが出来た。このため、会場は個人宅では狭いので萩市中央公民館などの施設を借用することとなったが、この頃から「松風会」の経済的なご支援を得ることが出来るようになり、会の維持発展の大きな支えとなったことは感謝に堪えないことであった。

 会員の構成に大きな変化が生じたので、学習内容をどうするかということが課題となった。相談の結果、萩市教育委員会(現在は山口県教育会)が発行してしないの小学校児童に配布している「証印読本」の講話をおこなうこととなった。

 この本は、小学校児童を対象としているため、私共聖人の講読には、それなりの資料の補充が必要となったので、「吉田松陰全集」その他から保管して輪読考察するという方法をとった。この準備は以前からの会員が担当した。

読書の過程で会員から、松陰読本の記述中、松陰が東北遊歴から江戸に帰り着いた日付が間違っているのではないかという気づきがあった。現在の本は訂正されているが、旧本では「百四十日の旅を終え、四月四日、江戸に帰った」という記事となっていたことについてのことである。さっそく教育会と連携して訂正していただいたことなどは、当時の思い出である。

 若い情熱をもって松陰研究に取り組まれたこの時期の方々も時が来ると、僻地学校へ又は出身管区の学校等へ転出される事態が生じてきたが、これまたやむを得ない実情である。これらの方々のお名前も忘れてしまって失礼であるが、それぞれの任地で、今尚立派な教育実践をなさっていることを確信すると共に、今後のご精進を心からお祈りしているところである。

 いつの頃であったろうか、誰いうとなく「会の名前」をという声があり、松陰研究朋の会の意味から「吉田松陰研究萩・松朋会」(通称松朋会)の名を用いることとなり、同人誌は「松朋会」と名付けた。

 寒い冬の日を雪の下で堪えた麦は春の光の祝福をうけて実を結ぶことが出来る。このことばは私共の会にも通じる言葉であった。

 他管区で教育実践の成果をあげられたかっての会員が、それぞれの肩に重責を負って再び萩の地に職を奉ぜられ時がやって来た。再会は読書会の再会にも通じたが、一部の者はすでに教職を退いていた。現場にある者と実社会にある者との会合は、会話を豊富にし相互に刺激しあって以前と違った雰囲気の中、幅広い話題が交わされるようになった。

 こうした話題の中で「地域の人々にもっと松陰に関心をよせていただく方法はないものだろうか」という発言がなされるようになった。松陰は只単に学校教育にかかわる者が感心を寄せればよいものでなく『松陰の心をいまに生かす風土』の醸成を希っての発想であった。そのためには「松朋会」が地域への呼びかけの中核となるとの確認の上で、萩市民を対象として「松陰読本を読む会」の開催を企画することとなった。

 発足に当たっては、萩市教育委員会のご支援によって萩市広報紙「はぎ」で会員募集を行うことができ、山口県教育会萩支部のご支援もあって老若40名の会員を得ることができた。

 初会の平成元年6月の開催当日は、県教育会常任理事(元萩市教育長)井町新熊先生の「松陰を育てた杉家の家風」と題した御講義によって、会の方向付けをしていただくことが出来た。

 この会は、以前若い先生方と行った「松陰読本を読む会」の反省の上に立って、月2回夜間の会合とし、松朋会員が吉田松陰全集から関係資料を抜粋配布輪読して内容を深めることとしているが、会員の中には、松陰の足跡を訪ねて各地を巡歴しておられる方々もあり、発言の一言一句が私共心を打つものがあり、予定の1回2時間は予想外に延びるのが、実情である。

 昨年秋実施せられた「松陰の道歩行大会」(教育会主催)には、この会から30余名が参加したが、70歳を越えた会員が萩から涙松を過ぎて佐々並までの20キロに及ぶ山路を踏破、意気軒昂のところをみせてくださったのは誠に有難い限りである。

 読書会をはじめてから何年になるかな、とふと思い返すとき、あの人が転任し、あの人が入会して、今日まで続けることが出来たことに、会員の不屈の努力に自ら驚いている。その間、この北僻の地までおいでくださった松風会の三輪先生、山大附属元校長吉元先生をはじめ、支え励ましてくださった皆様に心から感謝しますと共に今後も、もっと年若い方々への入会勧誘の輪を広めなければならないと考える今日この頃である。

 読書会での参考図書の一部を掲げると、

     『吉田松陰全集第3巻』(講孟餘話)

     『講孟餘話の研究』(玖村敏雄・西川平吉著、大阪新聞)

     『吉田松陰』(玖村敏雄著、岩波書店)

     『吉田松陰の研究』(広瀬豊著、至文堂)

     『松陰読本』(山口県教育会・萩市教育委員会)

     『孟子』(上・下小林勝人訳註・岩波書店)

     『孟子』(金谷治釈、朝日新聞社)外

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吉田松陰先生殉難130周年記念「松陰の道歩行大会」

                         山口県教育会 大田 恭次

 平成元年が吉田松陰先生の殉難刑死から数えて130年に当たるところから財団法人松風会、(財)山口県教育会、山口県子ども会連合会、小中・高PTA連合会の共催のもとに記念行事として「ふれ合い出合い萩往還歩行大会―松陰の道歩行大会」を1027日に先立つこと5日、快晴の空、汗ばむような温かい日だった。

 午前8時半、萩駅には70名、山口県教育会館には50名が参集して出発式を行い、隊伍を組んで出発した。中には70歳を越えた高齢者、3歳の坊やを連れた母子連れもまじり「松陰の道歩行大会」の幟を押し立てて元気いっぱい、歩行を続けた。

 途中の天花畑から防府高校山岳部十数名、夏木原からは下関市万歩クラブ会員60余名、萩方面の明木からも数名の参加があり、総勢二百名を越える人数にふくれあがった。

 先頭には松陰研究に詳しい案内役を配し、後尾には山登りのベテランをつけて安全を期した。

 萩往還が「歴史の道」として往時の面影をできるだけ留める形で昭和63年には整備官僚して以来、この道を歩く人の数は次第に増え、道々の管理も行き届いていることはまことに喜ばしいことである。要所要所には案内の標識や説名板が立てられ、立ち止まって読みながら歩けば、その時代にかえり、様々な感懐も湧いてくる。

 萩方面からの主な旧蹟としては涙松跡、悴坂(かせがさか)一里塚跡、馬頭観音、市橋跡、町田梅之進自刃の地などと続き、一升谷の石畳道に出て根の迫橋跡、中の峠下の一里塚、落合の橋跡などを経て佐々並市に至る。

 山口方面からは天花観音堂、六件茶屋の一ノ坂建場跡、キンチヂミの清水、板堂峠、国境の碑を経て夏木原口屋跡に出る。更に上長瀬一里塚、首切れ地蔵、日南瀬(ひなたせ)の橋と続いて佐々並市に至る。

 これらの跡地にはその由緒を概説した説明板が立てられており、歩行隊は立ち止まっては読みながら更に詳しい説明を案内人から聞く。案内人はまた、これらと松陰先生との関係やその時の先生の境遇や感懐にも説き及ぶのである。

 先生はこの道を四往復している。当時、隣村に足を運ぶのさえ稀であった時代に江戸や九州に向けて四往復もしたということは異例のことであり、その行動のすさまじさを伺わせることである。そして最後は安政6年(1859)5月25日、江戸送りとなって萩を出られたまま、帰らぬ旅路となったのである。そしていよいよ萩の町と別れる涙松において

「帰らじと思ひさだめし旅なれば ひとしほぬるる涙松かな(涙松集)」

と詠み、さらに道を進んで夏木原にさしかかった時

「五月二十五日 吾を縛し台命もて関東に致る 簿に対し心に期す、昊穹(こうきゅう)に質(ただ)すを 夏木原頭、天雨黒く 満山の杜宇(とう)、血痕紅なり」(縛吾集)

の詩を残している。

 これより前、安政元年(18541024日、下田踏海に失敗して江戸から萩へ護送された時、萩を去る二里の明木橋まで帰り着いたとき、

「少年志すところあり 柱に題して馬卿を学ぶ 今日檻輿の返 是れ吾が 晝(昼)錦の行」

と意気軒昂、錦衣帰郷の心境を詠っている。(松陰詩稿五十七短古)

 これらの詩歌について先導の案内人が感慨をこめて解説したことは勿論である。特に夏木原では詩碑を建立した(財)松風会の松永理事長や三輪理事から建立の経緯を含めて詳しい解説があり、参加者の中の鴻峯吟詠の有志による合吟が朗々と吟じられ、参加者一同を感激させたことである。

 萩往還についてこれらの他に松陰先生が書き残しているものとしては東遊日記の中で山口に至り亀山、鵠峯に登る記事(嘉永4年)や三田尻に至り警固町飯田氏に投ず(嘉永6年)とあるくらいでその他はあまり見あたらない。

 何回も萩往還を往復しながら道々の描写や感懐が意外にも書き残されていないのは、道を歩きながら心は常に往還の先に馳せられていたからであろうか。そしてゆく先々にあっては血のにじむ様な勉学と火を吐くような行動が次々と繰り広げられている。

 萩往還を歩く時、松陰先生が往復した時々の旅先での言動がどうであったかを思い巡らしつつわが思いとして歩き進めるならば一掃感興を添えるであろう。案内人は説明の中で随所にそのことに触れていった。

 一足遅れて到着した山口方面からの歩行隊も合流し、佐々並中学校体育館を一杯にして1340分から触れ合い交歓会が始まった。

 松永理事長の挨拶の後、県教委中島指導主事のリードで、まず鴻峯吟詠の藏重さんのすばらしい朗吟、防府高校山岳部による校歌、中島指導主事の吉田松陰(作詩、星野哲郎歌手、尾形大作)の歌の歌唱指導と続いた。

 最後は地元佐々並地区有志による松陰詩歌の朗詠、朗唱、若松金次さんの舞踊「吉田松陰」、山本幸作、山根敏市両氏による書道吟、佐々並詩吟クラブや若松扇の会や明木舞踊クラブの皆さんによる松陰詩歌にあわせた吟舞踊など多彩な演芸が披露され、極めて盛会裡に会を閉じ名残を惜しみつつ来年を期して散会した。

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青年教師松陰研修会有意義に終わる

 松陰先生殉難時の年齢とほぼ同年齢の30歳までの青年教師50名(小―25、中―15,

高―10)の参加を得て松陰先生殉難130周年を記念する松陰研修会は8月17日〜18日の両日、萩青年の家で開催された。

 開会式において(財)松風会理事長松永祥甫は激動する内外の諸情勢の中で先覚者松陰の生き様やその教育精神に学び、青年教師としての使命感を自覚することの重要性を強調した。

 続いて講義に移り、まず地元の松陰研究家、松田輝夫先生から「至誠を貫いた松陰の生涯」と題して講義があった。その内容は松陰先生の生涯を兵学修業・師範時代、野山獄時代、幽室・松下村塾時代、再獄・殉難時代に分け、詳しい資料を用意しての情熱のこもるものであった。

 次いで元萩市助役で松陰研究家、井町新熊先生の「松下村塾の教育について」の講義では開塾と変遷、門人、村塾教育の基調、村塾の日々という項目のもとに多くの事例や言行を引用しての講義であった。特に「人の師となる者は自らを高めねばならない。教育は、涵育薫陶、自ずから化するものであり、人は一二の才能のなき者はない」という松陰先生の教育観を説かれた。

 更に山口女子大学河村太市先生の「吉田松陰の人間観、人生観」の講義では孟子の「惻隠の心、羞悪の心、是非の心、辞譲の心」の四端説や性善説を根本に、卓然自立などの人間観を説明されると共に志気、至誠、人物観、死生観にわたって松陰先生の人生観を解説された。

 第一日の講義終了後、貸し切りバスで松陰神社参拝、宝物殿拝観、東光寺裏の杉家、吉田家の墓地、松陰生誕地を訪れ、最後に萩市

史料館を見学した。特に生誕地からの萩市展望の絶景に、幼少期の松陰先生の生活を回想した。

 夕食後、小・中・高校の各グループ毎に懇談会を行い、青年教師としての悩みとか問題点、更に「今なぜ松陰か」等について語り合った。

 第二日はこの研修会の総括として松陰研究の碩学三輪稔夫先生から「教育改革の原点―松陰教学の真髄―」という指導講話があった。幕末国家存亡の際、松陰先生が歴史の限界にいどんで精進した実践の実学と事(時)務を知る俊傑の学の精神が教育改革の原点であると教えられ、松陰研究の今日的意義を説かれて、充実した研修会を修了した。

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松陰をめぐる人びと(9) 宮部鼎蔵

熊本大学非常勤講師、元熊本市文化課長   鈴木 喬 

1 生い立ち

 肥後勤皇党の総師として知られた宮部鼎蔵は、文政3年(1820)4月、上益城郡七瀧村(現御船町)田代の医者宮部春吾の嫡男として生まれた。宮部家は細川藩士の分家で、代々仁術を施す医を生業としてきたので人々の尊敬を集めていた。

 鼎蔵は嫡男として、当然医業を継ぐものと考えられ、厳しく育てられた。9歳の時祖母に伴われて熊本の叔父の家に仮寓し、文武両道の修業に励み、さらに13歳になると藩校再春館(医学校)師範役の富田家の蒼莨塾で医学の修業に入った。

 しかし鼎蔵は医業を継ぐよりも武士として家を興したいと考え、父の許しを得た。折しも末の叔父丈右衛門が藩の山鹿流軍学師範役に在り、鼎蔵を見込んでくれたので、天保8年(1837)鼎蔵はこの叔父の家に住み込んで軍学に精進することになった。ところが好事魔多しの例え通り、丈右衛門は鼎蔵を要旨に据えて間もない同11年9月に世を去った。そこで鼎蔵は軍学師村上伝四郎について引き続き学ぶことになった。

 弘化2年(1845)村上伝四郎は藩の師範役となり、嘉永2年(1849)には鼎蔵が其の跡を継いで師範役となった。30歳の鼎蔵はこの年妻帯し、内坪井に居を構えた。以後彼の軍学師範在職は安政4年2月まで8年間にわたった。彼の諱(いみな)は増実で、号を田城と称している。

2 松陰との親交

 嘉永3年の秋、松陰は西遊の旅に出て、12月9日に熊本を訪れた。この時松陰と鼎蔵は初めての出会いであったにも拘わらず、池部父子や荘村小兵衛を交えて2日間も時勢について語り合い、以後刎頸(ふんけい)の交わりを結ぶに至った。その翌日、松陰は熊本城を見学して北に向かったが、一日のうちに9里を歩いて肥猪(こえい)に泊まった。このため熱発して足もまめだらけになったが、「唯熊府人と議論して資益多く、気性活発此に至る事を得たり」と日記に記している。このときの宮部・池部らとの会談が、如何に彼の心を鼓舞したかを知ることができる。ときに池部啓太郎53歳(数学・砲術師範)・宮部鼎蔵31歳(軍学師範)、松陰21歳であった。

 翌4年、宮部鼎蔵は家老有吉市郎兵衛に随従して出府し、5月には山鹿素行の子孫山鹿素水に入門して、兵学に磨きをかけた。このとき松陰もまた兵学研修のために出府し、同じく山鹿素水の塾に入門した。再会を悦んだ松陰は早速肥後藩邸に宮部を訪ね、6月には2人で房総地方10泊の旅に出ている。江戸に帰った宮部は旅行記と共に房総沿岸海防図を画いて成果を復命した。江戸に帰った宮部は松陰に鳥山新三郎を紹介され、彼とも親交を結ぶに至った。

 同年1215日、宮部は再び松陰を誘って東北地方への旅行に出発した。とくにこの日を選んだのは、赤穂浪士が本懐を遂げた幸先良い日ということにあった。2人は24日に水戸に着き、この地の有志たちろと交わりつつ年を越した。

 翌5年正月20日、両人は水戸を出発し、白川の関を越えて会津へ入り、越後から佐渡に渡って順徳天皇の山陵をを拝した。転じて出羽国を北上して寒沢津に至り、津軽海峡を隔てて松前を遠望した。このあと仙台・米沢・会津を経て日光に至り、4月5日江戸に帰着し、鳥山新三郎の蒼龍軒に旅装を解いた。

 松陰はこの旅行の手続き不備によって帰国謹慎を命ぜられるが、宮部もこの後帰国の途についた。宮部が大阪に達したとき、実父春吾死去の報が伝えられた。彼は船便を待ちきれず、山陽道を徒歩で急ぎ帰郷し、その後の服喪・供養・墓参に孝心の限りを尽くした。宮部の帰国を聞き伝えて、入門希望の若者が殺到し、内坪井の塾生は急速に増加した。しかし、この頃から宮部の幼年時代に厳しい躾を続けた祖母のらくが寝つき、手厚い看護も効かなく、翌6年2月81歳で亡くなった。宮部はここに実父・母・養父・祖母をすべてなくしたが、その存命中の孝養も死後の追善も、誰もが感じ入るほどであった。その篤行が

藩庁に聞こえ、この年4月藩より孝子として表彰を受けた。松陰も宮部の孝心には感嘆し、後に松下村塾の講義の中に第一の事例をとして挙げている程である。

3 松陰との永訣

 嘉永6年、松陰は10年間四方遊学の許可を得て江戸に出た。同じ頃、鼎蔵は熊本の隠れた大学者林桜園の原道館に入門し、国学を専攻することになる。もともと宮部家の医学の師富田家は、肥後勤王の三哲と称せられた日岳(大風)から父山・龍陽と続く勤王の家系で、その薫陶を受けた宮部家も当然勤王の志が厚かった。それは外国船の近海遊弋(ゆうよく)に対する危機感と相俟って、当然尊王攘夷の思想となり、日本古来の国学の薀奥を極めることになったのである。

 この年の6月には米国のペリーが浦賀に、7月には露国のプチャーチンが長崎に来航し、ともに通商を求めた。江戸にいてこの情報を得た松陰は、9月西遊の途につき、10月再度熊本に足を入れた。彼は熊本で宮部を中心とする勤王党と横井小楠を中心とする実学党会談して、27日長崎に達してみると露艦は既に去り、彼が心密かに抱いていた露艦に便乗して海外に渡航しようとの計画は挫折した。彼は再び熊本に帰り、宮部・横井と会して萩に帰った。

 翌安政元年(1854)正月、鼎蔵は兵学修業として相州出張を許され、19日浦賀から江戸に帰り、異国船碇泊の状況を報告した。ペリーの艦隊は沖縄で越年して、年明け早々に再び浦賀に姿を現したのである。あわてた幕府は、遂に3月3日米国と和親条約を結び、下田・函館の開港をを約した。これを聞いた松陰は、海外の実情を自らの目で視察して時勢に対処したいと考え、米艦に便乗して渡航することを決意した。同5日の朝、宮部鼎蔵以下胸襟を開いた肥後人士にその意志を述べ訣別した。鼎蔵はそれは詭道であると止めようとしたが、松陰の決意の固いことを知るとやむなくこれに同意し、自分の佩刀を脱して松陰と交換し、また自らの大切にしていた藤崎八幡宮の神鏡を贈り「皇神(すめろぎ)の真(まこと)の道を畏(かしこ)みて思ひつつ行け思ひつつ行け」の一首を餞(はなむけ)した。

 3月27日、松陰は国禁を犯して米艦に漕ぎつけたが、拒絶されて海岸に送り返された。浦賀奉行所に自訴した松陰は、江戸の伝馬町の獄に投ぜられ、その企てを賛助したということで鼎蔵も幕吏の取調べを受けた後、国元に返された。同年松陰は藩の獄に送られたが、翌年正月には「思友詩」を草して、宮部鼎蔵・佐々淳次郎・永島三平の3人を推重し、安政6年刑死するまで数度にわたって獄中から手紙を送って志を通じている。

4 勤王活動と池田屋の変

 安政3年5月、鼎蔵の身辺に大事件が起こった。宮部の愛弟子丸山勝蔵と愛弟大助(春蔵)らが、藩士の子弟と乱闘して、双方が手傷を負ったのである。翌4年の判決では、藩士に対して軽輩が無礼を働いたということで、丸山は死罪、大助は3年の刑に処せられた。鼎蔵もまた軍学師範役の地位を失い、郷里七瀧村引きこもった。食禄のない七瀧の生活は苦しかった。彼は自ら耕し、細工物をこしらえたて熊本にひさぐという生活が続いた。

 その間に天下の形勢はめまぐるしく変転し、安政の大獄で松陰は死に、大獄の発頭人井伊大老も万延元年(1860)桜田門外の行きを血で染めた。この頃から諸国の志士の来熊多く、いずれも肥後勤皇党の奮起を促すものであった。同志の要請を受けた鼎蔵は、文久2年正月玉名梅林の松村深蔵を伴って上京し、中山大納言や田中河内介から情勢を聞き、京師の状況を目の当たりにした。帰国した鼎蔵は同志達に京洛の形勢を説くと共に、藩に対して建白書を提出した。

 しかし、大方の諸藩は公武合体論であり、尊皇派と見られた島津久光すら勤皇派の藩士を寺田屋で誅伐する程であった。肥後藩も同様であったが、再三にわたる勤皇派の建白と、朝廷よりの繰り返しの書状によって、遂に重い腰をあげた。同年11月公子護美が宮廷敬語のために上京すると、鼎蔵はその先発を命ぜられ、護美の帰国後も京に残された。

 翌3年3月、朝廷に諸藩貢献の御親兵ができると、総帥三条実美は鼎蔵を特に選んで全軍の督事とした。8月13日には大和行幸・攘夷御親征の詔勅が下ったが、同18日の政変で尊攘派は一夜のうちに追放され、七卿落ちとなった。鼎蔵も長州に下って三条卿の旁らにあったが、元治元年の蛤御門の変で長州藩は朝敵の汚名を蒙った。鼎蔵は座視することができず、京に潜入して政局の転換を画策していたが、その行動を新撰組に探知され、6月5日京三条の池田屋で倒れた。45歳であった。

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