前田 孫右衛門
 名は利済、字は致遠、陸山と号す。長州藩士。禄137石あまり。嘉永元年武具方頭人となり、後数職を経て安政3年当職手元役となり郡奉行を兼ねる。
 万延元年用談役に転じ、直目付(じきめつけ)となり、文久3年用談役に復す。藩主の信頼特に篤く献賛するところ多い。

 元治元年禁門の変及び4カ国連合艦隊の馬関(下関)来襲が在り、共に長州藩利なし。前田等要職にある者、恭順派のために野山獄に繋がれ12月18日斬られる。享年47歳。野山十一烈士の一人である。明治24年正四位を贈られる。
 松陰は常に前田の理解と同情を得、激論抗議もしたが、よく採るべきは容れられるの雅量に推服し、我が国の楽正子なりと評せしことがあった。
 安政5年の間部老中要撃策を是認したのは藩府首脳中前田のみであった。松陰投獄の前後大いに世話をし、没後高杉・久坂等松下村塾生と交わり、文久元年末の「一燈銭申合」に参加していることをみても門下生との関係を想像することができる。
(第4巻370・421頁、第5巻64・234・278頁、第8巻第340・341・388・413・419・606号、第9巻566頁)
 
 
孫 助
 周防の国都濃郡富岡村字小畑(周南市)の農夫。文政6年生まれ。後萩に出て、安政6年37歳の時、野山獄獄卒となる。松陰入獄の時は特に心を砕いて世話をしたという。

    「目に一丁字なし、而も吾れを視ること他囚と異なり、頗(すこぶ)る吾が党のことに感ずる者に似たり…」とは松陰の評なり。然れども瑣事(さじ、小さい事柄)のことで人と争う癖があった。そのため同僚のねたみをうける。松陰はこのために庇護したことがある。

  孫助この年萩松本村軽率白石文右衛門の養子となる。孫助の自記に、同年5月松陰の命により京都に使いをしたことがあると云う。晩年また故郷に帰り佐古姓を持つ。明治36年81歳であったことは分かっているがその後のことは不明。
(第5巻124・131・139・271頁、第8巻第444・460・471・486・501・513・517号)
 
 
正木 退蔵(まさきたいぞう)
 長州藩士正木某の三男、幼時佐伯家を名乗ることあり。弘化3年生まれ。
 安政5年、13歳で松陰に師事する。元治元年藩世子(跡継ぎ)の小姓役として機密のことにあずかり、正義派と策応する。
 慶応元年恭順党排撃の運動に加わり、所謂(いわゆる)三笠屋会議員に名を列す。維新前後国事に奔走する。
 明治4年イギリス留学、同7年帰国後工業教育に従事し、同9年再びイギリスへ出張、同11・12年頃文豪スチーヴンソンに会し、松陰の事蹟を述べる。スチーヴンソン著『吉田寅次郎』が書かれる。
 明治14年帰国後、東京職工学校長に任ぜられ、後外務省に奉職し、明治24年ハワイ総領事となり、26年官界を退き、29年亡くなる。享年51歳。生前正五位に叙せられる。
(第10巻360頁)
 
 
増野 徳民(ましのとくみん)
 名は乾、字は徳民または無咎(むきゅう)、周防山代(岩国市本郷)の医家に生まれる。徳民の幼少時は不明であるが、安政3年15歳の10月1日笈(きゅう、書物を入れて背負う)を背負い松陰の幽室、杉家に寓し松陰に師事する。吉田栄太郎・松浦松洞(しょうどう)と共に三無生の一人で松下村塾の造立に協力し、常に専精読書し、家業を継がんとする。時々帰省することがあるが、松陰に師事すること最も久しき一人である。その?密(しんみつ)にして精励なる性格を愛せられる。松陰入獄後は藩医岡田以伯に学びつつ、松陰の命を受けて、品川弥二郎等と奔走する。
 万延元年頃は主として久坂玄瑞の指導を受けて国事活動するが、文久2年3月5日捕らえられて山代へ送還、父の許しを得られず外出できず。維新後は山間の一医師として活躍するが、恩師同門に背いたことを思い娯(たの)しまず。明治10年5月20日亡くなる。享年36歳。
(第4巻114・116頁、第5巻165・180・236頁、第6巻152・158・171・175頁、第8巻第386・439号以下、615号、第9巻438以下・479以下・495以下、561/583頁、第10巻11・19頁以下)
 
 
馬島(まじま) 春海
 号は北溟、16.7歳の時、松陰門下となったことが「松下村塾零話」に見られる。これは安政4年末となっている。翌年9月瀧弥太郎と須佐に赴いたことが知られる。文久の頃まで国事に奔走したが、同3年より萩に帰り晩成堂という漢学塾を営み、明治4年まで教える。後東京に出て明治38年11月亡くなる。享年66歳。
(第8巻第365号、第9巻448頁、第10巻349頁)
 
 
馬島 甫仙
 名は光昭または光豊、通称は誠一郎、樗擽・桜山と号す。家世々医なり。
 安政4年14歳の時松下村塾に入り、稚心未だ去らないが書を読むこと極めて敏、「塾中第一流」の少年として深く松陰に愛される。
 安瀬5年12月松陰再び獄に入り、甫仙塾の後継者にしたいと思う。松陰没後も久坂等と交わり、文久元年の「一燈銭申合」に参加し、国事に奔走した、文久3年馬関の外国戦艦砲撃にも加わる。また高杉の下で奇兵隊の書記役を務めた。
 慶応元年より松陰の遺命を思いて松下村塾で教え、傍らに松陰の遺稿整理に当たる。
 明治3年朝廷勤皇殉難者の事蹟報告を命ぜられると山口藩庁は甫仙にも資料募集を依頼した。この年同門の兵部大丞山田顕義に伴われて大阪に出、翌年東京に移る。この年12月1日熱病を患い亡くなる。享年28歳。萩椎原松陰の墓地近くに葬られる。
(第4巻148・160頁、第5巻131頁、第9巻第555・588頁)
 
 
益田 弾正(ますだだんじょう)
 幼名は幾三郎、安政元年以後弾正、文久以後右衛門介と改める。名は初め兼施、後親施、翠山と号す。
 天保4年長門萩に生まれる。その領邑は須佐にあり、毛利氏の家老で録1万2千60余石。人となり豁達(かったつ)にして英気あり。明倫館に学び、嘉永2年17歳の6月松陰の兵学門下となる。嘉永6年外国との事起こった頃から国相又は行相として藩政の枢機にあり、藩主敬親を補佐して功あり。
 文久以後国事多難にして又寧日なし。
 3年藩主の建白書を携えて上京し、大和行幸攘夷御親征の事にあたる。不幸にして8月朝議一変し三条実美等七卿と共に国に帰る。
 元治元年7月禁門の変には自ら兵を率いて上京し、戦利なく帰国し、後恭順派のため徳山に幽閉せられ、遂に11月12日福原越後・国司信濃の2家老と共に切腹を命ぜられる。享年32歳。明治24年正四位を贈られる。
 松陰は兵学師範という関係もあり、時務に対して忌憚のない意見を贈ったが、弾正よくこれを容れ、過激事を誤らんとする時も庇護同情の立場にいた。長州藩勤皇運動の中枢にこの人あり、松陰の意見はすべてこの人に通ぜられたりしたこと誠に注目すべき関係である。
(第4巻352・361・422頁、第5巻意見書類、第7巻第104号、第8巻第331・344・357・358・363・364・373-377・606号、第10巻170頁)
 
 
松浦 松洞
 名は温古、字は知新、後無窮(むきゅう)と改める。通称を亀太郎という。松洞はその号。
 天保8年萩郊外松本の魚商の家に生まれる。後藩士根来主馬の家臣となる。幼にして絵事に秀で神童のの称あり。?西涯に従い四条派の絵を学び、後京都の小田海僊(かいせん)に師事する。
 安政3年末、松陰を幽室に訪ね詩を問い、以後その教えを受ける。また次々と来訪する俊英と交わり、遂に尊皇愛国の人となり、絵もまた忠孝節義の人を訪ねては描き、後世風教のためにしようとする。烈婦登波・僧月性・秋良敦之助・木原松桂・西田直養・伊藤静斎・竹院等を描いたことが松陰の文章から伺える。松洞はまた増野徳民・吉田栄太郎と共に松陰の主持する松下村塾に基礎を置ける功労者である。「才あり気あり、一奇男子なり、無逸(吉田栄太郎)の識見に及ばざれども、而も実用は之れに勝るに似たり」と松陰は評せり。
 安政5年京都に上り、後江戸に入り吉野金陵の塾に学び、傍ら時勢を松陰に諜報する。9月幕吏に従いアメリカに行く予定であったが行かれず6年2月帰国。5月松陰東送の命が下ると門人等が松洞に松陰の肖像を描かせ、松陰に自賛を請う。(現存)松陰殉難後も塾生と交わり、文久元年末の「一燈銭申合」にも加わった。翌年春、同志と共に上京し、尊攘のことに奔走する。長井雅楽(ながいうた)が京都で公武合体論を以て公卿を説かんとする。松洞はその論を軟弱で幕府のためにするものとなし、遂にこれを刺さんと謀る。ある人これを諫止させ、そのことを憤り4月13日粟田山にて自殺する。享年26歳。蓋し粟田宮法親王の正義を欽慕し、宮の旗下に参じて死を馬前に致すの意を寓するならんという。松洞の死は松門最初の殉難であった。同志を鼓舞するところあり。明治44年正五位を贈られる。
(第4巻78・118・155・317頁、第5巻57・180・193頁、第7巻第288号、第8巻第312・334・498号、第9巻501・543・544・546・552・559・578頁)
 
 
松浦 竹四郎(武四郎)
 名は弘、字は子重、号は北海・憂北生・柳田・柳湖・雲津・雲川・馬角斎・多気志楼等あり。
 文政元年伊勢に生まれる。13歳平松楽斎に学び、16歳江戸に出て暫くして帰り、17歳天下遊歴の志を立てて郷を出、26歳長崎にあり、28歳東蝦夷、翌年西蝦夷及びカラフトを探り、30歳佐渡を一周して帰り、嘉永元年海防策を著す。これより海防に関し有志と交わる。
 嘉永2年3度蝦夷を探り、蝦夷に関する著書極めて多し。後蝦夷に関し幕吏となる。
 明治元年箱館府判事、同2年蝦夷開拓の吏員となり、同3年4度北海道に至る。同21年2月7日従五位に叙せられ、11月亡くなる。享年71歳。
 松陰は「此の人足跡天下に遍(あまね)く、殊に北蝦夷の事至って精しく、近藤拾蔵以来の一人に御座候」と、大坂の砲家坂本鼎斎に紹介した。蓋し松陰は安政元年江戸において相知れるなり。
(第7巻第86・102・177号)
 
 
松岡 良哉
 名は経平、周防平生(ひらお、熊毛郡平生町)の医家に生まれる。かつて上国に遊学したとき、紀伊に赴き本居大平の門に入り国学を受けたことがある。また和歌をよくする。医業成りて萩に開業する。晩年には長州藩の藩医となった。時事に慷慨するところあり、安政3年頃より時々松陰を訪問しその説を聞く。
 明治19年10月亡くなる。享年87歳。
(第9巻472・477・495・498・532頁)
 
 
松島 瑞益
 通称は剛蔵、初め瑞益という。名は久誠、字は有文、韓峯と号す。世々長州藩に医を以て仕え、録39石余を給せられる。
 天保2年父瑞蟠、狂を発し廃人となる。瑞益家督を継ぐ。松陰の妹婿小田村伊之助及び小倉健作の兄なり。江戸に遊学し坪井信道に4年間従学する。業成りて国に帰り世子の侍医に挙げられて再び江戸に役す。当時外交の事が迫り藩主の側近に佞人多きを慨歎し、酒席においてこれを洩らし、遂に職を奪われた。再び志を立てて長崎に赴きオランダ人に航海術を3年間学び、帰国して洋学所創立を請う。藩主はこれを聞いて遂に一局を設け、松島をその長とした。
 安政4年藩主西洋式小船を作り、丙辰丸と名付ける。松島はその運転を習わせる。
 万延元年、外洋を航海し江戸に入る。爾来生徒を激励しその業を講究せしむ。文久元年2月海軍所新設に当たり松島はこれに当たる。3年攘夷の令が下り、諸艦を率いて馬関における外国船砲撃の事に従い遂に負傷する。翌年禁門の変、四国連合艦隊の来襲があり、共に利なく、党議起こり恭順派のために野山獄に投ぜられ、12月19日斬られる。享年40歳。野山十一烈士の一人。明治24年正四位を贈られる。
 松陰とは最も早き時代より友人として交わり、その没後門下生と提携し、文久2年10月の京都における松陰慰霊祭に列し、11月高杉・久坂等と攘夷血盟をもなす。
(第4巻359・495頁、第8巻第364号、第9巻496頁)
 
 
松田 重助
 名は範義、肥後藩の人、幼少から宮部鼎蔵の門に入る。17歳の頃、藩の小吏となったが、志は常に天下の大事に在り。
 嘉永6年江戸に赴き、宮部・永鳥・轟木等と時事を議す。松陰も当時江戸に在り交わる。「同志中の一傑なり…君子人にして密謀の出来る人なり」と評せり。松田が佐久間象山の門に入ったのは松陰の紹介であった。翌年3月松陰下田踏海の策を議したる席にも列せり。
 安政2年江戸を去り、東海東山の国々を巡歴して京都に入り梅田雲浜と交わる。後近畿を巡り、安政3年一旦熊本に帰りまた上京し、4年2月江戸に下り、長州藩の桂小五郎等と水戸・長州・肥後藩の合従を謀ったが機未だ熟せず、5年志士捕縛の事が起こると京都を去り、時には返送して京都に潜入するが捕らえられず、一時波多野右馬之介又は田村介之進と称し、河内の富田林に果樹区を営むこともあり。
 万延・文久の頃、紀伊・肥後・薩摩・長門に赴きしきりに国事に奔走する。
 元治元年6月京都池田屋にて宮部鼎蔵・吉田稔麿と密議中新撰組に襲われて死す。享年35歳。明治24年従四位を贈られる。
(第8巻第180号)
 
 
松村 文祥
 長州藩老臣浦靱負の家臣か、家は世々医にして阿月に住み、儒を兼ねる。秋良敦之助の甥、宰輔の兄、赤根武人の叔父なり。玉木文之進主持の松下村塾出身で、松陰と同学なり。
 弘化3年安芸に赴き医術を学ぶ。後嘉永6年頃江戸にありて剣を斎藤弥九郎の門に学ぶ。その後のことは不明なり。
(第1巻69・343頁、第9巻325頁)
 
 
三島 中洲
 名は毅、字は遠叔、通称は貞一郎、相南と号す。備中中島村に生まれる。8歳で孤、14歳山田方谷に従学する。23歳から斉藤拙堂に学び、28歳江戸に出て翌年昌平黌に入り、佐藤一斎・安積艮斎に学ぶ。30歳松山藩に仕え、藩校有終館で教え、後学頭に進む。戊辰の変に当たり藩主朝譴を蒙りし時奔走に努め、藩封を保たしむ。これより師弟の教養に半生を終わろうとて虎口渓舎を設ける。
 明治5年43歳、朝廷の徴によりて上京し、翌年新治裁判所長となる。10年官を止め、二松学舎を興し、漢学を教授する。次いで東京高師、東京帝大にも教授する。29年3月、東京御用掛を命ぜられ、また東宮侍講に任ぜられる。
 大正4年職を辞し、宮中顧問官に補せられる。8年5月12日亡くなる。享年90歳。著述甚だ多い。
 松陰は嘉永6年5月伊勢に斉藤拙堂を訪うた時、その門人として三島も座にあり。その後、安政元年3月上旬横浜で会ったが、一礼して別れると言う。後松陰の曾孫吉田庫三はこの人の二松学舎に学んだ。
(第9巻319頁)
 
 
南 亀五郎
 名は貞吉、長州藩士。安政5年久坂玄瑞の紹介で松下村塾に来たことがあったが、その後明倫館で勉強し、松陰より直接教育を受けたことは極めて短かい。松陰没後、吉松塾にで久坂玄瑞に指導され、松下村塾生と交わり、文久元年末の「一燈銭申合」にも参加する。一時長州藩の密偵となり、長崎にいたが、その他不明。
(第8巻第332号)
 
 
宮部 鼎蔵(ていぞう)(附 春蔵、はるぞう)
 名は増實、号を田城または尖庵と言う、肥後国益城郡(ましきぐん)田城村の人。家は世々医であったが、鼎蔵はその業を欲せず、伯父増美に就き山鹿流兵学を受け、遂にその養子となる。後、教えを乞う者が多く、嘉永の頃より横井小楠と共に青年志士の両雄となる。その孝を藩から賞せられたことがある。
 松陰は嘉永3年12月九州遊歴の途に宮部を訪ね、以来刎頸(ふんけい)の交を結ぶ。
 嘉永4年江戸遊学の時両人共に山鹿素水の門にあり。「宮部鼎蔵は毅然たる武士なり。僕常に以て及ばずと為し、毎々往来して資益あるを覚ゆ」と言う。房総漫遊、東北遊を共にし、嘉永6年10月松陰は長崎への往復途上熊本に立ち寄り、宮部等同志十数人に会見し、大いに時事を議し、遂に宮部は野口直之允を伴い萩に松陰を訪い、11月京都に上り、相前後して江戸に赴く。翌年ペリーが再び来ると、宮部は松陰と共にこれを斬ろうとしたが、その益なく害を生ずることを考え取りやめ、遂にその3月松陰下田踏海の事があった。この前後宮部の墾篤が至らなかった。当時宮部は藩老米田是容(長岡監物)に時務策を献じ、大いにその感賞を得たが、藩吏為すことなく国に帰り、世に交わらず。
 文久2年11月長州の土屋蕭海が来たり、12月に出羽の清川八郎が来たり時事の切迫を説く。再び立ちて長州藩に寓して公卿列藩の志士の間に活躍し、ほどなく西下して薩摩に赴き有馬新七等と議し、帰藩して意見封じを上る。藩主その弟長岡護美をして禁闕警護の下心にて兵を率いて上らしむ、宮部その中にあり。明年2月一旦帰国せるに、京都より御親兵を徴せらる、宮部また入京し、諸国より応徴の兵の総督となる。攘夷親征の挙まさに行われんとして8月朝議一変し、七卿長州に下るや、宮部また従いて三田尻に赴く。能く元治元年長州藩主の雪冤(せつえん)に尽力するため、密かに京都に上り吉田稔麿等と池田屋に密議中、新撰組に襲われて自刃する。6月5日の夜なり。享年45歳。明治24年正四位を贈られる。
 鼎蔵の弟春蔵、初めは大助という。名は増正。文久3年国を去って長州藩に赴き国事奔走し、翌元治元年禁門の変にも長州藩に加わったが戦利なく、真木和泉等と共に天王山に登り自刃する。享年26歳。明治35年正五位を贈られる。
(第1巻290頁、第2巻330・377頁、第6巻308頁、第7巻第23・28・42・111号、第8巻第303・315号、第9巻83以下・153頁以下・東北遊日記・351頁以下・358・360頁以下)
 
 
宮本 尚一郎(松陰は庄一郎と記す)
 名は元球、字は仲笏、茶村また水雲と号す。常陸の国行方(なめかた)郡潮来に生まれる。江戸に至り山本北山に学び、帰郷後里正(りせい、庄屋)となり、郷士に列せられる。弘化元年藩主斉昭幕譴(ばっけん)を蒙ると領内の義民を募り江戸に至り冤(えん)を訴えた為に藩獄に入れられる。囚3年、赦されて後、専ら著述を行う。
 松陰が嘉永5年正月、水戸付近を歴遊して潮来に至り、宮本家に一泊したのはこの頃である。松陰は庄一郎と記している。常陸史料35巻・関城繹史等成ると、藩主これを嘉して賞を賜る。文久2年6月25日亡くなる。享年70歳。明治40年正五位を贈られる。
(第9巻186頁)
 
 
三好 貫之助(関鉄之助を見る)
 
 
村田 清風
 通称初めは亀の助、次いで新左衛門・四郎左衛門、後織部と改める。名は順之・将之、後に清風、字は穆夫(ぼくふ)、号は東陽・梅堂・松斎・静翁・炎々翁等あり。
 天命3年4月26日長門三隅村(長門市)沢江に生まれる。世々長州藩に仕える。文化5年26歳にして藩主齋房の近侍となってから安政2年迄殆ど50年間、5代の藩主に歴任して次第に要職に進み治績最も顕著なり。財政民政兵制学制における改革施設に枚挙にいとまあらず、殊に藩主敬親との間における水魚の関係はよく藩に先んじて庶政を更張し、士気を作興し、以て将来に備えることを得たり。清風は長州藩近代の大政治家で、改革進歩派の領袖として後進崇敬の的たり。松陰も青年時代にまみえたことがある。深くその人物に敬服する。清風また松陰を嘱望し鼓舞激励した。
 安政2年5月26日亡くなる。享年73歳。明治24年正四位を贈られる。
(第2巻332頁、第6巻126頁、第7巻第8・185号、第9巻531頁)
 
 
村田 巳三郎
 後に氏壽と言い、字は子愼、?堂(こうどう)と号す。文政4年生まれる。越前藩士禄450石を受ける。安政元年米艦再来の時は江戸にありて大久保翁・藤田東湖・長岡監物等と共に奔走周旋する。松陰と交わったのはこのときである。第7巻第104号松陰より村田宛の書簡はよく当時の関係を説明する。安政4年横井小楠(よこいしょうなん)招聘(しょうへい)のため肥後へ行く。文久2年藩主幕府の政治総裁になりこれを補佐する。元治元年禁門の変に防戦して傷つく。慶応3年王政復古に尽くす。明治維新には会津討伐軍参軍、明治2年福井藩参政、大参事、岐阜県権令、内務大丞兼警保頭を歴任し、後辞して家に帰る。明治31年8月特旨を以て従四位に叙せられる。翌年5月8日亡くなる。享年79歳。
(第7巻第98・104号)
 
 
毛利 敬親
 幼名は猷之進(ゆうのしん)・教明・後に敬親と改める。天保8年将軍家慶の偏諱(へんき)を賜り慶親と改め、元治元年敬親に復す。諡(おくりなのこと)忠正公と言う。
 文政2年2月10日毛利藩主斎元(なりもと)の第一子として江戸麻布邸に生まれる。
 文政4年5月萩に移る。天保8年19歳の4月藩主斎廣(なりとお)の後を継ぐ。従四位下に叙し、侍従に任じ、大膳太夫を兼ねる。藩主の喪が相継ぎ、天災もあり士民窮乏する。敬親身を以て簡素節倹の範を示し、大いに庶政を盛んにすることを企てる。
 天保12年江戸藩邸に有備館を設け藩士の文武教育所とする。14年村田清風の議を用いて城東羽賀台で大操練を行い、これを検閲し、指揮の作興と武備の充実を期す。
 弘化3年4月治績顕著として将軍鞍鐙を賜る。
 嘉永2年規模壮大な新明倫館が落成する。嘉永6年米艦浦賀来航すると幕命を受けて三浦半島を警備する。
 安政3年山田亦介に命じて洋型船丙辰丸を建造する。5年相州警護を止めて兵庫警備に任ず。この年8月密勅を拝す。これより益々皇室のために力を尽くし、文久3年3四月の賀茂社・石清水行幸の如き皆その奏請(そうせい、天子の上奏して指図を仰ぐこと)する。
 5月金一万両を朝廷に献ず。また同月馬関において外国艦隊砲撃を行い、天下の攘夷を率先し、次いで大和行幸攘夷御親征のことにより、朝議一変し8月18日長州藩の堺町門警護を罷め、敬親父子の入京を禁じ、三条実美以下七卿西下して長州に仮寓する。
 元治元年長州藩士、藩主父子の冤(えん)を訴え入京を請えども許されず、遂に君側の奸(かん)を除こうと7月19日禁門の変となり、敗れて帰国する。幕府は朝命により長州征伐の軍令を発す。8月4日には馬関に来襲した外国四カ国軍艦18隻と戦い、敗戦し和睦する。大変な難局であった。藩内恭順派が迫るところとなり、三家老に自刃を命じ、重臣数名を斬って罪を朝廷及び幕府に謝る。しかし、高杉晋作等は慶応元年正月兵を挙げ、恭順派を一掃して藩論を統一する。幕府は再び長州征伐を命じ、長州藩は四境に幕府軍を受けたが連戦勝利した。3年正月朝廷大喪を以て兵を解き、敬親失われていた官位を復せられる。
 明治2年正月、薩摩・土佐藩主と共に版籍を奉還し、4年3月28日病で亡くなる。享年53歳。4月従一位に叙せられる。
 明治34年正一位を贈られる。大正9年敬親を祀る野田神社を別格官弊社に列せられる。 松陰は11歳でこの藩主の前で兵書を講じ、以来しばしば進講を命じられる。嘉永4年正月には山鹿流兵学の奥義を伝授し恩賞を受ける。同年12月東北遊のため亡命すると、藩主は国の宝を失ったと嘆き、後松陰の諸国遊歴を願い出させる。
 また安政5年家老益田弾正に命じて特に松陰の言論を圧迫しないようにさせる。
 松陰の生涯は、一面からすればこの藩主の知遇に感激し、長州藩を勤皇の第一藩とするよう論究し、率直に建白し、そのことに係わる人物を養成し、知遇に報いるように終始したとも言える。
(第1巻「武教全書講章・上書」、第3巻p197、第2巻「将及私言」、第4巻「戊午文稿狂夫の言」、第5巻「急務四条・意見書類」p321、第8巻第488号、第10巻p158)
 
 
黙 霖(もくりん)
 幼名采女(うねめ)、僧名は覚了または鶴梁、号には黙霖・史狂・王民・梅(楳)渓(谿)・雪渓・雪卿などあり、慶応2年還俗後は宇都宮姓を付け、名を雄綱、字を絢夫(雄文)、通称を真名介といった。
 文政7年10月安芸長浜に生まれる。彼は私生児として母に育てられたが、具に世間の艱難をなめつつ僧侶としての修業をし、後諸国を遍歴し、18歳で聾となり、22歳の時本願寺の僧籍に入る。
 これより先17歳の時菊を詠じて天下の号とし、皇室の衰微を歎き、勤皇の志を立て、後天下の名儒志士を求めて40余国に3千人余人を訪うと自ら言っている。
 嘉永4、5年頃よりすでに倒幕論を抱いていたが人には語らず、漢詩に巧みな奇僧として知られる。
 安政5年7月頃一度捕らわれ、その著述70余巻を焚かれたが、許される。その後長州藩士と活動を共にし、京都に潜入したことがある。
 慶応2年3月長州藩の儒籍に列する。4月広島で捕らえられ投獄。明治2年許されて大阪府貫属(かんぞく、本籍地)となり、功労により終身3人扶持を賜う。
 明治6年月湊川神社権宮司、4月男山八幡宮祢宜となり、間もなくやめる。20年頃から呉市の沢原家に引き取られ諸国を遍歴し、晩年には同家にあり。30年9月15日亡くなる。享年74歳。大正5年従五位を贈られる。
 松陰は安政2年9月野山獄にいるとき、萩を訪れた黙霖と文通を始める。翌年8月は幽室におり、激烈な論争の書簡を交換した。松陰の文稿中には黙霖が批評を加えたものが多い。思想的にも啓発を受け畏敬の情を寄せていたが、面会したことはなかった。
(第2巻350・357・426・429頁、第5巻p251、第7巻第206・235-240号、第8巻第629号)
 
 
森 鐵之助(てつのすけ)
 名は?(こう)、また?(しん)、大和国高市郡越智の人、本姓米田。幼より学を好み、儒で身を立てようとしたが、父母は許さず。17、8歳の頃亡命して大坂に出、篠崎小竹の門に入り、数年の後故郷へ帰り、母の姓をつぐ。次いで谷三山(たにさんざん)の門に入り20数年を経、「字義訓詁に明なること京阪には敵手なからん」と三山は言う。
 嘉永の末、大和国田井荘で師弟を教える。慶応の初め、河内狭山侯に仕え、優遇され士班に列す。
 明治6年7月亡くなる。享年61歳。
 松陰は嘉永6年4月、谷三山の紹介により田井荘の家を訪ね、滞在数日孫子の訓詁を論じる。
(第9巻314p)
 
 
森田 節齋
 名はu、字は謙蔵、号は節齋・五城愚庵・山外節翁等あり。
 文化8年、冬大和八木の医師文庵の子として生まれる。11歳で父を亡くする。
 文政8年8月より京都で猪飼敬所・頼山陽に従学すること4年、文政12年9月江戸に遊び、昌平黌(しょうへいこう)に入り在学3年、天保4年より備中浅口郡上成村に在り、天保9年4月母が亡くなる前後帰国し、沈流塾を開いて教える。
 弘化元年居を京都三条街にうつし教授する。仁和寺法親王しばしば文酒の交わりをあつくしたが、6年経遂に諸侯の招きに応じなかった。
 嘉永6年頃大和五条にあり、安政2年には備中の倉敷に赴き、半年の後備後国沼隈郡藤江村に移り、山路機谷の好意により推敲塾を興し5年の後、万延元年姫路に行ったが再び藤江村に帰り、文久元年3月倉敷に転じ、廣江又兵衛の学者で教授する、4年を経て慶応元年大和へ帰り、次いで紀伊に隠れ、那珂郡荒見村の門下北氏に寓す。
 明治元年痢を病み7月26日亡くなる。享年58歳。彼は直接時事には活動しなかったが、その文章を通して正気を鼓舞し、藩主老臣に建白して時務を論ずる。著述には桑梓景賢録・竹窓夏課及び余稿・節齋文稿等あり。明治41年従四位を贈られる。
 松陰は江?五郎との関係により嘉永6年2月節齋を訪ね、4月まで従学し、大いに漢文学について啓発を受け、一時はこの方面において世に立とうかと迷った程である。この年12月京都において見たときは疎豪無策なりと評したが、以後文通はあったようだ。
(第7巻第67・99・100号、第8巻第323号、第9巻275・307頁以下、第10貫351頁)
 
 
森田 忠助(附豊吉)
 長門国阿武郡黒川村(萩市)の豪農で、郷士(ごうし)であったが後農民となる。代々庄屋を勤め名字帯刀を許される。忠助名は応信、通称長右衛門と言う。文化3年生まれる。徳地(山口市)の富永家より入り森田氏を継ぐ。森田伊右衛門頼寛(文政6年亡くなる)の長女で頼寛の第四女は松陰の養母久満(くま)なり。
 忠助農事に精しく且つ気概あり、松陰は幼児より敬慕し、晩年までかわることはなかった。屏居中も夜中密かに訪ねたことがあった。松陰の遺墨の外、松陰11歳の頃、読んだという屏風の詩、忠助との密話の室等今も残っている。
 武教全書講録中、松陰が貴穀賎金説をもって「老農森田忠助に質」し、その説により「豁然(かつぜん)として穀値下落の害を悟れり」とあるのはこの人のことである。
 慶応2年公卿沢宣嘉大井村(萩市)蟄居中御内用掛申し付けられる。同年9月21日没す。享年61歳。
 豊吉は忠助の子ども。天保9年生まれる。名は頼信、通称を後に猪助と改める。松陰と親しく、吉日録に櫨樹(はぜ)栽培についての問答を記している。
 明治以後村政、郡政にあたり功績多し。大正3年没す。享年77歳。
(第4巻47・73頁、第7巻第226号、第9巻514頁)
 
 
守永(もりなが) 彌右衛門
 長州藩士、荻野流(おぎのりゅう)砲術家。弘化3年17歳の時松陰はこの人に従学した。守永も嘉永2年松陰の兵学門下であったが親交はなかった。
 松陰は後に佐久間象山(さくましょうざん)に西洋砲術を学び、守永のかたくなな態度を惜しむ。
 慶応の頃荻野隊総督であったこともあるが、経歴はつまびらかではない。
(第1巻344頁、第7巻第89号、第10巻149・168頁)