吉田松陰生誕160周年事業の一環として、山口県と萩市は、萩有料道路サービスエリア内に近代日本の礎を築いた「教育者松陰」を紹介する『松陰記念館』を建設された。
それを期に、維新の息吹を永く世に伝えたいと祈念し、「吉田松陰と維新の群像」建立を進めるため「松陰群像建立実行委員会」が組織され、各方面から賛同を得、平成4年3月、群像が建立された。
吉田松陰先生東送之碑
夏木原は、吉田松陰先生(以下松陰)東送の節、最初に漢詩を得られたところとして、歴史にその名をとどめた栄光に輝く地である。
その後、道路の変遷もあって、人跡稀な僻地となり、訪れる人さえなく、わずかに観念と想像の地と化そうとしていた。それが萩往還の修復、21世紀の森施設の造営に伴い、この夏木原が再び脚光を浴びることになり、期せずして松陰漢詩碑建立の議が、山口県、山口県教育委員会、旭村、松風会等から起こった。
松陰精神の顕彰とその継承を使命とする松風会は、直ちに「吉田松陰先生東送之碑」を「少年の村夏木原キャンプ場」入り口に建立することを決定し、さらに県当局においては詩碑の周囲を整備して「吉田松陰先生史跡小公園」と命名された。
碑 文
吉田松陰先生東送の碑
縛吾台命致關東
對簿心期質昊穹
夏木原頭天雨黒
満山杜宇血痕紅
昭和五十八年四月
財団法人松風会建立
岸 信介 書
読 み
吾を縛(ばく)し台命もて関東におくる、
簿(ぼ)に対し心に期す、昊穹(こうきゅう)にただすを。
夏木原頭、天雨黒く、
満山の杜宇、血痕紅なり。
安政6年5月25日(1859)、松陰は幕命により江戸へ護送されることになった。五月雨降りやまぬ中を、錠前付網掛け駕籠に腰綱をつけられた松陰は野山獄を出発した。
やがて護送の駕籠は夏木原にたどり着いた。ここは長門から周防山口に越す峠前の谷底であるが、西側からの谷が合流し少しばかり開けたところである。あたりの深山では杜宇(ほととぎす)がしきりに鳴いている。谷に面した山々には点々とさつきが紅に咲いている。鳴いて血を吐くと言われるほととぎすの血痕にもみたてられる。松陰は幕府の取り調べに対し、天地神明にかけてその所信を述べようと決意しての旅立ちである。五月雨の暗黒の空は山腹に迫る。時鳥の鳴き声は、松陰の心を悲しみ対簿への激励とも受け取れる。
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