故松永氏は昭和49年3月、松風会設立と共に理事に就任され、2年後常務理事に就任され、7年後松風会理事長に就任されました。そして今日まで36年間にわたり松風会の発展振興並びに松陰教学の普及に尽力されました。その間の主要な事業は左表の通りです。広報誌「松門」にも、過去14回松陰教学に触れておられます。その幾つかを紹介します。
「(前略)翻って今日、日本の現況は奇跡的とまで言われる世界最優位の経済的国力の伸張を遂げておりまして、国内的には平和で豊かな国民の生活が営まれておりますが、一面国際的には強力な圧力を受けて非常な危機感に襲われております。
このような観点に立つとき、今こそ一身を国のために捧げられた松陰先生に学び、松陰精神の体得に務めることは喫緊の用務と考えられます。この会報はそうした要請に応え、併せて松風会の活動を広く紹介しその普及発展に資せんことを期する次第であります。ちなみに松門は松陰門下生の略で、その題字は本会と縁の深い岸信介先生の御筆蹟であります。謹んで御礼を述べます。この発刊を機として一層この研究が輪を拡げることを念願して創刊の辞と致します」
「(前略)孟子の尽心章に「君子に三楽あり、而して天下に王たるは与り存せず。父母倶に存し、兄弟故無きは、一の楽なり。仰いで天に愧(は)じず、俯(ふ)して人に愧じざるは、二の楽なり。天下の英才を得てこれを教育するは三の楽なり」とあります。孟子は人間を望ましいものに育て上げる教育を人として至幸至福の一つに位置付けております。松風会は松陰先生を崇敬し、松陰精神の普及振興を図り、これを現代に生かすことを目的として先生を顕彰、研究及び研修する事業を展開しておりまして、丁度20年になります。(以下略)」
「(前略)松下村塾の真髄は「学は人たる所以を学ぶなり。その最も重しとなすものに君臣の義、華夷の弁なり」とあります。つまり学問は人間尊重の根本義を体得することであり、更に当時の国民としての使命を誠に直截簡明(ちょくさいかんめい)に説かれています。
翻(ひるがえ)って今日の世相を見ますと個性尊重、人権重視の余り、人としての倫理道徳は殆ど無視の感がいたします。人々それぞれの自意識活動、千差万別かくては万人共通の目的の人間幸福享受など思いもよらないことになりましょう。常に国を思う心、人倫の道を実践された松陰先生30年の生涯の何れの点を取り上げても、激動の今日社会に生活している者に、無限の示唆を与えて頂けます。塾生各位の一層のご研鑽ご活躍を切望致します。」
二十一世紀初めの建国記念の日の朝は雲も風もなく、今年初めての好天に恵まれ、陽射しは柔らかく、萌え出るものに春の息吹きを感じ、期待で胸が膨らんできました。これからの百年間、地球上の自然も世界の人々も共に総べて本来の特性を生かして互いに相和して、繁栄と幸せ一杯、そういう世紀でありたいと願い、そうしなければと言う使命感が脳裏に閃(ひらめ)いて参りました。(略)
イギリスの歴史家、国際政治学者、文明批評家として有名なアーノルド・J・トインビー氏は(略)今後日本の寄与できる道は民族独自の創造性、他文化との融和的精神において諸民族の手本となり得ることである。そう見ている所以(ゆえん)は、日本人は精神的資産を持っている。日本の伝統的宗教は仏教であれ、神道であれ、何れも人間と自然との調和が人倫の道である」と喝破し「欧米文明の急激な摂取による混乱が、次の同化創造への移行をやむなくする」とも述べております。私はこれらの言葉は日本国民に対する極めて適切な警告と思っています。(略)
さて、私は人生観の一つとして、現在は過去の集積であり、未来は過去、現在を見通した線上において諸種の要因を得て展開していくものと考えております。こうした見地に立ってここで二つの提案をいたします。
今日の世界情勢として人知即ち科学技術は今後も限りなく進展して参ります。これを自己の欲望手段に充てる限り、他に対し、如何程の害毒を流すことになるか計り知れません。心の置き所、倫理道徳を基調として科学知識を身に付ける、その機運が醸成されることが先ず第一であります。その次の対応策としては既設の民間団体、例えば松風会では一層具体的事業を展開して行く、国・地方団体自身腹を決めて事業実施に当たるか、あるいは民間団体に支援の手を差し伸べる。国を挙げてのこのような方策が採られない限り、大層恐るべき社会に陥って行く事を恐れる一人であります。(略)
務理事15年、続いて副会長を5年、会長を4年務められました。この間、教育会館の建設並びに建設の募金活動、創立百周年記念事業、山口県教育県民大会、2億円の基金造成、山口県百科事典、山口県教育史の編集出版等々教育会の発展に大いに貢献されました。
その功績を頌(たた)え、平成8年4月15日、自宅近くの丘に「松永祥甫翁頌徳碑」が建てられました。その碑文を大田恭次氏(当時教育会会長、現松風会理事)が書いておられるので紹介します。
松籟永遠に ひゞきやますも
この研修塾は、現在まで1年次が3回まで終了した。申込者が76名で、1回目が49名、2回目56名、3回目36名,4回目58名の方が出席された。今後2年次を続けていく。これからでも参加できるので、申込をどうぞ。
主 題 吉田松陰に学ぶ
趣 旨
吉田松陰は、至誠留魂の気迫とその実践を貫いた本県の誇る偉大な歴史的人物である。
松陰の生き方は、時代を越えて常に課題解決の指針を示唆し、汲めども尽きない奥深い人間像と、限りない探求が今日望まれている。
そのような吉田松陰に触れたいと思う方々のためにこのコースを開設する。
主催 財団法人松風会
共催 山口県小学校長会・山口県中学校長会・山口県高等学校長協会・財団法人山口県教育会
後 援 山口県教育委員会・萩市教育委員会
研修期間 2か年在塾、20年度4回、21年度5回
1年次
第1回 20,7,26(土)9:00 〜16:00 県教育会館
第2回 20,9,27(土)9:00 〜16:00 県教育会館
第3回 20、10,25(土)萩青 年の家(萩市内巡検)
第4回 21、2, 28(土)9:30 〜16:00 県教育会館
2年次
第1回 21、6、20(土)9:00〜 16:00 県教育会館
第2回 21,8,22(土)9:00 〜16:00 県教育会館
第3回 21,9,26(土)9:00 〜16:00 県教育会館
第4回 21,11,6(土)〜8 (日)2泊3日(韮山・伊豆下田・鎌倉)
第5回 22、1, 30(土)9:30〜 16:00 県教育会館
1年次(20年度) 松陰概説
1回 20、7、26(土)山口県教 育会館、49名参加
1「吉田松陰の生涯」松田輝夫先生
2「生家杉家の人々」弘長純忠先生
3 座談会 (松陰先生に何を学ぶか)
4「幕末の政情」折本 章先生
2回 20、9、27(土)山口県教育会館、56名参加
1「吉田松陰の遊歴」弘長純忠先生
2「黒船異変と吉田松陰」河村太市先生
3 輪読「妹千代宛書簡」松田輝夫先生
4「野山獄の日々」折本 章先生
3回 20、10、25(土)萩市・萩青年の家、36名参加
吉田松陰ゆかりの地巡検(松陰関係史蹟めぐり)
松田輝夫先生・明倫小学校長・事務局
4回 21、2、28(土)山口県教育会館
1「松下村塾の教育」河村太市先生
2「松下村塾の実践活動」折本 章先生
3「吉田松陰と弟敏三郎」 荒巻大拙先生
4「宮番・登波」(「討賊始末記」)松田輝夫先生
2年次(21年度) 松陰各論
1回 21、6、20(土)山口県教育会館、著述について
1「講孟余話」 松田輝夫先生
2「孫子評注」 河村太市先生
3 座談会(2年次を迎えて)
4「武教全書講録」(山鹿素行)折本 章先生
2回 21、8、22(土)山口県教育会館
政治活動について
1「上申書」(「将及私言」「大義を議す」等)松田輝夫先生
2「回顧録」「幽囚録」
河村太市先生
3 輪読「士規七則」 阿武博道先生
4「草莽の自覚」(「要駕策主意」等) 折本 章先生
3回 21、9、26(土)山口県教育会館
書簡について
1 「吉田松陰の書簡」 道迫真吾先生
2 輪読「永訣の書」「宗族に示す書」 弘長純忠先生
3「月性・黙霖との交信」 樹下明紀先生
4回(巡検)21、11、6〜8(金・土・日)
県外巡検(韮山・伊豆下田・鎌倉)
11月06日(金)
新山口駅発(07:06)のぞみ4号→名古屋発(09:57)こだま542号→三島発(12:00)伊豆箱根鉄道→(12:16)韮山(江川邸・郷土資料館・韮山城址・民俗資料館等)韮山発(15:10)伊豆箱根鉄道→三島駅発(15:37)→熱海(16:05)→(17:42)伊豆下田着→下田ビューホテル(泊)
11月07日(土)
ホテル発(下田開港史跡・松陰踏海関係史蹟等)→伊豆下田発(14:58)踊り子116号→(17:07)大船着→ホテルメッツかまくら大船泊
松陰・重之助下田踏海の図(松風蔵)
11月08日(日)
大船発→鎌倉(瑞泉寺・毛利家の墓等・自由研修)→鎌倉(14:59)→戸塚発(15:11)→横浜発(15:25)→新横浜発(16:29)のぞみ43号→(20:37)新山口着
経費、個人負担約70,000円(交通費・宿泊費・昼食代等)
貸切バス代・施設入場料等松風会負担
5回 22、1、30(土)山口県教育会館
殉 難
1「吉田松陰の魂を受け継いだ人たち」松田輝夫先生
2「吉田松陰の死の工夫とその最後」 河村太市先生
3「留魂録を読む」 折本 章先生
4 座談会(受講を終えて)
修了式
講師一覧 (50音順)
荒巻大拙(大内文化を正しく 伝える会)
阿武博道(萩松朋会)
折本 章(松風会理事)
河村太市(山口県立大学名誉 教授・松風会理事)
樹下明紀(歴史研究家・郷土 史家)
道迫真吾(萩博物館学芸班研 究員)
弘長純忠(萩松朋会会長)
松田輝夫(史都萩を愛する会 会長・松風会理事)
福岡県朝倉市 西 英喜
本年度も「松陰研修塾基礎コース」が山口市で開講した。吉田松陰に学びたいという人たちが山口県外からも入塾した。私もその一人である。
本年度第1回目。吉田松陰の生涯について学ぶ。松陰の生涯はと問われれば、何と答えるか。「志を立て、志に生き、志を伝えた」生涯。松陰の志とは、とさらに求められれば、「誇りある人間であり、日本人であることを追求し、貫くこと」であったと思われる。
松下村塾を開設し「志を伝える」松陰の学問の実践と教育は、特に私の求める研究課題である。
教育の志に生き、志は、生涯にわたって、学び続け、伝えていければと思う。吉田松陰の「人間を育てる教育」を理想としてきた。今年で入塾3年目。さらに吉田松陰の志を学び続けたい。(了)
(西日本新聞2008年8月21日「こだま」欄掲載)
当研修塾基礎コースは平成3年に開設され、19年目(第8回)を迎えた。松門13号(平成3年8月10日)には「研究の完成には長い年月を要するが、3カ年を単位とする研究を構想しここに開設する」、内容として「松陰像の追求、著作・書簡の研究等」、研修方法として「講義・演習・巡検・協議等」が示されている。最初は小中高・各種支援学校の教師を対象に実施されたが、その後、生涯学習の観点から誰でも、年齢に関係なく松陰教学を学ぶ希望のある方へと広げた。また、研修期間も3年から2年とした。
この研修塾の修了者(7割以上の出席率)は、268名(延べ人数)、実質人数210名(同一人が何回も受講)となっている。
今年度は安政の大獄で松陰が亡くなって150年に当たる。多くの方に松陰教学に触れて欲しいと願っている。
第2回の講義要旨の紹介(一部)
1 吉田松陰の遊歴
(1)遊歴のきっかけ
吉田松陰の遊歴は、次の8回である。
○ 北浦視察『廻浦紀略(かいほきりゃく)』(嘉永2年・御手当御内用係)
○ 九州遊歴『西遊日記』(嘉永3年)
○ 江戸遊学『東遊日記』(嘉永4年)
○ 房相遊歴『房相漫遊日記(宮部鼎蔵著)』(嘉永4年)
○ 東北遊歴『東北遊日記』(嘉永4〜5年)
○諸国遊歴『癸丑(きちゅう)遊歴日録』(嘉永6年)
○長崎紀行『長崎紀行』(嘉永6年)
○ 下田踏海『回顧録・幽囚録・3月27日夜の記』(嘉永6年)
松陰は、ここに示したように、この時代(幕末)に、しかも、20代前半という若さで、兵学修業のために約13,000Kmの旅をしているが、このような旅をした人は他にはいないと言われている。このように松陰が旅を始めるきっかけとなったのが、松陰を指導した家学後見人の教えであった。
松陰は6歳の時に、藩の兵学師範・吉田大助の養子となる。山鹿流兵学者である養父・吉田大助が間もなく死亡、叔父の玉木文之進などが指導に当たった。19歳で独立師範となり、その後、藩校明倫館の兵学師範となった。
この間で注目すべきことは、松陰16歳の時の家学後見人の山田宇右衛門先生と兵学者の山田亦介先生との出会いである。
山田宇右衛門先生(山鹿流兵学者)は松陰に対し他流の学問も広く学び視野を広げるようにと話された。先生の紹介により、松陰は長沼流兵学者である山田亦介(村田清風の甥)の門下に入門。2年間学び長沼流兵学の免許を取得した。その間兵学については、中国の孫子の兵法を学びその後、佐久間象山について西洋兵学も学んだ。
また、山田宇右衛門先生は江戸で求めた箕作省吾(みつくりしょうご)著『坤輿図識(こんよずしき)』を与えて、欧米列強にはどのような国があり、世界がどのような状況にあるのかも教えられた。
このように松陰に広い視野を持たせると共に、世界に目を開かせたのである。
次いで、山田亦介先生の教えである「含章斎(がんしょうさい)山田先生(山田亦介)に与ふる書」(『全集』第4巻、戊午幽室文稿、p391)に先生の言葉が次のように載せてある。
【訳文】「近頃、ならず者のヨーロッパの国々が、日に日に東洋に押しかけて、領地を奪っている。インドが先ず其の毒を蒙って侵略され、次いで清国がその辱めを受け領土を侵略された。その侵略の勢いは未だ消えることなく、沖縄も侵略しようとし、その勢いで長崎にやって来た。天下の教養・地位のある人々は、ヨーロッパの国々の侵略に心を痛め、頭を悩まし、日本を守ることを急務と考えていた。」
また、17歳の折のことについて、「講孟余話(こうもうよわ)尽心下篇」に次のように記載している。
【訳文】「(中略)独り叔父の玉木文之進先生は経書(儒教の教理を書いた書)によって、父の友人山 田宇右衛門先生は兵書によって、後進を学問に誘っておられ、特に宇右衛門先生は、西欧諸国の東洋 侵略を深く憂慮されておられた。私はこの二先生の教えを受け、発憤して食事も忘れ、国境の防備の 問題を研究することにした。…」(『吉田松陰全集』第3巻、p410)
以上のことから、16・17歳の時の山田宇右衛門先生や山田亦介先生の話に触発され、発憤し、欧米諸国から日本を守るためにどのようにしたら良いのか、日本の守りの現状はどのようになっているのか等、国防の問題を真剣に考えるようになった。これらが後の諸国遊歴への引き金になったと考えられる。
毛利藩ではこのように、長崎や江戸の藩邸から海外の情報を機会あるごとに収集・伝達し、学者連中がそれを門下生に伝えていることに特徴があるといえよう。
2 西遊の旅
(1)西遊への経緯
松陰にとって西遊の旅は、どんな意味があるのだろうか。また、なぜ西遊(長崎・平戸)に行くようになったのだろうか、その経緯について述べてみたい。
はじめに西遊の旅の意義について考えてみるに、松陰はこの旅に出る前は、家学後見人によって、山鹿流の兵学者となるべく儒学や兵学の指導を受け、箱入り息子的に純粋培養という形で大切に育てられた。特に長州藩の儒学の多くは朱子学であり、松陰も朱子学の教育を受けた。しかしこれ以降は、他国遊歴による武者修業という形で学問を進めていくことになり、この西遊の旅で、松陰の学問・思想は大きな転機を迎えることになった。
西遊の旅で、西の果ての平戸へ行くようになったのは何故か。外国の情報を得るためなら、外国に門戸を開いている長崎に行くことだけで十分ではないか。平戸に行く理由については、伊藤木工助に出した手紙「伊藤某に與ふ」に次のように書かれてある。
「…前略…僕素と四方に游び家学を修めんとするの志あり、而して因 循(ぐずぐずして煮え切らない態度)年を度る。百非林(林真人、号は百非。松陰の後見人、明倫館兵学場の教授を代理し、松陰の教育にも力を致せり。) 僕の父執(父の友人 )なり。客歳(昨年 )、足下の館に寓し、足下が鎧軒先生(葉山佐内 )の人となりを称道し、其の人物をりとするを聞き僕をして学に就かしめんことを欲す。僕、庸暗頑鈍にして為すあるに足らず。然りと雖も素志の在する所自ら止むこと能わず。是に於て意を西遊に決す。…略」
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この手紙の後の文章では、伊藤木工助(静斎)に対し、葉山先生と旧知であるので貴方の方からも僕の為に意のあるところを先生に伝えて欲しいということをお願いしている。
なお、この時点では松陰は伊藤木工助(静斎)との面識はないが、
嘉永2年(1849)3月「御手当御内用掛」に任命され、7月に北*1浦沿岸を視察し下関に行った7月18日・19日に伊藤木工助を訪問し談話をしている。
なお、それより前5月15日に葉山佐内へ従学の依頼の手*2紙を出している。その概略は「家業の山鹿流兵学者を継いだが無能力の中で先人の域に達せず、自分の埋没を恐れて、書物を学び、先生や友達と議論して見聞を広めたいのだが、そういう先生や友達との巡り会いがない。先生は兵学・経学に優れているとお聞きしますのでその理論や知識をお教え願いたい。家業を修めようる心がけを持っており、藩の許可を得られればお伺いしたいと書いている。
(2)藩府への旅行願
その後、嘉永3年8月18日、藩の許可がおりる。これには自費でもって10ヶ月のお暇を許されることとなる。もともと、郡司覚之進(ぐんじかくのしん)を頼って行く予定であったが、8月19日に追加文書を提出している。それには、「長崎表鉄炮(鉄砲)方久松土岐太郎(高島秋帆の弟)をも訪ねたい」と書いている。8月23日に「過書及び手形下附願」を提出し、24日に許可され、25日に萩を出発している。
(3)旅の意義
長崎・平戸への遊学の様子については「西遊日記」の中に、逐一細かに記録されているが、旅をする意義については「西遊日記の序文」に次のようなことが書かれている。
「西*4遊日記」の初めから「…則ち四方に周遊すとも何の取る所とぞ」までの前半の文は従来の伝統的な朱子学の学問観である。天下の事象を部屋で読書するだけで十分知識を得て、その後行動を起こすというのは「先知後行」という朱子学の考え方である。
松陰はもはや学問というものは「陋室黄巻」というような、昔ながらの学問であってはならないと朱子学の学問観を否定している。
後半の文章では、生きている人間の心は、外の世界との接触交流を通して、はじめて生き生きと働くという陽明学の新しい考え方を述べている。
序文というものは旅をする前に心構えとして書くと思われがちだが、この序文の構成から見てると前半の朱子学的な生き方を否定し、後半、旅の意義に関して、陽明学の新しい考え方を導入している。
序文を書いた日にちが9月になっていることから、この序文は平戸で陽明学を学んだ後書いたということがわかる。
(4)西遊の旅の概観
西遊日記から旅の概略について簡単に述べておきたい。
旅の目的は、山鹿流兵学及び経学に詳しい平戸藩士葉山佐内や山鹿流の宗家山鹿万助に従学する家学修業の旅であり、また西洋の砲術を学ぶ旅である。
目的地は主に長崎・平戸である。日程は8月25日に萩を出発し、9月5日長崎着。11日に長崎を出発し9月14日平戸着。11月6日に船で平戸を出発し、長崎へ11月8日到着。12月1日に長崎茂木を出発し、天草・島原・熊本・柳川・久留米・小倉を経由して12月29日(大晦日)に萩に到着する。
藩府への遊学願には、自力で往来10ヶ月の遊学の予定であったが、4ヶ月で帰国している。
(5)西遊日記の内容
松陰は、家学後見人から視野を広げ、幅広い物の見方をするように指導されたが、藩外はじめての旅で、どんな事をどのように見ているのか、日記の内容の一部を記しておきた。
嘉永3年8月25日早朝に、従者新介を従え萩を出発。道中次のような事を見聞している。
○8月25日 農作物
「到る所畠作の物をみるに、甚だ不景気なり、蕎麦(そば)を最とす。其の他吉貝(きっぱい、綿)・牛蒡(ごぼう) ・羅蔔(らふく、大根)の類、皆然り。稲は却って可なり。
○8月26日 地理・伊藤家宿泊
「清末・長府共、土地開宏、黄雲萬頃(こうんばんけい、稲が黄色く実っている様)、東西は山勢平遠、北 は山近くして、稍(やや)高し、而して南は海を受く。
伊藤家で発熱し、伊藤は他藩に入る前に病を治すように進める。
○8月晦日 行程・植物
「黒崎より小屋瀬(こやのせ)へ三里、小屋瀬より飯塚へ五里、飯塚より内野へ三里、凡そ十一里にし て宿す。…秋の彼岸櫻多し、花開きて枝に満つ。」
○9月朔日 農具食物
「農器の如き、耜(すき)・鍬(くわ)・鎌・筵(むしろ)・うえじやうげ(ざる)・みゐ(箕)等吾れと形を異にす。 食物の類、豆腐蒟蒻(こんにゃく)の形、筑豊亦同じからず。」
○9月2日 人物評
「竊(ひそ)かに人気を察するに、筑前人は便佞(べんねい)に*1して精神凝定*2せず、肥前人は剛直にして精神凝 定す。」
○9月4日 施設
「千幡(ちわた)と言う所あり。爰(ここ)に水車あり、其の制を熟観す。水車三用あり、一は磨(すりうす)なり、二 は篩(ふるい)なり、三は舂(つきうす)なり。磨を主用とす。」
○9月5日 長崎御屋敷
長崎へ藩邸を置いているのは九州諸藩と長州藩だけであったという。ここが情報源にな る。長州が外国をよく知っているのが窺われる。9月8日に従者新介を還(かえ)す。
○9月6日 寺院
「唐寺崇福寺に至り、清人の墓を見る。唐寺と云ふ者凡そ五、是れ其の一と云ふ。」
○9月9日 建築
「蘭館に至る。館内黴号(きごう)を立つる大柱あり、薬園あり、加比丹(カピタン)其の外の諸房あり、白砂 糖・蘇木(そぼく、染料とする)等の倉庫あり。」
○9月11日 蘭船
「蘭船に乗り上層・第二層を見る。上層に砲六門あり、二層には、銅箱等を多く積む。蘭 人、酒とこなもちとを出す。脚船(ボート)二あり、一は船上に懸け、一は水上に浮ぶ。船傍に 升降の梯子十八階あり。」(ここでオランダ船の大きさを確認する。)
○平戸にて
滞在50日間に総計約80冊に上る書籍を閲覧していて、要点の抄録(抜き書き)や感想等を 書いている。平戸では紙屋を宿舎とする。ここから葉山佐内の家に通ったり、山鹿万助の学 習会へ参加した。
○長崎滞留中の読書、25冊
学者・研究者等から指導を受けると共に各藩士と交友関係で談論して知見を深めている。
○12月7日 情景
「…嶽(雲仙)に登れば寒気十倍し雪花飄々たり。寺あり一乗院と云ふ。小地獄に至り入湯す。」
○12月9/11日 祈願
「清正公の廟に謁(えつ)し…単行して清正公に詣づ、豪気甚し。」弟敏三郎に障害があり、その平癒の祈りを捧げたものである。
以上は、松陰の見聞の一部を載せたものである。この他、内容には、歴史的な事、藩士や 学者に会った事、書物を読んだ事、両先生に指導された事等、単なる日記ではなく、非常に 視野の広い見聞記録であることがわかる。
(6)西遊の旅での成果
4ヶ月にわたる西遊の旅で、松陰が得たものについてまとめておきたい。
ア 海外での関心の拡大
外国の事情に触れ、自国の危機と防備を考えたこと。『阿芙蓉彙聞(あふよういぶん)』(アヘン戦争に関する記事・論文を収めたもの)7冊、『近時海国必読書』(我が国で公にされた海外の地理歴史に関する翻訳書や海防策等数十編を納めたもの )17冊、『百機撤私(ペキサンス)』(西洋砲術書で砲術の詳細について書いたもの )5冊、『聖武記附録』(天子の武功を書いた兵書、抜き書き「国防の第一義は、外国の状況を知ることである。相手国の書籍 や歴史書を会読することによって風俗・国勢の状況・他国との友好や敵対関係を詳細に知ることがで きる。
そして、外国の忌み嫌う所をつかむと共に、求めている所を支援すれば、外交上の駆け引きが できるであろう。 )を読み終え大きな影響を受けた。、『近時海国必読書』の巻之三では、文化年間ロシア人と邦人との間に於ける蝦夷千島の争闘があったことが記してあり、北邊警備の事は當時の大問題であった。とのことを知り、これが東北へ遊歴するひとつのきっかけとなったのではないだろうか。
松陰は平戸滞在中に沢山の書物を読み、参考になる所を抜き書きしている。「聖武記附録」では、「相手の国の様子を知るためには使館を設け、情報を収集し、分析することが大切であり、それが外交上の駆け引きに貢献するであろう」と抜き書きしている。安政5年著した「対策一道」にはこの考えを生かしており、「外国に皆館を設け将士を置き、以て四方の事を探聴し、且つ互市(貿易)の利を征る。…このようにして和親の約を締ぶ」と。松陰には「書は古なり、為は今なり」という言葉があるか、その言葉どうり、昔の書物の「聖武記附録」を現在の情勢に合わせて「対策一道」に生かしている。
イ 行動を伴った現実重視の思考態度(実学の追究)
陽明学者である葉山佐内先生に師事し、陽明学の書物『伝習録』、*3や『洗心洞箚記』、*4を読 み、また先生から指導を受け、新しい学問を修得した。
松陰の学問は、西遊の旅までは主として朱子学であった。
朱子学は朱熹(1130〜1200)が理気の世界観に基づいて集大成した儒学の大系である。 科挙(官吏登用試験)に合格すると士大夫となって政治に携わることができる。則ち体得し た学問を政治的実践によって現実化していくのである。道徳と政治の一致を説くのが朱子学 である。朱子学には「修己治人」という言葉がある。己を修めて人を治めるということで、 まず、自己修養した者が為政者となって人々を教育感化するのである。従って道徳的教養と 政治的実践が区別され、道徳的修養の方が先で、政治的実践の方がその後になる。その道徳 的修養(人間形成)は読書による知の集積が大前提となる。西遊日記の序の前半部分がそれ (読書)にあたるのである。
陽明学は王陽明(1472~1528)が唱えた儒学である。陽明学には「事上磨練」という言葉が ある。自己修養を完成した者が、あらためて他人を教導して改新させるのではなく、民衆と 交わること自体が自らの修養なのである。だから初めに人間形成ありきではなく、民衆と政 治をする中で自己を修養していくのである。王陽明の解釈では、孔子は修己と治人とを段階 として区別してはいないとした。
また、「知行合一」について、王陽明の門人が訪ねたところ、先生は次のように答えた。「帳 簿の整理や訴訟の処理が忙しく困難なために学問ができないという一官吏に、彼は次のよう に戒める、私がそれらの仕事を離れて、とりとめもなく講学せよと、いつ君に教えたことが あるか。君に官職上の仕事があるかぎり官職上の仕事の上で学問してこそ、始めて真の各物 (物事の道理)なのである。例えば、一つの訴訟を査問するにしても被告の対応が無礼であ るからといって腹を立ててはならず申し立てが如才ないからといって気をよくしてはならない。帳簿の整理や訴訟も実学の場ならぬはないのである。もし、物事を離れて学問するなら ば、かえって著空である」(『伝習録』より)
卑近な例として、春の七草を覚えている子どもに、本物の草花を見せて答えさせたところ、 ほとんどの子どもが正答にならない。頭で覚えただけではわかったことにはならない。草花 と名前が一致してこそ分かったことになる。
松陰は、この新しい学問の陽明学を「西遊日記・序」の中で、旅の本質として早速、その 考え方を取り入れている。また、この後、講義をして執筆した「講孟余話」の中にもこの考 え方を随所に取り入れている。
ウ 学者・研究者・藩士との交流
長崎では、郡司覚之進・高島浅五郎(砲術家)・豊島(てしま)権平(砲術師範・海外事情)・大木藤 十郎・吉村年三郎・後藤亦次郎、平戸では葉山佐内・山鹿万助(山鹿流兵学者)・野元弁左 衛門・県芳三郎・天野勇衛、熊本では、池部啓太(天文暦数の師範家)・荘村右兵衛、宮部鼎蔵(生涯の友)と知見を深めた。
エ 農業の重要性
この旅で各地の農業の実情を把握した松陰は、農業に関心を持ち、民生の安定を願い、役人の兄梅太郎に対し、「家兄に與ふる書」*1と題して書簡を送り、次のように農事の重要性を 説いている。
「夫れ当今の最も急且つ要るものにして、而も文人儒士の蔑焉(べつえん、ないがしろにすること)としてとして省みざるものは、民に稼穡(かしょく)作物の植え付けと取り入れ。)を教へ、以て農勧み民富むことを致すの学に如(し)くはなし。唯だ其れ急なり故に遜譲して以て他人を待つを得ず。唯だ其れ要なり。故に他事を放棄して心力を斯(ここ)に専にせざるべからず。…中略…世の論者、民を仁し物を愛すと日はざるはなく国を富まし兵強くすと日はざるはなし。然れども農勧めずんば富強何に由りてか得ん、民富まずんば仁愛将た何(いず)くに在りや。農を勧むるは民を教ふるに在り、民を富ますは稼穡にあり。…以下略… 」
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松陰は8月に出発し12月に帰萩している。10ヶ月の予定が、実際には4ヶ月の旅であった。どうしてだろうか。一つは、帰国報告書である「覚」の中に「気分相すぐれず、御暇半途の儀には御座候へども」と云ってるように、病気気味であったことがあげられる。
二つめは、「郷人に與ふる書」の中に、書籍は長崎から江戸へ、江戸から平戸へと運ばれる。そのためには江戸へ行くことの方が重要であると悟ったからであろう。
三つ目には、玉木文之進からの手紙により「来年、江戸への遊学が出来そうであることが、わかったからであろう。
この旅で特に葉山佐内に習ったこと(陽明学)が後の松陰の生き方に大きな影響を与えた。
防府市牟礼柳 西本正彦(松風会理事)
街には顔がある
平成18年の秋、タウン誌に市民参画懇話会の委員公募の記事を見て、即応募する気になったのは、ジュネーブとニューヨークの街を思い比べたからだ。街にはいろんな顔があるが、ジュネーブは「花」の顔だった。中央郵便局の窓という窓は、プランターの花が街路に笑みを向けているし、レマン湖畔の花壇も手入れが行き届きゴミ一つ落ちていなかった。世界に冠たる観光都市の市民はさすがである。対するニューヨークのそれは「マネー」で、歩道脇にリムジンが並び、ブロードウエイに観客は溢れていた。特に印象的なのは、ギリシャ風の外壁をもつ証券取引所のウォール街が、室内の熱気をよそに、紙くずが舞う殺伐さだったことだ。まさに、資本主義の光と影を見た。
街の顔とは、そこに住み、そこで働く人の希望や願いなのだ。だから防府の顔は、防府に住む私にも責任があるわけだ。そんな思いで参加した市民参画懇話会では、平成20年の秋に「(仮称)防府市自治基本条例骨子に関する提言書」を市長に提出した。提言の趣旨は、〈主権者である市民が、市政に関心を持ち、自ら参画して、まちづくりに取り組もう〉というものである。これは長州が、明治維新で取り組んだことのある「草莽崛起」に通じるとふと思った。
市民参画・協働はいつか来た道「草莽崛起」
市民ができることは行動しようと、私も平成19年春に「防府の人づくりを支える会」(本会の指導者、河村太市(県立大学名誉教授)、代表、上山忠男(元鹿野町教育長)。約2年かけて「菜根譚に学ぶ会」の月例会を催し、現在、日めくり菜根譚を編集中。)を、同 夏には地域のゴミ置き場を作ることに取り組んだ。この間、集いの指導者や自治会長など様々な方のお力添えがあり、今も世話になっていることは言うまでもない。
〈市民が立ち上がる〉と言えば、18世紀に自由・平等・博愛を掲げたフランス革命があり、日本では19世紀、幕末・明治の大変革が吉田松陰の「草莽崛起」(日本全国の在野の志士に呼びかけ、尊皇攘夷を決行しようということ。崛起は決意して立ち上がり行動を起こすこと)を契機に実現したことがある。
松陰は思うに任せぬこともあり、野村和作宛(1942〜1909、名は靖、和作は通称。長州藩足軽、後士分。入江杉蔵の弟。松下村塾生。大原三位西下策・伏見要駕策に奔走したが失敗、投獄された。維新後宮内大丞・神奈川県 令・枢密顧問官を歴任。明治42年68歳で没。「書簡」1859・4『吉田松陰撰集』p635〜6)の書簡に「政府を相手にしたが一生の誤りなり。此の後はきっと草莽と案をかえて今一手段やってみよう」と、草莽を新しい選択肢として示しているが、その考えの壮大で柔軟なことに驚嘆するばかりである。それが刑死(1859・10)するほんの半年前のことであった。
これを高杉晋作は、民兵の奇兵隊(1864・1)として下関で起こし、のちに大村益次郎は洋式装備の農民兵を組織(1866)し、幕府軍に当たった。これら松陰・晋作・蔵六の関係を司馬遼太郎(花神)は「革命期に最初に登場するのは吉田松陰のような思想家で、非業の死を遂げる。ついで高杉晋作のような戦略家、三番目が蔵六(大村益次郎)のような技術者である」とし、「庶民が軍人として大量に参加することができたのは封建3百年の間、長州藩が最初のことで、軍事力を飛躍させ、庶民の政治意識を高め、幕藩体制での奇跡ともいうべき士民もろともの挙藩一致体制をつくりあげた」と、その業績を高く評価しているのである。
コミュニティーが育てるこれからの顔
新時代の潮流を起こした松陰は、熱い志と柔軟な思考の持ち主であったが、このエネルギーはどこから生まれたのだろうか? その根源を尋ねて、平成の「草莽崛起」に生かしたいのが私の願いである。
勿論松陰自身が逸材であることは疑うべくも無いが、私は教育環境として二つのコニュニティーがよく機能したことを挙げておきたい。その第一は杉家という家庭のコミュニティーで、父の向学心とこれを慕う母、祖母・母・兄などの家風から、基本的な人格と学習のしつけとしての素読を鍛えられたこと。第二は目的ごとのコミュニティーを訪ね歩いたことで、まずは近隣の吉田家の家学や叔父玉木文之進(たまきぶんのしん、1810〜76、名は正?、字は蔵甫。松陰の叔父。松陰は玉木の主宰する松下村塾で学んだ。松陰幼少の為に代わり藩校明倫館で山鹿流兵学を教授した。萩の乱に責任を感じ祖先の墓 前で自刃。67歳。)から「公」を学び、のちに主題に応じた九州・江戸・東北などの学者や塾を遊学し、情報を交換したことである。これらを通して、あるべき国の姿を描いて「草莽崛起」を提示するに至ったのである。
家庭における素読(そどく)についてであるが、私はこれが生涯を通しての学習のしつけになっているように思う。歴史学者の津田左右吉(つだそうきち)も、4歳から四書の素読を父に教えられ、のちに専門の独学にとても役立ったといわれる。長部日出雄〈天皇はどこから来たか〉も素読について、「明治人が以後の世代にくらべて桁違いのスケールと姿勢のよさを感じさせるのは、身体的動作をともなう精神の体操のような漢籍の素読を、年少のころ有無をいわせず叩きこまれた経験を持つ人が少なくないのと、無縁ではない」、「素読…本を開くときと閉じるとき、両手で捧げ持って頭上に押し戴く習慣をつけさせた」と、明治建国の精神を素読が支えたと懐かしんでいる。
また、会津藩校日新館に入学前の子どもには『什の掟』(じゅうのおきて、一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ。二、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。三、嘘言を言うことはなりませぬ。四、卑怯な振舞いをしてはなりませぬ。五、弱い者を いぢめてはなりませぬ。六、戸外で物を食べてはなりませぬ。七、戸外で婦人と言葉を交わしてはなりませぬ。ならぬことはならぬものです)があり、その中に「ならぬことはならぬものです」という件(くだり)がある。ここにも、有無を言わさぬ大人のメッセージが残されていて、いまどきの家庭・地域の子育てに考えさせられるものがある。
さて、日本の人口は減少期に入り、少子高齢化は急進する。また経済の危機に突入し、地球温暖化などの環境問題も待ったなしである。このような課題には、既に国や県・市にお願いする段階ではない。市民自らが考え、行動し、解決をめざすまちづくりに立ち上がるときである。これらは行財政改革・地方分権の進展とともに、平成の変革ともいえる流れになっている。今こそ市民が草莽崛起し、それぞれのテーマコミュニティーを企画・協働することで、さらにゆとりと豊かさに満ちた、住み続けたくなるまちにしていくべきだと考えている。(了)
8月22日、松田輝夫松風会理事を通じて、制作者の鈴木義蔵氏(萩市在住)から松下村塾聯を寄贈いただいた。この聯は萩松陰神社境内の松下村塾に最近まで掲げられていたものである。
竹製聯の本物は、『吉田松陰全集』第3巻(山口県教育会編、岩波書店発行、昭和13年)に写真と共に久保氏所蔵(東京)と掲載されているが、その後消失したと聞いている。松下村塾には同じく鈴木氏制作の新しい聯が掲げられている。
非読万巻書 万巻(まんがん)の書を読むに非(あら)ざるよりは
寧得為千秋人 寧(いずく)んぞ千秋(せんしゅう)の人と(た)為るを得(え)ん
自非軽一己労 一己(いっこ)の労を軽(かろ)んずるに非ざるよりは
寧得致兆民安 寧んぞ兆民(ちょうみん)の安(やす)きを致(いた)すを得ん
【通釈】
沢山の書物を読まない限りは、
後世に名を残す人と成ることは出来ない。
自分ひとりの労力を惜しむようでは、
多くの人々を幸せにすることは出来ない
(『吉田松陰撰集』松風会発行、p400による)
【解説】
文句は松陰の自撰自筆で、当時松下村塾の経営者であった外叔久保五郎左衛門に贈ったものである。そこで久保は自ら剞?(きけつ、彫刻鑿(のみ))をとってこれを聯に作り、塾の柱に掛けた。(『吉田松陰全集』第3巻による)