松門36号 平成19年10月25日
 
 
目  次
 
『吉田松陰日録』刊行にあたって 松風会理事長 松永 祥甫
『吉田松陰日録』採録を終えて
『吉田松陰日録』凡例
『吉田松陰日録』目次 購入方法
松陰研究グループ紹介 美祢松陰研究会その後の歩み 代表 岩野 和夫
第7回松陰研修塾基礎コース講義要旨
 「先師 山鹿素行について」松風会理事 折本  彰
18年度購入図書・18年度寄贈図書・18年度寄贈ビデオ・DVD
19年度購入図書・19年度寄贈図書
松風会の研修・松風会役員一覧
 
『吉田松陰日録』刊行にあたって
           財団法人 松風会理事長 松 永 祥 甫
 
 世界の平和と人類の幸福を期待して幕開けした21世紀も早7年を迎えました。日本もあの焦土と化した国土から60余年を経て、今美しい国日本、また国家の品格という気品に満ちた言葉が胸を潤すようになりました。その実現への強い期待が込められた言葉であります。
 現在、社会はなお混迷の謗(そし)りを免れ得ませんが、あたかも明治維新は欧米諸国の東洋制覇の最中、封建社会から近代国家建設、更に世界の中の日本となった歴史の事実であります。その維新の原動力は吉田松陰先生であることは揺るぎない定説であります。時代を先取りされた松陰先生に学べという声は日増しに高まっています。
 幸い松陰先生に関する資料は日記、書簡、著書、その他によって実に豊富であります。
 
山口県教育会はこれら膨大な資料を取りまとめた夙(つと)に三回にわたって『吉田松陰全集』を刊行しております。
 当財団法人松風会は吉田松陰先生を崇敬し松陰精神の普及振興に生かすことを目的にして昭和49年に設立され、松陰精神の研究、研修事業を行って参っております。
 本会は、「松陰全集」の内容事項を年代順に列記した「日録」を作り、読者、研究者の便益の資に充てんことを発意し、本会創立30周年記念事業、更に平成21年松陰殉節150年記念事業の一環として取り組みました。いわば「吉田松陰辞典」と申しても過言ではありません。平成15年、本会理事であり指導者の河村太市、石原啓司(9月18日ご逝去)、松田輝夫、折本章及び室謙司諸先生による編集委員会を結成し、3カ年にわたる鋭意ご尽力の結果この度の発行となった次第であります。編集に当たられた先生方に対し深甚なる敬意と感謝を捧げます。
 必ずや読者、研究者各位のご期待に添いうるものと確信いたします。いささかでも時務の要望に添い得ますれば望外の幸せに存ずる次第であります。
 
(財)松風会設立30周年記念
松陰殉節150年記念
 
  吉田松陰日録  
松陰
30年の生涯を通じて日々の錬成を明らかに
頒布価格 3,000、送本諸費実費 体裁 A5判 クラフトケース入り 本文344

 
 『吉田松陰日録』採録を終えて
 
 ここに吉田松陰在世の日々を、その『全集』から採録する作業を終え、これを『吉田松陰日録』として出版することになった。
 松陰の日録としては、すでに昭和18年に狩野鐘太郎氏によって、『吉田松陰全日録』(新興亜社)が出版されている。その出版の意図として、「松陰30年の生涯を通じて、日々の錬成を知りたかった」こと、及び今日まで松陰に関してこの種の出版がなされていないことの二つを挙げておられる。
 私たちの『日録』編集の意図もおよそ狩野氏のそれと同様だといえる。なお、私たちは、日録採録の作業を通じていくつかの感想を抱くことになったが、それらは、日録作業の意義を示しているものだと思われるので、ここで三つばかり紹介させていただこう。
 かつて思想史家藤田省三氏は、「松陰に主著はない。彼の生涯そのものが彼の唯一の主著そのものであった」と洞察されている。(日本思想大系『吉田松陰』解説、岩波書店)。この度の日録採録の作業は、藤田氏の右の洞察を共感をもって想起させることになったことが感想の一つである。
 教育学者の岩橋文吉氏は、「人はなぜ勉強するのか」という基本的な問いへの答えを、自らの内なる天性の声とともに、松陰の生涯の中に見出すことを勧められた。(『人はなぜ勉強するのか 千秋の人吉田松陰』、モラロジー研究所)。この勧めは松陰に学ぶ貴重な視点だと言えるが、その際、本書が役立てると思ったことが二つ目の感想である。
 「学問の大禁忌(だいきんき)は作輟(さくてつ)なり。或いは作()し或いは輟()むることありては遂に成就することなし」(『講孟余話』公孫丑(上)第二章)とは松陰の人生指針であった。松陰の日常をたどることによって、彼が指針を誠実に生きた証を身近にすることができたように思う。そして、彼が作輟なき日々を重ねたが故に、その最後のときにおいて、「義(ぎけい)卿三十、四時(しいじ)已に備(そな)はる、亦秀(ひい)で亦実る」(「留魂録」)と一種の満足感をもって自らの生涯を省みることができたのであろう。三つめの感想である。
 ここにおいて、本書は、いわば検索などに利用くださるだけでなく、読みものとしてもご高覧いただけたらとの願いを持つ次第である。そのため、最小限ながら簡単な説明などを施させてもらった。
 なお、日録の採録を可能に出来た最大の要因は、松陰が自作の詩文には、その多くに作成の日付を記していてくれたことである。多くの日記(日乗)類や書簡はもとより、著書、論文、その他の述作の多くに、執筆の日付が明記されているのである。加えて、実に精力的に「資料探訪」に努められ、さらに収集された全詩文を、ジャンル別、年代順に整理して『吉田松陰全集』を編()まれた編輯(へんしゅう)校訂委員の安藤紀一、広瀬豊、玖村敏雄の三先生の学恩にお礼申し上げさせていただく。また、「底本版」、「普及版」、「大衆版」と3回にわたって『吉田松陰全集』の編纂発行を実現された(財)山口県教育会の御貢献に対し深甚なる敬意と感謝のまことを捧げるものである。
 最後に、見落とし、誤り、その他のお気づきなどご教示をお願い申し上げる次第である。
編集委員
 河村太市(文責)
 石原啓司
  松田輝夫
  折本 章
  室 謙司
 
『吉田松陰日録』 凡  例
 
1 本日録は、昭和49年完結の『吉田松陰全集』(大和書房)を底本(以下底本 という)とし、不足の資料については、昭和11年完結の『吉田松陰全集』(岩波書店)を参照し、吉田松陰に係わる全ての事柄を年月日順にまとめた。
2 事柄毎に、その文末に出典を題目、巻数1巻〜10巻(@〜I)・別巻(別)、岩波書店版(定)を入れる。
   3 事柄の要旨、説明を( )で記した。
4 読み易くするために、旧漢字をできるだけ常用漢字に改めた。しかし、固有名詞、歴史用語又は特殊な用語などについては旧漢字も適宜使用した。
5 読み仮名は、主として底本及び平成八年(財)松風会発行の『脚注解説吉田松陰撰集』を用いた。
6 見出し、詩文題目など底本の引用文は原文のままの文体とし「 」符号で囲んだ。
   7 毎年の初めに、その年の主な事歴をカク内に示した。
8 年・月・日が分からない場合は「不詳」とし、原則として日が不詳の場合は、月末へ、月が不詳の場合は年末へ、文面から予想できる場合は「不詳」として、ふさわしい年・月の場所へ載せた。
 
『吉田松陰日録』目   次
 
刊行によせて
採録を終えて
凡  例
第1章 誕生・幼少時代
天保元年(1830)1歳
天保3年(1832)3歳
天保7年(1836)7歳
第2章 兵学修業
天保9年 (1838)9歳
天保11年(1840)11歳
天保14年(1843)14歳   
弘化2年(1845)16歳
 弘化3年(1846)17歳    
 弘化4年(1847)18歳
 嘉永元年(1848)19歳
   独立師範      
 嘉永2年(1849)20歳
   北浦海岸視察旅行
第3章 遊  歴
 嘉永3年(1850)21歳
   九州遊学      
 嘉永4年(1851)22歳
   第1回江戸遊学    
    東北遊(亡命) 
 嘉永5年(1852)23歳
嘉永6年(1853)24歳
    第2回江戸遊学 
   長崎紀行      
安政元年(1854)25歳
   下田踏海      
   江戸獄投獄     
   野山獄投獄     
第4章 野山獄・幽室
安政2年(1855)26歳
           
安政3年(1856)27歳           
第5章 松下村塾
安政4年(1857)28歳
   松下村塾      
第6章 野山獄再入獄
安政5年(1858)29歳
   野山再入獄     
第7章 殉  難
安政6年(1859)30歳
   東行・江戸獄処刑 
第8章 松陰殉難後
 万延元年(1860) 
 文久元年(1861) 
 文久2年(1862)
 文久3年(1863)  
 元治元年(1864) 
 慶応元年(1865)〜明治7年(1874)
 明治9年(1876)〜明治15年(1882)
 明治20年(1877)〜明治23年(1890)
 明治24年(1891)〜明治43年(1910)
 明治44年(1911)               
資  料
あとがき
事項索引
主要著述索引
語録・詩・歌索引
 
 
『吉田松陰日録』購入方法
 電話・FAX・メール・はがき等で、本の届け先(〒・住所・氏名)を松風会事務局へ連絡する。
 松風会ではそれを受けて送本する。本が届き次第、書籍代金(3,000円)・送本諸費(200円程度)を払い込む。(郵便局の払込票を利用または指定銀行口座へ振り込む)
(財)松風会事務局
753-0072 山口市大手町2-18
県教育会館内
Tel/Fax:083-922-1218
Mail:shohukai@gold.ocn.ne.jp

松陰研究グループ紹介
美祢松陰研究会その後の歩み   代表 岩野 和夫
 
 
1 発足と経過
 松陰教学の研究を目的に昭和53年美祢郡市の現職教員で発足したことは、先に「松門」第8号に紹介した通りである。
 30年間には曲折もあり課題もあるが、継続されていることに意義と誇りを感じている。
 
2 本会活動について
(1) 定例会
 毎年10回の定例会を開催する。
 参考資料は「吉田松陰撰集」を基本に各月の研究主題に基づき、輪読後、意見交換を交え感想を述べ合うことから、現在の教育に話題は拡がる。
 
5月 投夷書 〜下田踏海を決する〜
6月 二十一回猛士説 〜志を見守る家族〜
7月 士規七則 〜忘れられているものは〜
8月 現地研修 〜宮部鼎蔵生誕地を訪れる〜
9月 七生説 〜生きることの追求〜
10月 松下村塾記 〜進学塾と比較して〜
11月 諸生に示す 〜師道のあり方〜
12月 卓然自立の会
1月 吾れの尊攘・玉木叔父に上る
2月 留魂録 〜維新を見定めて〜
 
(2)「吉田松陰投宿之碑」建立
  平成8年5月4日、本研究会発足20周年記念活動とし、会員の総意に基づき、美祢市大嶺町四郎ヶ原に建立する。
 「西遊日記」にある如く、「萩を発し、明木より右折して馬関の道につく。絵堂・秋吉・岩永・河原を経て四郎ヶ原駅に宿す。」とあり、若い松陰が夢を抱き九州遊学のはじめての投宿の地であり、ここで夢見たものはその後の松陰を大きく育てたことに思いを寄せ、松陰と美祢の地の深い関わりを表すものとして「投宿の碑」を建立する。 
 
(3) 現地研修
 会発足以来、毎年松陰ゆかりの地、碑、遺跡を訪ね、その時その時の心の内外の想いを感じ、松陰を偲ぶ機会とした。
 萩には数多く足を運び、その都度、多くの方々から指導を受ける。最近は明倫小学校を訪ね「朗唱教育」について校長先生より指導も受けた。
 山陽道方面は、小瀬川・関戸、高森・呼坂・上関の歌・詩碑、花岡では本陣跡で「護送日記」を読ませて頂いた。
 本年度は松陰の生涯の友、宮部鼎蔵の生誕地熊本県御船町を訪ねる。等。
 
4) その他の活動
○ 会員による中学生を対象に意識調査と結果の発表。
○中学生によるテーマ学習への協力
 課題を「松陰の生きざま、松下村塾と門下生のその後」ということで1年間、調べ・読み・訪ねる課題追求の協力応援。
○市教委主催の「少年塾」での一単位講座を受け持ち、「松陰先生と美祢」の関わりについて講話と実地見学をする。
 
(5) 30周年記念公開講座開催
 平成18年11月26日、市民会館において開催する。
 主題 「松陰の生家杉家の人々」
 講師 松風会理事 松田輝夫先生
 目的は市民の皆さんに一人でも多く家庭教育、幼児教育、学校教育について教え合う一助とする。
 
3 おわりに
 長く続けることにより多くの課題が残る。
・人の意識の変化が急速にすすむことへの対応。
・意識を持ち続けながら、多くの人の声を聞き取り入れるための方法。
・自らが楽しむだけでよいか。等々。
美祢と松陰の関わりは深い。このことを考え、今後とも継続と発展に努力したい。
 
 
第7回松陰研修塾基礎コース講義要旨
「先師山鹿素行について」
                     (財)松風会理事 折本 章
はじめに
現代に生きる多くの人は、戦前の厳格な教育をすべて非となし、戦後の規律を伴わない自由な教育をとかく是としがちである。しかし、戦後の教育がいかなる人間を生み出したかを考え合わせれば、その評価は自明である。敗戦後の日本は、従来のよき伝統、美しさ、正義感、仁愛などの大切な精神が多く失われ、国民としての自信や自覚は地に落ちた。その結果、日本は低俗でだめな国だという自虐的な考えが広がり、人々は美しき伝統的な日本の心から離れていった。
今の世に松陰が姿を現したならば、どういう思いを投げ掛けるだろうか。国民全体に対しては「読書に励み、学問を積んで日本固有の美点・伝統を求得せよ」、政治家などに対しては「私利私欲を捨て、公のために尽くせ」と発破を掛けるであろう。つまり、「私を役して公に殉じよ」と迫ること必定である。
松陰が先師(せんし)と仰ぐ山鹿(やまが)素行(そこう)は、日本の伝統・文化、良さ・美しさ等を讃美し、その伝播(でんぱ)に努めた人物であり、松陰はその思想に感動し共鳴した。
戦後の教育は、自由の真の意味を履き違えて行われた。自由の段階には、勝手放題、つまり欲望の赴(おもむ)くままに行動する動物的自由、法の決まりのみに従う社会的自由、利心を薄くして理性に従う道徳的自由の三段階が考えられる。困っている人に愛の手を差し伸べるか否かは自由であるが、これを助けずにはおられない理性に従う行為こそ、道徳的自由である。
近頃、苛々(いらいら)していたから、気に食わないからといって、大切な人命を簡単に奪ったりする動物的自由が横行している。大恩ある父母を殺害する犯行も増えている。そして、思うようにならなければ、自力で解決しようとぜず、すべて他人の責任にしてしまう。気力、志、正義、耐性、責任感のない人間が続出している。義務や規律に目を向けず、個人の権利や自由ばかりが主張されてきた戦後教育の結果である。
昔は家族や地域の絆(きずな)が強く、子供はその絆の中で立派に育っていった。卑怯、挫折、不義、臆病な行為は、親の面汚(つらよご)しとか、お天道(てんとう)様が見ているとか、隣近所に顔向けができないとか言って、子供を叱咤(しった)し諭(さと)した。強い絆の中にあって、卑怯者、意気地なしなどと言われることは、心の琴線(きんせん)に強烈に響いた。ところが、今日の人間は「卑怯者」と叱咤されても、一向に内なる心に届かない。
昔は耐性が重視されてきた。伊藤(いとう)博文(ひろぶみ)が奉公先の主人の言い付けで他家に使いに行った帰り道、雪の舞う厳寒に防寒具も着けず、唇を紫にして寒さに震えながら実家に立ち寄った。ところが、母は主人の使いの途中に、私事で実家に立ち寄るとは何たる不始末かと、厳しく叱責して一歩も家に入れず追い返した。今の世であれば、直ぐに家に入れ、温かい食べ物を与え、暖を取らせることであろう。
大畠(柳井市)の僧月性(げっしょう)が「男児志を立てて郷関を出()ず 学若()し成る無くんば復還(またかえ)らず 骨を埋むる何ぞ期せん墳墓の地 人間到る処青山(せいざん)有り」と詠んだ出関の詩はあまりにも有名である。自分の志が達成できなければ、二度と故郷の地は踏まないという厳しい覚悟がにじみ出ている。松陰の東北遊歴のビデオ(青森朝日放送「道に歴史あり、吉田松陰の足跡とあおもり」青森県中泊町、柳沢良知氏寄贈)を見て、皆さんから松陰は積雪の山道を何時間もよく歩いたものだという感想が寄せられたが、昔の人の頑張(がんば)りや忍耐力は本当に素晴らしいものであった。
山縣半蔵(やまがたはんぞう)、高杉晋作、杉徳輔(とくすけ)などいろんな人物が、幕末に海外に渡っているが、彼らはいずれも幕府の役人に随行しての公然とした渡航であった。しかし、井上聞多(もんた)(井上馨)・伊藤利介(りすけ)(伊藤博文)などの長州ファイブは、幕府を無視した密航でり、表沙汰(おもてざた)になれば、重罰に処されることを覚悟しての渡欧であった。横浜を出航してロンドンに到着するまでに4ヵ月と11日を要している。盆から正月までに相当する長い期間を荒れ狂う小さな船の中かで過ごしたことになる。今日では想像もできない耐性の強さがうかがえる。
 
1 日本武士道とその品格
(1)戦国乱世の武士道
 乱世においては、武士は戦争の際、主君(しゅくん)を守り主君のために命を捨てることを眼目とした。大言(たいげん)壮語(そうご)して実行が伴わないことは最も嫌われ、戦場で功績を積むことが第一義とされた。不言実行が武士道の核心であった。従って、今日のように理屈を付けて道徳を教えることはなく、暗黙のうちに駄目なものはだめと自ずから体得した。
 戦場で手柄を立てた者は禄高を加増され優遇された。反対に何ら功績のない者は下層に甘んじ、陽()の目を見ることはなかった。つまり、功績が何より優先されたから、皆それを競って戦場に赴いた。戦争に敗れれば、家族、一族を路頭(ろとう)に迷わせる羽目に陥(おちい)る。こうした状況にあっては、生と死とは常に隣り合わせになっていた。
 君臣主従の間に醸(かも)し出された情誼(じょうぎ)、つまり主君はその家臣を愛護し、家臣はその主君を頼み、主君に仕えて身を以て主君を保護する君臣間の情誼こそ武士道の基礎であった。 日本には道徳の実行があって道徳の理論は発達しなかったが、中国では道徳の理論は発達したが道徳は実行されなかったと素行は言う。言挙げせぬことを尊んできた日本では古来から実行が重んじられたことがうなずける。この時代の武士道は実践道徳であって組織だった教義は未だ成立していなかった。
 恥を知る心、戦功を挙げん事を思う心、武勇や礼儀を尚ぶ心、犠牲的精神、生死の超越などが重んじられた。沈黙寡言(かげん)にして勇猛(ゆうもう)果断(かだん)であることが強く求められた。殺()らねば殺られる厳しい時代であったから、大敵を恐れず、小敵を侮らず、常に冷静で軽率な振る舞いがないよう心掛けていなければならなかった。
 
 (2)泰平な世の武士道
 徳川時代に入ると世は安泰となり、大きな戦争はなくなった。武士はその戦争を介在して生れたものであるから、武士としての任務もなくなった。しかし、いつ誰が謀反(むほん)を起こすか分からない。「治に居て乱を忘れず」の教訓もあるように、泰平な世においても、なお多くの武士を抱えていなければならなかった。家康にも苦心して得た平和も、いつ何時破れて再び戦乱の世に戻るか分からないという心配が心の隅にあった。
ここに武士としての新しい職分が求められなければならなくなってきた。耕さず、製造せず、商(あきな)わずして農工商の上に位置する、言わば遊民となった武士の職分が、三民に納得されるよう定められなければならなくなった。戦乱の世であれば命を懸けて戦い、これによって三民を護るという目に見える職分があった。従って三民も武士としての任務を認めない訳にはいかなかった。
ここに仁義の実践を眼目とする新しい武士道が生まれることになるが、これによって武士たる者は三民の尊敬を得ることが強く望まれることになった。ここに教義としての仁義的武士道が勃興することになる。この武士道は実践的な中世の武士道に儒教的精神を溶け込ませたものであった。武士道の鼎(かなえ)の三脚は「智、仁、勇」であり、これらの実践が強く求められた。
源氏を倒した平氏は、武人としての魂を失い公卿(くぎょう)化してしまった。このためたちまち源氏に政権を奪い返された。頼朝(よりとも)はその轍(てつ)を踏まないよう留意し、政権を握った後も武士としての本領を失わせないよう努めた。頼朝の政治を模範とし頼朝を深く崇拝していた家康も、武士らしさやその本領を失わせないよう心を砕いた。世に三河武士と賞賛されるに至った所以(ゆえん)であろう。
 
(3)武士としての品格
 鳥獣、草木、虫など万物は、精いっぱい努めて自らの食を求め、生き長らえている。武士がその職分を果たさないで生きるなら、武士は賊民であり生を偸(ぬす)む遊人と言わざる得ない。ここに武士の存在理由をはっきりさせる必要が生じてくる。武士は自らの職分を明らかにしようと努め、その職分を究明することによって、はじめて武士らしく胸を張って生きることができる。
 徳川幕府は武士に対して、他の階級においては見られない特別の修養を要求した。それは文武、忠孝に励み、仁義、悌、信、勇などを実践して三民を護り、三民の模範となって尊敬を得ることであった。文や武に偏らず、文に励み武に励み、文武両道に秀でることが求められた。
 素行は『聖教(せいきょう)要録(ようろく)』を著(あらわ)して幕府の怒りに触れ、赤穂(あこう)へ謫流(たくりゅう)される際に、「書き残しておくことはないか」と尋ねられたが、「外出時は何時も身辺整理をしているので、今更なにも心残りない」ときっぱりと答えた。松陰はこの武士としての潔さ、覚悟、品格に深く感動した。先師と仰いだ所以である。
 「花は桜、人は武士」〜僅か3、4日、華麗に咲いて潔く散っていく桜花に人生を投影し、他の花とは格別の美しさや品性を見いだしている。死を嫌い恐れるかのように未練がましく茎にしがみ付いたまま、色あせ枯れていく薔薇(ばら)、しかも刺を含んでいる薔薇などとは比べ物にならない。潔さ、惑わぬ覚悟なども武士の品格である。
 
2 山鹿素行略伝
1622年(元和8、1歳)8月16日、会津若松に生まれる。3代将軍家光(いえみつ)就任。
1630年(寛永8、9歳)林羅山(らざん)(朱子学権威)に入門。この年までに四書・五経・詩文を読み覚える。これにも松陰は感心している。
1632年(寛永9、11歳)松江城主二百石で召抱えたいとの申入れを父が断わる。
1636年(寛永13、15歳)北条氏長の門に入り甲州流兵学を修める。
1652年(承応2 32歳)12月浅野長直に仕え、翌年播州赤穂へ向けて江戸を発つ。
1656年(明暦2 35歳)『武教(ぶきょう)小学(しょうがく)』『武教全書』を著す。
1659年(万治2 38歳)落馬して負傷。大石良雄生まれる。
1660年(万治3 39歳)浅野家を辞任。初めて津軽信政邸を訪れる。
1665年(寛文5 44歳)父貞以病没。『山鹿語類(やまがごるい)』『聖教要録』を著す。
1666年(寛文6 45歳)大目付北条氏長の呼出しを受けて赤穂へ謫流され、浅野長直に預けられる。
1669年(寛文9 48歳)『中朝(ちゅうちょう)事実(じじつ)』を著す。後に乃木(のぎ)希典(まれすけ)これに感動し、筆写して皇太子に奉上した。
1675年(延宝3 54歳)赦免(しゃめん)され赤穂を出発、8月江戸着。赦免後は経芸を廃業し、時流と合わないため、処士(在野の士)を集めることを禁じられる。『配所(はいしょ)残筆(ざんぴつ)』を著す。
1685年(貞亨2 64歳)将軍家侍医の治療を受けるが、その効能もなく9月26日積徳堂(せきとくどう)に没す。
1702年(元禄15 没後17年)赤穂47士吉良邸に打ち入る。
 
3 素行の著書
(1) 聖教要録(1665年、45歳)
 朱子学の泰斗(たいと)・林羅山に師事して朱子(しゅし)学を学んでいたが、朱子学が徒(いたずら)に高遠な理論を弄(もてあそ)ぶだけで、実際社会に及ぼす効果に疑問を抱き始めた。そこで、後世になって説かれた教説を一切捨て、周(しゅう)(こう)・孔子(こうし)など上古聖人の教えに立ち返り、その真精神を明らかにしようとした。つまり、周公・孔子を師とし、漢・唐・宋・明の諸儒を師としない決心をした。学は聖教を志して異端を志さずとして聖教を追究した。かくして聖教要録を著したのである。
 門人たちは幕府の激怒に触れることを憂慮して、この書を秘して公にしないよう言上したが、素行は「秘するに足らず、道は天下の道、秘してこれを蔵すべからず。天下に公然と示して万世に行わしむべし」と説いて堂々と出版した。革新と復古とは一見反対で矛盾しているようだが、革新は復古を目指すことが多い。年月の経過と共に、次第に異端に流れていった思想を元の正道に引き戻すという行為が革新の形となって現れる。こうした事は今日の社会でもくり返されている。
 幕府が名教の基礎としていた官学・朱子学を世に役するところがないとまで言い切ったのであるから、幕府の立場も丸つぶれである。学問の師であり、大目付であった北条(ほうじょう)安房守(あわのかみ)に呼び出され「要()らざる書物を作り候故、浅野内(あさの)匠頭(たくみのかみ)の所へ御預けなられ候。これより直ちに彼の地へ参るべし」と言い渡された。
門人の奪回に配慮して、厳重な警護の下に赤穂へ送られた。死罪を予測し公儀宛遺書を懐に忍ばせていた。それには「我を罰する者は、周孔の道を罰するなり。我は罰すべくして、道は罰すべからず。心底(しんてい)これにて動き申し候事は聊(いささ)かもこれなく候」と毅然とした覚悟の程を示している。こうした事態において、謫流という軽い罪で済んだのは、諸藩主や幕府要人に門人や理解者が多く、うまく取り成してくれたからだという。
 
(2)中朝事実(1663年 48歳
当時、支那を中華・中国と称え、自国を東夷(昔、中国人が東方の異民族を軽蔑して呼んだ蔑語)として卑しむ風潮があった。日本固有の文化や伝統を蔑み、日本には元来道徳なるものはなく、禽獣(きんじゅう)と等しい生活を営んでいたが、支那から聖人の道を学んで初めて人間らしい生活をするようになったと思い込んでいた。つまり、外を尊び内を卑しむ「尊外卑内」の思想が大勢を占めていた。
日本は小さい島国である故、大国支那には何事も及ばず、聖人も異朝から出ると卑屈(ひくつ)に陥っていた。また、日本のように血統を以て皇位が定まるのは野蛮な国であるとし、支那の禅譲(ぜんじょう)放伐(ほうばつ)(天子が徳の高い人に位を譲ったり、徳の低い天子を辞めさせ討つこと)を是認した。皇位の万世(ばんせい)一系(いっけい)と相反する考えである。
こうした風潮の中で、素行は日本こそ中華であると主張して憚(はばか)らなかった。尊貴なる日本古来の精神を堅持しつつ、儒教の中の採るべきを探り、捨てるべきを捨てて、我が国民道徳発達の栄養素たらしめ、我が国体の尊厳をより明確にした。儒教の中核的部分である禅譲放伐や民主的な部分は、封建的な日本の国体と相容れない故、これらは除外して儒教を武士道に同化した。
素行は本著で「夫()れ中国(日本)の水土は万邦に卓爾(たくじ)(高く優れる)として、人物は八紘(はっこう)(天下)に精秀たり」と述べているが、本書の核心は「本朝(日本)が中国であり、中華こそ日本である」という日本の真価を知らしめる処にある。つまり、内外尊卑の弁えを顛倒(てんとう)した卑屈な思想を正道に戻そうとした。
日本は何千年も天皇の家系が変わっていない万世一系の国である。国家は一家の如く敵対し合うこともなく、国民が仲良く暮らしている。しかし、異国においては争いが絶えず、天子は変わりつめた。日本においては考えられない天子の放伐(ほうばつ)も、外国では何度も行われてきた。学者の多くが自国の尊厳に目を向けず、盲目的に外国を尊ぶ誤謬(ごびゅう)に陥っていることを憂え、放心を取り戻そうとした。
学んだことをよく消化し同化する者は、これを駆使して自国の美点を自覚する。このような精神に則って中朝事実を著し、我が国体の尊厳を明らかにした。素行は儒教の精神をよく消化し、これを日本化して駆使することができた。しかし、どうしても日本の精神と馴染まない要素は、これを葬り捨てた。
 
(3)配所残筆(1675年 54歳)
 浅野家にお預けになってから10年目の延宝3年の著作で、弟の山鹿兵馬と娘婿山鹿興信に宛てた遺書の形で書かれている。思想的自叙伝として高く評価され、思想の変遷を分かり易く述べている。素行も最初は一般の学者と同じく、異朝に憧れ異朝のことばかり学んでいた。本書にはそのことが次のように述べられている。
 「10年前までに輸入された書物ならばほとんど一読した。そのため知らず知らずの内に、異朝の事を万事良いと思うようになり、我国は小国で何事に付け異朝に及ばず、それ故にこそ聖人も異朝に現れると思っていた。近頃になって初めてこの考えが誤りであると思うようになった。身近な所を軽んじて、遠い所のものを尊ぶというのは学者の通弊。神代から今日まで、その正しい血統は一代も違った事がなく万世一系である。天子の徳が高く、世を乱して天子に背く不義不道の者がいなかったからである」
 かつては支那を中華として、その文明に心酔していた素行は『実は自国こそが中国であると自覚するに至ったこと、朱子学に対して批判的見解を抱くようになっていった経緯、そのため赤穂に謫流されたこと、「日本主義」的傾向とは「天皇中心主義」であること』などと書き残している。
 
4 素行と松陰
(1)平戸の山鹿萬介と津軽の山鹿素水
山鹿家の祖先は東肥山鹿の居住者で、その地名を採って山鹿姓とした。素行自身は会津に住んでいたが、その子孫が肥前の松浦家、伊勢の藤堂家、津軽家に分かれた。正統は素水(そすい)で、萬介は弟の流れとされている?。諸藩は高禄を以て素行を召抱えようとしたが、素行は応じず、平戸藩は素行の実弟を高禄で迎え重用した。初めて平戸に往ったのは三代目の高道であったが、それは素行没後60年を経過してからであった。
実際に栄えたのは平戸の山鹿家であり、松陰は家学・山鹿流を嫡流(ちゃくりゅう)から直接に学ぶため平戸に遊学した。しかし、実際には陽明学者・葉山(はやま)左内(さない)から学ぶことが多かった。松陰の遺著にも、萬介や素水についての記述はあまり見られない。特に素水については、酷評した部分さえある。その点、左内についての記述はかなりあり、それも高く評価したものが多い。積徳堂という命名は、明の帰化人の筆による「積徳堂」という額を家塾の号として三千の子弟を養成したことに由来する。
 
(2)先師と仰いだ要諦(ようてい)
 松陰が素行を先師と仰いだのは何故か。素行の名は義矩、松陰の字は義()(けい)、名は矩方(のりかた)。いずれも素行の名の一字が用いられている。果たして意図性もあってのことであろうか。もっとも、吉田家の先祖は、初代重矩から第六代矩達まですべて「矩」の一字を用いているから、これを踏襲したものであろう。
 武教全書講録の巻頭にある『開講主意』には「先師曽(かつ)て北条安房守の宅に召し出され、赤穂謫居の命を承けられたる時の事を見ても、先師平日の覚悟筋を知るべし。又赤穂の遺臣亡君の仇を復したる始末の処置を見ても、大石良雄が先師に学び得たる所知るべし」と記されており、如何に素行を崇拝していたかがうかがえる。
 この他、先師として素行を崇拝した記述は随所に見られる。例えば「万世の俗儒が「尊外卑内」の思想に陥った時代に、独り卓然(たくぜん)として異説を排し、上古神聖の正道を究め、中朝事実を選ばれたる深意を考えて知るべし、吾れ願はくは闔族(一族全部)相謀(あいはか)り、志を励まし、先師の行実に負くことなからんことを欲す・・・・」など。
 素行は9歳にして四書・五経・詩文を覚え、同僚の中で彼の上に出る者はいなかった。未だ30歳ならずして名声赫々(かっかく)(光り輝く)、将軍家光も彼を配下に加えようとした程の英才であった。こうした学問の深さにも感服したと思われる。また、久保清(せい)太郎(たろう)には「僕も武教全書を研究する事数十年、全書の意味少しは会得(えとく)(つかまつ)り居り候」と書き送っている。以上からも、松陰が生涯にわたって素行を先師と仰いだことが推察できる。
 
(3)相反する師弟
 浅野侯は「貴公の賢を以てせば諸侯必ず招致するものあらん。苟(いやしく)も万石に足らざれば即ちその招聘(しょうへい)に応ずるなかれ」と告げているが、素行の気持ちを代弁したように思われる。実際、素行は松江、紀州、加賀などからの召抱(めしかか)えを知行不足を理由に辞退している。松陰は禄高の高低など主君に仕える要件ではないと考えていたから、禄高に拘(こだわ)る素行には尊敬の念は湧かなかったはずである。
 また、「保元平治の末より朝廷の政(まつりごと)衰え、武家これを補佐し、遂に武臣の威天下を平治せしむ。これより朝廷日に衰え、武家の政道日に新なり。朝廷朝廷の道を失いて、名は王者にして実は王道を失いて、武家頗(すこぶ)る王道を得ればなり。天下は有道に帰して無道に帰せず。水の低きに流れるに同じ。何ぞ専(もっぱ)ら古に反らんことを願うや。天の与するところ、武家にあって公家に非ず」は素行の考えである。
 さらに、松陰が最も崇拝した尊王家・楠木(くすのき)正成(まさしげ)についても、既成秩序を無視して向こう見ずな尊皇討幕論は認められないと批判的である。皇室を崇拝し、諫言(かんげん)を根底に置く松陰が激しく反駁(はんばく)したい所であり、絶対に容認できない所である。しかし、これらについての反論はその遺著には見られない。

 素行は「天下を治める道の要は規則を立てること」とも残し、規則を厳重にして、人間を鋳型にはめ込んで育てようとしている。松陰はむしろ規則をできるだけふるい落とし、指導者の徳や集団の和みでもって教化しようとする。師弟や同志の気持ちが通じ合うことが、人間教育にとって最も重要だと主張する。松下村塾にも規則が設けられた跡はあるが、塾生はそんなものは見たこともないし、知りもしないと述懐している。規則は有名無実であったようだ。

 孔孟も控え目に論じている利欲利心を積極的に肯定し、「先儒無欲を以てこれを論ず。それ誤謬の甚だしきなり。人欲を去る者は人に非ず、瓦石に同じ。人欲は善行の基礎。排すべきは欲ではなく欲の「惑い」である。この利心あるより聖人に至るべし。利を本とする故、この道立ちて行われ、君君たり、臣臣たり。この利心失却せば、君臣上下道立たず」と利を奨励すらしている。
 利を君臣結合の本とする素行と父子の情を君臣結合の本とする松陰とは、これまた相容れないはず。凡そ人の人たる所以は私心を除去するにあり。これ聖学の工夫なり。寡欲、薄欲などは松陰が最も重んじた所である。この利欲という面においても両雄は相容れない。一方では先師と崇拝しながらも、他方では敵対関係にあり、全く対照的な師弟とも見られる。
 
5 後世に及ぼした影響
 後に凡士が兵学の道場を開くに当り、素行の門人であったと偽って看板に誇大表示したり、素行の著述と称する偽書が多く出回ったという。儒教精神と日本的精神を融合させて武士道教義を打ち樹ててから後、武士道論がにわかに盛んになり、多くの兵学書は素行の武士道論を下敷きにしている。

しかし、素行自身は朱子学を以て幕府に仕える林家の怒りに触れ、林羅山の門人録から抹消された。このため、朱子学者としての素行の門流はほとんど消えている。また、罪を得て赤穂に流されたため、赦免後も自論を説くことを許されず、素行の流れは一代を以て絶えた形となった。
 だが、その精神や思想が後世に及ぼした影響は実に大きい。後人は素行の書に親しみ、知らず知らずの内にその薫陶(くんとう)を受けた。特に武教全書は、素行没後において、山鹿流兵学の教科書として広く全国に普及し、長きにわたって使用されてきた。不朽の名著であったことがうかがえる。松陰は赤穂浪士への影響も大きかったと見ているが、これには否定的立場を採る識者もいる。
素行の思想から推察すると、討ち入りを称賛(しょうさん)するとは考え難い。「君の讐(あだ)を報ずる事、これ勇士の節に死するの大義なり」としているが、同時に「但し君の仇といふも仔細あるべし。その君無道にして、天子命じて罰せられなんば、仇を報ゆるの義あるべからざるなり」と条件を付けている。素行は「士は己を知る者の為に死すと、(浅野)公は臣の愚を以てせず、臣を待つに国士を以てす、宜(よろ)しく一死以て報ずべし、尚ほ公の諸臣万一緩急あらば、豈()に償(つぐな)う所なからんや」と浅野公に語っているが、如何にも家臣の討ち入りを予測していたかのようである。
 松陰が先師と仰いで多大な影響を受けたことは既に述べた通りであるが、松陰を不面の士として仰いだ乃木希典にも大きく深い影響を及ぼした。乃木は殉死を覚悟した際、素行の名著『中朝事実』を書き写し、大事な部分に傍線を入れて皇太子に奉呈している。素行が幕府の罪を得ることなく、順調にその思想を説き進めていたならば、その名は世に広く現れ、入門者も膨大な数に上ったことであろう。
 
18年度購入図書
『萩沖の魚たち』中澤さかな・堀成夫著、萩ものがたり法人
『吉田松陰と現代』加藤周一著、萩ものがたり法人
『吉田松陰』玖村敏雄著、マツの書店
『勤皇志士遺墨鑑定秘録』高橋角太郎著、マツノ書店
『周布政之助伝上』周布公平監修、東京大学出版会発行
『周布政之助伝下』周布公平監修、東京大学出版会発行
『ルーズリーフことばの百科事典』言語情報センター編集、ぎょうせい発行
『ことばの知恵・知識事典』現代ことば研究会編集、ぎょうせい発行
『事件できごとクロニカル』国際ジャーナリスト会議、ぎょうせい発行
『萩ものがたり、萩の史碑』一坂太郎著、萩ものがたり法人
『萩ものがたり、山田顕義』秋山香乃著、萩ものがたり法人
『山口県教育関係法令要覧』山口県教育庁教育政策課監修、ぎょうせい発行
『吉田松陰』岡田岩吉著、山水会発行
『現代語訳 松陰・象山名著集』上村勝弥編集、先進社発行(昭和7年発行)
18年度寄贈図書
『山口県文書館蔵吉田松陰関係資料』3冊山口県文書館編集、山口県発行(山口県から)
『和して同ぜぬ坂本龍馬の魅力に迫る』折本章著、KKエポ印刷(著者折本章氏から)
『日韓比較尊皇攘夷思想研究』桐原健真著、(著者桐原健真氏から)
『書評〔川口洗編著日本の経済思想世界〕』桐原健真著、日本経済評論社発行(著者から)
『ペリーと下田開港』森義男著、下田史談会発行(周南市小柳生坤氏から)
『黒船』石井直樹編集、サン印刷出版室発行(周南市小柳生坤氏から)
『吉田松陰の思想と生涯』玖村敏雄著、山口銀行経営管理部発行(山口銀行から)
『吉田松陰一日一言』川口雅昭編、致知出版社(山口県教職員団体連合会)
『山口県史、資料編、考古1、原始』『山口県史、資料編、考古2、古代以降』『山口県史、史料編、古代、古代史料』『山口県史、史料編、中世1、記録』『山口県史、史料編、中世2、県内文書1』『山口県史、史料編、中世3、県内文書2』『山口県史、史料編、近世1、政治1』『山口県史、史料編、近世2、政治2』『山口県史、史料編、近世3、経済1』『山口県史、史料編、幕末維新1、政治・社会1』『山口県史、史料編、幕末維新2、政治・社会2』『山口県史、史料編、幕末維新3、政治・社会3』『山口県史、史料編、幕末維新6、軍事・諸隊』『山口県史、史料編、近代1、政治・社会・文化1』『山口県史、史料編、近代4、産業・経済1』『山口県史、史料編、現代1、県民の証言・体験手記編』『山口県史、史料編、現代2、県民の証言・聞き取り編』『山口県史、史料編、現代3、言論・文化プランゲ文庫』『山口県史、資料編、民俗1、民俗誌再考』『山口県史、資料編、民俗2、くらしと環境』山口県編集・発行 全20巻(山口市、大田恭次氏)
 
18年度寄贈ビデオ・DVD
『検証、北朝鮮工作船』東京財団 (周南市 小柳坤氏)
『サムライたちの小笠原諸島』東京財団 (周南市 小柳坤氏)
『松陰、ペリー暗殺を謀る』東京財団 (周南市 小柳坤氏)
『松陰の道』(全3巻)青森朝日放送局制作 (青森県中泊町 柳沢良知氏)
 
19年度購入図書
『萩ものがたり 井上剣花坊』井上剣花坊顕彰会編集、萩ものがたり事務局発行
『萩ものがたり 高島北海』高樹のぶ子著、萩ものがたり事務局発行
『吉田松陰の予言』浜崎惟著 Book and Books株式会社発行
『長崎街道2,肥前佐賀路』図書出版のぶ工房編集 遠藤順子発行
『歴史人物なぜなぜ事典 吉田松陰・井伊直弼・ペリー・ハリス』ぎょうせい
『歴史人物なぜなぜ事典 高杉晋作・坂本竜馬・勝海舟』ぎょうせい
 
19年度寄贈図書
『抄録輯、留魂の思想第一輯』櫻井健一著・発行、(福岡県、櫻井健一氏)
『復古記』東京大学史料編纂所、マツの書店復刻、全15巻(山口市、大田恭次氏)
『教育学大全集』第一法規発刊、全35巻(秋芳町、室謙司氏)
『高杉晋作』海原徹著、ミネルヴァ書房、(著者 海原徹氏)
   
 
 
 
 
     財団法人松風会役職員               
   役 職 名    氏  名  
   理 事 長   松 永 祥 甫  

常務理事(事務局長)
 
室   謙 司

 

 
   理   事   大 田 恭 次  
   理   事   岩 本   肇  
   理   事   河 村 太 市  
   理   事   濱 本 研 一  
   理   事   吉 村 洋 輔  
   理   事   岡 本 早智子  
   理   事   藤 永 寿 敏  
   理   事   松 田 輝 夫  
   理   事   折 本   章  
   監   事   西 本 正 彦  
   監   事   加 藤 紀 之  
 
 
(財)松風会の研修関係
  1 松陰研修塾基礎コース2年次3回目
      10月20日(土)21日(日)
   松陰の足跡を訪ねて、長崎街道・平戸街道・平戸市巡検

2 松陰先生に親しむ会(松陰教学研究会)
  12月8日(土)9:00〜16:00
      岩国市民会館
   内容「武士道に則った松下村塾の教育」「吉田松陰の生家」「吉田松陰の詩文」「吉田松陰の人間観」
  3 松陰研修塾基礎コース2年次4回目
      平成20年1月26日(土)9:30〜16:00
      山口県教育会館(山口市大手町2-18)
   内容「松陰の志を受け継いだ人たち」「松陰の死生観」「留魂録」
※何時でも受け付けます。ご連絡を
  経費 不要