松門35号 平成18年(2006)6月20日

  
目  次

「志」に生きようー若人たちと萩を歩く
ー 福山市 伊藤正明

第21回国民文化祭やまぐち2006全国吟詠剣詩舞道祭 山口県企画構成吟 
至誠憂国の旅人 吉田松陰 作成 荒巻大拙

松陰遺墨展示館閉館

吉田松陰生誕地整備

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第7回松陰研修塾基礎コース開催要項(案内)


松風会役員

 
「志」に生きよう―若人たちと萩を歩く―
          福山市   伊 藤 正 明

 昨年の春、私は中高生たちと共に、山口県・萩を訪れました。そこで吉田松陰の史跡を巡りつつ、
 「志に生きるとは、どういうことだと思う?」と若人たちに問いかけてみました。 
「志ってよく使われる言葉だけど、改めて聞かれると、簡単には答えられないなぁ…」
 
「ボクはサッカーが得意なので、サッカー選手として活躍したいです」
「私は願っていた高校に合格できて、将来やりたい仕事があります。それは志と違うんでしょうか?」
 最初は戸惑っていたようすの若人たちの中から、少しづつ声が出てきました。
 しかし、吉田松陰の生き方を学んでいくうちに、
「志は、人生の夢や目標、職業の選択などと似ているけれども、どこか違う」――そのことに気がついたようでした。そして、史跡巡りをした夜に、「もっと志について話してほしい」と集まってきました。
 
  すべての源なる志
 松陰は志について度々述べていますが、死の十ヶ月前に書かれた詩に、次のような一節があります。
 
 吾人報国の志、
 満世の人知らず。
 則ち人知らずと雖(いえど)も、蒼天(そうてん)まさにこれを憐まんとす。
 直だ区々の身をもって、
 去って神州の基を築かん。
 人事通塞(つうそく)あり、 
 天道豈(あ)に敢(あ)へて疑はんや。
 
 (大意…我々の報国の志を 世の人々は知らないけれど も、天はこれを憐んで見て いてくださる。ただこの小 さき身をもって戦い、直ち に神国日本の基を築きたい。 人の為すことはうまくいっ たり、いかなかったりする が、私は決して天道を疑っ たりはしない)
 この報国の志のゆえに、松陰は自由の身の時は国禁を犯してでも海外渡航に挑み、失敗して囚れの身となっては、その獄舎が「福堂(幸いな家)」と呼ばれるほどに囚人たちを感化する働きをしました。
 そこに貫かれているのは、自分が成功するための夢や野心などとは全く別次元の、日本の救いのために生き抜こうとする精神でした。
 これを松陰は志と呼び、若者に対しては「志を立てて以て万事の源と為すのだ」と言って励ましています。
 
 利己的な時代の中で
 しかし今の学校教育では、社会のために、あるいは民族のために生きるといったような志とは全く逆の、利己主義を助長することばかりが教えられています。松陰とのギャップは実に大きいです。
たとえば、最近の「中学・公民」の教科書には、次のような一文が載っていて、私は驚きました。
 「遊び、遊ぶ、遊べ、遊ん じゃえ! 勉強や仕事のあ いまにだって、休みは必要 だ。そしてヒマな時間もね。そういうときは、…好きな ようにしていいんだ。ぼく らがそうやっていろんなこ とをするために、国はそれ を大事にして、応援してほ しい――」。
 こんなことを教えられて、本気で生きる元気が湧くでしょうか。
 今の若者たちの間に広がる虚無感と、働く意思もなく学校にも行かない若者たちの増加は、まさに志を見失った時代の反映そのものです。
 人が真に生きる喜びや情熱を見出すのは、自分の存在が周囲の人々や社会にとって意味があることを発見する時です。大きな使命に身を捧げてこそ、力も湧いてきます。
 吉田松陰の弟子たちは、みな片田舎に住む若者でした。しかし、松陰が一人ひとりに志を問いつつ弟子教育をした時に、大きな目的のために命をかける一群が生まれ、明治維新の大業が成りました。
 彼らが師から受け継いだのは、知識ではなく熱い志でした。これこそが若者たちの人生を意義あるものとし、ひいては国家の救いとなったものでした。
 萩で若人たちと語り合いつつ、私は思いました。自分の好き勝手が横行する最近の社会思潮の中で、今ほど真の志を問い、それに生きる若者が出ることが求められている時代はない、と。
 
  若人の便り
 その後、中高生たちから多くの便りが届きました。
「萩で心に残ったのは、何のために勉強するかということです。ボクは『私』、松陰先生は『公』のために勉強していて、志が全然違うことに驚きました。ボクも日本のために勉強しようと思ったら、力が湧いて真剣に勉強できるようになりました」
「松陰先生の母、お滝さんは、とてもユーモアのある人で、貧しい中にも毎日お風呂をたいて家の中を明るくしました。そんなお母さんの働きがあったからこそ、松陰先生は素晴らしい人物になったことを知りました。こうして家族を守ることが日本を守ることになると思ったら、女の私にも重要な役割があると強く感じて、元気が湧きました」といった便りです。
 
 吉田松陰を見ると、失敗や挫折の多い生涯でした。しかし、どんな状況下においても、彼は日本を愛する志をもって周囲の人々を励ましつづけました。そこから明治という輝かしい時代が拓かれていきました。
 そう思うと、萩で松陰に心を動かされた若人たちの存在は希望です。いよいよ多くの若者たちが「志」に目覚め、たとえ大業ということではなくとも、置かれた社会の隅々でその志に生き、光を放っていくことが願われてなりません。
(「生命之光」643号より転載)

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  松陰遺墨展示館閉館

 
昭和34年の開館以来46年間、吉田松陰先生の精神普及の拠点として親しまれてきた松陰遺墨展示館は、平成18年1月13日を最後に閉館した。 
 今後は新たに松陰神社境内に新設される記念館に展示される予定である。
 松陰遺墨展示館は、松陰先生が江戸伝馬町の獄舎で亡くなった1859年(安政6年)から100年目に当たる1959年(昭和34年)に、松陰百年祭記念事業として松陰神社内に設立された。
 展示物は、山口県文書館からの借用文書、玉木家、上田家、松陰神社の文書で松陰先生の人間像を偲ぶことができる貴重な施設であった。
 入館者数は、昭和50年前後は年間10万人、近年は約1万5000人程度であり、総入館者数は約186万人である。(萩市報1月1日、20号から)



 
吉田松陰生誕地広場の整備完了
 萩市では、「萩まちじゅう博物館構想」を推進する拠点整備の一つとして、国の「まちづくり交付金事業」で広場の整備をされた。
 旧宅基礎縁石の据え直し、説明板設置、電線の地中化、遊歩道の整備などが行われた。(萩市報、5月1日、28号から)
 



松風会役職員一覧
役職名   氏  名
理事長    松永 祥甫
常務理事   室  謙司
理  事   二木 秀夫
理  事   大田 恭次
理  事   岩本  肇
理  事   河村 太市
理  事   石原 啓司
理  事   濱本 研一
理  事   吉村 洋輔
理  事   岡本早智子
理  事   藤永 寿敏
理  事   松田 輝夫
監  事   原田 寿男
監  事   西本 正彦
事務局    室  謙司

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21回国民文化祭やまぐち2006
全国吟詠剣詩舞道祭 山口県企画 構成吟
至誠憂国の旅人 吉田松陰
             作成  荒巻 大拙
初演 11月5日(日)、山口市民会館

 
この度、第21回国民文化祭やまぐち2006,全国吟詠剣詩舞道祭に「吉田松陰」の構成吟作成を依頼されました。
 松陰先生との大きな出会いはこれで3回目になります。
 1回目は『吉田松陰全集』(山口県教育会・大和書房)の頭注作業に参加したとき、2回目は『脚注解説吉田松陰撰集』(財団法人松風会)の脚注作業に従事したときです。
 これらを通じて、幕末、欧米列強による日本侵略の危機に、生命がけで至誠をつらぬき愚直なまでに実践した松陰先生の純真さに触れることができました。
 戦前の神格化された松陰像ではなく、詩文の一言一句から、父母への孝、朋友への信、藩主への忠を超え、諸藩に分裂した日本の統一を念じ、矛盾に満ちた幕末日本から脱却して、外国の事情を探って国力をつけ、対等平和外交を念願した人間松陰先生の真心を山口の地から高らかに吟じかつご鑑賞ください。
 当「松門」では、ナレーション部分を省き、詩・歌・句、その訳意のみ紹介します。
 
 松陰は家族や門弟達に大切に育まれ、平穏な十代を過ごしていた。17歳の詩。(「未忍焚稿」から)
春雨を聴く    吉田松陰
四檐(しえん)の雨声 転(うた)た寒を作し
小楼に枯座(こざ)して 書を発(ひら)いて看(み)る
初めて覚ゆ 春に入りて?(ひあし)方(まさ)に永く
一巻の兵韜(へいとう) 読んで残(あま)し易きを
〈詩 意〉
 屋根の四方のひさしの雨だれにいささか寒さを覚え、小部屋ひとりしずかに座って書物を開いて読む。
 今初めて気づくのだ。春になって日脚(ひあし)がのび、一巻の兵書を読んでも(眠気を催し)あまりはかどらないことを。
 
 嘉永3年(1850)8月21歳の松陰は、平戸へ遊学した。(「西遊日記」から)
葉山邸にて兵を談ず     吉田松陰
経(けい)を説き 史を論じ また兵を談ず
着実の工夫 細評を得たり
侍座(じざ) 端(はし)なくも閑話(かんわ)久しく
月輪(げつ)来たり照らす 此の心の明
〈詩 意〉
 儒学・史論・兵学を論じたところ、(葉山先生から)着実で工夫がよくこらしてあるとの批評をいただいた。
 お側近くでもあり、そわそわしたが、ゆっくりお話ができた。
 折から月輪が昇り、私の心を清らかに照らしてくれる。
 
 嘉永4年(1851)藩主毛利敬親(たかちか)の参勤に随行して江戸へ赴く途中、湊川の楠正成の墓に詣でた。(「東遊日記」から)
楠公墓前の作      吉田松陰
道の為義の為 豈(あ)に名を計らんや
誓ってこの賊と 生を共にせず
嗚呼(ああ) 忠臣楠氏の墓
吾且(しばら)く躊躇(ちゅうちょ)して 行くに偲(しの)びず
湊川(みなとがわ)の一死 魚 水を失のう
長城(ちょうじょう) 已(すで)に懐(やぶ)れて 事去りぬ
人間(じんかん)の生死 何ぞ言うに足らん
頑(がん)を廉(れん)にし懦(だ)を立ためして 公は死せず 
〈詩 意〉
 人として守るべき道義の為に身を尽くすのみ。
 どうして名誉など顧みようか。この賊(南朝に叛いた足利尊氏)とは決して生を共にすまいと固く誓う。
 ああ、忠臣楠氏(楠正成)の墓よ。
 私は暫く躊躇して墓前から離れることができない。
 楠公が湊川で討死したのは魚が水を失ったも同じ。
 万里の長城が破壊されたー外敵から国を死守してくれた南朝宋の勇将壇道済(だんどうさい)が卒去したーからにはもはやどうしようもない。
 この世の生死など問題にする必要はない。
 心が清く正しい男を意志の強い人物に、気弱で優しい男を志の高い人物に育て上げた楠公の精神は永遠に生き続けるのだ。
 
 松陰は、熊本藩士宮部鼎蔵(みやべていぞう)、南部藩医の子江?五郎(えばたごろう)と東北旅行を企てた。友人宮部鼎蔵と共に白河の関を越え、会津若松から再び水戸城下を経て、北茨城、磯原(いそはら)の野口家に投宿する。(「東北遊日記」から)
磯原客舎(かくしゃ)(北茨城市海岸)      吉田松陰
海楼酒を把(と)って、長風に対し
顔紅(くれない)に耳熱く 睡眠濃(こまや)かなり
忽(たちま)ち見る 万里雲濤(うんとう)の外(そと)
巨鼈(きょべつ)海を蔽うて 艨艟(もうどう)来たる
我吾が軍を提(ひっさ)げ来たり ここに陣し
貔貅(ひきゅう)百万 髪上(はつじょう)衝(しょう)す
夢断え酒解け 灯も亦た滅(き)え
濤声(とうせい)枕を撼(うご)かして 夜鼕々(とうとう) 
〈詩 意〉
 海辺の旅館の高殿で酒杯を手にして沖からの風に吹かれていると、顔や耳は赤くほてり、つい深酔いしてしまった。
 たちまち夢で遥かかなた雲のように広がる海上を、巨大な海亀の如き外国の軍艦が押し寄せる。
 私が軍隊を率いてこの地磯原に陣を布くと、わが百万の将兵たちは大いに怒り、髪を逆立てて奮戦する…。
 いつしか、夢はとだえ、酔いもすっかりさめて灯が消えると、波の音が旅の枕を揺り動かし、夜の闇の中にドドーンと響くばかり。
 
 松陰一行は、青森は東津軽の算用師峠に登る。眼下の津軽海峡には外国船が絶えず航行しており、何ら対策のない幕府に憤りと危機感を抱いた。
 (「東北遊日記」から)
 
津軽海峡に臨む(青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩)   吉田松陰
去年の今日、巴城(はじょう)を発す
楊柳(ようりゅう) 風暖かにして 馬蹄(ばてい)軽やかなり
今年は北地、更に雪を踏み
寒沢(さむざわ)三十里 路行き難し
行くゆく尽くせり、山河万夷(ばんい)の険
滄溟(そうめい)に臨みて 長鯨(ちょうげい)を叱(しっ)せんと欲す
時平かなれば 男児空しく?慨(こうがい)するのみ
誰か追わん 飛将青史(せいし)の名
〈詩 意〉
 去年の今日、故郷、長門の国萩を出発した。
 柳の枝をなびかせる春風は暖かく、馬の歩みは軽快だった。
 だが、今年は北地、東津軽、豪雪を踏みしめて進む。
 寒沢への三十里の道のりは困難を極めた。
 それでも、向こう見ずに旅を続け、あらゆる険しい山や河を踏査し尽くした。
 青海原に向かって、巨大な鯨にも似た外国の軍艦を叱りつけたいものだ。
 今の世は(表面では)平穏なので、男児たる者むなしく憤り嘆くばかりである。
 いったいだれが、源義経のように英雄として歴史に名を残すというのか。
 
 嘉永6年(1854)一月藩主は松陰に10ヶ年諸国修業を許した。
 この頃、佐久間象山(さくましょうざん)としばしば時事を論じ、プチャーチンの率いるロシアの軍艦に乗り込み密航することに決し、直(ただ)ちに長崎に向かった。(「幽囚録附録」から)
 
吉田義卿(松陰)を送る         佐久間象山
之(こ)の子 霊骨(れいこつ)有り
久しく ?(べっ)さつの群を厭(いと)う
衣を振るう 万里の道
心事 未だ人に語らず
則ち人に未(いま)だ語らずといえども
忖度(そんたく)するに あるいは因有り
送行して 郭門(かくもん)を出づれば
孤鶴(こかく) 秋旻(しゅうびん)に横たわる
環海 何ぞ茫々(ぼうぼう)たる
五州おのずから隣りを為す
周流して 形勢を究めよ
一見は百聞を超えん
〈詩 意〉
 この男には優れた気骨が備わり、かねてより凡人どもの仲間になることを嫌っていた。
 この度遠く万里の旅に出る決心をしたが、心のうちはまだ誰にも語っていない。
 とは言っても、推測すると旅に出発した理由は必ずあるはず。
 松陰を見送って村境の門を出ると、秋空を鶴が一羽飛んでいる。
 それにしても四方の海はなんと果てしなく広がっていることか。
 しかし、五大陸は海でつながり自ずから隣り合わせなのだ。
 世界を実際にめぐって地勢・事情をよく調べよ。一見するほうが多くの情報より勝るであろう。
 
 この頃、長州藩麻布屋敷を逃れ鳥山塾に身を潜めていた金子重之助(かねこしげのすけ)に松陰は出会う。二人はすぐに意気投合して折から下田沖に投錨(とうびょう)していたペリー率いるアメリカの軍艦に搭乗して密航しようとして下田に赴いた。かねてより松陰は、師の佐久間象山、先輩の鳥山、永鳥、門下生、桂小五郎に詩を贈って心中を打ち明けていた。
 
知心の諸友に示す   吉田松陰
名利(みょうり) 世上に求むるの心無く
一生 人の尤(とが)めを被(こう)むる顧みず
独り悲しむ 駑駘報恩(どたいほうおん)の計
詭遇(きぐう)して常に君父の憂いと為るを
〈詩 意〉
 世間で求めているような名声や利欲など私には全くない。一生他人から非難を受けても私は意に介しない。
 とても悲しいことは、我が才能が劣悪で君父の恩に報いる計画が正しい方法によらず常に失敗し、主君や厳父に苦痛をかけていることだけ。
 
 下田の牢に繋(つな)がれた松陰等は江戸獄へ檻送(かんそう)される。途中、高輪(たかなわ)の泉岳寺(せんがくじ)前で赤穂義士の墓前に歌を手向けた。(「和歌拾遺」から)
 
かくすれば かくなるものと知りながら 已(や)むに已ま大和魂(やまとだましい)   吉田松陰
〈歌 意〉
 このように国禁を犯して密航を企てるならば、囚われの身になると知りながら、どうしてもやめられない吾が大和魂よ。
 
 松陰と同志の重之助は、引き続き江戸獄から萩の獄舎に唐丸籠(とうまるかご)で送られることとなった。師の象山から「天がける鶴」と称えられたが、今は「籠の鳥」。(「松陰詩稿五七短古」)
出獄帰国の間     吉田松陰
去年は雲外(うんがい)の鶴
今日は籠中の鶏(とり)
人事 何ぞ嘗(か)つて定まらん
皇天 甚(なん)ぞ斉(ひと)しからざらん
〈詩 意〉
 去年の9月、長崎に赴くとき、象山先生は私を「天がける鶴」と祝福してくださったが、米艦搭乗に失敗して捕らえられた今は「籠の鶏」。
 人事は変転きわまりないが大いなる天命は個人に対してどうして均一でないことがあろうか。
 
 獄死した重之助の霊に詩歌文集「冤魂慰草(えんこんいそう)」を献上した。
 野山獄ただ一人の女囚で、松陰に私淑した高須久子(たかすひさこ)の句。続いて明倫館の山県太華(やまがたたいか)に師事した長州藩士富永有隣(とみながゆうりん)の作。(「冤魂慰草」から)
 
わか木さえ 枝折れにけり 春の雪     高須 久子
〈句 意〉
 木に例えれば若木のような重之輔が早春、岩倉獄で淡雪のように病死してしまった。
 
陽炎(かげろう)の 行方やいづこ 草の原    富永 有隣
〈句 意〉
 陽炎のように志を燃やして駆けめぐった重之輔(しげのすけ)はどこへ行ってしまったか。目の前には草原が広がるばかり。
 
 松陰は勤皇僧で、周防大畠の月性(げっしょう・清狂)や安芸長浜の黙霖(もくりん)とも文通して討幕思想に強い関心を持つに至る。
将(まさ)に東遊せんとして壁に題す          釈 月性
男児志を立てて 郷関を出づ
学若し成る無くんば 復還らず
骨を埋むる何ぞ期せん 墳墓の地
人間(じんかん)到る処 青山有り
〈詩 意〉
 勇猛な男児が学問に志を立てて故郷を出で立つ。
 もし学問が成就(じょうじゅ)できなかったら二度と故郷の土は踏まぬ覚悟だ。
 我が遺骸を葬るのにどうして先祖の墓地だけを願うことがあろう。
 どの青山(青々と樹木の茂る山)でも骨を埋めることができるのだ。
 
 12月、松陰は野山獄から釈放され、翌3年、いよいよ松下村塾で講義を開始する。(「松陰詩稿」から)
松下村塾聯      吉田松陰
万巻の書を読むに非ざるよりは、
寧(いずく)んぞ千秋の人為(た)るを得ん。
一己(いっこ)の労を軽んずるに非ざるよりは、
寧んぞ兆民の安(やす)きを致すを得ん。
〈詩 意〉
 万巻の書物を読まないようでは、どうして千年の後までも名を残す立派な人物になれるであろうか。
 自分一人の苦労を惜しむようでは、どうして多くの人民を安楽にすることができようか。
 
 欧米の列強の侵略が迫っている安政の世にあっては、節操が固く気性のの強い節母・烈婦(れっぷ)こそ理想の女性であると松陰は唱えている。
 登波(とわ)は、一家が惨殺され、また重傷を負わされたので、必死に犯人を求めて青森の恐山、九州の英彦山など全国を駆けめぐり、10数年を費やした。やっとめぐりあった時、犯人はすでに自殺していたが、遂に本懐を遂げたのであった。
 
烈婦、登波を表す    吉田松陰
混々(こんこん)たる原泉
海に朝宗(ちょうそう)す
洋々たる大魚
竜門に竜となる
懿(うるわ)しきかな 烈婦
習坎(しゅうかん) 惟(こ)れ通ず
身は賤(いや)しと雖も
門閭(もんりょ) 庸(いさおし)を表す
〈詩 意〉
 混々と湧き出る泉は、海に向かって注ぎ集まる。
 美しく立派な大魚は、竜門を越えて竜(英雄)に身を変えるのだ。
 操正しい女傑(登波)よ。よくも幾多の難関を乗り越えて志を遂げたことよ。
 身分が低いとされるが、村の入り口に勲功の碑を建てて顕彰する。
 再び野山獄に投じられていた松陰は、安政6年(1859)5月、兄梅太郎から江戸送りの幕命を聞いた。
 東送の前日、司獄福川犀之助の計らいで、松陰は野山獄から杉家に帰り、一家団欒の一夜を過ごしたのち、5月25日護送檻輿(かご)の人となった。
 萩郊外の大屋に数本生える涙松の一隅にたたずみ、萩城下を遥かに見下ろした。
 
帰らじと思ひさだめし旅なれば ひとしおぬるる涙松かな       吉田松陰
〈歌 意〉
 二度と帰郷することはあるまいと覚悟した(東送の)旅ゆえに、ひとしお泣き濡れる、ここ涙松よ。
 
 松陰を乗せた駕籠は萩往還を進み、萩市旭の夏木原(なつきばら)にさしかかった。折から降りしきる梅雨の雨。檻輿に揺られながら、松陰は決意を固めていた。至誠(しせい)にして動かざるもの、未だこれ有らざるなり。(「縛吾集(ばくごしゅう)」)
 
長瀬(ながせ)の夏木原に過(よぎ)る   吉田松陰
吾れを縛(ばく)し台命(だいめい)もて関東に致(おく)る
簿に対し心に期す、昊穹(こうきゅう)に質(ただ)すを
夏木原頭(なつきげんとう) 天雨黒く
満山の杜宇(とう) 血痕(けっこん)紅(くれない)なり
〈詩 意〉
 長州藩は幕府の命令で私を捕らえ江戸へ檻送する。
 江戸の評定所で調書が作られる時、わが言行の正邪を天に問いただそうと心に決めている。
 いま通り過ぎる夏木原一帯は降りしきる梅雨の雨に閉ざされて暗く、全山の山つつじは、しきりに鳴くほととぎすが吐いた血痕かと見まがう程に赤い。
 
 28日には、万葉人もその険しさを恐れかしこんだ欽明路峠を越える。
周防(すわ)にある盤国山(いわくにやま)を越えん日は 手向(たむ)けよくせよ 荒らしその道  
         少典山口忌寸若麿
〈歌 意〉
 周防(すおう)の国にある岩国山を越える日には、峠の神に弊を手向け、心を込めてお祭りをせよ、その道は(山陽道で)一番険しい所だから。(「涙松集」)
夢路にも帰らぬ関を打ち 越えて 今を限りと渡る 小瀬川(おぜがわ)   吉田松陰
〈歌 意〉
 現実にはむろん、夢でたどる道でさえ帰郷する筈のない関戸を越え、一生涯の終わりだと覚悟して渡る小瀬川よ。
 
 こうして、松陰を護送する檻輿(かご)は、およそ1ヶ月かかって、6月24日、江戸に到着した。
 10月20日、松陰は江戸獄より、萩の父杉百合之助、兄梅太郎、叔父玉木文之進に宛てて最後の手紙を認(したた)めた。
 (平生の学問が浅はかなため、私の真心が世の人々に感銘を与えるに至らず、ついに死罪という事態に立ち至りました。)(「父叔兄宛書簡」から)
 
親思ふこころにまさる親心  今日の音づれ何ときくらん 吉田松陰
〈歌 意〉
 子が親を思う心に勝る親の慈愛の深さよ。死罪の知らせをわがふた親はどんな気持ちで聞くであろうか。
 
 処刑が執行される二日前、松陰は門下生に与える遺書『留魂録(りゅうこんろく)』の執筆にとりかかった。(「留魂録」から)
 
身はたとひ武蔵の野辺に朽(く)ちぬとも 留め置かまし大和魂     吉田松陰
〈歌 意〉
 たとえ、わが身は処刑され武蔵の野辺に朽ち果てようとも、ぜひともこの世に留めておきたい。この大和魂だけは。
 
 安政6年10月27日朝、松陰は評定所に呼び出され、死罪を申し渡される。(「詩文拾遺」から)
此の程に思い定めし出立は 今日きくこそ 嬉しかりける      吉田松陰
〈詩 意〉
 かねてより、覚悟していた死出の旅への出発を、(願いどおり)本当に今日聞くのはうれしいかぎりである。
 
 やおら松陰は起立し、朗々と吟誦を始めた。(「詩文拾遺」)
辞 世     吉田松陰
吾れ今 国の為に死す、
死して君親(くんしん)に負かず。
悠々たり 天地の事、
鑑照(かんしょう) 明神(めいしん)に在り。
〈詩 意〉
 我は今こそ国の為に身命を捧げる。たとえ刑死しても藩主への忠義、両親への孝行に叛くことはない。永遠にして広大な天地の間、神々よご照覧あれ。
 
 江戸伝馬獄に戻った松陰は衣服を裃紋付に改め、刑場へ引かれ、従容として心静かに死についた。
 時に安政6年(1859)10月27日正午であった。
 
 明治維新の先駆け、偉大なる真の教育者、吉田松陰の賛歌は数限りないが、明治の詩人・徳富蘇峰(とくとみそほう)の詩を紹介する。
 
至誠憂国の志士 徳富蘇峰
 
台閣(たいかく)の崇論 幾度か糾紛(きゅうふん)せる
書生の殉国 最も君を推す
憐(あわ)れむべし 一代 風雲の業
閑却せんや 松陰 三尺の墳(はか)
〈詩 意〉
 政府高官らが幕末維新で功績のあった人物を評価するのに幾度も揉(も)めたことか。
 ともあれ私(蘇峰)は国難に生命を捧げた学者の中で、君(松陰)を第一に推挙したい。
 ああ、国家の危機を救わんとして全身を投じた一世一代の大事業。
 決しておろそかにしてはならぬ、吉田松陰三尺の墓。

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引用・参考文献一覧
『吉田松陰の殉国教育』福本義堯著、誠文堂
『吉田松陰』玖村敏雄著、岩波書店
『(註訓)吉田松陰殉国詩歌集』福本義堯著、誠文堂
『吉田松陰』関根悦郎著、白楊社
『吉田松陰全集』山口県教育会編、岩波書店
『吉田松陰の思想と教育』玖村敏雄著、岩波書店
『吉田松陰の研究』広瀬豊著、東京武蔵野書店
『吉田松陰』奈良本辰也著、岩波書店
『山鹿素行・吉田松陰』玖村敏雄著、玉川大学
『吉田松陰』河上徹太郎著、文藝春秋
『吉田松陰集』(日本の思想)奈良本辰也著、筑摩書房
『吉田松陰』(批評日本史)奈良本辰也ほか著、思索社
『吉田松陰全集』山口県教育会編、大和書房
『吉田松陰』(日本の名著)松本三之助編、中央公論社
『吉田松陰入門』山口県教育会編、大和書房
『草莽吉田松陰』寺尾五郎著、徳間書房
『吉田松陰』(日本思想大系)吉田常吉著、岩波書店
『吉田松陰』(岩波文庫)徳富蘇峰著、岩波書店
『吉田松陰の詩藻』
山中鉄三著、徳山大学研究所
『吉田松陰のすべて』奈良本辰也著、新人物往来社
『講孟箚記(上・下)』(講談社学術文庫)近藤啓吾著、講談社
『吉田松陰の人間学研究』下程勇吉著、広池学園出版部
『吉田松陰と松下村塾』海原徹著、ミネルヴァ書房
『松陰と道』山根喜弌ほか著、山口県教育会
『松陰と女囚と明治維新』田中彰著、NHKブックス
『志ありせば、吉田松陰』奈良本辰也著、広済堂出版
『松下村塾の人びと』海原徹著、ミネルヴァ書房
『(脚注・解説)吉田松陰撰集』河村太市ほか著、(財)松風会
『吉田松陰』田中彰著、中央公論社
『吉田松陰』海原徹著、ミネルヴァ書房
『江戸の旅人 吉田松陰』海原徹著、ミネルヴァ書房
『吉田松陰の実学』木村幸比古著、PHP新書
『長州ファイブを追って』宮地ゆう著、萩ものがたり
 
執筆者紹介(荒巻 大拙)
昭和11年 愛媛県宇和島市吉田生まれ
昭和33年 広島大学文学部国語国文学科卒業
      山口県立広瀬高等学校赴任、以後山口高校など38年間県内7校へ転任
平成8年  県立下関南高等学校長を最後に定年退職 
 



第6回松陰研修塾基礎コース終了
 平成16年7月24日、第1回目を実施し、最終回を平成18年1月28日に実施したこの研修塾は2年間にわたり合計7回の研修を行った。参加申込数48名、1回の平均参加者数32名で、8割以上継続して参加された方24名には修了書を授与した。二年間の研修塾の内容は次の通りである。
第1回 
開講行事 主催者挨拶・来賓挨拶
講義「吉田松陰の生涯」元県立山口博物館長、(財)松風会理事 石原啓司先生
座談会・自己紹介・どんな学習を期待するか
講義「今改めて吉田松陰に学ぶもの(志を育てる教育)」山口県立大学名誉教授、、松 風会理事 河村太市先生

第2回
 
講義「生家,杉家の人びと」 河村太市先生
輪読『松下村塾記』河村太市 先生
講義「萩と吉田松陰(巡検事前研修)」史都萩を愛する会会長・松風会理事 松田輝男先生
現地研修「松陰ゆかりの地巡検」松田輝男先生
交流会「松陰から何を学ぼうとするのか」
講義「尊王攘夷思想と吉田松陰」石原啓司先生

第3回
 
講義「二人の女性と吉田松陰」 松田輝夫先生
講義「幕末の政治と吉田松陰」 石原啓司先生
輪読「煙管を折るの記」河村 太市先生

第4回
 
講義「先師 山鹿素行」河村太市先生
講義「妹千代への手紙」松田輝夫先生
講義「『講孟餘話』を読む」石原啓司先生

第5回
講義「吉田松陰と宮部鼎蔵」 石原啓司先生

第6回
 
巡検 熊本市・御船町(宮部鼎蔵・横井小楠関係史跡) 
 指導者 御船町関係 御船町文化財保護委員 奥田盛人氏
 熊本市関係 ボランティア イド 倉賀野昌宏氏・村上稔氏

第7回
記念講演「山口県の教育と吉田松陰」河村太市先生   
記念講演「『留魂録』を読む」 松田輝夫先生      
閉講行事  修了証授与、主催者挨拶・来賓挨拶

第6回目巡検(松陰の同志宮部鼎蔵、横井小楠の史蹟を訪ねて)の要旨 
平成171015日(土)
 参加者27名・大型バス1台で山口を出発。13時40分熊本県御船町着。
 
鼎春園(ていしゅんえん
 鼎は宮部鼎蔵(みやべていぞう)、春は弟の春蔵のことである。今から約60年前、鼎春園と名付けて顕彰碑が建てられた。
 ここはかつて上野小学校のグランドだった。この碑は大正2年(1913)宮部鼎蔵殉難50年を記念して上野小学校吉田校長先生が、建碑会を組織し建てたものである。字は細川14代藩主細川護成が書いたものである。碑文は天草の竹添進一郎(漢学者)氏のもので、漢文のため当時からなかなか読めなかったそうである。
 昭和38年は宮部鼎蔵殉難100年で奥田氏が殉難100年の式典を主宰され、荒木先生の力を借りてこの碑文を解読された。
 この孝忠の碑文の意味は、親に孝、国に忠。宮部は親に対して孝行の心がなかれば国に社会に忠義を尽くすことは出来ないという考えであった。
 文久2年(1862)元日に清水で身を清め、子孫に書き残した碑文である。これを書き残し4日江戸へと上った。
 向かって左側の碑が宮部鼎蔵の歌碑である。宮部が出家したとき
「いざ子ども 馬に鞍おけ 九重の みはしのさくら ちらすそのまに」
 自分の心意気を歌った和歌だと言われている。
 孝明天皇の御製に
「戈とりて まもれ宮人ここのえの みはしのさくら風そよぐなり…」に感涙した草莽の絶唱と言われている。
 左側の歌碑は17歳年下の弟春蔵の歌碑である。
 「故郷の 花を見すてて飛ぶ田鶴は 雲井の空に羽をやうらつむ」
 この歌は、兄鼎蔵の志をうけて出郷するとき、長歌を遺しているがその終わりに詠んだものである。    
 宮部鼎蔵銅製座像は、平成17年6月、地元住民の寄付5500万円により建立された。それに奥田氏は次のように撰文された。
 
「宮部鼎蔵先生は文政3年(1820)4月御船町上野2905番地で医師の春吾母ヤソの長男として出生。幼少の頃から文武を好み、熊本の叔父宮部丈左衛門のもとで成長し31歳で叔父の家を継ぎ肥後藩の軍学師範となる。徳川幕府の衰退と外国船の侵入で国防が叫ばれるとき宮部先生は藩の同志を初め長州藩の吉田松陰と供に全国の志士と謀り幕府を倒して新生日本の国つくりを画策された。これを阻止せんと幕府の弾圧が激しくなった元治元年(1864)6月5日夜、宮部先生は京都の池田屋へ同志を集めて協議中乱入した新撰組と戦って自害した。歳45、新生日本に改まる3年前であった。弟春蔵先生も同年7月天王山で幕府軍と戦って自刃された。26歳。
 兄弟の尊い死から141年郷里の上野では宮部先生の彫像を建立して顕彰することに決し上野校区民の熟誠なる支援を受けて見事に完成した。
 春風秋雨時代は大きく変わっても国事に優れた兄弟の功績に対する郷民の追慕の念は代わらず、世にうるわしきことと讃えるべきである。平成17年6月撰文 奥田盛人」
 
生誕地
 碑文は山県有朋公の書によるものである。その隣が産湯の井戸である。すぐ傍の用水路も当時すでに出来ていた。だから本当に湧き出る水とは言えない。用水路の水源は阿
 
蘇から流れてくる。昭和30年代までは飲料水であった。今はこの水が上水道にひかれている。
 安政2年(1855)6月、鼎蔵の弟春蔵(17歳)は鼎蔵門下生丸山勝蔵、石倉亀介、浜武治策と水前寺で横手塾(長原・山田)生と喧嘩。丸山が暴力をふるい相手を殴った。丸山は処刑、春蔵入獄3年。鼎蔵も責任をとり藩の兵学師範をやめさせられた。鼎蔵は郷里に隠居し、姉と同居の上「蒼浪軒」を建て学問を教えた。ここへは勤皇の志士の出入りが絶えなかったということである。
 
宮部家墓地
 この墓がこの地に最初に住みついた鼎蔵の曾祖父宮部角次、鼎蔵の父の墓は向こうの丘の上にある。この15基、向こうに5基、併せて20基の墓がある。この曾祖父は市左衛門の次男であった。そのため本家の知行地を求めてここに移住した。その娘はお楽さんといい、本家に負けないような侍にしようと孫(鼎蔵)を熊本の息子(丈左衛門)の家に預けた。丈左衛門は下級の武士であった。鼎蔵はこの叔父の後を継いだ。丈左衛門の墓が下級武士でありながら立派なのは門下生が建てたものだからである。
この墓碑には次のように書かれている。
 「嗚呼惜しい哉、君知命(50歳)に及ばずして謚す母は楽と称し父は秀学の人なり。君を知るものは資性(生まれつき)直にして温厚克く父母に事える。学父春斉は剣を以て禄なきにより慨然として君をして武芸を志し、師の碩儒(学問が広く深い人)安野文撼氏の武を講ずる処に入らしむ。厳冬を通して師範の恭徒に伍して専ら昼夜となく兵学の道を極む。文政元年(一八一八)12月10日父子供に方金(1分金・4分の1両)の賞を賜り益々業に進み武を治め、文政8年9月学館において賞して金20両を父子をして賜る。須古氏の門に入り兵学山鹿氏の兵法を藩邸に伝え天保2年(1831)5月義斉の為に学生湖の如く満つ。
 寮に在ること5年、為に政府の史班役人段となり毎年給米15俵銀三百目を賜る。同6年6月兵学師範に転じ班下士の上座となり月俸5口を賜り切米10石を賜る。天保11年(1840)9月2日病にて没す。享年47歳。南山先塋の中に葬る。君の祖父は宮部家より別れて南山に耕して郷民の貧しきをあわれみ医者を招いて急病に施し、故に君の顕父を養子となす為田代春斉君を嗣となす。春斉君の曽師日岳富田夫子は医に優れる。
 春斉に一男一女を生む。男則ち君なり。門弟を養い君の妹に医者を配して業を継がせる。君は諱を増美と称す。丈左衛門の宮部氏は我が藩の旧家にして食禄する家譜故に略する。これ天保12年9月秋一周忌に当たり其の門人達君を追慕して碑を建てる。ここに於いて碑文を予に請う。予亦固辞せずに請いに応ずと言うなり。」
 
※註 宮部丈左衛門は、鼎蔵、春蔵の叔父(母の兄)。鼎蔵は祖母楽に連れられて熊本に出、初めは野村家(旧知百石)に養子に行っていた叔父野村伝右衛門宅にあずけられた。伝右衛門は細川藩世子(大名の跡継ぎ)慶前公の伝育役を務めていたが、慶前公は23歳の時江戸で病没。伝右衛門は帰藩後鼎蔵の介錯によって殉死した。その後次の叔父丈左衛門の養嗣子となり、兵学師範の叔父の後を継いで自らも兵学師範となった。従って南田代村の家は、祖母楽に菊池郡加茂川村の田代家から春斉という名医が養子に来て継いでいたのを更に丈左衛門の妹ヤソに矢部中島の高森氏の次男春吾を養子に迎えて継いだ。その子が鼎蔵兄弟である。
             
平成171016日(日
横井小楠公園 
 横井小楠は明治元年参与に任命され上洛し、太政官に出仕した。翌年明治2年正月5日、太政官から帰宅途中京都丸太町で刺客に殺される。遺骨は京都の南禅寺天寿庵の墓地に葬られた。遺髪は沼山津の墓地(小楠公園)に髪塚として埋められている。
 没後50年大正7年にこの碑(頌徳碑)が建てられた。石は天草から運んできた。篆額は細川護立の筆、碑文は徳富蘇峰の撰で横井時敬の書である。
 銅像は没後百年を記念して、昭和45年2月横井小楠顕彰会が建立したもので、熊本市在住の彫刻家田島亀彦氏による。この銅像は横井小楠唯一の写真(横井小楠記念館保存)をもとに制作された。
 
横井小楠記念館館長(菊川氏)の話
 鎌倉時代の北条氏の子孫である。江戸時代初め尾張からこちらへ移ってきた。北条は名前に「時」の字が付いているが、小楠の実名は時在である。家紋は北条市の家紋と同じである。ミツウロコと言い北条時政が江ノ島の弁財天に参ったとき女の人と出会い、それは大蛇で鱗が落ちていた。それをデザインしたとのことである。正式には丸に三鱗である。小楠は文化6年(1809)に横井家の次男として熊本で誕生。
 8歳の時に時習館(藩校、二の丸にあった)に入る。横井家は150石で、次男が家を継ぐことは出来ず結婚したのが45歳であった。小川ひさと結婚。ひさが亡くなった後、矢島つせ子と再婚。
 小楠は30歳で江戸に遊学し、林家に入門し、佐藤一斎、藤田東湖等と交わる。藤田東湖が水戸へ帰るときの送別会で酒失し、31歳の時帰国を命ぜられる。帰ったときの様子を徳富蘆花が書いている。
 「6畳一間、畳はぼろぼろ、雨戸の代わりに筵をぶら下げていた。」
 勝海舟は彼のことを失敗を良い方向に向けるのに長けていると言っている。
 天保12年(1841)長岡監物、下津久馬、荻昌国、元田永孚(教育勅語作成者)等と研究会を始め実学党を興す。実学は学んだことを実際に行動を興し、政治の場で生かさねばという考え方である。
 安政5年(1858)50歳の時、福井藩主松平春嶽に賓客として招かれる。彼は殖産と貿易に力を入れ改革を進め成功する。
 松平春嶽の指示で江戸へ出府、政治総裁職松平春嶽のブレーンとなる。幕府改革や公武合体の推進に手腕を発揮した。熊本藩江戸留守居役吉田等と酒宴中に襲われ、士道忘却事件を起こし、失脚、士籍を剥奪される。熊本での閉居を余儀なくされるが、その間多くの志士が訪れ、影響を与えた。
 明治になり、朝廷より再度の招きを受け参与を命ぜられる。明治2年1月5日、朝廷よりの帰途刺客に襲われる。

※註
 松陰は、嘉永6年、長崎からロシア船で海外渡航を企てたとき、熊本を訪ねている。10月19日から25日まで滞在中に横井小楠とは3度会って話をしている。11月13日に萩へ帰り、宮部鼎蔵、野口直之允の来萩を待ち同道して江戸へ。途中26日富海(山口県防府市)から小楠へ手紙を出している。この手紙が横井小楠記念館に保管されていた。
 
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購入図書紹介
『注釈 涙松集』大村武一著、山口県立萩図書館・昭和9年発行
『久保松太郎日記』一坂太郎・蔵本明俵編、マツの書店・平成16年発行
『萩ものがたり@萩の椿』吉松茂著、法人萩ものがたり・平成16年発行
『萩ものがたりA高杉晋作』一坂太郎著、法人萩ものがたり・平成16年発行
『吉田松陰語録集』萩松朋会著、(財)松風会平成16年発行
『萩ものがたりB萩開府』北村知紀著、法人萩ものがたり・平成16年発行
『萩ものがたりC萩まちじゅう博物館』西山徳明著、法人萩ものがたり・平成16年発行
『史学研究200号吉田松陰の民政観』三宅紹宣著、史学研究・平成5年発行
『松陰余話(復刻)福本椿水著、マツの書店・平成16年発行』
『吉田松陰』徳富猪一郎著、民友社・明治35年発行
『私の人間教育論、吉田松陰を現代に生かして』佐藤薫著、第一法規・昭和44年発行
『長州と萩街道』小川国治、吉川文庫・平成13年発行
『松陰と新作』古川薫著、学陽書房・平成16年発行
『高杉晋作』三好徹著、学陽書房・平成15年発行
『吉田松陰上』『吉田松陰下』童門冬二著、学陽書房・平成15年発行
『松陰と晋作の志、捨て身の変革者』一坂太郎著、ベスト新書・平成17年発行
『萩ものがたりD松陰先生のことば』萩明倫小学校著、法人萩ものがたり・平成17年発行
『萩ものがたりE密航留学生長州ファイブを追って』宮地ゆう著、法人萩ものがたり・平成17年発行
『人はなぜ勉強するのか』岩橋文吉著、モラロジー研究所・平成17年発行
『関西の中の防長』一坂太郎著、春風文庫・平成17年発行
『楫取家文書(一,二)(復刻)』日本史籍協会編、東京大学出版会・昭和45年発行
『吉田松陰全集(全12巻)』山口県教育会編、岩波書店・昭和14年発行
『横井小楠』徳永洋著、新潮社・平成17年発行
『吉田松陰の実学、世界を見据えた大和魂』木村幸比古著、PHP研究所・平成17年発行
『萩ものがたりF萩と日露戦争』一坂太郎著、法人萩ものがたり・平成17年発行
『萩ものがたりG萩の巨樹・古木』草野隆司著、法人萩ものがたり・平成17年発行
『講談社の絵本吉田松陰』文:大倉桃郎、絵:富田千秋、講談社・昭和16年発行
『横井小楠伝(復刻)』山崎正董著、マツの書店・平成18年発行
『江藤南白伝上・下(限定復刻)』的野半助著、マツの書店・平成18年発行
『萩ものがたりH萩沖の魚たち』中澤さかな・掘成夫著、法人萩ものがたり・平成18年発行
『萩ものがたりI吉田松陰と現代』加藤周一著、法人萩ものがたり・平成18年発行
『吉田松陰(復刻)』玖村敏雄著、マツの書店・平成18年発行
『勤皇志士遺墨鑑定秘録(復刻)』高橋角太郎著、マツの書店・平成18年発行
 
寄贈図書紹介
『幕末防長勤皇史談』(全8巻)得富太郎著、得富熊雄・昭和12〜14発行(今井清隆氏から)
『留魂録 英完訳書』紺野大介著、錦正社・平成15年発行(松風会理事河村太市氏から)
『日本の思想19,吉田松陰』奈良本辰也編著、集英社・平成16年発行(松風会理事河村太市氏から)
『コミック版、その時歴史は動いた』NHK取材班編、集英社・平成16年発行(河村太市氏から)
『吉田松陰津軽の旅』柳沢良知著・発行、(松風会理事松田輝夫氏から)
『訂正増補養生哲学』伊藤重著、南江堂書店発行(弘前市、(財)養生会から)
『吉田松陰津軽の旅』柳沢良知著、柳沢祥子・平成16年発行(著者から)
『山県太華・吉田松陰考』河村一郎著・発行、平成16年発行(松風会理事松田輝夫氏から)
『先賢の志に学ぶ、21世紀の教育を問う』岡田・斉藤・野地編集、ジャパンインターナショナル総合研究所
 平成16年発行 (松風会理事河村太市氏から)
『毛利元就』石川和朋著、平成16年発行(著者石川氏・熊野氏から)
『奮発震動の象あり、防長教育史の人びと』松野浩二著、山野勝也・平成17年発行(鳳陽会から)
『吉田松陰先生名辞、素読用』川口雅昭著、登龍館・平成17年発行(著者から)
『吉田松陰誇りを持って生きる』森本幸照著、すばる舎・平成9年発行 (河村太市氏から)
『かがやける大内文化の精華山口十境詩考』荒巻大拙著・出版、平成17年発行(著者から)
『ゴルバチョフと池田大作』中澤考之著、角川学芸出版、平成16年発行(著者から)
『山口県文書館蔵、吉田松陰関係資料目録』山口県文書館編集、山口県・平成18年発行(県から)
『和して同ぜぬ坂本龍馬の魅力に迫る』折本章著、(株)エポ・平成18年発行(著者から)
 


平成18年度開講
第7回松陰研修塾基礎コース
 
松陰先生の著述に触れながら学ぶ
希望者による県内松陰関係史蹟めぐり
初 め て 学 ぶ 方 歓 迎
研  修  内  容
1年次(18年度)
第1回 (18,7,22)9:30〜16:00、県教育会館
 講 義 「吉田松陰の生涯」   
 講 義 「吉田松陰の生家・杉家」
 輪 読 「妹千代宛書簡」
    
第2回 (18,9,30) 9:30〜16:00、県教育会館 
 講 義 「吉田松陰と野山獄」
 講 義 「吉田松陰と二人の女性」
 輪 読 「士規七則」
 講 義 「吉田松陰の猛と大和魂」

第3回 (18,10,28)
 萩市・萩青年の家
 講 義 「萩と吉田松陰(巡検事前研修)」
 現地研修「松陰ゆかりの地」

第4回  (19,2,24) 9:30〜16:00、県教育会館
 講 義 「松下村塾の教育」 
 講 義 「吉田松陰と門下生」
 講 義 「吉田松陰と尊皇攘夷運動」
 輪 読 「松下村塾記」
 
2年次(19年度)
第1回 (19,6,23) 9:30〜16:00、県教育会館 
 講 義 「孟子について」
 講 義 「先師 山鹿素行について」
 講 義 「師 佐久間象山について」
 輪 読 「諸生に示す」

第2回
 (19,8,25) 9:30〜16:00、県教育会館
 講 義 「吉田松陰と漢詩」
 講 義 「幕末の外交と吉田松陰」
 講 義 「吉田松陰の旅と情報」
 輪 読 「父叔兄宛書簡(永訣の書)」

第3回
 (19,10,20/21)
 巡 検(長崎・平戸方面) 
 輪 読 「西遊日記(夢を期す)」

第4回
 (20,1,26) 9:30〜16:00、県教育会館
 講 義 「吉田松陰の志を受け継いだ人たち」
 講 義 「吉田松陰の死生観」
 輪 読 「留魂録」
 
講   師
松永祥甫(松風会理事長)
河村太市(山口県立大学名誉教授・松風会理事)
石原啓司(松風会理事)
松田輝夫(松風会理事・史都萩を愛する会会長)
折本 章(防長新聞社編集局員)
荒巻大拙(松陰研究家)
弘長純忠(萩松朋会会長)
阿武博道(萩松朋会)
 
1 参加資格 特になし
2 参加経費 不要(資料等主催者で準備)
3 助  成 昼食(弁当)
4 申  込 平成18年7月10日(月)までに(財)松風会へ
       753-0072 山口市大手町2−18
       山口県教育会館内
   ※ 継続して出席することが望ましいが、1回限りの参加も歓迎する。
     施設外(戸外)の研修の場合主催者で傷害保険等に加入する。
 

主 催   財団法人松風会
共 催   山口県小学校長会・山口県中学校長会・山口県高等学校長協会・財団法人山口県教育会
後 援   山口県教育委員会・山口市教育委員会・萩市教育委員会
 
(財)松風会 753-0072 山口市大手町2-18 県教育会館内 Tel/Fax 083-922-1218
       Mail shohukai@gold.ocn.ne.jp  http://www9.ocn.ne.jp/~shohukai/

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