松門33号 平成16年7月1日発行
 
目  次

 松陰研修塾基礎コース輪読記録 「松陰先生の集団教育ー其の一」 
                       松風会理事 河村太市
 
 吉田松陰に学ぶ育児の教え  防府市 清水 一夫(防府松陰研究会会員)
 
 松陰研修塾基礎コース最終回記念講演要旨「『留魂録』を読む
                       松風会理事 石原啓司
 
 読書感想文『松陰先生に学ぶ』を読んで(中学生感想文)
 
 本の紹介「1冊いかがでしょうか」『吉田松陰語録集』1冊、500円
 
 
本の紹介『英訳留魂録』
 
 平成16年度開設「第6回松陰研修塾基礎コース」開催要項」
 


松陰研修塾輪読要旨
松陰先生の集団教育 其の一
松風会理事 河村太市
 
 松陰の教育が、その個別教育において優れた特質をもっていたこは、よく知られております。しかし松陰の教育にみられる特質は個別教育にのみあったのではありません。
 いうまでもなく松下村塾は一つの学習集団であります。松陰はまた集団教育の優れた指導者でありました。松下村塾の教育が、稀有の実績をあげ得ましたのは、個別教育と集団教育が、あたかも車の両輪のように作用しあったことによるものだと思うのです。塾生たちは松下村塾という集団の中で、師弟関係・友人関係を通じて、学問し志を確立し、そして志に生きようと覚悟したのであります。
 
 さて松陰の教育における集団教育的側面は、「松下村塾記」(丙辰幽室文稿、安政三年)や、「諸生に示す」(戊午幽室文稿、安政五年)をはじめ、そのほか教育実践記録とでもいえる文章が、丙辰・丁巳、戊午の各「幽室文稿」や、「丙辰日記」、「丁巳日乗」などの日記類に数多くみえるのでありまして、それらを通じて十分に伺い知ることが出来るのであります。ここでは、集団教育についての松陰の考え方がよく表されている前掲の「諸生に示す」(戊午幽室文稿、安政五年六月二十三日)をみておきたいと思います。先ず一緒に読んで見ることにしましょう。
 
 諸生に示す(「戊午幽室文稿」安政五年六月二十三日)
 村塾、禮法を寛略し、規則を擺落(はいらく)するも、以て禽獣夷狄(きんじゅういてき)を學ぶに非ず、以て老荘竹林を慕ふに非ざるなり。特だ今世禮法の末造、流れて虚偽刻薄となれるを以て、誠朴忠實以て之を矯揉(きょうじゅう)せんと欲するのみ。新塾の初めて設けらるるや、諸生皆此の道に率ひて以て相交はり、疾病艱難には相扶持し、力役事故には相労役すること、手足の如く然り、骨肉の如く然り。増塾の役、多くは工匠を煩はさずして、乃ち能く成ることあるは、職として是れに之れ由る。吾れ嘗て大和の谷翁三山を訪ふ。三山曰く、「吾れ充耳を以て學を?畝に講ず、喜ぶ所は諸生相親愛すること、兄弟骨肉の如く然り」と。因って数事を挙げて之れを誦ふ。余、時に欣羨已まず、謂へらく亦有徳の言なりと。数々諸生の為に之れを道ふ。諸生幸に深く此の意を諒し、久次相授ふ。廣川の門と雖も以て加ふるなし。因って謂へらく是れ難からずと。又嘗て王陽明の年譜を読む。謂へらく、其の門人を警發するや、多く山水泉石の間に於てすと。竊かに其の理に服せり。吾れは陽明に非ざるなり。然れども朋友の切磋亦當に斯くの如くなるべし。ここを以て會講連業、未だ嘗て縄墨を設けず、交ふるに諧謔滑稽を以てすること匡稚圭が詩を説くの故事の如し。近くは米を舂き圃を鋤くの挙の如き、亦此の意を寓するのみ。撃剣・踏水の二事に至りては、武技の最も切要なるもの、時方に盛夏、邊警又殷にして、一日も弛うすべからず。然れども徒らに視て遊戯と為し、實用を尚ばず、光陰を消し、學業を荒るも、亦慮るべきなり。之れを要するに學の功たる、気類先ず接し義理従って融る。区々たる禮法規則の能く及ぶ所に非ざるなり。學者自得する所なくして、呶々多言するは、是れ聖賢の戒むる所なり。而れども偶々一得ありて、沈黙自ら護るは、余甚だ是れを醜む。凡そ読書は何の心ぞや、以て為すあらんと欲するに非ずや。書は古なり、為は今なり。今と古と同じからず。為と書と何ぞ能く一々相符せん。符せず同じからざれば、疑難交々生ぜん。開悟時あり、乃ち同友相質すこと、寧んぞ已むを得んや。然らば則ち沈黙自ら護る者は、自得語るべきものなきに非ずんば、則ち人を以て語るに足らずと為すなり。吾が志は則ち然らず。已に語るべきものなくんば則ち已むも、荀も語るべきものあらば、牛夫馬卒と雖も、将に與に之れを語らんとす。況や同友をや。諸生村塾に来る者、要は皆有志の士、又能く俗流に卓立す、吾れ憾みなし。然れども意偶々感ずる所あり、故に聊か之れを言ふ。六月二十三日、二十一回生書す。 
 松陰の集団教育についての基本的な考え方は、右の文の、「要するに学の功たる、気類先ず接し義理従って融る」、というところにあるように思います。気類というのは、情意を意味するとともに、また気のあった仲間という意味をもった言葉であります。ここでいっていることは、学問が効果をあげるのは、先ずそこに学んでいる仲間の間で情意が互いに通じ合い意気投合されることによるというのです。そして集団がそのような雰囲気になるにつれて、成員の間に、次第に道理ー人間としての正しいあり方ーが現われてくるものだと考えるのです。
 さて松陰は、右の「諸生に示す」の中で、いくつかの具体的な事項をあげておりますが、それらはいずれも、只今指摘しました基本的な考え方から出ているものであることはいうまでもありません。松陰があげております具体的事項の中で注目したいことを箇条的にしてみます。
 
@礼法を簡略にし、規則を取り払う。
 単純に礼法規則は不要だといっているのではありません。松陰は、「気節行義は村塾の第一義なり、徒に書を読むのみに非ざるなり。」(己未文稿、「馬島に与ふ」、安政六年正月四日)、というところに村塾運営の基本方針をおえているのです。その松陰が、礼法を簡略にし、規則を取り払うというについては、そうすることの、あるいはそうなしうるための前提があるのです。それは先ほど指摘した、「気類先ず接し義理従って融る」ということです。こうした前提となるところをしっかり作り上げる努力があって、はじめて礼法を簡略にし規則を取り払うことが出来るのです。礼法規則を除けば、集団がよくなっていくなどと考えているのでは決してありません。
 
A望ましい集団
 松陰の念頭にあった望ましい集団とは、気類接し義理とおる集団ということになりますが、それをもう少し具体的にすれば次のようなものであろうと思われます。

 ◎相交・相扶持・相労役する。
  集団成員の皆が道を求め道に従いながら相交わり、疾病艱難に対しては互いに助け合い、また力仕事や思わぬ出来事に対しては皆が力を出しあうような集団、そしてお互いがあたかも自分の手足のように、また親兄弟のように睦みあっているような集団であります。

 ◎自得したことは語る。
  学問する者の態度として、自得したものがないのに多言することは厳に慎まなければならないが、反対に、何か一つでも自得したものがあるならば誰にだって語りかけるべきだといっております。自得したものがあるのに発言しないのは、松陰が甚だ嫌ったところであります。そして会話には冗談や滑稽さをはさむことが求められています。

 ◎質疑応答しあう
  書物はしっかり読まなくてはならないが、書物に書かれていることは過去のもので、今実行することとの間にずれがあるのは当然のことだといいます。「書は古なり、為は今なり」というのがそれです。このずれをどう調整してみるか、ここに問題が生じます。また「開悟時あり」、つまり人には悟る時期の早い者と遅い者がるのだから、遅い者が早い者に尋ねることは当たり前のことです。ここにおいて互いに質疑応答が交わさなければならないのです。
 
B望ましい学習環境
 ?畝において学を講じていた谷三山の実践の中に、「有徳の言」を聞き、また王陽明が山水泉石の間で門人を指導した「その理に服」した松陰でありますが、それは両人から学習の環境ということについて示唆をうけたものだといえましょう。学習室があり、机があればいいというのではないのです。学習室や机がなければ教育が出来ないと思うのは大きな間違いだという示唆をうけたといえましょうか。そのこともあって松陰は、「米を舂き圃を鋤くの挙」を行いながら塾生の教育に当たっているのであります。松陰がこういう仕方で教育を行ったのは、先の両者の実践に学んだというよりも、もともとそういう考えかたをもっていた松陰にとって、両者の実践が我が意を得たりと映ったものと考えた方がいいでしょう。
 
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吉田松陰に学ぶ育児の教え
              防府市 清水 一夫
 
はじめに
 平素、公民館等を中心に家庭教育学級等で松陰先生の二十九歳二ヶ月の生涯を七十七の紙芝居によって紹介し、引き続き松陰先生の教えの中から育児論を中心にお話を申し上げています。それを紹介したいと思います。
 
一 育児を考える
 「物で栄えて心で滅ぶ」
 今は亡き奈良薬師寺の高田好胤管長さんの残された心を打つ言葉であります。何でも欲しい物が手に入るので物を大切にし、物への感謝の心、人を慈しみ、人を思いやる日本人の心がなくなった現世への嘆きの言葉であります。
 また「今の日本は丁度沈みかけたイギリスの豪華客船タイタニック号と同じで、船中に浸水、大きく傾いているのに大広間ではオーケストラの演奏に船客は酔いしれている。沈没寸前なのに誰も気がつかないのと一緒である。」と。
 混迷する日本の教育事情への忠告であります。
 次のように警鐘を鳴らしているドイツ人の言葉もあります。
 「日本は今はいいけれども、世代の断絶があるから気を付けなければならない。今はまだ水面下だけれども、あと十年もすると、日本はグラグラッと揺れる。そして二十年もたつと、日本は滅びる」と。
 また今日、家庭の育児機能不全・崩壊に対する厳しい指摘があります。子どもが親に暴力を振るい、親が腹を痛めた我が子にまで暴力を振るう現状をどう考えればいいのか、何がそうさせるのか、どうすればこれを防ぐ事ができるのでしょうか。家庭での子どもに対する恐るべき親の犯罪行為、また学校での規律を無視し自由奔放に振る舞う子どもの姿、果ては頻発する青少年の哀しむべき犯罪行為等の数々。見えない所で地盤沈下が起きています。教育の再建を急がねばなりません。
 今こそ松陰先生の育児、教育論が何かを教えてくれるのではないでしょうか。
 
(一)子育てのあり方
 松陰先生は、十歳までの躾を大切にするよう教えられています。一般的に男の子は男親から、また女の子は母親から教えを受けることが多いが、そうは言っても男子・女子共に十歳以下は母親から教えを受けることが多く、母親の影響を大きく受けることになります。子どもの賢愚・善悪に関することでありますから母親の教えは非常に大切と言わねばなりません。そしてその教えは言語で論ずるのではなく、正しい姿・動作をもって感じさせるようすることが大切と教えられています。(教化よりも感化の大切さ)
 また良いことはどんなに苦しくても辛くてもやり抜く、やってはいけないことはそれが自分にとってどんなに好ましいことであってもやらないという、社会人としての基礎的な倫理観を、幼少(十歳迄)の間に身につけさせることが大切であると松陰先生は教えておられます。
 昨今学級崩壊が大きな問題となっています。授業中にマナーを守らず、自由奔放、自分勝手な行動により授業が成り立たない。つまり我慢が出来ない、じっとしておられない。共同生活の基礎的マナーの欠如の背後には育児の崩壊現象が大きく影響していると思われます。躾の目的・子育ての目的は子どもの自立性を育てることにあります。
 松陰先生は女性の教育を大変重視されておられます。男性が如何に男性としての道を守ろうとも、女性が一家の要として道を失う時は一家は治まらず、子どもへの教育も絶えてしまう。謹まなければならないと戒められています。更に最近女子の教育が重要であると考える者がいないと述べられています。(百五十年前のこと)
 続いて次のように教えられています。

 今は大平の世(関ヶ原合戦の後、徳川二百五十年の平和が続く)国の政治も安定しているから、安楽にその日を送り父兄の子どもへの教えが十分でない。児女はその教戒を聞くことが出来ないので、人の妻となっても貞節さが表れず、また人の母となってもその子を教戒することを知らない。こうして父兄も児女子孫も道理に暗く、無教戒の世に生活を送るだけである。平和時の教育のあり方に松陰先生は警鐘を鳴らしておられるのであります。

 今日、核家族化の急激な進行によって祖母から母へという育児法のノウハウの伝承が途絶え、ともすると親の気分次第で甘やかしたり、厳しくしたりの気紛れ育児の時代とも言われています。犯罪を犯して毀れていく子どもの家庭を見ると、必ず親子関係がおかしくなっています。先に述べたように間違った育てられ方をした子どもは親になってもまた間違った子育てをします。良い子育ての伝承こそ自分の子ども、更に先の世代への最大のプレゼントなのです。

 母親の先生や父親を尊敬しない発言や態度によって子どもは先生や父親の言うことを聞かなくなります。
 松陰先生の妹千代への手紙に「婦人は夫を敬うこと、父母同様にするが道なり、夫を軽く思うこと当時の悪風なり。また奢り即ち不相応な態度・発言は甚だ悪しきこと。家が貧になるのみならず、子どもの育ちまで悪しくなるなり」とあります。
 親は決して他人や学校に頼ることなく、我が子と向き合い自らの責任で我が子を教育することが重要であります。
 
(二)松陰先生のお母さん「滝」の姿
 慈愛に満ちた明るさと、強靭な精神力の持ち主であった゛滝゛は、愚痴一つこぼすことなく実によく家族の面倒を見、所帯を切り回しました。全ての人に温容慈顔で接し、家族の雰囲気を明るく和やかにしたのであります。
 一方妹千代に対して「女は辛いとか苦しいとか言う言葉は口にしてはいけない。」と教え、自らも決してそのような言葉は口にしなかったと言います。それでいておおらかな面を持ち、楽天的でユーモアに富んだ性格の持ち主でした。また杉家の場合母親滝の優しさと、父親百合之助、叔父玉木文之進の厳しさとのバランスが誠によくとれていました。巧みなバランスの舵取りが滝お母さんであったのであります。
 
(三)杉家の家風(家庭環境)について
  滝は夫百合之助との結婚に当たって、杉家の学問的雰囲気の中に浸ることを大変喜んだということですから、そういう点に魅力を感じて苦労することが目に見えている杉家に自ら好んで嫁いで来たとされています。何が起きても我が子を信じ抜き、常に温かく励まし続けた養育態度は大いに学ばねばならないところであります。
 松陰は兄の梅太郎と共に幼少の頃から農事の傍ら武士の教養として必須とされた四書を学び、武士としての道徳・倫理観をはっきり刻み付けられ自覚するに至りました。このことは子どもが立派な家風の中で育つことが如何に大切であるかを示しております。
 後に松陰は獄中から妹千代に差し出した手紙に、「杉の家法に世の及び難き美事あり」と認め、その美事として次の六つをあげています。
 第一に先祖を尊び給うこと
 先祖の精勤・功徳・忠節に感謝し、先祖を大切に敬わなければならない。先祖をゆるがせにする家は必ず衰える。ひたすら人道を求める姿勢が窺えます。
 第二に神明を崇め給うこと
 神に立身出世を祈ったり、長寿富貴を祈ったりする者があるが、これは大きな間違いである。神を拝むには先ず己が心を正直にし、己が体を清浄にして他意なく謹み拝まなければならない。菅原道真の作った「心だに誠の道に叶ひなば祈らずとても神や守らん」の歌を投げかけている。
 第三に親族を睦まじくし給うこと
 第四に文学を好み給うこと
 第五に仏法に惑ひ給はぬこと
 つまらない迷信に心を惑はされ、他力本願になってはならない。本を読んで身を修めることが大切だと説き聞かせているのであります。
 第六に田畠のことを親らし給うこと
と杉家の家法を述べています。
 子どもが陶冶されるのは、親が子どもにどのようなことを口喧しく言ってきたかよりも、どのような家風の中に浸ってきたかによるところが大であります。出生時の天性には大差はなく、環境は第二の天性となると言われる所以であります。そして家風とはその家庭において毎日繰り返し仕業の積み重ねによって作り上げられる家のしきたりであります。「」親が変われば子どもが変わる」と言われますが、「不言実行」杉家の家庭教育は教化よりも感化によるところが大きく、まさしく「徳は耳からよりも目からよく入る」という金言の実証でありました。
 
二 松陰先生の教え 
    朗唱会の立ち上げ
 次ぎに平成十五年十一月十五日からスタートしました防府市立図書館における「松陰の教え朗唱会」(月二回)について紹介します。
 長州の誇れる偉大な教育者である吉田松陰先生の教えを声高らかに朗唱し、最も記憶力旺盛な子ども達の年代を大切にし、松陰先生の教えを体得することによって、志を立てること、また強い心優しい心、実行力のある子ども達を育成することをを目的としています。 開講に当たって「志を立てることとは…」「勉強することとは…」この二点について特に入念に解説しました。試行錯誤の中での開講以来六ヶ月を経過し、登録児童数十四名、毎回出席者十名前後で、今尚不安と期待の半ばする昨今であります。

 毎回、全員大声での始業挨拶に続いて星野哲郎先生作詞の『吉田松陰』の歌で朗唱会の幕が開きます。今後とも松陰先生を師として、研鑽を続けたいと念じております。

(参考文献)
『吉田松陰撰集』松風会著
『吉田松陰の思想と生涯』玖村敏雄講演集
『吉田松陰の生涯と教学』折本章著


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第5回松陰研修塾基礎コース最終回記念講演要旨
 
 『留魂録』を読む
(財)松風会理事 石原 啓司
 
 留魂録は松陰最後の著述である。処刑される二日前の二十二日から書き始め、二十六日の夕方書き上げると記されている。
 留魂録を読む意図は2年間にわたり松陰の生涯とか尊王攘夷思想であるとか教育者としての松陰を話させていただいたそのまとめである。松陰は現在も尚多くの人に読まれ考えられるのは、一つは教育者として優れた人格形成、学識は勿論であるが人間的にいかに自分を高めていくかという生涯にわたる学習が不可欠であることを示してくれる。最近の世相を見るとその点が緩やかになったようである。何をしたか、どんな成果があったかということに皆が気を取られ、その人がどんな人物か、人柄かということは二の次となり「あの人は人格者である」ということを言う人は少なくなった。

 政治家も公務員も立派な人格者ということはその人を判断する評価ではなくなりつつある。このことが戦後の最大の欠陥ではないだろうか。人間の努力というか自分自身が反省し高まっていこうとすることを評価しなくなってきている。子どもたちに対してもいい子であれとは言うが勉強することだけに中心があり、よい大学に行き、よい職について一生を終わればそれで結構であるとしか言わないし、立派な人間としての期待をしていないのではないか。彼がどのような人間で社会的に活躍し、どんな生活をしているか考えなくなった。母親が子どもをしかるときの観点も違ってきているようである。松陰は教育者としての資質を持っていたと同時に人並はずれた努力をした。ただ単に教育者・人格者であったから現在も忘れられないというのではなく、実は幕末の政治変動の中で決定的な役割を果たしたからである。幕末史を学習すれば松陰を抜きにしては考えられない。特に留魂録の内容をみればそのあたりのことが理解できる。
 
一 解 題  (松陰全集六巻)
 「留魂録」は松陰が処刑された後、江戸の飯田正伯から萩の高杉・久保・久坂連盟あてに送られたがこれは現存せず、写本が残っている。他の一つは同囚の沼崎吉五郎に託された。彼は三宅島に流され、明治七年に恩赦で釈放された。明治五年に楫取素彦(小田村伊之助)の発見するところとなり、次いで野村靖(和作)にも通じ、明治九年に至って沼崎より野村靖の手に入り、明治二十四年萩市松陰神社に蔵せられた。楫取素彦は生涯松陰の文章を集めて出版することを計画していたし、松陰の妹婿であるから、沼崎から見せてもらったら必ず買い取ったであろうと思うが、読んで返したようである。彼は当時神奈川県の参事であり、県庁の職員が三宅島の調査をしているときに沼崎に会い、「留魂録」のことを知り、紹介を受けている。明治七年五月二十七日沼崎が訪ねて来た時二円を渡して野村靖へも会うように進める。野村は明治九年某月に会ったと書いているが、書いた時期が明治二十四年であるから記憶違いがあるようだ。沼崎は先ず楫取に会ったと言っている。
「先師松陰先生手蹟留魂録の後に書す」
「余曾て神奈川県令たり。一日、老鄙夫あり、来り謁し、小冊子を懐より取りて曰く「奴は長藩の烈士吉田先生の同囚沼崎吉五郎なり。先生殉難の一日、此の書を作り、奴に語げて曰く。余既に一本を吾が郷に贈る、然れども或は阻滞して達せざらんことを恐れ、又是を以て汝に託す。汝、出獄の日、これを長(州)人に致せよ、長人皆我れを知る、其の誰れたるを問わずと。」これをみると一つは沼崎からではなく別のルートで萩へ贈っていたことが分かる。しかし久保は沼崎からと言ってるがここに食い違いがある。多分獄吏が沼崎からだと言って渡したものであろう。楫取が買い取らなかったのは、値段を高く要求されたのではないかと思う。当時経済的に恵まれていた野村が買い取ったのであろう。楫取は読むのさえ二円出しているので買い取りは高額であったに違いない。現在のものの考え方では、沼崎は汚い、あくどいと考え勝ちだが、松陰の遺体を引き取る時でさえ幕吏へのお礼が二十円かかっている。当時は今のように汚職・賄が厳しくない時代であったので、金の遣り取りでこのようなことが行われるのは普通であったのであろう。

 本日は松陰の直筆のコピーを用意した。松陰が牢獄の中で頭を働かせ書いたものが筆跡にもにじみ出ているので、『松陰撰集』の活字と比較して読んで欲しい。
 「留魂録」は全体で一六節に別れている。間もなく処刑されるというのにこの様に冷静に文章が書けるものであろうかと驚異に感じる。松陰は実に冷静沈着に自分のことを書き、後輩への切々たる思いを述べている。多くの人の心を打つのはそのためであろう。
 
二 留魂録の内容(『吉田松陰撰集』七〇四頁.参照)
1 節 至誠観を述べる
 「余去年以来、心跡百変(心がめまぐるしく様々に変わる)挙げて数え難し」と。自分は中国古典に出てくる貫高とか屈原等忠烈の士のことを思い自分を励ましてきた。入江子遠(入江杉蔵・野村靖兄弟)は送別の詩に覚悟して江戸では華々しくやって下さいと言ったが、自分はこの時はまだ死を考えずに、至誠に重点を置いて考えていた。
 誠は孟子の離婁篇の一二章に「…誠は天の道なり、誠を思うは人の道なり。至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり。誠ならずして未だ能く動かす者はあらざるなり」とある。
 松陰はこの「至誠にして動かざるものは未だこれあらざるなり」を実践しようとした。彼が送別の詩として楫取に言った言葉にも残されている。楫取は「留魂録」を見て、二円を支払い、野村に紹介したのはよくよくの理由があったのではないか。彼が買い取れない事情は何であろうか。沼崎は立派な人だとは思うが、これを生活に生かすために高く値段をふっかけたのではないかと思っている。

 幕府の説得に当たろうとしたが、朝廷と幕府の間には意志が通ぜず「蚊虻山を負ふの喩、終に事をなすこと能はず、今日に至る、亦吾が徳の菲薄(少ないこと)なるによれば、今将た誰れをか尤め且つ怨まんや。」と。人格者として社会のために尽くすことを徳(道徳)と言う。徳の考えは論語・孟子の中心をなす思想である。

 松陰は自己反省はするが人を決して咎めない。凄いと思う。この言葉は普通の人には書けないと思う。
 安政五年から六年にかけて日本の幕末政治の転換期が来る。一番の問題は通商条約調印問題である。条約調印に対して幕府は朝廷の同意を得て国民を納得させようとしたが、朝廷は調印を認めない。

 次の問題は将軍継嗣問題である。幕府は紀州藩士徳川慶福をと考えていた。現在は非常の時期であるから一橋慶喜を将軍にしようとする派があった。彼等は有藩、朝廷を含めて公武合体を主張した。これに対して松陰は通商条約調印に反対であった。松陰は『対策一道』(吉田松陰撰集四七一頁)を著し藩主に上申した。和親条約を一歩すすめて通商条約の締結を使命としていた米国の総領事ハリスの強引な交渉により、安政四年秋には幕府もいまや通商はやむをえないと考えるに至っていた。幕府は天皇の勅許という形式で条約締結を図ることにしたが、勅許は通商を否として諸藩主の意見を聞いた上で改めて願い出るようにというものだった。松陰はこの勅許のことを安政五年四月十一日に久坂玄瑞と秋良敦之助の手紙で知り、勅許に諸藩の意見を聞いてとあるからには、近々のうちに長州藩にも意見を求めて来るだろうと判断し、早速「村塾策問一道」(品川弥二郎宛書簡、安政五年四月十二日)を書いて塾生にこの問題について長州藩はどう回答すべきかを考えるよう命じ、同時に彼自身も筆をとった。

 この書で注目すべきことは「墨夷は絶たざるべからず」と断言しており、開国論から攘夷論への転換がさなされていることである。しかし、同時に航海通商こそ雄略だとする開国主義が持されているという矛盾がみられる。だが松陰はそれを矛盾と考えていない。
「凡そ皇国の士民たる者、公武に拘らず、貴賤を問はず、推薦抜擢して軍帥(一軍の大将)舶司(大鑑の司令官)と為し、大艦を打造して船軍を習練し、東北にしては蝦夷(北海道)・唐太、西南にしては琉球・対馬、憧々(往来の絶えない様子)往来して虚日あることなく、通漕捕鯨(海上運送と鯨をとること)以て操舟を習ひ海勢を暁り、然る後往いて朝鮮・満州・及び清国を問ひ、然る後広東・咬留?(ジャカルタ)・喜望峰・豪斯多辣理(オーストラリア)、皆館を設け将士(将校と兵士)を置き、以て四方の事を探聴し、且つ互市(貿易)の利を征る。此の事三年を過ぎずして略ぼ弁ぜん。然る後往いて加里蒲爾尼亜を問ひ、以て前年の使いに報い、以て和親の約を締ぶ。果して能く是くの如くならば、国威奮興(国家の威力を奮い起こす)、材俊振起(優秀な人材を奮い立たせる)決して国体を失ふに至らず、又空言以て驕虜を懲するの不可なるに至らざるなり。然れども前の論は以て墨夷を却くべし、…」(「対策一道」吉田松陰撰集四七五頁)
松陰は日本が国力をつけてから対等の立場で通商条約は結ぶべきだと考えており、国力充実は三年もあればできるから、その上でこちらから条約締結の話を切りだしていこうという。つまり松陰の攘夷論は実は開国延期論だという見方はそういうところからきている。

 四月二十三日井伊直弼が大老に就任すると、朝廷の許可を得ずに条約調印をした。更に六月十九日、将軍継嗣問題は徳川慶福で決着した。井伊は九月に入ると朝廷から戊午の密勅が出るに至り、間部を通して京都に手入れを行う。そして鷹司・水戸藩等に係わる尊攘派志士の逮捕が始まる。これが安政の大獄である。
 松陰は九月九日、書を江戸在住の松浦松洞に送り、水野忠英暗殺の策を与える。九月二十七日大原重徳にあて、「時勢論」を送り長門下向(勤王の公家を長州藩に迎えて有志の藩を数藩集めて旗揚げをして、長州を中心に幕政改革をしようとする)をすすめる。10日には赤根武人に伏見の獄を破壊する策を与える。十一月六日には同志一七名と血盟して老中間部詮勝を要撃しようと謀り、願書案文を周布政之助に示して声援を求める。周布に金や大砲等を出せと正面から願い出ている。この時はさすがの藩もあわて、父の病気等もあって十二月二十六日野山獄に再入獄される。松陰は死ぬ気であるので、父、叔父、兄に永訣の書を出す。これは現在も松陰神社の神牌として祀られている。幕府はこの時期橋本左内と松陰を最も危険人物と考えていたようである。松陰は安政六年五月二十五日江戸送りとなり、萩を出発する。
 
2節 評定所の取調べの経過報告(〜七節まで
 七月九日、松陰は初めて評定所へ呼び出された。三奉行(寺社奉行松平伯耆守宗秀・勘定奉行池田播磨守頼方・町奉行石谷因幡守穆清)が出座し二つのことを尋問された。
 一つは梅田雲浜とどのような密約をしたか。二つ目は京都御所内に落文(権力者や政治に対する批判や風刺などを匿名で書き記した文書)がありその筆跡が似ているがどうかというものであった。松陰はこのことを否定した。これで終われば松陰の刑は軽かったかも知れないが、井伊がいるかぎり松陰は重罪に処せられたであろう。しかし松陰はその後「六年間幽囚中の苦心する所を陳じ、終に大原公の西下を請ひ、鯖江侯(間部詮勝)を要する等の事を自首す。鯖江侯の事に因りて終に下獄とはなれり」と「留魂録」にあるように、言わなくてもよいことまで述べた。松陰は間部要撃策のことを幕府は既に知っていると思い述べたものであるが、実は幕府は知らなかった。
 
3節 幕府役人の調査の概要と松陰の弁明態度と心境を語る
 松陰は「留魂録」に「私の性格は激しく人から怒りののしられると我慢できない。だから努めて時勢に従って、人情に適するように努力した。安政五年、幕府は勅許を得ないで日米修好通商条約に調印したのはやむを得ないことである。それで現在一番相応しい対応策を立てたのである。」と述べた。
 しかし幕吏は「汝陳白する所悉く的当とも思はれず、且つ卑賤の身にして国家の大事を議すること不届きなり」と。松陰は幕府の法律では庶民が政治を口にすることを許さないのは仕方ないことであり、この際議論はすまいと考えた。薩摩の日下部以三次は今のようなことでは幕府は三年か五年でつぶれると堂々と言ったため役人を怒らせ、死罪になっても悔いはないと言ったが、自分はそのようなことはしないと述べている。
 
4節 九月五日、十月五日の両度の幕府役人取調
 今回の取調は甚だ疎略である。松陰は安政元年の取調の経験と比較して言っている。ペリーの船で出国しようとした下田踏海では丁寧な取調で松陰の意図をよく汲み取って罪も軽くて済んだ。松陰には幕府はもっと理解してくれると期待感があったのであろう。
 最後は十月十六日に至り、読み聞かせがあり直ちに書判(署名の下に押印の代わりに書く。花押)せよと言われた。自分が苦心した墨使応接、航海雄略等の論(アメリカ使節との外交交渉や海外渡航の雄大な計画に関する考え)は全然書いてくれない。「不満の甚だしきなり。甲寅の歳(安政元年)、航海一条の口書きに比する時は雲泥の違ひと云ふべし。」 安政の大獄時期で、いちいち詮索することなく、松陰を死刑にせよという井伊の考えのあらわれそのものである。
 
5節 間部要撃策と松陰の態度(累犯者を出さず)
 幕府は既に知っていることと思い大原公のことや鯖江要駕策のことを述べたが、幕府は知らなかったようである。幕府が知らないことを述べて罪人者を芋蔓式に引っ張ると、善良な人まで傷つけることとなるので、自分一人でやったことにした。「…京師往来諸友の姓名、連判諸氏の姓名(老中間部要撃を誓約した一七名の連署)等成るべき丈けは隠して具白(もれなく申し立てること)せず、是れ吾れ後起人(後に続いて企てに加わった人)の為めにする区々の婆心(取るに足らない老婆のような親切)なり。而して幕裁果たして吾れ一人を罰して、一人も他に連及なきは実に大慶(大きな喜び)と云ふべし。同志の諸友深く考思せよ」(「留魂録」吉田松陰撰集七〇七頁)
 
6節 間部要撃策の松陰の供述を幕吏が故意に変えた
 間部を諫める程度にしか話していないが、実際は事遂げざる時は、鯖江侯と差し違えて死し、警護の者がいるときは切り払えとなっている。三奉行は、罪を犯したと白状させようとしている。
 「是れを思へば、成仁の一死、、区々一言の得失に非ず。(我が身を犠牲にして仁徳を成し遂げるための死(『論語』)や取るに足らない一言がもたらす利得・損失といったものではない)今日義卿奸権(幕府の権力)の為め死す、天地神明に照鑑上にあり(天地の神々が御覧になっている)、何惜しむことかあらん」
 
7節 三奉行の権詐と死生について覚悟を語る
 今回江戸に来てから生死をあまり考えずに至誠が天に通じるか否か自然に任せている。しかし、七月九日には死を覚悟した。
 「…然れども十六日の口書、三奉行の権詐、吾れを死地に措かんとするを知りてより更に生を幸ふの心なし。是れ亦平生学問の得力然るなり。」こうして自分が常日頃学問から得てこの様なことになったと書いている。これは松陰ならではの言葉である。
 
8節 松陰の死生観(四時循環説)
 自分が死を決する安心(心が落ち着き不安がないこと)が得られたのは、四時の順還(四季が順にめぐること)の考えを得たからである。四時というのは穀物をみるに、春種蒔きし、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬は貯蔵する、このような循環があるように人間にも、生まれ、そして社会のために働き、名を成して一生を終わる。収穫の時には酒を造りお祝いをするように、誰も哀しむ者はいない。このように吾は三十歳で死んでいくのは実りなければ惜しむべきであるが、自分から云えば四時は備わっていると言っている。十歳で死す者は十の四時があり、五十、百は五十、百の四時がある。十歳を短いというのは生命の短いひぐらし蝉を、長生きする霊椿を基準にして考えるようなものである。
 「義卿(松陰)三十、四時已に備はる、亦秀で亦実る、其の秕(からばかりで実のないもみ。つまらない例え)たると其の粟たると吾が知る所に非ず。若し同志の士其の微衷を憐み継紹(受け継ぐ)の人あらば、乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年(穀物の良く実る年)に恥ぢざるなり。同志其れ是れを考思せよ。」成果が有ったかどうかは分からないが自分を憐れんで後継者足らん人は頑張って欲しい。自分の種子を育てて欲しいと強く述べている。
 
9節 同志に対する遺言(留魂録の骨子をなすもの)
 諸友、門下の同志と獄中で新たに得た同志の連携結束を強め尊王攘夷の強化を依頼した。「吾れの祈念を籠むる所は、同志の士甲斐甲斐しく吾が志を継紹して尊攘の大功を建てよかしなり」
 
10節 「尊攘堂」について依頼
 堀江克之助(水戸藩郷士、安政四年アメリカ総領事ハリスが将軍と会見するため登城するのを要撃しようとして捕らえられた)は常に神道を崇め、天皇を尊び、大道を天下に明白にし、異端邪説を排せんとしていた。そのためには京都に学校を造らねばと考えていた。 松陰は同じ考えで入江に「尊攘堂」の設置を願っていた。松陰は安政六年十月二十日入江杉蔵宛てに遺言を書いている。(『吉田松陰撰集』六九八頁)「…京師に大学を興し、上、天子親王公卿より下武家士民まで入寮寄宿等も出来様致し、恐れながら天朝の御学風を天下の人々に知らせ、天下の奇材英能を天朝の学校に貢し候様致し候へば、天下の人心一定仕るに相違なし。…」
 入江は禁門の変でなくなり、明治二十年品川弥二郎が尊攘志士を祭り、肖像・遺墨・遺品を保存するために尊攘堂を建てた。
 もう一つは京都に大学を造りたいと言うこと。これは優秀な人材を集めて国家に尽くす人を育てたい。入江宛手紙に「…学問の節目を糺し候事が誠に肝要にて、朱子学ぢゃの陽明学ぢゃのと一偏の事にては(通り一ぺんのやり方では)何の役にも立ち申さず。尊王攘夷のの四字を眼目として、何人の書にても何人の学にても其の長ずる所を取るようにすべし。」自分は朱子学で育ってきたが、朱子学とか陽明学とか言っても何の役にも立たない。全ての学問の良いところを取り入れればよい。本居学・水戸学は違っても尊攘の二字は同じである。松陰は朱子学を中心に学び、後に王陽明「伝習録」をしっかり学んだが、一つの学問にこだわってはいない。
「尤も湖城(井伊直弼のこと)・鯖江(間部詮勝)等威権を振ふ間は少し御見合わせ成さるべき候。近年の内両権仆るべし。」入江の手紙の最後に「足下(入江)と久坂とのみを頼むなり。高杉大いに長進とは察し候へども、此の地にても十分の議論せず帰国、大いに残り多き事どもなり。」と入江と久坂を頼みにしていたことが分かる。
 高杉は松陰処刑後すぐに周布に宛て手紙を書いている。幕府が師の首を獲ったが、どんなことがあっても幕府を倒すと。高杉は日夜松陰の書き残したものを読み、肉体と精神の錬磨に励んだ。手紙に書かれていることで松陰門下生が松陰の死をどのように受け止めたかが分かる。
 
11節 「学習院」の利用、改善策(小林民部の案)
 この節では小林民部(尊攘運動に奔走する。安政五年水戸密勅事件で捕らえられ、六年伝馬獄で亡くなる)のことを述べている。
 
12節 高松藩士長谷川宗右衛門の言葉を紹介(松陰の感激した言葉)
 牢獄で行き違ったとき長谷川宗右衛門(高松藩主と水戸藩との周旋に努める。尊攘に奔走し次男速水と共に伝馬獄入れられる)は「寧ろ玉となりて砕くるとも、瓦となりて全かるなかれ」と言った。松陰はこれに同感であった。平々凡々と人生を終わるも良いが大義のために終わることはもっと大事であると。
 
13節 尊攘運動の大同団結を呼びかける
 「右数条、余徒らに書するに非ず。天下の事を成すは天下の有志の士と志を通ずるに非ざれば得ず。」今までの尊攘運動は個人・散発であったが、これからは大同団結をしてやらねばならないと言っている。
 
14節 橋本左内の紹介
 橋本左内は福井藩士で松陰とは違った意味で政治通の優秀な人材であったが、二十六歳で斬首される。
 
15節 月性、口羽徳祐を全国に紹介したいので頼む
 
16節 尊攘運動の同志を紹介(尊攘運動の全国的展開を期待)
 「同志諸友の内、小田村(小田村伊之助)・中谷(中谷正亮)・久保(久保清太郎)・久坂(久坂玄瑞)・子遠兄弟(入江杉蔵・野村和作)等の事、鮎沢(鮎沢伊太夫)・堀江(堀江克之助)・長谷川(長谷川速水)小林(小林良典)勝野(勝野保三郎)等へ告知し置きぬ。村塾の事、須佐(育英館)・阿月(克己堂)等の事も告げ置けり。飯田(飯田正伯)・尾寺(尾寺新之丞)・高杉(高杉晋作)及び利輔(伊藤利助・博文)の事も諸人に告げ置きしなり。是れ皆吾が苟も是れをなすに非ず。」これは単なる身びいきで紹介したのではなく、悲願達成には君達が必要であることを述べている。
 
三 留魂録の歴史的意義
 「留魂録」の歴史的意義は、安政の大獄の意味が実に生々しく書かれていることである。
 井伊直弼をよく誉める人がいるが、私はそれは理解できない。人間的とか趣味の世界でのことではなく、その人が公に何をしたかということで判断しなければいけない。井伊は幕府権力の維持が第一で、日本の将来がどうなるかということよりも当面幕府をどうするかと言うことのみである。
 松陰は日本の将来をどうするか、それには今何をすべきかと言うことを亡くなるまで考え続け実践した。松陰は安政の大獄処刑者六人の最後の刑死で一人であった。
 
 
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『松陰先生に学ぶ』の読書感想文
 (財)田中教育振興財団(周南市)では十三年前から旧新南陽市内の中学校PTAに山口県教育会発行の『松陰先生に学ぶ』を寄贈し中学校一年在学の全家庭に配布しておられる。
 昨年読書感想文の募集をされ、二十八名の応募があり、優秀三編、佳作五編を選考された。その中から優秀作を田中教育振興財団の御協力により掲載する。
 
 
「松陰先生に学ぶ」を読んで
和田中学校 一年(現二年) 中村知実
 私は、松陰先生のことを、あまりよく知りませんでした。
 でも、わずか六歳であとを継ぎ、何事にもまじめに行動して、厳格な教育を課したりといったことをした人だと知って、とてもすごい人だと思いました。特に、死んだ方が気楽、と思えるくらいの、教育をたえて課したというのが私は、とてもすごいと思いました。
 この本に、書いてあったことで、すごく納得した文があります。
 それは、つらくてもおもしろくなくても、がまんしてやる。という文と、勉強というものを、上の学校へ進学するためにとか、ものをたくさん知っていた方がかっこいいからなどと考えている人は、進めば進むほどダメになる。という文です。私は、なんのために勉強しているのか考えてみました。その結果私は、夢のために勉強しているのだということにたどりつきました。これからも、松陰先生の教えを思い出しながらがんばって勉強していきたいと思います。
 この本は、松陰先生はこう考えていたみたいだけど、私はこう思うとか、私も同じ考えだとか、すごく自分の考えがもてます。他にも自分の考えをもてた内容があります。
 松陰先生が罪人になって獄に入れられた時入っていた人達は、人柄がかたくなであったり、しまりがない人達でした。そんな人達が冷えきった生活をしているのを見て、これではいけないと思い、自分自身で、みんなに、希望を持たなくてはいけない、と教えました。
 普通の人では、こんなことは思ったりしないと思います。こんなことを思って自分自身でなにか出来るのは、優しい心を持っていないと出来ないと思います。だから、私は、松陰先生は、人のことを考えることが出来るすごい人だと思います。
 
 
志について
和田中学校 一年(現二年) 長沼 莉子
 吉田松陰は何をした人か、私の記憶には、山口県萩の出身で、幕末に松下村塾でたくさんの人にえいきょうを与えた人という印象しかありませんでした。
 この本を読んで松陰は人のため、国のために人生をささげた、偉大な人であることが良くわかりました。わずか二十九歳で一生を終わる短い間に、いろいろなことがあったとびっくりしました。
 今の教育と考え方がちがいますが、松陰は、だれにも、平等で塾に集まってくる青少年に、志を同じくする友人と考え、志を同じくするということに値打ちがあって、自分の進むべき道を見つけ、自分は、どのように生きたらよいかという問題をみつめながら勉強するように教え導いたことで、たましいに火を付けられた青年は、必死の努力で燃えすばらしい人間が生まれたのである。私も松下村塾に入ってみたかったです。そしたらどのように生きたら良いかがわかったかもしれません。
 松陰の学問は、向こうから教えてくれるのをまつのではなく、自分から求めていく学習方法で自分が知らないことや理解が不十分な点については、知っている人を訪ねて教えてもらうことだ。東北や九州まで旅をしたそうです。それもおどろいたことに歩いてである。
 現代では容易だが、大変だったと思う。
 松陰は、おどろくほどこまめに書いて勉強したことがわかった。自分で書きうつし大事な部分や大事だと思う言葉を書き写し、それに自分の考え方や感想を書き加えたことで、深く読み、深く理解する。それから、討論の重視で、よりすぐれた考えにたどりつくことが松陰の学習方法だと思いました。私もこれからは、なっとくいくまで勉強し人に聞くことをおそれないようにしたいと思います。
 これから、少しでも本を読んで私が何をしたらいいのか考えたいと思います。
 今年も読み返したいです。
 
「松陰先生に学ぶ」を読んで
福川中学校 二年(現三年) 古川 修一
 吉田松陰は、二十九歳と二ヶ月の若さで処刑され亡くなった。僕は、冬が来たら十四歳になる。
 松陰の家は貧しい武士の家で、父親は武士といっても畑仕事もしていたようだ。その合間に松陰と兄に学問を教えるほど教育熱心な親だった。机の上での勉強ではなく、家のために働きながら兄の梅太郎と一緒に励んでいたようだった。やる気さえあれば、どんな場所でも学ぶことは可能なんだと改めて気がつきました。
 この兄、上梅太郎という人は弟の松陰に教えを受け、松陰を金銭的にも精神的も支え続けた人だった。他の弟子達が裏切ったときも、荒れた松陰の気持ちをなだめ見守り続けたのは兄だった。
 僕にも五歳年上の兄がいる。兄にはなかなかかなわない。腕相撲をしても、プロレスをしても、バスケットをしても、僕はやられてしまう。松陰兄弟の兄には松陰の優れた所を素直に認め喜べたんだろうか。僕には妹もいるが、悪い所ばっかり目について、たまにある良い所を素直に誉めたり認めてやることが出来ずにいる。もちろん、ケンカもよくする。松陰兄弟は、ケンカはしなかったんだろうか。そういうことは、本には載ってなかったから知りたいと思った。
 松陰は、何年も牢獄に入れられた。野山獄では、十一人の囚人達と勉強会をして、教えたり教わったりしながら、牢獄の中でも前向きな生活をし、学ぶ気持ちを忘れなかった。普通の人なら、やけを起こしたり、全く希望をなくしたり、毎日を憎んで暮らしたりするかもしれないのに、どんな境遇にあっても、希望を失わず、自分を高め、他人の幸せを考え国の成り行きを考えるところは、松陰は立派だと思った。牢獄に入れられている人は、今みたいに、すごく悪い事をして入れられた人ばかりではなかったようです。一人の婦人は、家に来た、非人の人を泊めた事をとがめられ投獄されたようです。それとか、人柄がとてもかたくなであったり、しまりがなかったりして、家族や親戚の人達が困って藩に願いが出て獄に入れてもらったという人もいたようです。
 この時代には、自由に思ったことを主張することが許されなかったり、上の役人が危ない思想をもっていると思ったりしたら、何年もの長い間、牢獄に入れられ身体の自由をうばわれてしまう。
 思ったことも自由に発言できず、士農工商の階級制度もあり、生まれながらに不平等な一生を送る。今みたいに誰もが勉強出来るわけじゃなかった。僕は勉強が嫌いなのでその点だけなら問題ないと思った。でも、友達と昼休み遊んだり、放課後に部活動したり学校があるからそんなことも出来ると思えば、勉強は好きじゃないけれど学校は必要と思える。
 松下村塾では、志ある人なら、どんな身分の人でも学問を受けることができた。松陰は人の身分を決めたり、差別することを嫌っていたようです。
 松下村塾では、入試もなければ卒業証書もない不思議な小さな私塾。松陰が身を置く所は、牢獄だろうが自宅だろうが学ぶ場所になっている。幼い頃、父に連れられ畑仕事の合間に勉強を教わった経験が生きている気がしました。
 良い環境だから勉強ができるのではなく、求める気持ちが大切であり、松陰のように良い先生を持つことも大事だと思いました。松陰の一人目の先生は、父親でした。次は、父親の弟にあたる玉木文之進。玉木文之進には、勉強態度が悪いと、たたかれたり縁側から突き落とされたりしたそうです。僕は、勉強しなさいと言われることはあっても、たたかれたりしたことは一度もありません。びっくりしました。
 この松下村塾からは、多くの志士と呼ばれる人が輩出されました。江戸末期から明治に活躍した人達です。松陰が江戸で処刑される前々日から二日間で書き終えた留魂録という弟子達への遺書があります。
 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」
という一文から始まる。自分の命がなくなっても、松下村塾で学んだ若者達が松陰の遺志を継いで世の中を良くしてくれると信じていたんだろうと思います。
 僕は、松陰のように自分だけの為ではなく、誰かの為に、国の為にと考え行動していた人達が多くいたから、自分達は快適な生活が送れ、学校にも通えるのだろうと思いました。
 


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1冊いかがでしょうか
 
書名 『吉田松陰語録集』B5版、p39
発行 萩松朋会、(財)松風会
    定価 500円(限定200部)
申込 (財)松風会・萩松朋会
 萩松朋会(松陰研究グループ)が『脚注解説 吉田松陰撰集』(松風会刊行)の中から人生の指針となるもの、感動・感銘を与えるもの、生きざまが読みとれるもの等を語録として選定したものである。
 先ず言葉をのせ、次ぎにその解説をし、出典を明らかにし、備考でその言葉の出たいきさつなどを説明している。
 特に五十音順に検索できる索引は大いに利用価値があるように思える。
(例:本書7頁から)
○ 憤?を待ちて而る後之れを啓発せんと欲するのみ。
解説
 疑問や悩みで心がふくらみ、わかっていて口にまで出ているが、言葉にならないもだえの状態になるのを待って、その後、教え導こうとしたのである。
[出典]
 「従弟玉木彦介に与ふる書」(野山獄文稿)安政元年か(1854か)25歳(撰集p214、全集第二巻p300)   
(備考)
 この書は、彦助を激励し勉学の心構えについて教示したものである。松陰はただむやみに教えこもうとしたのではなく、この言葉のようにやる気を待って教えようとしたのである。
本の紹介
書名『Shouin Yoshida Soulful Minute, 吉田松陰 留魂録』
B5,233p,訳 紺野 大介 出版社 錦正社 定価4,000円
 この本は一口で言えば、吉田松陰の『留魂録』の英訳本である。
 著者の紺野氏は、はじめにで「(前略)松陰研究者の殆どが強調しておられるように、「留魂録」に至る幽囚録、士規七則、講孟餘話、七生説などからも松陰の本質は至誠の教育者そのものである事が判り、最終作品となった「留魂録」に至っては、遺書にも拘わらず「教育とは何か」を深く考察させている。また第8章などの{死生観}は日本人万人の共感を呼ぶと思われる。それは筆者の知っている限りの欧米中国他の多くの人々にとってもおそらく同様であろう。
 何故なら、いわゆる人間としての“民度”が限りなく高いのである。
 「留魂録」は松陰を師と仰ぐ幕末の志士達に{聖書}として作用し、“明治維新”という自分達の手で勝ち取った新時代を構築し、新しい日本を主導したのである。(中略)

 世界各国から見て、国政に基づく海外への一挙手一投足はもとより、主要国から見ても、日本は限りなく軽い存在、大国に対し萎縮し、一方で絶対精神が弛緩した状態なのではないかと思われる。
 個々人の“民度”が限りなく下落した結果といえよう。
つまり、言葉を撰んで述べる必要があるけれども、それは米国から与えられた平和主義、自分達の手で勝ち取ったものではない民主主義がもたらした“全体”のためなのであろう。米国などよりもずっと歴史の豊かな日本で、過去と全く結びつかず未来を模索することは、表現できないほどの大きな損失である。その損失に個々人が早く気付くべきである。
 他方、少なくとも幕末維新まではその対極にあったことを歴史が証明している。正義を貫徹するためには血を流す覚悟があった。凛然とした気概が横溢していたと察せられる。

 安っぽい国益や経済援助ではなく、外国人はこういった日本、こうした残像のある日本人にこそ敬意を払っているのだと愚考、愚察している昨今である。本拙訳書刊行の動機はここにあり、外国人のみならず日本人にもこのことへの再考の一助となれば幸甚である。(後略)」と述べている。

 河村太市氏(県教育会会長・松風会理事)は、本書跋文の中で「(前略)本書について第一に指摘させていただきたいことは、松陰の厖大な著作の中から「留魂録」を撰ばれた紺野先生のご見識であります。
 選定された理由は、「はじめに」詳しく述べてありますが、特に{松陰の魂の叫びが聞かれ、重い警鐘を現代の日本人に与えていること}{“教育とは何か”を深く考察させていること}、また{その死生観は日本人のみならず外国の人々の共感も得られるだろう}といわれた言葉が注目されたのでありますが、とりわけ、紺野先生が{限りない優しさと、言葉の最良の意味における愛情で我々に語りかけている}松陰の心情にうたれたためでありましょう。」と述べている。
 
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平成16年度開設「第6回松陰研修塾基礎コース」開催要項
主 題  教育者吉田松陰に学ぶ
趣 旨  吉田松陰は、至誠留魂の気迫とその実践を貫いた本県の誇る偉大な歴史的人物である。
  松陰の生き方は、時代を越えて常に課題解決の指針を示唆し、汲めども尽きない奥深い人間像と、限りな い探求が今日望まれている。
  そのような吉田松陰に触れたいと思いながらも、取り掛かりが見つからない、どのように研修を進めればよいか糸口が欲しい、これから吉田松陰に学び教育を見直したいと志す方のためにこのコースを開設する。
一年次   
第1回16, 7,24(土)9:30〜17:00 県教育会館
 講 義「吉田松陰の生涯」       石原啓司先生
 座談会・自己紹介・どんな学習を期待するか
 講 義「今改めて松陰に学ぶもの
      (志を育てる教育)」      河村太市先生

第2回16,10,30(土)・31(日)
        萩青年の家(萩市内巡検)
 講 義「生家,杉家の人々」      河村太市先生
 講 義「萩と吉田松陰(巡検事前研修)」
   史都萩を愛する会会長・松陰研究家 松田輝夫先生
 現地研修「松陰ゆかりの地」      松田輝夫先生
 座談会「松陰から何を学ぼうとするのか」
 講 義「尊王攘夷思想と吉田松陰」   石原啓司先生
 輪 読 『松下村塾記』         河村太市先生

第3回17, 2,26(土)9:30〜17:00 県教育会館
 講 義「二人の女性と吉田松陰」    松田輝夫先生
 講 義「幕末の政治と吉田松陰」    石原啓司先生
 輪 読「『諸生に示す』」        河村太市先生
 
二年次    
第1回 17, 6,25(土)9:30〜17:00 県教育会館
 講 義 「先師 山鹿素行」  河村太市先生
 講 義 「『講孟餘話』を読む」 石原啓司先
 輪 読 「妹千代への手紙より」河村太市先生

第2回17, 8,27(土)10:00〜12:00 県教育会館
 講 義 「西遊日記」石原啓司先生

第3回17,10,15(土)16(日)1泊2日
 長崎・平戸方面巡検

第4回18, 1,28(土) 9:30〜15:00 県教育会館
 記念講演「山口県の教育風土その伝統と形成」
              河村太市先生 
 記念講演「『留魂録』を読む」       
              石原啓司先生 
閉講行事  修了証授与、主催者挨拶・来賓挨拶
 
主 催  財団法人松風会
共 催  山口県小学校長会   
     山口県中学校長会
     山口県高等学校長協会           
     財団法人山口県教育会
後 援  山口県教育委員会 
     山口市教育委員会            
     萩市教育委員会
 
参加の申し込みについて
 1 申込期限  平成16年7月20日(火)
 2 申込先  753−0072 
   山口市大手町2−18 県教育会館内
    財団法人松風会宛て
 3 参加者への助成  
    巡検のバス代・萩青年の家の使用料等
 4 参加費  不要
5 参加資格 なし
 
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