名は直方、安政5年(1858)12月、松陰が野山獄へ入獄の時、獄まで見送った門人の中に名前がある。また松陰東行の送別の詩があるので門人には間違いないが、その他不分明。
(第4巻504p、第9巻591p)
名は常一、字は君儀、吉田(下関市)の出身。
安政5年(1858)、松陰が野山獄に入獄の時、既に入獄していた。高橋藤之進(司獄福川犀之助弟)と松陰の指導を受けた。
2月末大島に流されたが、後松陰と謀り野村和作が伏見要駕策で使いをしたのを追ったが果たさなかった。その後の経歴は不明である。
維新後実業界に入ったと言われている。
(第5巻126・172以下・273p、第8巻458・508・533号)
名は遜、字は伯言、号は猶龍。大和郡山(こおりやま)の士、森田節齋(もりたせっさい)の門人。
嘉永6年(1853)冬、郡山侯に沿岸の警備を命ぜられ、翌年正月出発し、江戸に赴き病気にかかる。一旦良くなったがまた病気となり、6月に亡くなる。享年27歳。
松陰は嘉永6年5月、節齋の紹介により訪問する。
(第7巻第72号、第8巻第323号)
名は孟緯、字は公圖(図)、または無象、初めの名は卯、字は伯免、新十郎と称す。星巌は号、外に天谷・百峯・老龍庵の号がある。美濃安八郡曽根村出身。幼児より学に就く。
15歳の時江戸に出て、古賀精里・山本北山に学ぶ。間もなく故郷へ帰る。
22歳で再び江戸に出て山本北山の門に入る。後、妻紅蘭と20年にわたり四方を遊歴し、天保5年(1834)神田柳原の北隅お玉ケ池付近に玉池吟社を興し詩名が天下に知れ渡る。
弘化2年(1845)京の北鴨川上に鴨沂(おうぎ)小隠を建てる。星巌もともと慷慨(こうがい)の志あり。
安政5年(1858)秋、間部詮勝(まなべあきかつ)が幕命を受け京都に上り、勤皇攘夷の士を弾圧するという噂があり、星巌は慷慨し漢詩25首を作る。既に病気にかかり、9月に亡くなる。享年70歳。没後3日、尊攘家、妻紅蘭が捕らえられる。妻は後釈放され明治12年3月亡くなる。星巌は明治24年正四位を贈られる。
松陰は嘉永6年10月、同12月京都で星巌に面会し、後安政5年5、6月頃「対策」・「愚論」・「続愚論」等を贈った。星巌はこれを孝明天皇乙夜の蘭(いつやのらん、天皇の書見)に供した。
(第4巻432p、第7巻第97・98号、第8巻第326・329・330・342・368号、第9巻346p)
水戸藩士、幼より武術を好む。18歳で徒士目付(めつけ)となる。藩主徳川斉昭が幕府から咎めをうけるとその無実を晴らすため尽力する。
安政3年矢倉奉行、5年水戸に密勅降下の際、同志と共に列藩遊説のため出発。姓名を弓削(ゆげ)三之允と変え、関鉄之助と共に山陽の諸藩を訪い、12月29日に萩に来る。萩藩府は恐れて忌避する。松陰はこれを聞き門弟を差し向け努力したが、要領を得ないまま翌年正月7日去る。後九州に赴き3ヶ月過ぎて東へ帰る。
爾来(じらい)勅旨遵奉の議を主張し、桜田・坂下の義挙を助け、文久2年夏勅使大原重徳の東下にかかわり幕政改革藩論一致のために奔走中病気で亡くなる。享年39歳。大正4年正五位を贈られる。
(第8巻第434・436・439号)
名は高補、通称は八郎左衛門、素水は号である。津軽の人で平戸の山鹿家と共に山鹿流兵学の宗家である。江戸に出て家学を教える。
松陰は嘉永4年江戸遊学中従学する。その著「練兵説略」には宮部鼎蔵・長原武と共に松陰の序文もある。松陰は素水を評して「学術なしと雖も、才性人に過ぎ、能く家学を講究す」と言ったが、後嘉永6年には卑とみることとなった。
(第1巻290・293頁、第7巻第20・46・87号、第9巻153頁以下)
幼名藤五郎、名は高紹、巌泉と号した。
文政2年平戸に生まれる。藩士平馬(名は義都)の五男。幼にして山鹿の宗家に入り、家学を以て藩に仕える。家老格。安政3年10月4日亡くなる。享年38才。
松陰は嘉永3年9月平戸に遊学し、葉山佐内及び万助の門に入って修学する。
(第7巻第3・7号、第9巻37頁以下、第10巻152頁)
後の公爵山県有朋、幼名辰之助、次いで小助・小輔・有朋と改める。千束・狂介は通称である。素狂・含雪・芽城・椿山荘主などの号がある。萩に生まれる。父は三郎と言い藩の軽率である。早くより文武に志し大いに努力する。
安政5年19歳の7月、藩命により松下村塾生杉山松介・伊藤利助・伊藤伝之助・岡千吉等と京都の情報偵察に赴く。京都で久坂玄瑞に知られ、その紹介で9月帰国後松下村塾に入る。
不幸にして松陰再び投獄され、師事することが出来なくなった。山県はその後国事に奔走したが、その名を知られるようになったのは、慶応元年高杉晋作の奇兵隊の軍監となり、藩論が統一された頃である。
維新の際、参謀として越後へ出征。次いで欧州を視察し、帰国後陸軍中将の任ぜられ、次いで陸軍卿となり、爾来我が国の軍政の首班として活躍する。明治27,8年戦役には」第一軍司令官、明治37,8年戦役には参謀総長。明治・大正を通じて重臣の一人であった。明治17年華族に列せられ伯爵、28年侯爵、40年公爵を授けられる。大正11年2月1日亡くなる。享年85歳。国葬を賜る。
(第4巻395頁、第5巻181頁、第8巻第367号)
名は禎、字は文祥、通称は半七、吉城郡天華村(山口市天花)に生まれる。後山県氏を継ぐ。
筑前の亀井道載に徂徠学を受け、後江戸に赴き林家に入り宋学を学ぶ。
文化7年(1810)明倫館学頭助役、文化9年側儒、兼学頭を命ぜられる。
文化14年(1817)世子斉広に句読す。文政7年(1824)側儒専任になる。
天保6年(1835)1月、学頭となり、嘉永2年(1849)新明倫館落成し規模学制整う。彼の功績は大きい。嘉永3年学頭を免ぜられ、嘉永4年藩命により四書集註の訓点(くんてん、漢文を読むために原文に書き加えた文字・符号等)を改める。嘉永5年隠居し、慶応2年8月亡くなる。享年86歳。
松陰は兵学師範として彼の下で教えた。安政2年「講孟余話」の批評を乞い、その国体論が相容れないことを知る。
(第3巻講孟余話付録評語、第4巻76p、第7巻第26号、第9巻515/523p)
萩郊外松本村の安田直温の第三子、幼名を辰之助、名を子誠といい、松陰等と共に玉木文之進の塾に学ぶ。後嘉永元年(1848)山県太華の養子となり、通称を半蔵、名を衡、字を世?と改める。号を潮坪という。天保14年(1843)松陰の兵学門下生。20歳頃までは松陰と親しく交際したが、その後養父の国体論の違いにより人物としては優れていると思いながらも疎遠となる。
嘉永6年(1853)幕府役人と樺太・蝦夷を巡視する。安政以来志士と交わり、国事に奔走する。世子の侍講となる。慶応元年幕府の長州問罪使が広島に来ると宍戸備後介(ししどびんごのすけ)と改名し、中老格として広島で陳情に努める。しかし、幕府に一時拘留され、後釈放される。その功により、禄を別に給され、宍戸氏と称す。
維新後山口藩権大惨事に任ぜられ、刑部少輔・司法少輔・同大輔を経て駐清(しん)特命全権公使となる。明治20年子爵を授けられ、貴族院議員に勅選せられる。34年10月1日亡くなる。享年74歳。従二位を贈られる。
(第1巻103頁、第2巻354頁、第4巻471頁、第7巻第61・89・216号、第8巻第383号、第9巻518頁以下、第10巻166頁)
名は初め顕孝、後に顕義、号を空斉・養浩斉・不抜・韓峯山人等という。長州藩士顕行の子ども。幼ない時より和漢の書を読み、安政5年(1858)15歳で松下村塾に入る。幼く期間も短かったが、後年松陰を追慕すること一番であった。文久元年の「一燈銭申合」に参加し、翌年の攘夷血盟にも加わり、勤皇の大義を唱え京都へ奔走する。
文久3年冬帰国して狙撃隊を結成し、自らその長となる。元治元年7月禁門の変に加わり、9月馬関の連合艦隊来襲に出陣する。慶応元年高杉晋作等の正義派に呼応し御楯隊司令として活動し、四境戦争にも奮戦する。後整武隊総督となる。戊辰の役には副参謀または参謀として各地に転戦し、陸海軍参謀となり五稜郭を攻める。
明治2年兵部大丞に任じ、3年大坂に兵学校を設けここで教え、4年陸軍少将に任ずる。
岩倉大使一行に加わり欧米各国を歴遊、7年司法大輔を兼ねる。10年西南の役に官軍を率いて用兵神の如しと言われる。功績により中将に進み、勲一等を賜る。
12年参議兼工部卿、16年司法卿となり、諸種の宝典を制定する。正二位に叙せられ17年伯爵を授けられる。23年貴族院議員に勅撰せられ、翌年病で辞める。後枢密顧問官に任ぜられる。25年11月亡くなる。享年49歳。
(第6巻208頁、第10巻173頁)
名は頼毅、号を治心気斎(じしんきさい)または星山という。長州藩士、禄100石。
文化10年(1813)熊毛郡上関(山口県)に生まれる。藩士増野茂左衛門の三男。
文化14年、山田家を継ぐ。吉田大助門下の高弟で松陰幼少時代の後見人、また山鹿流の代理教授も行う。松陰の教育には最も力を尽くし将来の方向を与える。松陰はその人物に敬服し、終生先生として崇める。
安政元年(1854)2月浦賀戌衛総奉行の手元役、2年3月長崎薩摩に出かける。後徳地の代官。
文久元年(1861)5月英国軍艦が馬関(下関)に碇泊すると山田亦介(またすけ)と出張する。
文久2年8月学習院用掛として上京、勤皇のことに働き、帰国して参政する。
文久3年奥阿武の代官、慶応元年1月表番頭格に進み兵学校教授、2月には参政し教授を兼務。当時恭順派(きょうじゅんは)が失政し、その後をうけて藩政を改革し、兵備を拡張し幕府との戦いに備える。
慶応2年四境戦争に勝利したのは彼の功績は大きい。5月撫育方(ぶいくがた)用掛を兼務。慶応3年6月民政方改正掛となり、11月11日亡くなる。享年55歳。明治31年正四位を贈られる。
(第1巻81頁、第3巻496頁、第2巻413頁、第4巻154頁、第7巻第38・49・62号、第9巻7頁)
幼名は卯七郎、名は初め実之・憲之、後に公章と改める。号は愛山または含章斎(がんしょうさい)・杞国迂叟。長州藩士、禄142石。村田清風の甥。文武に通じ、特に長沼流兵学の奥義を究める。
天保7年(1836)藩主齋広の近侍となり、10年密用方祐筆となり、海冦手当方を兼ねる。その後弘化・嘉永の間、海防のことに尽力する。
嘉永5年(1852)古賀?庵(こがとうあん)の「海防臆測」を得、その素晴らしさに敬服しこれを合冊して同志に配る。そのことにより7月25日屏居を命ぜられ、禄の半ばを削り、子どもの鶴太郎に家督を継がせる。
安政5年(1858)7月再度起用され、造船鋳砲のことを所管し、以後長州藩の兵制改革に当たり、來原良藏(くるはらりょうぞう)等と西洋式に新編成をする。
万延元年(1860)様式砲?(ほうこう)を鋳、軍艦(庚申丸)の建造を監督する。
文久年間京都・江戸に奔走し、或いは学習院に出仕し、或いは火輪船壬戌丸を購入しその奉行となり、或いは遠近差引方頭人、祐筆を兼務し更には手当方頭をも兼ねる。
元治元年(1864)禁門の変後恭順派のために家に幽せられ次いで投獄、12月19日斬死となる。享年56歳。野山十一烈士の一人なり。明治24年正四位を贈られる。
山田は松陰の養父大助の盟友で、松陰は16歳の時長沼流兵学をこの人により教えられ、世界に目を開くことを教えられる。
(第4巻391頁、第8巻第347号、第10巻148頁)
萩にて眼科医を生業とする山根文季の子どもで、安政5年中松下村塾にいたが、その後の経歴は不明。後萩の眼科医として知られる。
(第4巻426頁、第10巻497頁)
安政5年(1858)8月松陰の兵学門下となったが、その後明倫館で学ぶ。時々松下村塾でも教えを受けたが、深き関係はないようである。
(第6巻210頁、第8巻第332・398号、第10巻11以下・172頁)
名は義著(よしあきら)大垣藩士。家は代々山鹿流兵学師範を職とする。幼から父に学び、後江戸の山鹿素水に従学する。
嘉永6年(1853)5月、松陰は江戸の途中大垣に訪ね、談話して去る。長原武の友人で、松陰はこのときが初対面ではなかった。以後多右衛門もまた江戸に来て主として西洋へ医学を学ぶ。この間の交際は詳しくは分からないが、安政2年松陰の外弟久保清太郎が江戸に行くとき「大垣生山本某(多右衛門)も亦山鹿氏の学を治むる者蓋(けだ)し志士なり。鳥山確斉に御尋ね成さるべく候」と紹介しているのを見れば、相当の交わりがあり同志である。多右衛門その後佐竹姓を名乗る。
明治戊辰の役大垣藩東山道先鋒を命ぜられると率先軍に従い、四方に転戦し、遂に9月会津若松城攻撃の時、激戦奮闘敵弾に中(あた)って亡くなる。享年46歳。
(第7巻第177号、第9巻320頁)
幼名は渋木虎吉、文政2年(1819)越後西蒲原郡粟生津村の農家に生まれる。幼く僧となり叔父宥善の後を継ぎ宥長と改名し嘯虎(しょうこ)と号す。真言宗に属する。後、住職問題について奸僧の陥るところとなり、殺人罪の嫌疑で江戸獄に10数年おり、この間に松陰・佐久間象山・日下部伊三次・僧信海・藤森弘庵等の志士大いに好意を受ける。安政6年9月許され獄を出て愛宕下円福寺に預けられ、後武州熊谷一乗院の華蔵院住職となる。 明治初年薬師神社の神官となり、名を中村政長と改める。晩年寺子屋を開き村の子どもを教える。明治24年、73歳で亡くなる。
(第8巻第599・607・608・610号)
名は時存、字は子操、通称平四郎、号は小楠・沼山、文化6年8月13日熊本に生まれる。幼より文武に励み、天保8年(1837)29歳の時、藩学学舎の長となる。
弘化2年(1845)江戸昌平黌に学ぶ。翌年帰り経義を講明し、格物致知(かくぶつちち)の訓(ことば)を啓(ひら)き大いに道義の学を唱え、専ら実用に適することに務める。
嘉永4年(1851)43歳で中国、畿内を経て北陸に遊歴し京都で諸名士と交際する。
安政元年(1854)兄時明亡くなり、禄150石を嗣ぐ。この年『富国論』を著す。
安政2年、越前侯(松平春嶽)に招かれ、文久2年(1862)越前侯が幕府総裁職となるや、また招かれ江戸に赴き幕政に当たり、翌年帰国。
明治元年(1868)3月徴士の命を受け京都に赴き制度局判事に任じ、従四位に叙せら、参与職となる。明治2年1月5日、朝廷より帰途暗殺される。享年61歳。
松陰は嘉永6年10月第2回熊本旅行中面会する。嘉永4年8月頃宮部鼎蔵の紹介により小楠が萩へ来たときは松陰は不在であったが、実家杉家を訪れた。
(第7巻第22・34・94号、第8巻第303・315号、第9巻351頁以下)
名は潔晴、後に通称を幾太と改める。号を郁道・孤松という。天保12年(1841)に生まれる。長州藩士、代々禄82石、萩郊外上野に住む。
安政4年17歳の時松陰の門に入り、後同志を集めて上野の自宅にて勉学する。松陰はこれを一敵国として喜ぶ。
後、江戸に出て安井息軒に学び、帰国後は主に藩校明倫館の教授に従事する。維新前大津郡代官となり、明治初年に福井県学務課長兼中学校長となる。後山口県に帰り、大津郡郡長として延べ18年間勤める。従六位に叙せられる。明治39年66歳で亡くなる。
(第4巻155頁、第7巻第296号、第8巻第327号、第10巻171・335頁)
名は秀実(しゅうじつ)、字は無逸(むいつ)、後に稔麿(としまろ)という。松里久輔・松里勇・松村小介・関口敬之助は一時の変名。号は風萍軒(ふうへいけん)、足軽清内の長男、吉田姓を自称する。天保12年(1841)1月20日生まれる。久保五郎左衛門の松下村塾に入り勉学。
嘉永6年13歳で江戸藩邸の小者(こもの)として仕え、萩と江戸を何度も往復する。家計のために志を伸ばすことが出来ないことを恨みつつ、密かに文武の業に励む。
安政3年16歳の11月25日、初めて幽室の松陰に教えを乞う。安政4年9月江戸記録所の胥徒(しょと)となるまで、増野徳民(ましのとくみん)・松浦松洞(まつうらしょうどう)と協力して松陰の塾を盛んにするための働きをする。松陰もまた彼を愛し大いに嘱望し、識見と才知ある俊英で高杉・久坂・入江とあわせて松下村塾の四天王と称される。
安政5年11月頃帰国、当時塾では間部老中要撃の計画があり、彼もその血盟に加わる。松陰投獄の命が下ると他の七生とその罪名論に奔走して家囚となる。この事があって以来彼は松陰や門弟と絶交、沈黙し、一時松陰でさえその消息を疑ったほどである。
松陰の刑死を聞いて、喪に服すこと百日なれども遂に出ず、松陰刑死の月、胥徒となり、万延元年(1860)兵庫警護の御番手として出張、その10月亡命して江戸に出て、旗本の士妻木田宮の使用人となり、次第に重用される。蓋し心中深く期するところあって、文久2年7月京都に上り藩の世子にまみえ罪を乞う。世子罰せずして帰参を許す。その10月17日京都の松陰慰霊祭には松門の烈士と共に参列、これより彼の活動が始まる。
文久2年11月肥後に使いし、文久3年1月攘夷血盟に加わり、2月江戸に使いし、4月攘夷期限を5月10日と定められると、久坂玄瑞等と馬関に帰り、急用をもって野村和作と京都に派遣させられ、7月5日には吉田松陰に従学し尊攘の正義を弁知し心得宜しきを以て士分に準じ名字を許される。馬関の攘夷一件より幕府と長州藩との関係は円滑でなく、江戸・京都・山口を往復して縦横の奇才を発揮する。これは前年度ばく進の使用人であった効果である。
元治元年(1864)6月5日京都三条の旅館池田屋において長州藩及び諸藩の志士と貢ぎ中、新撰組浪士に襲われ、重傷を負い、長州藩邸で自刃する。享年24歳。明治24年従四位を贈られる。
(第4巻84・86・116・118・123・153・360・473・477・495頁以下、第5巻58・178・198・204頁、第6巻152・158・159・171・175・220頁、第7巻第282・285-287号、第8巻第588・615号、第9巻444以下・482以下・495頁以下、第10巻96頁)
吉田大助賢良の妻、松陰の養母。阿武郡黒川村(萩市)の豪農森田伊右衛門頼寛の第四女、松陰の書(丁巳幽室文稿吉田氏略叙)に森田頼久女とあるは誤りで頼久は祖父である。家格の関係で久保五郎左衛門の養女として天保3年(1832)大助に嫁す。以後名前を里に改める。
天保6年大助が亡くなる(29歳)と森田家に寄寓する。松陰の書に黒川北堂とあるのはこの人である。その後しばしば松陰及び杉家を訪ね尽くす。殊に松陰が入獄中は憂慮尽力はひとかたならず。例えば松陰より久満宛の書に「けっこうの品御恵み遣わされ、人やの寒さ相しのぎ御礼申し尽くし難く存じ上げ候」とある。
松陰が亡くなると墓参を欠かさず、法事を自家に営み供養に努める。明治5年11月28日亡くなる。享年59か60歳。
(第4巻72頁、第7巻第15・18・19・22・127・131・141・159・161・204・226号、第8巻第624号、第10巻杉恬斎先生伝)
名は行昭、字は明卿、号は五明庵・花廼舎・顕龍などある。
安政元年(1854)松陰が野山獄に繋がれた時の同囚で、当時47歳、在獄5年。かつて寺子屋の師匠であったことがある。俳諧を善くするので松陰の獄中教化運動にその道で協力する。後松陰は富永有隣と松下村塾の師にしたいと思ったが実現しなかった。安政3年10月免獄、藍島(相島か)に流される。その後の消息は不分明。
(第2巻賞月雅章・獄中俳諧・冤魂慰草355・394頁、第6巻351頁、第7巻第192・247号、第9巻465頁)
中国広東の人でペリーの戦艦の通訳。松陰夙(つと)にその名を知り、下田踏海の時ウイリアムスに彼との面会を希望したが聞き入れられなかった。
松陰は彼の著「続日本日記」を読み感慨深きものがあり、独語の跋文があり、己未文稿に掲載。
(第5巻319頁、第9巻回顧録3月7日の条・三月二十七夜記)
名は清稚、号は本清、長州藩士で歌人冷泉古風の子ども。
天保12年(1841)萩土原(ひじはら)に生まれる。明治2年天野家に養子となり重二郎と称されたこともある。林百非の甥。
安政4年(1857)17歳で松下村塾に入り、11月頃は岸田多門(きしだたもん)と塾にいた。松陰殉職後一時その存在が不明であったが、文久3年(1863)京都で国政に奔走し、4月久坂玄瑞等と攘夷の為に馬関に下ったことは確かである。後奇兵隊に入り機械方会計方で、慶応元年(1865)春には御盾隊にあり、四境戦争に従軍する。
明治維新後司法官となる。弁年山口に隠遁する。明治36年63歳で亡くなる。
松下村塾零話・三十一豪傑列伝・防長正気集・創業鑑・回顧集の著がある。
(第4巻151・155頁、第9巻459・560・594頁、第10巻335・343頁)
名は唯之、長州藩の軽率。松陰の父杉百合之助組に属す。
安政6年5月松陰東送の時選ばれて護送に加わり、懇切を尽くす。また松陰の感化を受けたことも多い。その後国事に奔走中、文久3年(1863)10月河上正義等と沢宣嘉を擁し、但馬生野に義挙を企て、先頭計画中幕府の追討に会い、自刃する。享年29歳。明治21年従五位を贈られる。
片野十郎は当時十郎左衛門と言った人。同じく長州藩の軽率で土屋蕭海の門人。松陰東送の時、杉百合之助組に属し、護送に加わり小伝次と松陰を世話し感化を受けることが多い。後山県等と国事につくし維新後陸軍大佐となる。涙松集・縛吾集は松陰が駕籠の中で口述したのを二人が書記したものである。
(第10巻110頁)