大楽源太郎だいらく

 名は弘毅、西山と号す。長州藩士粟屋某(一本には児玉若狭とある)の家臣。僧月性の感化を受けて大いに悟るところがあり爾来勉学に励む。松陰晩年の文献中に彼の名が見えるが直接の門下ではない。後高杉・久坂等と交わり、文久元年末の「一燈銭申合」に参加した。これより先、安政年間京都に出て梅田雲浜・頼三樹三郎等と交わり、頼の紹介で水戸に遊び、同藩の志士と結ぶ。

 文久3年京都にありて尊攘運動に熱中し、事に依りて同志に疎(うと)んぜられて帰国し、周防大道村(防府市)に西山書屋なる私塾を開き子弟を教える。元帥寺内正毅はその門からでる。明治2年藩内士族の不平分子脱退騒動のことがあった。大楽はその盟主であった。事敗れて久留米藩に潜伏、4年3月筑後川畔で同藩人に誘殺される。享年40歳。

(第5巻214頁、第8巻第453号)

高島四郎太夫 附浅五郎

 名は茂敦、字は子厚または舜臣、秋帆と号す。家代々長崎町年寄。四郎太夫は長じて長崎会所調役頭取を命ぜられる。海防の急務を感じ、資材を以て大砲を輸入し訳士を延きて洋文兵書を講究する。

 天保12年幕府がこれを聞き、江戸に迎えて徳丸原に洋式教練火技を試演させる。江川・下曽根等の砲術家はこの後、その門に学ぶ。

 翌年10月讒(ざん)にあい、投獄せられる。嘉永6年米艦が来ると再び幕府に召されて大いに建策する。幕府の講武所砲術師範役・武具奉行格に進み、禄二百石を給せられる。

 慶応2年正月1469歳で病没する。明治26年正四位を贈られる。

 浅五郎は四郎太夫の子どもで、名は茂武、晴城と号す。幼より父に従い西洋砲術を学ぶ。元治元年3月29日京都で44歳で亡くなる。

 松陰が嘉永3年11月、長崎に滞在中度々訪問したのはこの浅五郎で、四郎太夫のことを聞き、その研究の成果も詳しく尋ねたものと思われる。

(第9巻74頁以下)

高須 為之進 附瀧之允

 松陰の従兄。為之進の父又左衛門盛之の妻は松陰の父百合之助の姉なり。天保13年9月松陰の兵学門下となったが、病弱にして終生娶らず。意を世事に絶ち退居して人を教える。松陰は妹等に諭して「従兄弟中の長者」なれば敬うべしと言った。

 安政3年4月松陰の兵学門下となり、幽室において教えを受けた高須瀧之允はこの為之進の縁者であった。幕末には精鋭隊に属して国事に働いたが、慶応2年8月12日石見浜田にて分捕品輸送船に乗り組みの際溺死する。

(第3巻375頁、第9巻427477以下・551頁、第10166171頁)

高須 久

 安政元年10月松陰が野山獄に入ったとき同囚で獄中唯一の女囚であった。当時37歳在獄2年であった。藩士高須某の妻であったが、寡居後素行上罪ありて投獄せられる。松陰はこの女性をも獄中教化運動に入れた。往復の和歌が数種ある。

(第2巻賞月雅草・獄中俳諧・冤魂慰草・392頁、第6巻348頁)

高杉 晋作

 名は春風、字は暢夫、通称は晋作、後に東一・和助・谷梅之助・谷潜蔵と称したこともある。東行・西海一狂生・東洋一狂生・楠樹はその号。

 天保10年8月20日萩菊屋横町に生まれる。藩士小忠太の長男、150石、代々毛利氏に仕える。幼児吉松淳三の私塾に学び、次いで明倫館に入る。

 安政4年19歳の夏、松下村塾に入門、約1年いる。松陰の特別な注意と好敵手久坂玄瑞との切磋により、俊邁なる天資を磨きだし、玄瑞と共に松下村塾の双璧と呼ばれるようになった。

 松陰は高杉を「執権気魄他人に及ぶなく、人の駕馭を受けざる高等の人物なり」として敬愛し、大いに嘱望した。

 安政5年7月20日東遊の途に上り、8月大橋順蔵の塾に学び、11月昌平覺(しょうへいこう)に入る。

翌年6月松陰が江戸に檻送せられ、伝馬町の獄にはいると、よく諸事に周旋し、また教えを受ける。万延元年1210日明倫館舎長より都講に進み、翌文久元年世子小姓役にあげられ、文久2年幕吏に従い上海に渡る。滞在2か月、7月長崎に帰り江戸に下り、世子に公武合体周旋策の放棄、富国強兵策を忠諌して亡命、11月久坂玄瑞その他松陰門下及び志を同じくする者25名と攘夷血盟書を作り、遂に12月攘夷促進の目的を以て御殿山英国公使館を焼く。

文久3年正月松門及び知友等と松陰・頼三樹三郎(らいみきさぶろう)の遺骨を若林村に改葬する。3月入京して感ずるところあり、剃髪して東行と号し、帰国して松本村に閉居する。長州藩は同年5月10日より下関通峡の外国戦艦を砲撃し、攘夷の先鞭をつけた。6月高杉は召されて、馬関総奉行手元役となり、次いで政務座役に上がる。この頃入江九一等と奇兵隊を編制し、遂にその総監を兼ねた。当時長州藩の攘夷即行論は京都を動かし、天皇の大和行幸攘夷親征の事まで決していたが、8月18日朝議が俄に一変して毛利藩は堺町御門の警備を罷められ、三条実美以下の七卿が長州に下ることとなる。これにより遊撃隊総督来島又兵衛は入京して藩主の冤(えん)を雪がんとの強硬論者であったが、高杉はこれを阻止するため激論の後亡命して、大阪に待機し画策中の久坂玄瑞・入江九一等と面会し、共に活動しようとしたが、世子特に近侍岡部繁之助及び山縣甲之進を遣わし召還したので遂に帰国した。使命を果たさず亡命した罪により野山獄に入れられる。元治元年3月末であった。その年7月禁門の変となり、8月には昨年の砲撃に報いるべく、英仏蘭米4カ国の連合艦隊が馬関に来襲し、長州は未曾有の難に陥り、何れも戦って利あらず。高杉は再び起用せられて下関における講話談判の正使となり、屈辱的にならない条約を結んだ。

当時幕府は征長の軍を起こしたが、長州藩では恭順派勢力を得て、遂に三家老を自刃せしめ、主なる藩吏を斬って恭順のの意を表し、一旦は終結した。高杉はこれから先形勢が非なるを見て、筑前に亡命し、有志の士を糾合せんと企てたが、未だ成らざるに長州の恭順を聞き憤激に堪えず、急遽帰国して兵を挙げ、慶応元年2月末までに恭順派を倒して藩論統一をした。

 当時伊藤春輔(博文)と欧州に遊ぼうとしたが、それが出来ず身辺が危なくなり讃岐の日柳燕石(くさなぎえんせき)の家に潜伏し、後長州に帰り桂小五郎・伊藤春輔・井上聞多等と力を協せ、土佐の坂本龍馬・中岡慎太郎等の周旋により、薩長連合を実現し、幕府の第2回征長軍を迎え撃つ準備をし、翌慶応2年6・7・8月の戦で連戦連勝する。この時高杉は小倉口方面の総指揮官となったが、事実上全軍の指揮者であった。

 同年8月頃より肺結核を患い、下関で療養したが遂に慶応3年4月14日、29歳で亡くなる。遺骸は長門厚狭郡吉田村(下関市)に葬り、遺髪を萩の松陰墓地の近くに埋める。明治24年正四位を贈られる。

(第4巻117123162164310338351386387頁、第5巻178433頁、第6巻295頁、第8巻第337401488588590号以下10数通、第10180186頁)

高橋 藤之

 貫之助、一貫は号。野山獄司福川犀之助(ふくがわさいのすけ)の弟で、安政2年7月から獄中の松陰の教えを乞い、出獄後も随時指導を受けた。後その紹介で土屋蕭海の門に入る。安政5年8月松陰の紹介状を持って岩国の二宮小太郎に学び途中で帰る。後同6年松陰が再び獄に入れられると、また教えを受ける。後遊撃隊の書記兼参謀となったが、20歳で亡くなる。

(第5巻155頁、第7巻第188号、第8巻第348349368号、第9巻418頁以下・543頁)

瀧 弥太郎

 長州藩士、安政5年16歳で松下村塾に入る。(「松下村塾零話」に記述)その8月馬島春海と須佐に遊ぶと松陰の書簡にある。(因に文久元年久坂玄瑞等の「一燈銭申合」に参加する瀧鴻二郎厚孝はその弟か)弥太郎は幕末の国事に奔走し、文久2年11月高杉・久坂等の攘夷血盟に加わり、文久3年9月より、河上弥一と共に高杉晋作の後を承けて奇兵隊の総督となる。維新後岡山地方裁判所長として命令あり、生前従五位に叙せられる。

(第8巻第439488号、第10349頁)

竹下 琢磨

 後の名は有節(ありとき)、通称薬郎、周防都濃郡戸田(周南市)の人で、世々版の重臣堅田氏の家臣。

 安政5年8月、村の壮士26名と松下村塾に赴き、銃陣を演習する。竹下は事終わって後、河内紀令と共に留まること十数日、松陰の教えを受けて帰る。

 文久3年七卿が長州抜下ると戸田邑山田氏に宿泊するとき、その接待役を勤める。

 慶応3年長崎に西洋兵術を学ぶため派遣されたがその後のことは不明。

(第4巻413頁、第1019頁)

武富 

 通称文之進、名は定保、号を南、密菴、碧梧楼・款翁等という。佐賀藩士、初め中村嘉田に就いて学び、後江戸に赴き古賀庵(とうあん)の門に入る。帰国後弘道館教授となり、諸生を教導すること25年の長きに及び、文運大いに興隆する。また詩文書画共に巧みであった。廃藩後東京に移り、明治8年68歳で亡くなる。

 松陰は掲3年九州旅行の時、両度佐賀に訪ねる。詩文の往復があった。

(第9巻85106頁)

武弘 太兵衛

 長州藩士。安政元年9月、松陰金子重之輔と共に江戸より萩に護送されるとき、その主任役となれる者で、前後の経歴不明。全集別巻にその護送日記を収める。

谷 三山

 名は操、字は子正、又は存誠、幼名市三、通称新助、後昌平と改める。三山・淡庵・淡齋・繹齋・相在室等の号がある。協和年大和八木の商家に生まれる。幼より多病にして、十数歳の頃から聾となり、獄学すること十数年、普く漢籍を渉独せり。文政1228歳の時、兄に伴われて京都に出で、猪飼敬所を得て大いに教えられるところ在り、爾来互いに文通を続ける。敬所亦彼の博学純正なるに推服せり。森田節齋も三山に兄事せり。その家塾を興譲館と言い、来たり学ぶ者多し。

 弘化元年藩主より篤学の故を以て名字帯刀を許される。嘉永2年48歳、明かりを失ったが、諄々として教えて倦まず、慶応3年1211日亡くなる。享年66歳。その学風は経学を先にし詩文を後にする。専ら道義を説きて気節激励し、忠孝節義の準縄に據らしめんとする。幕末国事の紛乱に際しては専ら尊攘の大義を唱え、士気を鼓舞した。されど平生穏和にして大言壮語人を驚かす如きなし。著述に有松居礼記・淡庵管窺・龍聴漫筆・淡庵随筆等あり。

 松陰は森田節齋に紹介されて嘉永6年4月と5月に訪問し、啓発されるところ多かったもののようであり、後年屢々(しばしば)門人等に三山を推賞している。

(第5巻201p,第8巻第419,426号)

田原 玄周

 長州藩藩医で蘭学者。安政2年9月藩の西洋学問所が創設されると、その師範役となる。同年12月西洋原書頭取役を命ぜられ、5年その学制規則を定める。6年遠洋航海説をあげたことがある。

 松陰はこの人より蘭学の初歩を授けられたという。

(第9巻512p

田原 荘四郎

 長州藩の軽率。安政5年冬、松陰の命を受けて野村和作と共に上京し、在京中の伊藤傳之輔と協力して、大原三位西下策に奔走したが、将に成功するに及んで藩邸に密告する。又翌年2月野村和作伏見要駕策を以て萩を脱走するとき、藩命により追補に上京する。松陰門下ではなく、「荘四郎は臆病者にて嫉妬の気之あり候故、大事の談は必ず御用捨頼み奉り候」と、大原宛書簡にも松陰は評している程である。何故大事を託せるや知るべからず。

(第5巻20p,第8巻第419/426号)

玉木 彦介

 名は正弘、字は毅甫、松陰の叔父玉木文之進の嫡子である。幼より父及び松陰に従って学ぶ。松陰の「士規七則」はこの従弟のために書かれたものである。安政2年父に従って相模の戌に赴き江戸に遊ぶ。翌年帰国後は松陰の幽室に起居を共にして学ぶ。その後も松陰は常に彦甫のよき指導者であった。

 文久2年小田村伊之助に従って京都・江戸へ赴く。3年世子定廣に近侍する。

 元治元年長崎に赴き、11月帰国して御楯隊に入る。この年正義の士多く京都で戦死し、また獄中で斬られる。彦甫小郡海禅寺に潜伏していたが、慶応元年高杉晋作・山縣狂介等の反論統一運動が起こるとこれに加わり、その正月16日美祢郡絵堂(美東町)で恭順派と戦う。重傷を負い海禅寺帰って亡くなる。同月二十日なり。享年25.。明治35年正五位を贈られる。

(第2巻299308p、第4巻40p、第7巻第25号、第9巻283以下・428430以下・477以下・496以下・563577p、第10172p・家系参考書)

近澤 啓蔵

 浜田藩士、嘉永6年の春江戸に遊学し、松陰とは6月佐久間象山の塾にて相知り、爾来深交を結んだ。安政2年1024日江戸で客死(かくし)する。

(第6巻130p、第7巻第7678177号、第9巻329号)

竹  院 竹院和尚伝を参照すること。松陰の母滝の兄、瑞泉寺住職。

土屋 蕭海(つちやしょうかい)

 名は(とう)、字は松如、通称は矢之助、松陰の書いたものに土屋弥之助ともあり。萩の人、寄組佐世氏の臣孝包の長子なり。17歳で広島の坂井虎山に従学し、3年で学業が大いに進む。

 嘉永4年に江戸に出て鳥山新三郎の家に寓し、羽倉簡堂・塩谷宕陰・藤森弘庵等に学び、且つ肥後その他の藩士と交わり、文章識見ますます進む。同年松陰もまた江戸にあり、終に相交わるに至る。

 安政元年松陰下田踏海の挙に敗れ、獄に投ぜられると、諸友と謀り最も好意を示す。その年の9月父を亡くし帰国、喪に服し、爾来家居して徒に授く。

 長州藩少壮中文章第一の評があった。藩主士分の待遇を与えられる。松陰は後に藩に蟄居し、終に松下村塾を開いたが、土屋は時々幽室を訪れ、松陰またしばしばその文章批評を乞う。

 幽室文稿は土屋蕭海の評が多い。安政6年5月松陰江戸に檻送の名が下ると、土屋は藩に況絶するように乞いたが、聞き入れられず、かろうじて護卒中に片野十郎なる者を加えるようにした。これは土屋の門人で松陰の為に途上の諸事を周旋したという。

 文久元年明倫館助教となる。翌年から土佐・薩摩の藩士に応接して事を決め、また京都に出掛け、熊本にも使いで行く。また西郷吉之助と馬関で密議をする。

 文久3年重臣國司親相に随い久留米に行き、筑豊の諸藩に遊説して正義を勤める。帰国後手廻組に編せられ、世子の侍読に進む。元治元年長州藩未曾有の難局に際しては、土屋恰も病床にあったが、上書数次に及び、有司蓐(じょく)に就いて来たり問うことさえあったという。その9月10日亡くなる。享年36歳。明治24年正五位を贈られる。

 恭平(恭助)は、その弟で、嘉永4年土屋蕭海と共に江戸に出て後安政2年にも江戸に遊学する。安政4年松陰の門下生であったこともあるが、その後は不詳。

(第2巻332338345349頁、第5巻149頁、第7巻第42114115269号、第8巻第300390号、第9巻456473481482521557566頁)

妻木 弥次郎(つまきやじろう)

 名は忠順、字は士保または子方、別に壽槌の通称あり。長州藩士妻木忠朝の子で、文たんぜん政8年萩小畑(おばた)で生まれる。禄百石を受ける。その祖先は松陰の祖先と通家なり。天保11年松陰の兵学に入門する、爾来山鹿流兵学に最も熱心なる一人で、松陰の不在中及び師範を命ぜられた後と雖も、明倫館の教場を維持し得たのは専ら妻木の力である。松陰深くその熱意を感謝し且つ賞して曰く「一念ここに至る毎に赧然(たんぜん)自ら愧ぢ、以て足下の固守に服せざるなし」と。安政5年松陰の家学教授許可は妻木等の請願によるものである。一時家塾を開いたことがあるが、文久の頃風雲急なるや、起こって馬関戦争に従事し、事平ぎて帰る。後病気で文久3年7月14日亡くなる。享年39歳。

 壽之進は弥次郎の長子で、名は忠篤、字は君甫、通称は後狷介(けんすけ)に改める。弘化3年に生まれる。安政3年11歳から松陰に学び、洞年兵学門下となる。後明倫館に学び、慶応の頃その都講となる。維新後官途に就き、岡山県書記官に進み、従五位に敍せられる。

 明治23年9月26日亡くなる。享年45歳。

(第1巻225頁、第2巻314頁、第4巻77155頁、第6巻338351頁、第7巻第4950218219号、第9巻496頁、第1090158166172頁)

鄭 幹輔

 幼名大助、後幹輔と改める、字は素敬、号を敏歳という。長崎の帰化唐人にして、天保元年19歳唐小通事末席となり、累進して嘉永4年大通事となる。万延元年7月20日亡くなる。享年50歳。松陰は嘉永4年長崎滞在中しばしば訪れて益を受けた。

(第9巻76以下・107頁)

提  山(松本鼎)

 天保10年4月周防三田尻(防府市)の農家に生まれ、幼にして仏門に入る。初め萩城下松本の東光寺にあり、霖龍和尚の教えを受け、後その下寺なる同邑の通心寺にあり。安政4年末か翌年早く松下村塾に通学する。6月松陰から久坂玄瑞宛の書簡に「提山坊主大いに進む」とあるはこの青年である。この頃藩から京都の情勢偵察のために出張を命ぜられたことがある。同年末松陰投獄の別筵に列し、翌日松陰の輿中に糖薑一袋を贐(はなむけ)したことが「投獄紀事」にある。その後還俗して松本鼎と称し、文久頃京摂の間に奔走し、元治元年禁門の変に傷ついたが、かろうじて逃げ、慶応2年の四境戦争には芸州口で戦う。

 明治元年軍監として追討総督に従って転戦し功をあげる。後熊本・和歌山の県令となり、一時堺市に隠棲したが、再び出でて元老院議官・貴族院議員となる。功により男爵を授けられる。明治4069歳でなくなる。

(第4巻504頁、第5巻317頁、第6巻204頁、第8巻第332号、第9巻459585頁、第1021頁)

土井 幾之助

 名は恪または有恪、字は土恭、号は松径、後牙(ごうが)と改める。文化141228日津に生まれる。10歳の2月父を、翌年兄を亡くし、文政1112歳で家禄190石を嗣ぐ。川上竹坡・石川竹香E斎藤拙堂等に学ぶ。天保8年21歳にして藩校の助教となり、10年勤める。維新後政府に招かれたが、病気と称して就かず、藩に仕える。督学参与に移り、2年9月督学に進む。明治13年6月11日没す。享年64歳。

 松陰は嘉永4年の遊学中幾之助も江戸に在り、しばしば訪問し、嘉永6年12月には津に訪ねたことあり。後安政4年僧月性により野山獄文稿の批評を請い、また金子重之助の弔詩を乞いてこれを得る。

(第1巻298頁、第2巻241頁、第7巻72100号)

富樫 文周(とがし)

 安芸の国山県郡加計の医家に生まれる。坂井虎山・僧月性等の門に学び、安政5年3月松下村塾に来り松陰の教えを受ける。他藩から来て学んだ唯一の人である。「専精書を読むも、未だ甚だしくは心を時事に留めず」と松陰は評した。8月長崎に向かう。その後郷里に帰り医を生業として終わる。

(第4巻411頁、第8巻第320332352号 第101120頁)

時山 直八

 名は養直、白水山人・漂流坊海月・海月坊・梅南等と号す。玉江三平は晩年従軍中の変名。天保9年長藩士の家に生まれる。幼より文武の業を修め、嘉永3年藩校明倫館に入学し、松陰の兵学門下となり、安政5年21歳の3月頃松下村塾に入り、6月から時々宿泊して勉強する。「中々の奇男子なり、愛すべし」と松陰は言っている。7月京都に出て、翌年江戸に至り藤森弘庵・安井息軒に師事する。万延元年帰国後松陰の墓をつくることに加わり、その後久坂等と行動を共にし、京都の間を往来する。文久2年京都において長州藩邸の銀子方役を命ぜられ、次いで諸藩応接係となる。元治元年帰国、浪士取締役を命ぜられる。この年奇兵隊に入り、その参謀となり馬関(下関)の連合艦隊襲撃の戦いに加わる。明治元年奇兵隊を率いて入京し、更に北越に赴き転戦し、5月13日の越後朝日山の戦いに死す。享年31歳。明治31年正四位を贈られる。

(第4巻477頁 第8巻第332356号)

轟木 武平(照幡烈之助)

 名は寛胤、文政元年肥後藩士轟彦太郎の子として生まれる。一時、照幡烈之助と自称したこともあるが、晩年轟游冥と称す。嘉永6年藩命を受けて江戸に赴く途中京都に参り、禁垣の頽潰を望み、勤皇の志いよいよ固いものとなった。安政3年9月国に帰り、有志の士と時務策を謀る。文久2年土屋蕭海が熊本に行ったときは最も周旋を図る。出羽の清川8月八郎がきて尊皇の実行を説き、同藩の同志宮部鼎蔵に偵察し、薩摩に赴き有馬新七等と伏見儀挙の約束をなして帰り、轟木等も加わり、藩主に上書し、終に京都護衛の兵を使わすになる。轟木この衛中に在り、京都において久坂玄瑞・寺島忠三郎・真木和泉等と謀る。翌年2月一旦帰藩、5月親兵として50余人と共に入京する。8月朝議一変して七卿長門に下るや、驫木等は一時滞京するも、11月下旬帰途に就き、途中捕縛されて藩獄に繋がれる。明治維新後許されて、集議判官に任じ、従五位に叙せられる。3年正月弾正大忠に転じたが、間もなく退き、6年5月8日病没する。享年56歳。明治35年正四位を贈られる。

 松陰は嘉永6年江戸遊学中驫木と相識り、後安政5年10月伊藤利助をこの人の許に遣わして熊本藩の興起を促したことがある。

(第4巻427頁、第7巻第177号)

登 波

 長門国大津郡向津具村(長門市)川尻の山王社宮番幸吉の妻なり。文政4年冬夫幸吉の妹のことより、舅・弟・妹を殺害し、幸吉を傷つけた備後の枯木龍之進なる者あり、登波永らく夫の病を看護していたが、文政8年27歳の春仇討ちの旅に上り、探索すること17年、終に龍之進が豊前の英彦山にあることを知り、仇を討とうとしたが、藩は止めて、逮捕の使いを遣わす。

 龍之進捕らえられ後に自殺する。天保3年3月、藩はその首を豊浦郡滝部村(下関市)に梟す。安政3年藩主その孝義を表彰し、翌年平民に歯す。登波60歳であった。

 松陰この事歴に感じ「討賊始末」(第4巻)なる一書を作り、又松浦松洞にその肖像を描かせた。4年9月中旬、登波夫幸吉の墓を探して岩見(島根県)に赴く途中、松陰は杉家に止宿させる。

(第4巻104124141、討賊始末、 第7巻第292号、第9巻526頁)

富永 有隣

 名は徳、後に悳彦(とくひこ)、字は有隣(和歌の作者としては有ちかと言う)通称は弥兵衛、号を履齋・陶峯又は蘇芳という。文政4年5月14日周防吉敷郡陶村(山口市)に生まれる。家世々毛利氏に仕え御膳部役であった。有隣は明倫館に学び山県太華に師事し、13歳の時、藩主の前に大学を講じて誉められる。已に藩に出仕し小姓役であった。性狷介屈強にして親戚の誣陥(ぶかん)する所となり嘉永5年32歳の時見島に流される。翌年野山獄に繋がれる。安政元年10月松陰がここにとらわれ、たがいに切磋琢磨し、終に獄風改善に協力するに至る。後4年7月松陰等の奔走により許され松下村塾の賓師となり、松陰の教授を助ける。5年末松陰投獄のこともあり、翌年正月頃村塾を脱居する。万延・文久の頃は秋穂開定院に定基塾を興して教えたことがある。慶応2年素胸腺が起こると鋭武隊を率いて石州口次いで芸州口に出陣し軍功あったが、明治2年兵制改革に異見を抱き、大楽源太郎等と脱退騒動の中心となる。その後諸国を流浪し、土佐で大石圓(まどか)の庇護を受ける。明治10年捕らえられて東京石川島監獄に繋がれる。17年特に赦され出獄する。獄中囚徒に教え、又大学述義・井蛙問対・孫子秕説等の著あり。明治18年熊毛郡南村(田布施町)の妹とみの婚家

末岡氏に寓し、著述の傍ら子弟を教える。中庸義解・兵要録口義・談孫痴囈等著す。明治33年病没す。享年80歳。国木田独歩も晩年の有隣を訪れたことがあり、小説『富岡先生』の主人公はこの人だという。

(第2巻186以下・303335頁、第4巻909296101107123155339頁、第6巻109152156175371頁、第7巻148192246258号、第8巻第323437571号、第9巻419以下466頁、第1019以下336347頁) 

豊田 彦次郎

 名は亮、字は天功、彦次郎と称し、松岡と号す。水戸の人、信卿の子ども。幼にして奇頴、藤田幽谷の門に寓し、藤田東湖と切磋琢磨し、青山佩弦齋と交わる。後列公の抜擢により、彰考館編集となる。列公が幕譴(ばっけん)にあうと書を閣老に提出し、その罪により禁錮せられる。5年で赦され、4年で列公の冤始めて霽る。彦次郎再び編集に補され、総裁となる。元治元年正月21日病没。享年六十。明治35年従四位を贈られる。

 松陰は嘉永4年12月、水戸藩在中数回訪問したが、後安政2年野山獄より家に閉じこめられたとき豊田の働きがあった。

(第9巻189頁以下)

鳥山 新三郎

 名は正清または景清、字は子幹と言い、義所・確齋・冢峰・蒼龍軒・關以東生はその号なり。松陰等よりは独眼流と綽名(あだな)されたらしい。阿波の農家宇山孫兵衛の子なるも、表面は旗本溝口十郎家来と称す。蓋し血縁関係があることによる。幼にして志を立て江戸の東條一堂に従学し、兵を加藤瑞園に学ぶ。嘉永元年30歳頃江戸鍛冶橋外樋町河岸に私塾を営む。嘉永4年松陰江戸に遊学し、この人の許にて、来原良蔵・井上壮太郎・土屋蕭海・同恭平・中村百合蔵の長州藩士、羽後人村上寛斎、肥後藩士宮部鼎蔵・松田重助・永鳥三平・佐々淳二郎・薩摩藩士胆付七之丞及び南部藩士江帾五郎等としばしば会し劇談高論せり。嘉永6年第2回江戸遊学の時はこの家を寓居と定め、金子重之助も後に来り投ずるに至る。安政元年3月松陰・金子重之助踏海の挙敗れて獄に繋がれると、しばしば金品を贈り、自らも亦連座して溝口氏の邸舎に幽せられ、押し込み罰を受け、50余日にして赦される。安政3年7月29日病没する。享年38歳。松陰は別後も書信を往復したがその訃報を聞いて哭詩を作り、又江帾五郎をして碑銘を草せしめ、同志と建碑のことを話し合う。明治45年従五位を贈られる。

(第6巻150頁、第7巻第42111177242245254号、第9巻177270275号以下325341357361頁)

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