齋藤栄蔵(境二郎)18361958

 名は建直、字は子(士)彦、号を泉峰または温軒といい、天保7年8月に生まれる。長州藩士貞順の次男。吉日録に松陰が庶子というのは嫡男ではないの謂なり。後境與三兵衛の養子となる。嘉永3年3月松陰の兵学門下となり、安政3年6月頃から詩文の添削を乞い、4年12月頃は松下村塾で学ぶ。

安政5年7月江戸に遊学し、一旦帰国して万延元年再び赴き塩谷宕陰に従学する。文久元年帰国後選ばれて長府藩世子毛利元敏の近侍となり書を授ける。

慶応元年11月宗藩尊攘事蹟編集局を設けるとその局員となる。明治5年島根県典事を拝し、累進して11年8月県令となり、正五位を叙せられる。16年職を辞し、国に帰り晩年を送る。松下村塾保存の必要を痛感し、大いに尽力して遂に保存会成立をみた。33年2月9日65歳で亡くなる。(第2巻403p,第4巻162p,第6巻349p,第8巻337号、第9巻520p,10107p

齋藤新太郎18281888

 江戸の剣客篤信齋(とくしんさい)齋藤弥九郎(従四位を贈られる)の長男、後父の名を継ぎ弥九郎と改める。嘉永年間長州藩の剣術指南のため再度萩に来たことがある。また長州からは桂小五郎・高杉晋作・品川弥二郎・井上勝・山尾庸三等多くの士が江戸の齋藤塾に派遣された。

新太郎は嘉永3年萩に来たとき松陰の兵学門下となり、松陰は4年江戸遊学中新太郎父子と交わり、翌年東北遊の時は水戸の永井政介を初め、沿道知名の士を紹介された。

5年松陰が亡命待罪中、新太郎は藩から剣術教授の依託を受けて萩に来る。また書簡をやりとりする。後文久2年から毛利藩邸有備館の剣術指南を勤める。文久3年から幕府に仕える。

維新後帰農し、明治2160歳で亡くなる。(第1巻302p,第7巻58,61,63号、第9巻157p,325p,10170


齋藤拙堂さいとうせつどう(17971865)

 名は正謙、字は有終、通称は徳蔵、拙堂または鐵研と号し、後拙翁という。寛政9年江戸の津藩邸に生まれる。昌平覺に学び24歳津藩の学職となり更に講官に任ぜられる。世子の指導に十数年当たる。しばしば江戸で天下の名士と交わる。弘化元年督学となり、大いに人材の育成に尽力する。かつて将軍家定に召されたが辞す。これより藩主300石を給す。拙堂文話・拙堂続文話・経話・詩話・士道要論・海外異伝等多くの著述がある。慶応元年7月1569歳でなくなる。

 松陰は嘉永6年5月森田節齋の紹介をもって訪問する。(第7巻72号、第9巻319p

齋藤貞甫18301910

 幼名彦四郎、後市郎兵衛と改め、さらに禎三、恒徳と改め、字は貞甫、号は養浩・茗里等がある。天保元年6月萩城外松本村石川権之助の三男として生まれ、9年齋藤恒久の養子となる。

玉木文之進の門に入り、また山県太華 ・中村牛莊等に学ぶ。松陰とは玉木塾で同学であったが、15歳の時、貞甫は明倫館で松陰の兵学門下となる。その後直接に教えを受けることはなかったが、恒に尊敬し書簡のやりとりをした。

安政2年4月江戸に遊学し、塩谷宕陰の門に入る。安政6年御蔵元順番検使、文久2年大阪検使役、元治元年には禁門の変に出陣、その後大島郡代官になったこともあるが、慶応3年明倫館助教となり、維新後は教育界に活動し、明治4379歳でなくなる。

(第6巻78p,第7巻210号、第10167p)

坂本鼎齋さかもとていさい)(17911860

 坂本天山の子、通称は鉉之助、諱(いみな)は俊貞、字は叔幹、鼎齋は号。大阪城代下の吏員。和流砲術に詳しく「暴母迦農説標題」(ボンペカノン説)の著者。天保8年大塩の乱に功績があり賞を受け旗本格に列せられる。

 松陰は嘉永6年2月訪問し、その学力及び西洋砲術に対する取捨の態度に感服した。当時鼎齋は50余歳であった。万延元年70歳で亡くなる。大阪大倫寺に葬る。

(第7巻66,86号)

佐久間象山18111864

 名は啓または大星、字は子明、通称は啓之助、後修理と改める。故郷の山象山(ぞうざん)をその号とする。(現在はしょうざんと一般的に言う)文化8年11日信州松代の藩士一学の嫡男として生まれる。幼くして神童の名があった。藩老鎌原桐山に就いて経書を学び、天保1423歳の冬、江戸に遊学し佐藤一斎の門に入る。7年帰藩して経書を講じたが、10年2月再び江戸に出て、6月お玉ケ池に私塾を営み、当時已経学者として名声があった。梁川星巌と交わったのはこの年の11月からである。

 13年藩主が幕府の海防掛になると象山はその顧問に挙げられ、江川坦庵に西洋砲術を学ぶ。

 弘化元年34歳で蘭学に志し、刻苦勉励して原書を読み、特に自然科学方面に着眼し、後兵書に移り、遂に自ら新式大砲を鋳るに至る。

 嘉永3年深川の藩邸に、翌年木挽町の私塾に蘭学砲術を教える名声が次第に高くなり、その入門者が江戸第一と言われた。

嘉永4年江戸遊学中の松陰は、その5月24日初めて深川の邸舎を訪ね、7月24日束脩(そくしゅう)の礼を行ったが、その人物識見手腕に推服したのは、むしろ嘉永6年第2回遊学の時であった。同年9月長崎からロシア艦に乗ろうとして江戸を出発し事意の如くならずして、翌安政元年3月下田踏海の挙に出たのは象山の暗示に従ったものである。しかも下田の挙が敗れると象山も連坐し、4月6日江戸伝馬町の獄に繋がれ、9月18日松陰と共に判決申し渡しを受け、松代に蟄居の身となった。

蟄居9年文久2年1229日ようやく赦される。元治元年幕府の徴命に応じて京都に出、徳川慶喜その他に進言し画策したため、尊皇攘夷の志士の憤激をかい、7月11日三条木屋町通りで刺殺された。享年54歳である。明治22年正四位を贈られる。

(第2巻幽囚録・343p,402p,第3巻83p,364p,第4巻138p,第5巻301p,第6巻23p,28p,84p,89p,第7巻20,42,78,89,137,151,171号、第8巻362,363号、第9巻153p,155p,329p,341p及び回顧録・同附録)

作間忠三郎(寺島忠三郎)

 名は昌昭、字は子太、刀山または斃不休齋と号す。天保14年長州藩士寺島太治郎の次男として生まれる。郷里は周防玖珂郡高水村(熊毛町)。安政5年16歳の8月頃松下村塾に入る。松陰は「作間朴訥頗る沈毅の質あり」と評し「俗論中に在りて顧って能く自ら抜く、篤く信ずと謂ふべし。亦些の頑骨あり、愛すべし」とも言へり。

 5年11月間部老中要撃策に加盟し、また松陰の罪名問題に奔走して家囚となる。松陰処刑後明倫館に入り、しばしば久坂等と松下村塾に集会して講読を共にする。

 

文久元年末の一燈銭申合に加わる。文久2年春久坂等の上京に従うために亡命し、10月京都における松陰慰霊祭には祭主をつとめる。この頃東奔西走休む暇なく、長井雅楽要撃事件、横浜の外国公使館焼払事件(第1回未遂)に参加し、後京都学習院に入り王事に周旋する。この頃寺島姓を名乗り、牛敷春三郎と変名。当時在京の藩主に兵書紀效新書を講じたこともあった。

文久3年3月加茂社、4月石清水行幸のことがあったが、攘夷期限決定に至らず、同門の久坂玄瑞、肥後の轟木武兵衛と上書して攘夷期限を請う。ついでその期限を5月10日と決定すると、長州藩士が続々と馬関(下関)に下る。忠三郎は一時京都に留まり行動する。

8月18日朝議一変して帰国し、翌年禁門の変おとなり、7月19日鷹司邸において久坂玄瑞と共に自刃する。享年22歳。明治24年正四位を贈られる。

(第4巻477・戊午文稿厳囚紀事・投獄紀事・同附録、第5巻180p,233p,第6巻281p、第8巻569,579,615号、第9巻573p,585p,1094p,172p

櫻 任(甚)蔵

 名は一雄、後眞金、字は飛卿、月波山人と号す。初め相良六郎・村越芳太郎と言う。家は常陸国眞壁群にある。代々医者、16歳志を立てて藤田東湖の門に入り、天保年中江戸の水藩邸黒鍬頭で、貧窮甚だしく、幕府の職に就く。弘化元年水藩主烈公譴(せめ)を蒙る時、奔走周旋至らざるなし。米艦浦賀に来てから尊攘説を採り、松陰・西郷吉之助・長岡監物等と交わる。

 安政2年江戸大地震の時烈公が送った米150苞を自分の物とせず、窮民に施したことは美談であった。この頃より水戸藩7人口の禄を給した。5年条約違勅調印事件前後大いに奔走し、薩摩の有馬新七と京都で活躍する。6年7月6日、48歳病気で急死する。

 24年従四位を贈られる。松陰は嘉永6年江戸遊学以来交わる。

(第2巻364374頁、第8巻第334号)

佐々木梅三郎

 名は正次、佐々木四郎兵衛の三男すなわち謙蔵の弟なり。天保11年に生まれる。後に名を嘉春と改め、小川家に養われる。安政2年末松陰が幽室において父兄親戚に孟子の講義をした時以来の門人で、安政5年にも松下村塾にいた。その後国事に活動したが、詳細は不明。明治21年頃北海道に移住し、80歳ばかりで亡くなったという。

(第4巻309頁、第9巻434以下・477以下・496頁、第10171頁)

佐々木亀之助

 後祥助と改める。佐々木四郎兵衛の嫡子なり。天保6年萩松本に生まれる。松陰と姻戚関係ではないが、家屋隣接のため幼少から相知る。嘉永元年正月久保清太郎・口羽寿次郎と共に松陰の兵学門下となり、爾来安政5年まで機会ある毎に松陰の教えを受けた。文久3年義勇隊、元治元年南園隊を組織して国事に尽くす。明治21年頃北海道に移住し、大正3年80歳で亡くなる。

(第4巻309頁、第8巻第334号、第9巻433以下・477以下・495頁以下・第10167頁)

佐々木謙蔵

 佐々木四郎兵衛の次男即ち亀之助の弟。天保9年に生まれる。後名を益と改め、渡邊肥後之助の養子となる。安政3年以来松陰の門下となり、準銃撃剣の方面において塾生を誘う。文久・元治の頃国事に奔走したことは知られているがその後は不明である。

(第4巻308頁、第9巻453480頁)

佐々木小次郎

 後卓之助と改める。松陰の叔父佐々木孫左衛門の子。天保14年4月松陰の兵学門下となり、嘉永3年玉木文之進に、翌年は平田新右衛門に従学し、その後機会ある毎に松陰より教えを受けるが、安政頃よりは文献にその名前が見えない。明治初年頃徳島県庁に在勤したことがある。後隠退して明治4179歳で亡くなる。

(第7巻15号、第9巻283頁以下、第10166頁)

佐々淳二郎(高原淳二郎)

 文政12年4月4日肥後藩士の家に生まれる。宮部鼎蔵の門人。嘉永6年米艦浦賀に来ると同志に謀議するところあり、同年11月松陰が熊本を訪ねると宮部・横井その他同藩の青年共に時事を談ず。翌年江戸に赴き松陰下田踏海の計画を贊す。文久2年同志と勤王を以て藩論を統一するに功労あり、3月御親兵として入京、元治元年禁門の変以来藩論一変し、獄中に空しく歳月を費やす。明治時代宮内省・農商務省に出仕する。35年7月2974歳でなくなる。

(第2巻75330頁、第6巻65338頁、第9巻351以下・358360頁)

佐世八十郎(前原一誠)

 名は一誠、字は子明、通称は八十郎、慶応元年彦太郎と改め、次いで前原姓を名乗る。米原八十槌は一時の変名、梅窓・黙字・斃休齋・椿東・太虚洞等はその号。天保5年3月二十日萩土原(ひじはら)馬場丁に生まれる。藩士彦七の長男。天保10年厚狭郡船木の目出(小野田市)に父と共に移り住み、翌年幡生周作に学び、13歳萩に出て、岡本棲雲次いで福原冬嶺に従学し、嘉永4年冬18歳で目出に帰り、安政4年2月萩に出て、10月松陰の門に入る。松陰は彼を「勇あり、知あり、誠実人に過ぐ」と評し、その才識は久坂・高杉に及ばざるも「其の人物の完全なる、二子も亦八十に及ばざる事遠し……父母に事へて極めて孝」と評している。

 翌年11月間部老中要撃策には加盟した。次いで松陰罪名問題に奔走して家囚を命ぜられた。翌年2月25日撰ばれて長崎に遊学の藩命を受け、5月まで滞在、8月藩の西洋学問所に入り、明年3月まで在学。この頃より翌文久元年10月頃まで病気。10月練兵場に入り、同舎長に抜擢、12月1日松下村塾の「一燈銭申合」に加わる。この頃より国事に奔走を始め、文久2年2月の長井雅楽要撃策に加わり、4月浦靱負に従い、久保清太郎と兵庫に出衛、久坂・久保・中谷・楢崎等と共に長井雅楽の公武周旋弾劾の上書をなす。

 8月藩命で江戸へ下る。翌年京都に上り、5月帰国、6月再び入京、8月18日朝議一変後、三条実実以下七卿三田尻に下るとその御用掛を命ぜられる。

 元治元年8月4日四カ国連合艦隊来襲の時、決戦を期して講和尚早論を唱えたが入れられず、次いで征長の議が起こると恭順派に反対して高杉晋作・山縣狂介等と共に図り、遂に藩論を統一し、慶応元年藩内の統一強化に奔走し、第二回征長の軍を迎える準備に尽力する。四境戦争が始まると軍議輸送の要務で小倉藩との折衝に当たる。慶応3年12月海軍頭取を命ぜられる。明治元年6月干城隊副総督として北越に出征、7月北越軍参謀となり、同地方平定後も新潟府知事西園寺公望を補佐し、殊に民政人心安定に尽くし明治2年に及ぶ。2月従五位に叙し越後府知事、7月参議に任じ、従四位に叙せられる。12月兵部大輔となり大いに陸海軍制の確立に尽力するが意見が合わず、3年9月病気を持って帰国するこの前後より前原は病気になることも多かったが新政府の施策方針について不満があり、長藩士の士族中にも不平分子があり、全国各地にも新政府に快からぬ者あり、西郷隆盛・江藤新平等と共に当時の中位人物となった。その後木戸・井上・伊藤・品川等旧友の勧告と斡旋にもかかわらず、遂に新政府の急激な西洋模倣的改革にあきたらず、明治9年1026日奥平謙輔等と兵を萩に挙げ、敗れて石見の国に逃れ、11月6日松江の獄に投ぜられ、12月3日萩において斬に処せられる。享年43歳。この乱を起こすや父彦七は自刃し、弟山田頴太郎(えいたろう)・佐世一清は同じ罪で斬られる。遺骸は弘法寺に埋葬。明治22年賊名を追赦せられ、大正4年従四位を贈られる。

(第4巻149151485頁・戊午文稿厳囚紀事・投獄紀事、第5巻140179197211267298頁、第6巻227351364頁、第8巻385389414480537588号、第1094頁)

宍戸 (ししどたまき) 山縣半蔵を参照

宍戸九郎兵衛

 名は眞澂(しんちょう)、通称は後に左馬之介と改める。号は橘廂、歌人としては鳰浮巣翁と号した。長州藩馬廻士。伴信友に就いて国学を修め、藩の典故(てんこ、しきたり)に精通。

 安政3年京都の長州藩邸に都合人となり、老練よく少壮の軽挙を戒めた。「尊王の志最も堅し」と松陰は評した。安政5年御世帯方となり、元治元年大阪の藩邸留守居に転じ、禁門の変に先立ち、来島又兵衛・久坂玄瑞等の憤激上京を鎮撫せよとの命を受けたが、遂に及ばなかった。長州藩兵7月19日京師に戦った日、九郎兵衛天王山に敵を待ったが来ず、恨みを残して国に帰り罪を待つ。時に藩政恭順派の手にあり、野山獄に投ぜられ、1112日斬られる。享年61歳。野山十一烈士の一人。明治24年正四位を贈られる。

 松陰はこの人と特に親交はなかったが、「涙松集」の跋を書ける人故ここに挙げる。

(第4巻467頁、第5巻4364頁、第6巻解題)

宍道 恒太(ししじこうた)

 後恒樹と改める。敬所と号す。長州藩士宍道直記の嫡子。嘉永4年松陰と同じく江戸に遊学して藩邸に在り、松陰の亡命を阻止せず朋友の道を誤りたるを以て逼塞(ひっそく)に処せられる。後嘉永6年11月松陰の兵学門下となる。その後のことは明らかではないが後年詩をもって名があり。明治2年東京若林松陰墓地における慰霊祭に列す。

(第7巻第7378号、第1050頁)

品川弥二郎

 名は日孜、字は思父、橋本八郎は一時の変名。天保14年閏9月29日、萩松本村字川端に生まれる。足軽弥市右衛門(後功労により一代侍雇挙げられる)の嫡子。幼にして佐々木古信に就いて学ぶ。安政4年15歳で松陰の門に入る。人物敦厚、少年中最も松陰に嘱望され、また鍛錬を加えられた一人である。「事に臨みて驚かず、少年中希覯(きこう)の男子なり、吾れ々(しばしば)之れを試む」「彌治は人物を以て勝る」とは松陰の評なり。

 翌年11月間部要撃策に加盟し、松陰投獄に当たり罪名問題に奔走して家囚を命ぜられる。松陰・入江兄弟入獄後も誠意を尽くしてその間に奔走慰藉する。松陰処刑後久坂等と切磋怠らず。

 文久元年6月頃江戸にあり、翌年帰国して久坂の指揮に従い志士間の連絡に任じ、同年11月の攘夷血盟に加わり、外国公使館焼き討ちの一人である。同3年正月松陰の遺骨改葬に際して、病気のため出席不能となったが、その前後周旋最もよく努めた。同月吉田松陰に従学し尊攘の正義を弁知し志行嘉すべきを以て士班に列せられる。

 元治元年7月禁門の変には22歳にして有吉熊次郎と共に八幡隊の隊長として入京したが、戦利なく帰国、後木戸孝允等に従い京都に潜入して薩長連合の事に奔走し、四境戦争には御楯隊の参謀として従軍、慶応3年には薩長を中心として討幕運動に進み、品川も薩藩と緊密な連絡に当たり遂によく維新の大業をなすに至った。

 明治3年8月欧州に派遣、同6年まで英国に滞在、12月ドイツに渡り公使館事務に関係し、翌年6月ドイツ公使代理を命ぜられる。

 明治8年10月帰朝、翌年4月権大史兼内務大丞に任ぜられ、内務農商務の要職にあり、明治17年子爵を授けられる。明治1810月ドイツ公使、21年枢密顧問官、12月宮中顧問官、22年御料局長官兼任のとき、命により松陰及び母滝子の事を皇后陛下に言上する。24年6月内務大臣に任ぜられ、翌年3月まで在任、32年枢密顧問官となり、翌年2月26日亡くなる。享年58歳。正二位勲一等に叙し、旭日大綬章を賜う。遺骨は京都霊山の墓地に葬られる。品川は産業組合設立の功労者として知られ、松陰の精神を普及するを以て己が任となし、遺著の刊行に尽力し、かつて松陰が入江九一に遺託して果たせなかった尊攘堂を明治20年京都高倉に建て、忠臣義士の遺墨遺品を募集し毎年慰霊祭典を行う。この尊攘堂は明治3310月品川の遺志により京都帝国大学に献納された。

(第4巻155416481482頁・戊午文稿厳囚紀事・投獄紀事、第5巻180245255296304頁、第8巻第319号外東行前の書簡多数・588615号、第9巻548593頁、第1096386頁)

嘯虎(しょうこ)宥長を参照

白井小助

 名は素行、号を飯山という。長州藩の重臣浦靱負(うらゆきえ)の家臣並衛の嫡男。文政9年萩に生まれ、後周防の熊毛郡字佐木(平生町)に移る。萩の頃金子重之輔に教えたことがある。嘉永6年江戸にあり、佐久間象山に砲術、安積艮斉・鳥山新三郎に文学、斉藤新太郎(弥九郎)に剣術を学び、松陰・宮部鼎蔵と親交あり。

 翌年松陰が下田踏海に失敗すると、宮部と謀り金品を獄中に送り、そのため謹慎を命ぜられる。

安政2年4月頃には郷里にあり、その8月再び洋学を志して江戸に赴く。その後松陰は安政5年10月、大原三位西下策に白井の上京を促そうとしたが果たさずに終わる。松陰没後は高杉晋作と共に国事に奔走し、文久2年末横浜の外国公使館焼き討ちにも加わり、元治元年8月四カ国連合艦隊来襲のときは奇兵隊参謀として馬関に出陣し右眼を失う。慶応2年世良修蔵(せらしゅうぞう)等と義勇兵を募り周防石城山(いわきさん)に屯集して第二奇兵隊と称した。四境戦争には大島及び芸州口に奮戦する。維新後越後口に出陣して功労あり。

官途に就かず故郷に帰り、私塾を営んで子弟に教える。狷介不羈(けんかいふき)、奇行で知られる。

明治33年前功を録して従五位を賜う。35年6月19日、70歳で亡くなる。

(第2巻316341363頁、第7巻第8789110号、第8巻第379号、第9巻358360頁、第1064以下・186頁)

杉梅太郎 本巻「杉民治傳参照」(松陰の兄)

杉 瀧  本巻「太夫人実成院行状」参照(松陰の母)

杉敏三郎

 百合之助の三男、松陰の弟。弘化2年10月6日松本護国山麓団子岩樹々亭で生まれる。生まれながらの聾唖で、顔面に痘痕あり、面貌松陰に似るという。性格は頴敏にして、居所進退常人と異なることなく、礼儀応接かえって人の及ばざるところすらある。幼にして、外叔久保五郎左衛門に字を学び、写字模書頗る妙なり。また読書を好み、意通ずる能わざるも父兄が書を読めば常にその側に在り。

 松陰は嘉永3年12月西遊中熊本に立ち寄り、深夜清正公に詣でて、この弟のものいわれかしと敬虔なる祈祷を捧げた。

 敏三郎性温厚にして在世中30年間未だ喜怒を人に加えなかったという。杉氏の風に従い敬神崇祖の念厚く、常に祭礼供養のことは自らこれを行い潔白清浄を旨とした。自ずから聾唖を悟り他家に出入りすることなく、常に静座して縫糊の業をなし、祖霊祭典の事をなす。明治9年2月1日、32歳で亡くなる。

(第4巻461頁、第9巻5483102頁)

杉百合之助 本巻「杉恬齋先生伝」参照(松陰の父)

杉山松助

 名は律儀、号を寒翠または寒緑という、萩の人、軽卒の家に生まれる。初め土屋蕭海に従学し、後安政5年松下村塾に入る。同7月藩命を帯びて伊藤・山縣等と共に京都に情況偵察のため出張し、11月松陰の間部要撃策にも加わる。文久2年上京し、久坂等と王事に奔走する。この年5月久留米に使し、真木和泉等の幽囚を釈かしむ。3年正月、松陰に従学し尊攘の正義を弁知し志行嘉すべきを以て士班列せられる。同5月攘夷の勅下り、有志多く馬関に下る時、杉山は寺島忠三郎と京に留まる。元治元年6月京都三条の旅宿池田屋にて密議中新撰組に襲われ、宮部鼎蔵・吉田稔麿等と共に防いだが及ばず、重傷を負い、邸に帰り、遂に27歳で死す。明治24年従四位を贈られる。

(第4巻394頁、第8巻第347356号)

周布政之助(すふまさのすけ)(麻田公輔)

 名は兼翼、字は公輔、麻田と号す。後麻田公輔という。家世々長州藩馬廻士、食禄68石余なり。早く父を喪う。藩校明倫館に学ぶこと数年、26歳検使となり、累進して江戸方右筆・手元役・用所約等となり、少壮藩吏中の第一人たり。

 安政5年8月内勅降下するや藩主の奉等を持して上京する。元来周布は進歩派に属し、松陰等とも親しく意見がよく合い、安政5年は藩政大いに更張したが、井伊大老の違勅事件、内勅降下の頃より次第に松陰等と疎隔するに至り、遂に同年11月全く正目衝突をし、松陰は厳囚を命ぜられ、翌月投獄された。翌年10月周布は江戸にあり、松陰刑死後公金を支出して遺骸埋葬のことを助けた。文久2年藩主京都に在り、周布は召されて謀議に参加し、爾来京都江戸の間を往来して尊攘のことを画策する。文久3年攘夷の令が下ると藩に帰り、檄を伝えて5月馬関で外国艦隊を砲撃する。8月朝議一変して長州兵の京都護衛を解き藩主父子の入朝を止められた。当時周布は表番頭で、政務役・蔵元役を兼ねていた。この間の処置を誤ったとの非難を受けた。大阪に出て画策しようとしたがどうにもならなかった。遂に責任をとり自決しようとするが、藩主が使いを出して召還する。

 元治元年7月禁門の変が起こり、しかも当時馬関に四カ国連合艦隊が来襲し、長州藩は空前の危機に陥る。周布は清水親知にしたがい岩国藩主吉川経幹に遣わされ、善後策を講ずる。しかし藩内の恭順派が勢力を得、周布の意見は容れられず、藩論も定まらず前途危惧すべきときとなった。周布は責任を痛感し、絶食数日の後、9月26日、42歳で自刃する。明治24年正四位を贈られる。

(第4巻319327336366432456463480頁、第5巻162頁、第6巻209頁、第8巻第310313367388428号、第10178頁)

清狂 月性参照

關鐵之助(関鉄之助)

 名は遠、字は士任、水戸藩士で茅根伊予之介・鮎沢伊太夫等と藩学の同窓。嘉永6年米艦が来ると密かに浦賀に行き事情を探り意見を述べる。その後郡吏となり歩士に進む。

 安政5年藩主斉昭等幽閉され、また内勅降下のことを聞き、蝦夷に渡る途中に帰国し、名を三好貫之助と変じ、矢野長九郎(弓削三之允と変名)と共に北陸・山陽・山陰の諸道を巡り、列藩の要路または俊傑に勤王の大義を鼓吹する。

 安政6年井伊大老暗殺の計画を立て、一時藩邸に禁錮されたが、万延元年3月3日佐野竹之助等と桜田門外に大老を斃(たお)す。後諸国に潜伏し、文久元年越後で捕らえられ、翌年5月11日斬殺される。享年39才。明治24年従四位を贈られる。

 松陰は安政6年正月獄中で、三好貫之助・弓削三之允が萩に来たのを聞き、塾生を通して謀ったが、意の如くならずして終わる。

(第8巻第434436439号)

瀬能吉次郎(附 百合熊)

 名は正路、文化4年萩松本に生まれる。長州藩士で佐々喜四郎兵衛の兄、松陰の父の友人。松陰の生家新道の杉邸はもと瀬能の邸であったが、瀬能氏が椎原に移転したので、嘉永6年これを借り、明治以後買い受けたものである。

 19歳のとき、江戸に赴き国学を学び、後和歌に志す。24歳小納戸手子となり、後に大納戸に勤め、大検使格遠近附に進む。晩年明倫館教授を兼ね、明治3年5月27日、64歳で亡くなる。

 松陰は江戸遊学中または杉家幽閉中その好意を受けることが多く、特に蔵書を度々借りている。兵学門下で松下村塾にも在学した百合熊(名は正章)はこの人の子どもである。

(第4巻55頁、第7巻第167号、第9巻325469以下・553590頁、第10172頁)

世良利貞

 初め孫槌と称す。長州藩士で膳部職。近藤芳樹門下で国学国史に精通。嘉永5年夏松陰亡命の罪により帰国を命ぜられて帰るとき、当時麻布邸より同じく帰国途上の世良と大阪港から同船する。

 安政年間世良は岸御園を通じて松陰と文通する。「頗る国史国語に通じ、且つ其の人物塵外に卓立し、野ならず怪ならず、真に有為の人」と松陰は評した。維新後教部中録に任ぜられ、明治6年教典編纂掛を命ぜられ、10月長門一宮住吉神社宮司となる。11年3月1763歳で亡くなる。

(第7巻第61252281号)

千住代之助

 名は健任、西亭または西翁と号す。文化13年生まれる。佐賀藩士。天保元年肥後に遊学し帰国の後藩校指南となり、元治元年御側頭兼目附となり、藩主が亡くなると墓側に閉居する。在職32年藩主の新任が最も厚く、よく枢機に参加して貢献するところ大である。閑叟公年譜及び言行録の著がある。明治1164歳で亡くなる。

 松陰は嘉永3年西遊の途中佐賀でこの人と会い詩の往復があった。

(第9巻8596頁)

相馬九方

 通称一郎、名は肇、字は元基。讃岐に生まれる。学成りて後、岸和田の教習館の教授。松陰は嘉永6年2月下旬森田節齋に従い岸和田に赴き、数日往来して劇談する。

(第8巻第321号、第9巻309頁以下)

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