長井 雅楽(ながいうた)
名は時庸、通称は隼人とも言う。長州藩士。
松陰とは嘉永頃より相識り房相漫遊日記はこの人に貸して紛失したと言う。長井はその後、世子の近侍となり、安政5年10月目付となる。
松陰は間部要撃策以後長井と意見が合わず、6年5月松陰東送の幕命を携えて帰ったことで門人等が長井のはかりごとではと疑う。
翌年記録所役を兼ね、世子に追従して国事に当たる。文久元年より公武合体・航海遠略策を主張して時局打開の根本方針となし、これを以て藩主毛利敬親に説き、遂に命を受けて自ら公武合体周旋のことに当たる。毛利藩が時局に対して積極的行動をとるに至る発端となる。すなわち同年5月京都に上り建白書を出し、6月江戸に下り閣老に説き、8月京都に復命し、帰国して藩主に報告する。同月藩主は長井を従えて江戸に下り、12月建議書を久世閣老に呈する。翌年正月幕府は長井を中老格に列し公武の周旋を依頼する。よって3月上京し滞在1ヶ月に及ぶ。
然れども尊攘派の志士は長井を佞幕の巨魁となし、その公武合体論に反対する者多くなる。長州藩では松陰門下ことごとく反対し、藩論を動かして長井を支持せざるように至らす。
長井は京都の説得が難しいことを感じ、4月下旬江戸に下り、6月職を免じて帰国させられる。
6月下旬その帰途を近江で刺そうとしたのは久坂・福原・寺島・野村・伊藤利助等であった。
翌年2月6日自刃を命ぜられる。享年45歳。
(第4巻戊午幽室文稿厳囚紀事、第7巻第25・29・39・94号、第8巻第580号、第9巻532・541頁)
永井 政介(付芳之助)
水戸藩士、松陰は嘉永4年12月宮部鼎蔵・江帾五郎と水戸に遊ぶや、江戸の剣客斉藤新太郎の紹介により政介を訪れ、遂に翌年書月20日まで約1ヶ月その家に寓する。
政介は剣客で文政7年英船員常陸海岸に上陸するや、当時韮山に在り、馳せて藤田幽谷の所に至り夷人を斬ろうとしたが、やめたという。
松陰は特にこの事を東北遊日記に載せている。
列公の時に抜擢され郡奉行となり、松陰等訪問の時は在野にあり。
松陰の滞在当時19歳のその子、芳之助道正又は順正は、松陰等のために案内し、また互いに時事を談じた。後に彰考館に出仕して国史編纂に当たり、元治元年那珂港の郷校にありて近郷の民に尊攘説を鼓吹する。
この年同藩に内乱があり、松平頼徳同港に屯するに及び、別に兵を募らんとして奔走中捕らえられ10月17日斬られる。享年32歳。
(第6巻76頁、第7巻第80・81号、第9巻172頁以下)
名は為救、新潟の人。代々医者を業とする。立菴は慷慨義を好み、医術だけではつまらなく、ことに勤皇の志士と交わる。従ってこの地に来た志士は立菴を訪れた。薩摩藩の胆付七之丞・仙台藩の氏家晋はその例である。
嘉永5年、松陰が宮部鼎蔵と共に新潟に至るとこの家の客となる。
立菴の長子東菴に與うる詩に「才と曰ひ気と曰ふも学を基と為し、博と曰ひ精と曰ふも勤を資と為す…」と。
明治戊辰の役、立菴自ら起つことが出来ずそれを嘆き、二子、一孫のため官軍に従った。明治14年11月亡くなる。享年75歳。
(第9巻211頁以下)
中谷 正亮(附忠兵衛・茂十郎)
長州藩士、父は通称忠兵衛又は市左衛門、名は章貞という。藩の盾吏として精勤する。嘉永2年藩校明倫館拡張工事の監督。4年藩主の駕篭に従い江戸に赴いたとき、松陰はその食客であった。松陰は常にその精勤に感じ尊敬していた。
安政3年7月病没。
正亮(松三郎、後松陰名実之、字を賓卿と命ず、三十三岳外史、鉄顔と称す)は幼にして福原冬嶺に学び、更に明倫館に入る。
嘉永4年松陰等と江戸に遊学を命ぜられ、始めて互いに識る。帰国後も明倫館で居寮生であった。
安政3年秋より時々松陰を囚室に訪ね徹夜の激論もたびたびであった。遂に師事することになる。尾寺・高杉・久坂等を松下村塾に誘ったのは彼である。
安政5年3月九州に遊学し、次いで6月に京都に入り、久坂玄瑞と共に活躍、9月江戸に下る。当時江戸には桂・尾寺・高杉・半井・入江・吉田栄太郎・松浦・久坂等松門の志士あり、大いに時事を論ず。
翌年2月帰国後山口にあり、松陰死刑後は同門の士と行動を共にし、文久元年末の「一燈銭申合」に加盟し、2年3月兵庫出衛の軍に従い京攝の間に活躍し、薩摩の有馬新七等の義挙にも参加を約束した。しかしこれは寺田屋の変で未遂に終わる。その秋藩命により江戸に赴いたが、病気となり閏8月8日亡くなる。享年32歳。
その墓は東京松陰神社にあり、明治44年従四位を贈られる。茂十郎は正亮の甥で安政5年松下村塾に在学し、塾舎増築の際大いに働く。
(第2巻412頁、第4巻20・29・123・126・162・308・325・350・351頁、第5巻150・431頁、第6巻201・212・295・349頁、第7巻第11・36号、第8巻第300・304・310・315・329・332・606号、第9巻111・155・459・470・480・497・518・520頁、第10巻19以下・172頁)
名は秀実、号は帰山、肥後藩士贈正四位松村大成の弟。つとに文武を修め、皇室の衰微を歎き、兄と謀り、嘉永6年九州・山陽・近畿の諸国を歴遊し、江戸で鳥山新三郎の家に寓す。
佐久間象山の門に入り、宮部鼎蔵その他の同藩人及び吉田松陰等長州藩人とも大いに交わり時務を論ずる。松陰の踏海失敗前後大いに援助する。
安政の始め頃より将軍継承問題にも着眼し遂に水戸の安島帯刀(あじま)等と一橋慶喜を推す。その後時事に活躍したが、酒におぼれることもあり、文久3年京都守護の隊員に選ばれたが、出発する前にそのことが終わる。その後病み、慶応元年8月28日亡くなる。享年42歳。明治31年従四位を贈られる。
(第4巻427頁、第6巻65頁、第7巻第84号、第9巻341・358・460頁以下)
長原 武(たけき)
字は止戈、大垣藩士竹中図書の家来で文政6年不破郡岩手村に生まれる。
嘉永4年松陰江戸遊学の時、山鹿素水の塾で相知る。同年11月出版の素水著、練兵説略には、松陰・宮部と共にその序文を書いたことでも分かるように3人は素水門下の俊秀で互いに切磋琢磨した。
嘉永6年松陰第二回遊学の時も江戸にありて、交際する。その後松陰門下の江戸に遊学する者、多くが松陰の紹介で交わる。
慶応4年7月7日亡くなる。享年44歳。
(第7巻第28・177・2861号、第8巻第308・360号、第9巻329頁)
中村 牛荘(附百合蔵・勘助)
名は任、字は文淵、通称は伊助、牛荘または止止庵はその号、長州藩士。
山田時文について学び、寛政12年明倫館に入る。文化14年選ばれて儒員に列す。初め徂徠学を修めたが、後ほど朱を主とする。天保の初め明倫館の講官、次いで藩主齋元・敬親荷台の侍読となり、駕篭に従い江戸を往復する。嘉永5年明倫館学頭となり、元治元年出仕する。明治3年4月18日亡くなる。享年87歳。
松陰は嘉永4年江戸遊学中この人と隣舎にあり、指導を受け同藩の士と共に中庸の講義を聞く。
「歯徳並びに隆く……人を待つに城府を設けず、後進の少年をみるに親子弟の如き者、」と松陰は評せり。安政4年10月秋良敦之助に伴われて松陰を幽室に慰問したことがあり、其の時々訪問して励ました。
百合蔵は牛荘の長男で、名は弼、字は士恭、号は浩堂。明倫館に学び後松陰等と同じく嘉永4年4月江戸に遊学し、安積艮斎に学び、鳥山新三郎・宮部鼎蔵等と交わる。松陰は百合蔵を「邸中にて第一等の益友」と言っている。惜しむらくは滞在4ヶ月で帰国する。その後学歴は明らかでないが、元治元年山口の明倫館の文学教授であった。
慶応3年萩の明倫館学頭座取計となり、同年明倫館を文学寮と改称した後、二等教授、中教授の資格を持って教える。明治8年萩の小学校訓導となり、晩年毛利家編輯掛となる。 明治28年12月5日亡くなる。享年73歳。松陰の生家杉氏第7代の相次郎(昭和14年11月4日亡くなる。84歳)はこの人の子なり。
嘉永4年同じく江戸に遊学した中村勘助はその弟で、名は鼎、松陰と同年生まれで、後中村宇兵衛の用紙となり、萩に私塾を営んだ。明治19年亡くなる。享年57歳。
(第1巻291頁、第4巻131頁、第6巻334頁、第7巻第12・15・25・36号、第9巻471頁 、第10巻341頁)
中村 道太郎(九郎)
名は清旭、通称は喜八郎、後道太郎と改める。白水山人と号す。長州藩士、47石余り。馬廻並より馬回に進む。文武を明倫館に学んだが、幼より神道を崇め天朝を重んじた。
松陰の兵学門下なったのは嘉永2年22歳の正月。その後来原良蔵と共に松陰の最も親しき益友となり、常に往復した。嘉永6年浦賀に出衛し、松陰らと大いに国事を考える。安政5年2月藩命により上京し、梁川星巌・馬田雲浜。頼三樹三郎と交わり事情を探る。後密用方右筆となり、更に江戸方右筆に進む。元治元年7月禁門の変には国司信濃に従ったが、事敗れて帰国する。10月恭順派のために野山獄に投ぜられ、11月12日斬首。享年38歳。野山烈士の一人なり。明治24年正四位を贈られる。
(第1巻289頁、第2巻430・438頁、第4巻戊午幽室文稿投獄紀事、第5巻50・66・67・149頁、第8巻第391・606号、第10巻168頁)
安政4年13歳の秋、松下村塾に入塾。成績が芳しくなく、その後勤勉して群童中に頭角を表す。松陰は同藩士片山與七の養子に推薦したこともある。その後の事は不明。
(第4巻322頁、第8巻第347号、第10巻19以下・172頁)
半井 春軒(なからい)
長州藩士粟屋某の子。半井家を継ぐ。代々医者を業とする。
幼児より林百非の家に同居する。しかし親戚関係ではない。のち林百非の女を娶る。松陰は少年の頃林家に寓して勉強していたことがあり、半井とも親交があった。
安政5年半井が上京して久坂等と策動し、以後引き続き久坂と親交があった。久坂の九仞日記・江戸齋日乗にはしばしばその名前がある。当時おそらく藩校好生堂の医学生であったろう。
文久3年馬関戦争の時は好生堂から出て軍医として野戦病院に勤務する。
明治以後海軍軍医となったことは分かっているがその後は不詳。
陸軍軍医半井英輔はその子である。
(第5巻59頁、第8巻第320、321、377号、第9巻520頁)
字は浩然、通称は庄三郎、筱舎(ささのや)と号す。小倉藩士高橋元義の第四子。同藩士西田直亭の養嗣となる。
初め儒学を石川彦岳・太田錦城・服部南郭等に学び、後和歌を秋山光彪に学ぶ。かつて支藩篠崎氏の家来であった。また京都・大坂の藩邸留守居になる。広く諸藩の士と交わり、遂に独学で国学者となる。本居大平の門下と言われるがこれは誤りである。
金石年表・筱舎漫筆・直養漫筆・神璽光・補史備考等著述多し。
松陰はその著述を読みその人を敬慕し、安政4年10月松浦松洞を遣わしてその肖像を描かせる。
元治元年8月四カ国連合艦隊が馬関に来た際、小倉藩が傍観していたのを憤り絶食死を求めたという。慶応元年3月18日亡くなる。享年73歳。
(第4巻146・155頁、第7巻第278・279・288号)
元会津藩士で小姓役と勤めたことがあり、後出家して法華宗を修め、朱子学にも通じている。
安政元年松陰が江戸獄に投ぜられた時、すでに牢にあり、牢名主添役であった。松陰が夷将首を携えて来なかったことをつまらないと言った奇僧である。互いに論議して益あり。後遠島に処せられたが、その後の消息は不詳。
(第7巻第142号、第8巻第626号)
福島藩士能勢久米次郎の家臣。殺人の嫌疑者として江戸伝馬町の獄にあり、松陰が安政6年7月第2回目入獄の頃は牢名主であった。
松陰は沼崎から尊敬され、請われるままに孫子・孟子などの講義をすることもあった。10月27日の刑死前、松陰は留魂録・諸友に語る書などを託し、後事を頼む。飯田正伯・尾寺新之允らの門人が松陰の遺骸請受のことに奔走する時も獄中より周旋したものである。その後三宅島に流され、明治7年頃東京に帰り、楫取素彦(松陰の妹婿、小田村伊之助)と面談したことがあった。明治9年野村靖(元の和作)に留魂録・諸友に語る書らを手渡す。
野村靖は明治24年にこれを松下村塾に納めた。真跡留魂録が今日に伝えられた。その後の沼崎は必ずしも善良なる生涯ではなかった。
(第6巻解題、第8号第599・611・626号、第10巻179・181頁)
肥後藩士。嘉永6年12月宮部鼎蔵と共に萩に松陰を訪ねる。滞在数日、一緒に江戸に赴く。けだしこれより先、同年11月初旬、野口は他の同藩士と共に、長崎よりの帰途立ち寄った松陰と面談し、重大な決意をもって3人江戸に下った。江戸で諸藩の志士と交わったことは想像できるが、翌年3月松陰下田踏海の失敗により獄に投ぜられた。野口の消息も絶えた。
(第7巻第100号、第9巻351・353・358頁)
後の子爵野村靖、通称和作、後靖之助と言い、字は子共または芳共、号を欲庵または香夢庵主という。父は嘉伝次と言い長州藩の軽率である。
天保13年8月萩土原に生まれる。入江杉蔵の弟。
安政3年15歳で父を亡くす。
翌16歳の冬松陰の門に入り、特に名を知られることもなかったが、性格は大胆であることから安政5年末松陰の大原西下策に密使として京都に奔走したが、果たさず家囚となる。 次いで翌年2月24日兄に代わって単身伏見要駕策に赴き、失敗し翌月23日岩倉獄に投ぜられる。兄も同じ罪で入獄する。ここで松陰と書簡を往復し、死生の工夫に心胆を練り大いに勉強する。
万延元年閏3月兄と共に放免される。その後京武の間を往来して国事に奔走し、文久2年長井雅楽要撃策に加わり失敗する。
同年11月土屋蕭海と共に熊本に行く。
同年12月江戸に帰り同志と共に御殿山英館を焼く。
翌年正月攘夷血盟書に署名する。同月(追憶録は正月、防長回天史には7月)吉田松陰に従学し、尊攘の正義を弁知し、士班に列せられる。
5月馬関(下関)に赴き夷船を砲撃する。その後久坂と共に上京し、努力するが形勢思うようにならず、遂に元治元年禁門の変となり、兄入江杉蔵が亡くなる。爾来藩内内訌戦、四境戦争にしばしば御盾隊を率いて各地に転戦する。
明治元年には藩政に参与し、2年3年には脱退騒動を鎮静して、功労があり4年宮内大丞となり、次いで外務大書記、同年末岩倉大使一行に従い欧米諸国に出張し、6年帰国。 その後神奈川県令、駅遞(えきてい)総監、遞信次官を歴任し、明治20年子爵を授けられる。
24年駐仏特命全権公使兼葡萄牙・西班牙駐箚公使、27年内務大臣、29年逓信大臣となり、33年枢密顧問官となる。
40年富美宮・泰宮両内親王御養育掛長を仰せ付けられ42年1月なくなる。享年68歳。正二位勲一等に叙せられる。遺言により遺骨を世田谷松陰神社に埋葬される。
(第5巻己未文稿中多数、第8巻第370・371・419・426・520・532・533・535・540・542・547・549・556-558・615号、第9巻546・556・582・592頁、第10巻93・96・97・140頁)
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