香川甫田

 名は政記、通称惣右衛門、巨田の号がある。伝記は不詳。「未忍焚稿」(第1巻)「未焚稿」(第一巻)によれば、松陰が18歳頃兵学について教えを受け、嘉永4年遊学中共に江戸にあり、互いに往復する。(第1巻68p,第7巻19号、第8巻436号)

勝野保三郎

 通称保之助とも言う。旗本の士阿部十次郎の賓客勝野豊作の子で、名は初め正光、後正満。父は水戸藩の士と交わり、尊皇攘夷の心厚く、遂に子正満を従へ京都に潜入して梁川・梅田・頼等と交わり、安政5年8月水戸への密勅降下まで活動したため、幕府の探索が厳しく、水戸邸の大野謙介の内に潜伏する。保三郎は兄森之助と共に投獄、父の所在を拷問されたが言わなかった。遂に森之助は三宅島に流され、保三郎は6年10月16日出獄する。松陰はこの頃江戸にあり、保三郎と初めは書信で交わり、後5日間同居する。因みに豊作は潜伏中安政6年10月51歳で文久3年三宅島から帰り、共に病死する。水戸家豊作の忠義を賞し、保三郎をその藩の士籍に列す。(第6巻294p,第8巻599,622号)

桂小五郎(木戸孝允)(きどたかよし)(1833〜1877)

 名は別に貫治・準一郎・新堀松輔、号は松菊・土圭・廣寒・猫堂・老梅書屋・竿鈴(干令)、長州藩士。天保4年6月26日、萩呉服町江戸屋横町木戸昌景の長男として生まれ、11年桂九郎兵衛の養子となる。家禄90石であった。

  10歳で岡本棲雲に学び、後明倫館に入り文武に励む。嘉永2年17歳の10月、松陰の兵学門下となり以来松陰に兄事する。嘉永元年母、同4年父が亡くなる。

 嘉永5年9月剣客齋藤新太郎に従い江戸に遊学し、新太郎の父弥九郎に師事し、間もなくその塾の塾長となる。

 安政元年3月相州警衛の任に赴く。この間松陰もまた江戸におり往復する。翌年4月帰国、間もなく東上、6月浦賀に至り造船術を研究し、次いで江戸に入り、剣道を錬磨して名声大いに挙がる。松陰とは常に連絡して竹島策(鬱陵島開拓の件)については幕府と折衝する。

 安政5年8月大検使となり、江戸番手を命ぜられる。12月帰国し、松陰を野山獄に訪ねる。翌年正月松陰の激論が禍を招くことを憂え、塾生との往復を絶つ。

 10月江戸着、松陰刑死後遺骸を回向院に埋葬する。桂はこの時江戸毛利藩邸の学館有備館用掛となり、大いに風紀の振粛につとめ、後同藩の久坂・高杉等をはじめ、水戸・薩摩の志士等と交わり時事を語る。

 文久2年6月京都に入り奉勅攘夷の事に奔走、その後江戸・京都の間を往復、文久3年車駕加茂社行幸の時は藩世子の供奉に従い、9月帰国の途つくまで京都にいて大いに活動する。10月佐賀に使す。元治元年4月上京大いに活躍する。同7月、禁門の変に敗れると但馬に走り、種々画策したが果たせなかった。慶應元年5月中旬山口へ帰り、以後重要な政務を司り、12月京都の形勢視察の名の下に上京、翌慶應2年正月山口へ帰る。複雑多難な事務を処理する。11月汽船丙寅丸で鹿児島へ赴く。同3年3月藩命により太宰府にある公卿三条実美等に謁す。7月さらに藩命で長崎に赴き形勢を偵察し、9月に帰る。これより薩摩藩士等と連絡し、三条公等と共に時務について画策する。

 明治元年正月入京し、総裁局顧問となる。2月国事務掛兼任となり、版籍奉還の事に最も尽力する。明治2年参与に、4年6月参議に、制度調査委員に任命され、西郷隆盛と共に議長となる。10月特命全権副使として欧米各国視察の命を受け11月出発、翌年7月帰国。次いで文部卿・内務卿・宮内省出仕に歴任する。

 8年3月参議に任ぜられ宮内省の事務を兼任する。9年3月参議を辞し、顧問に任ぜられる。10年4月23日病気が進み、19日天皇が見舞いに来られる。5月2645歳で亡くなる。28日、正二位を贈られ、34年従一位を贈られる。(第2巻324p,325p,第4巻138p,492p,第5巻65p,150p,176p,第7巻196号、第8巻338,339,356,421,422,424,606号、第9巻341p,1062p,169p,178p

楫取素彦かとりもとひこ)(小田村伊之助を見よ)

金子重之助しげのすけ(重輔)(1831〜1855)

 天保2年長門阿武郡渋木村(福栄村)に生まれる。幼時、父茂左衛門が萩に出て染物業を営むに及び、重之助は他家を継ぎ、久芳内記(くばないき)の足軽となる。後酒や色事の失敗があり、

悔悟して23歳の嘉永6年江戸に出て毛利藩邸の胥徒(しょと(下級の役人)となる。萩では白井小助の所へ学問の為に出入りし、江戸ではあたかも白井が鳥山新三郎の塾に入ったため、彼もまたその塾に出入りし、肥後藩士永鳥三平等志士と接近し、松陰とも交わるに至る。 当時金子は藩籍を脱して渋木松太郎といい、鳥山新三郎の塾に松陰と同寓し、その教育を受ける。安政元年3月松陰の下田踏海は金子と企てた。不幸にして獄に繋がれ後発病し、9月下旬江戸から萩に送られ翌安政2年正月11日、岩倉獄にて25歳で亡くなる。44年正五位を贈られる。(第2巻87p,冤魂慰草301p,320p,第3巻373p,第5巻248p,第6巻59p,71p,104p,第7巻125,209号、第9巻同回顧録同附録、第1065p)

河北義次郎1843〜1890)

 名は俊弼、天保14年4月萩に生まれる。安政5年16歳の4月頃、松陰の門に入り同年11月末までいた。維新前後の経歴は不明であるが、明治5年英国公使館御用掛となり、次いで大蔵省に入り、後大蔵少丞に任ぜられる。明治10年西南の役に従軍して陸軍少佐、翌年広島衛戌司令官となる。21年領事としてサンフランシスコに、23年公使館書記として京城に在勤を命ぜられる。後韓国の弁理公使に昇任し、従四位に叙せられる。この年48歳で京城にて亡くなる。(第6巻207p,第9巻234p,10173p

河内紀令(〜1871)

 長州藩の老臣、堅田家の家老で禄高95石。安政5年8月、周防戸田(へた(徳山市)の青年26人と共に松下村塾に赴き、銃陣の練習を請願した代表で、後も塾に宿泊して9月末まで勉学する。その11月松陰等の間部詮勝要撃策にも血盟した一人である。この策失敗に終わる。元治元年隠居を命ぜられる。明治4年1月11日亡くなる。

(第8巻356,377,397,398号,第1021p

河野数馬

 名は通順、字は子忠または子谷、号は松齋、俳号は花逸、三田尻の士族のようである。俳諧をよくする。安政元年10月松陰が野山獄に繋がれたとき、已に在獄8年43歳であったが、松陰の獄中教化事業に最も早く協力をした。松陰は翌年12月に出獄した後も文通し、写本など依頼した。後小田村伊之助と共に彼の免獄に尽力し、同3年10月放免されたが、親族の反対にあって見島に流された。慶応元年赦されて帰る。その後のことは不明。(第2巻獄中俳諧・冤魂慰草、第7巻185,193,198,215,247,250号、第9巻465p

観 界(1841〜1925)

 周防熊毛郡藍田村(大和町)宇佐田、林宗兵衛の次男、幼少から同村正讃寺の新発意(しんぼち(出家して間もない人)となり、寺主観宥につき仏典を学ぶ。27歳の安政5年松下村塾に寓して松陰の教えを受ける。後文久3年9月郷里の正蓮寺に入り、翌年同寺13世の住持となる。大正142584歳で亡くなる。

来島又兵衛きじままたべえ)(1816〜1864)

 名は政久、幼名を光次郎という。長州藩士。幼少より武を好み特に剣術馬術に秀でていた。嘉永6年米艦隊が浦賀に来るとペリーの驕傲を聞いて憤懣に堪えず、これから大いに尊攘の志を強くする。安政2年大検使役となり、6年所帯方頭人となる。文久3年5月馬関の外国戦艦砲撃戦には総督國司信濃の参謀であった。同年6月上京し8月朝議が一変し帰藩し、三田尻に遊撃隊を編制し、次いで起こった諸隊の総督となった。後に森鬼太郎と変名して密かに上京して状況を偵察する。元治元年藩主雪冤(せつえん)(無罪の罪をはらす)運動の急先鋒となり、遊撃隊を率いて上京する。7月19日禁門の変には奮戦したが亡くなる。48歳であった。明治24年正四位を贈られる。

松陰と直接関わった時期は短いが、大いに来島の正義と胆力とを尊敬し、上書などで推挙に努めている。来島も松陰を尊敬しよく門下生と謀をした。

(第5巻64p,第8巻378,521,606号)

岸 御園みその(1858)

 通称は弥平次(治)、長州藩三田尻の胥徒(しょと)(下級の役人)であった。国学を楊井松雄に学び、その造詣が深く、また歌人であった。

松陰の語に「御園皇道を尊び外夷を憂ふ、吾が輩の先鞭たり、其の読書にるや最も抄写に勤む」と、また「未だ一面を知らざれども、毎々玄関迄来り書を借り去り、又珍書奇書を貸し出す。余、無面識の一心交を得たるを喜ぶ」とある。

安政4年3月頃より交わり、11月頃は塾に出入りして諸友とも交わる。安政5年9月亡くなる。

(第4巻124p,132p,144p,155p,第6巻257p,第7巻270,278,279,281,293号、第9巻472p,515p

岸田 多門

 安政4年14歳で松陰の幽室に教えを乞う。同年11月松陰の松下村塾が始まると冷泉清稚(雅二郎)と共に最初の寄宿生となる。村塾の禁煙問題に関係の少年。同5年11月迄在塾したがその後の経歴は不明である。(第4巻116p,155p,第9巻590p,10172p

北山 安世(〜1870

 佐久間象山の甥で、松代藩士。嘉永6年江戸遊学中から松陰と相交わる。安政2年正月藩の表番医となったが、その後安政4年長崎に蘭学研究のため赴き、帰途同6年4月萩に帰り密かに獄中の松陰を訪ね何事か策謀したが遂に果たせなかった。文久元年正月長州藩練兵場を設けると招聘されて騎兵書を講じ、また和蘭の兵書を翻訳したことがある。帰国後発狂して一時座敷牢に入れられ漸く回復し、明治3年8月再び発狂し母を殺し、自らも9月病死する。

(第5巻289p,296p,297p,305p,第7巻178号、第8巻534,544,550552号)

木梨平之進きなしへいのしん

 名は信、または進一。安政5年6月頃松下村塾に寄宿して専ら勉学する青年であったが、前後の経歴は不明。(第8巻332号、第10172p

木原慎齋(松桂)(18161881)

 慎齋名は籍之、字は君茅、慎齋または桑宅(そうたく)と号す。晩年の別号は撚白老人。安芸藩医松桂の子供。安芸の儒者坂井虎山の門に入り、刻苦勉励の後、古道にたける。初め父の仕事を継ごうとしたが、後儒者となり藩の教職につく。明治14年8月25日神戸で客死する。68歳であった。

 松陰は慎齋の父松桂が至孝の人(「母を尋ねる記」あり、幼児性別した母を求めること多年、遂にその墓を発見する)であることを欽慕し、「三余読書、七生滅賊」なる大字の揮毫を懇望して得、居常幽室の壁に掲げた。安政5年正月門人松浦松洞にその肖像を描かせた。松桂は翌年4月10日、83歳で亡くなる。これらのことから慎齋とも自然に知ることとなり、松陰は自らの文を送って添削を乞うたこともあった。(第4巻109p,294p,第7巻234,290号、第8巻297,332号)

木村軍太郎18271868

 下総佐倉藩の人。佐久間象山の門下。蘭学を修め、兵書を翻訳し航海術に精通し、和親通商論者であった。安政元年3月松陰が金子重之助と共に米艦を追って下田に行ったとき、木村もまた同地にあり、数夜同宿して時務を論じたことがあった。明治初年亡くなったと言われている。(第9巻368p,369p

肝付七之丞きもつけしちのじょう(1887)

 名は兼武、字は毅卿、海門と号す。明治維新前後大伴姓を名乗り、名を千早・隼人または遊叟と変えたことがある。文政6年鹿児島に生まれ、天文学で薩摩藩に仕えた。また兵学にも通じていた。26歳で江戸に出て、儒学を大橋訥菴及び藤森弘庵に学ぶ。

 嘉永3年東北蝦夷及び佐渡地方を歴任し、北方の事情に通じていた。松陰は嘉永4年江戸においてしばしば会してその説を聞き、東北旅行に参考にする事が多かった。
1214日松陰が先ず出発し、翌15日宮部・江幡・鳥山の三士が後を追った。肝付は送って泉岳寺に行き慷慨禁じ得なかった。刀を抜き地を斬り皆を驚かしたという。松陰は青森には行った松前には渡らず帰ったことを恨み、肝付けの笑いとなった。それ以来松陰とは文通はなかった。肝付は当時江戸の剣客齋藤新太郎とも親交があった。のち一時幕府に仕えたことがあった。

 明治維新後東京府・開拓使・山形県庁並びに師範学校等を歴任し
,明治20年5月官を退き、同年122365歳で亡くなる。晩年文章で世に知られ、東京都四谷新宿の水道碑記及び向島の殲蒙古仇碑記の撰文は彼の撰するものである。「東北風談」の著がある。

(第7巻49,53,62号、第9巻157p

許 道
安政4年9月頃松陰門下であったが、前後の経歴は不明。

久坂玄瑞くさかげんずい)(18401864

 幼名は秀三郎、名は誠・通武、後に義助、時には義質とも書く。字は玄瑞または実甫、秋湖・江月齋はその号、松野三平及び河野三平は一時の変名である。天保11年萩平安古八軒屋に生まれる。父は藩医良廸、玄瑞はその次男。幼児吉松淳三の私塾に学び、次いで明倫館に入り、後医学所に入り蘭学を学ぶ。14歳にして母を、翌年兄玄機と父とを併せ喪い、家督を相続して、家禄25石を給せられる。玄機の友中村道太郎・僧月性等は特に玄瑞を指導誘い、遂に松陰の門に入らせる。

安政3年3月、眼病治療のため筑前に赴き、次いで九州諸国を遊歴し、肥後で宮部鼎蔵に会い、松陰の英名を聞き、帰国後文通を始める。これまた交を結ぶ一面の動機であった。しかし幽室で親しく教えを受けるようになったのは翌年である。安政4年12月、彼は18歳で松陰の妹文(15歳)と結婚し、杉家に同居し、久保清太郎・富永有隣と共に松陰の教育事業を助け、自らも大いに勉強する。高杉晋作と松門の聯壁と言われる。

 「実甫の才は縦横無碍(じゅうおうむげ)なり、…高からざるに非ず、且つ切直人に逼(せま)り、度量亦窄(せま)し。然れども自ら人に愛せらるるは、潔烈の操之れを行()るに美才を以てし、且つ頑質なきが故なり」と松陰は言っている。

安政5年正月江戸遊学の許可を得、2月萩を発して京都に入り、一旦江戸に下り、再び上京し、主として松下村塾出身者と画策奔走し、大原三位・梁川星巌・梅田雲浜と交わる。9月また江戸に下り蘭学医術の研究をする。その間最も松陰の身上を憂慮する。松陰はこの年の暮再び入獄、玄瑞は安政6年2月帰国、藩の西洋学所官費生となる。5月松陰は東送される。この前後恩師のため、苦慮奔走する。翌万延元年2月、在萩の門人等と松陰の墓碑を作り、松陰の遺志を継承するため互いに切磋琢磨する。4月英学修業のため江戸に派遣、審書取調所内堀達之助に入門、7月頃小塚原の松陰墓碑を改修する。

文久元年公武合体に反対し、和宮降嫁を阻止しようとしたが失敗した。10月帰国、12月1日松下村塾生と「一燈銭申合」をし、翌2年3月迄しばしば村塾に会し、また坂本龍馬・吉村寅太郎等の来萩を周旋する。4月入京し、佐世・久保・中谷・楢崎等と長井雅楽公武周旋弾劾書をあげる。この頃薩摩藩の士と密謀する。6月長井要撃策を計画したが失敗する。後藩主に度々上書する。10月松門志士が中心に松陰慰霊祭を京都蹴上に行う。翌11月高杉等と攘夷血盟書を作り、12月英国公使館を焼く。それより水戸に遊び、信州に佐久間象山を訪ね、京都に入り、世子・益田弾正、その他諸藩の志士と公卿を動かし、加茂社行幸のことを議し、攘夷即行の気運を醸成するに最も力があった。

文久3年4月同志と共に下関に赴き、公卿中山忠光を奉じて光明党を組織する。後の奇兵隊の前身である。5月10日の攘夷期限を以て米船に砲撃をする。6月京都に入り、真木和泉・宮部鼎蔵・木戸孝允・山田亦介等と男山八幡宮行幸攘夷親征の事に奔走したが、8月18日朝議が一変し、長州藩は苦境に陥る。玄瑞は政務役に挙げられ京都駐在を仰せつけられ、以後の処置を考える。9月一旦山口に帰り、元治元年正月、老臣井原主計に随い入京しようとしたが、許されず、伏見に留まり、家老國司信濃・遊撃隊長来島又兵衛の武力入京を阻止して山口に帰り、協議討論したが決まらなかった。6月進発と決まり、益田・福原・國司の三家老を率いて京都付近に屯する。久坂・来島又兵衛・真木和泉・寺島忠三郎・入江九一等軍議に與る。7月19日禁門の変となり、長州軍は会津・桑名その他親衛の兵と衝突して多くの死傷者を出す。玄瑞等は鷹司邸で奮戦したが、銃弾に当たってだめだと判断し寺島と自刃する。25歳であった。遺骸は京都霊山に葬り、後遺髪を萩の杉氏墓城に埋める。江月齋の遺稿がある。明治24年正四位を贈られる。

 妻文、後に美和と改める。夫久坂玄瑞は東奔西走、殆ど家にいることがなかったが、家を守り後悔憂いはなく、子供がなかったので、小田村(楫取素彦)の子供を養う。玄瑞の死後この子供を連れて久坂家の復興につとめたが、子供が故あって楫取家を嗣ぎ、文もまた後に亡き姉(壽)の後妻として楫取素彦へ嫁す。大正
1079歳で亡くなる。

(第2巻406p,414p,421p,第4巻152p,158p,307p,354p,387p,第5巻60p,179p,206p,209p,第6巻186p,244p,295p,349p,第7巻224号、第8巻305,317,331,333,337,487,522,541,588,595,600,606号、第8巻305,317,331,333,337,487,522,541,588,595,600,606号、第9
519p,520p,530p,557p,558p,576p,592p,第10巻186p)

日下部伊三次くさかべいそうじ)(1814〜1858)

 名は信政、薩摩藩士。かつて藩で罪をおかし、水戸に客遊する。斉昭はその人となりを奇とし、録を与えようとしたが聞かなかった。これを薩摩公に話し復籍する。

 安政5年京都で公卿三条実萬に親しみ、遂に水戸への密勅降下に及び、8月鵜飼幸吉と共に勅書を奉じて江戸の水戸藩邸に入る。幕府がこれを知り捕らえられて江戸へ送られ伝馬町の獄に繋がれる。厳酷な詰問にも黙して答えず、かえって幕吏を切諫する。安政5年12月17日45歳で病死する。明治24年正四位を贈られる.

 松陰は生前知らなかったが、安政6年江戸獄に送られて、同囚から彼の人物逸事を聞き「留魂録」に彼のことを書いている。(第6巻288p,第8巻599号)

草場佩川くさばはいせん(1787〜1851)

 名は)、字は棣芳(ていほう)、磋助と称す。佩川・玉女山樵はその号である。晩年には宜齋と号した。肥前多久の人、佐賀藩儒者。天明7年正月7日に生まれる。2歳の時父を亡くし、23歳で江戸に出て、古賀精里に学ぶ。文政・弘化の間よく藩の文教に尽くす。安政2年幕府からお召しがあったが、老・病気を理由に辞退する。その後城内の講筵(こうえん)に侍し、世子に授読をし、慶応3年8月浜井を発し、10月29日81歳で亡くなる。

 松陰は友人山縣半蔵の紹介により、嘉永4年12月西遊途中訪問し詩書の贈答をした。

(第9巻96p,104p)

口羽徳輔(徳祐)

 名は親之、通g、または貞順、字は希魏(g)号を憂庵・亀山・枇杷山人(または杷山)・梅核と言う。長州藩寄組の士、元寔の子。14歳明倫館に入り、16歳で病気になり家居し、安政2年22歳藩命により、江戸へ遊学し羽倉簡堂に従学、その重厚で才気があることを誉められる。後昌平覺に入り、かたわら安積艮斉・藤森大雅の門に入る。後帰国して家督を継ぎ、安政5年8月藩の寺社奉行となり、6年8月11日肺の病で26歳で亡くなる。

 松陰は安政4年10月から文通を始め、意気投合し、比類なき人物と誉めている。

(第4巻136p,147p,396p,第5巻43p,第7巻212号、第8巻332,334,356,613,615,625号、第9巻550p

口羽壽次郎

 名は良純、通称は後に覚蔵と改める。長州藩士。嘉永元年正月松陰の兵学門下となり、以後松陰に師事して、断続はあったが同5年まで漢籍を学ぶ。維新後戸長などつとめて松本村で終わる。(第9巻284p以下、第10167p

久保清太郎(五郎左衛門)(18321875)

 名は久清、清太郎は通称、後松太郎と言い、明治2年断三と改め、淞東はその号。五郎左衛門久成の長男、天保3年閏11月8日萩城下松本村に生まれた。13歳で家督を相続する。49石5斗。11歳の頃から玉木文之進の松下村塾に入り勉学する。松陰兄弟とは一緒に学んだ。

 嘉永元年松陰の兵学門下となり、その後松陰が他へ出かけることが多くなったが、帰郷中は必ず教えを受けた。安政2年
24歳で江戸に赴き、藩邸の大番手として在勤2年余、その間古賀茶渓・羽倉簡堂・東條英庵・藍谷宕陰に教えを受け、長原武・鳥山新三郎・櫻任蔵等松陰の旧友と交わり、松陰のためにも種々便を図った。五郎左衛門も松陰が幽室にいるころしばしば訪れ、日を定めて対読し、大いに奨勤し清太郎の大成を期待した。

 清太郎は安政4年4月29日帰国、松陰と協力して村学振興に尽くし、富永有隣の出獄に尽力して松本村へ迎え、3人の協同で松陰の松下村塾を独立させ、自らも塾生の指導に当たり、安政5年5,6月頃塾の最盛期を迎えた。安政5年7月、再び藩務に就く。その頃より時事の切迫と共に松下村塾も大原西下策・間部老中要撃策などを計画するようになり清太郎もそのことに関わる。「外愚内明、温良にして而も鉄心石腸」と松陰が評しているように、彼は華々しい活動はないが、最も松陰が尊敬し信頼する一人である。松陰処刑後も藩吏として執務する。

 文久2年2月頃から時事に活動することを決意し、4月浦靱負(うらゆきえ)に従って久坂・中谷等と共に兵庫に赴く。後京都に上り、長井雅楽(ながいうた)の公武周旋論弾劾の上書に署名、5月江戸に下り、再び京都へ引き返し、9月末萩に帰り、旧松下村塾生の読書を指導する。

文久3年3月9日明倫館検使役、6月明倫館出勤、次いで同月三田尻講習堂出勤、更に政事堂出勤、25日船木の代官となり、元治・慶応の国事多難の時も民政に勤めて功績を残した。

 慶応元年2月吉田代官を兼ね、同年末上関代官に転じ、翌年12月筑前伊崎の代官を兼ねる。明治元年6月専任伊崎代官、7月筑前企救郡の代官兼任、10月山口藩会計主事に転勤。

 明治3年山口藩権大参事、6年参事、その後名東県(徳島県)に転勤、8年度会(わたらい)県(三重県)権令、9年7月20日退職して東京に移り、1110月2日48歳で亡くなる。生前従五位に叙せられる。

 清太郎の父は五郎左衛門、又は五郎右衛門とも言う。名は久成、文化元年に生まれ12歳で家督を継ぎ翌年父五郎左衛門久但が亡くなる。弘化元年41歳で家督を嗣子清太郎に譲り、悠々自適の身となり村の子供を集めて教える。これを久保塾という。後玉木文之進の松下村塾を受け継ぎ、後塾が盛んとなり、安政4年から松陰が主宰する。「性篤孝にして先王の道を喜び」とは松陰の養父吉田大助の評で、「外叔先生邑の子弟を会し、これを教ふるに人倫の道、書数の法を以てす」「最も意を女教に留む」とは松陰が見るところである。外叔とは松陰の養母久満が家格の関係で名義上久保家の養女となり、嫁したことによる。万延2年2月7日58歳で亡くなる。(第2巻307p,436p,第3巻255p,303p,第4巻11p,92p,155p,162p,第5巻150p,181p,433p,第6巻295p,第7巻38,60,186,222,228,257号、第8巻安政6年正月より3月頃迄の書簡・588,595,600,606号、第9巻284p以下・295p,297p,477p以下・571p,10141p,167p

國司仙吉

 長州藩士、安政4年12歳の2月、松陰の兵学門下となり、次いで松下村塾に学ぶ。11月頃は少年組の秀才として認められる。幕末維新当時はなお幼くて特記すべき功労はない。明治4年木更津県権参事、6年秋田県権令。在官中正五位に叙せられる。没年は不詳。

(第4巻155p,第9巻448p以下、558p,588p,10171p

国友半右衛門18231884

 名は重昌、後に昌、号は古照軒、通称は後に鐵叟(てっそう)と改める。肥後藩士で禄高百石。嘉永6年江戸で松陰と相知りしばしば往復して親交があった。

 松陰は「国友文を好む、有志の士なり」と人に紹介している。後熊本に帰る。松陰が熊本に赴いて交を温める。安政4年国友江戸に下り鹽谷宕陰(しおたにごいん)に師事し、後成山公子の近侍となり、維新前後国事に奔走する、晩年隠居し書を読み、生徒の指導をした。明治17101562歳で亡くなる。(第7巻78号、第9巻351p

来原良蔵くりはらりょうぞう(18291862)

 名は盛功、初めは盛吉、長州藩士。文政1212月2日阿武郡福井上村(福栄村)福原某の家に生まれ、来原氏を継ぐ、禄高70石、馬廻。萩松本または土原(ひじわら)に居住し、明倫館に学び、文武を修める。

 嘉永4年江戸に役し、
12月松陰亡命の事で翌年譴責(けんせき)帰国させられる。嘉永6年命により再び上り、江戸や相州を往復して警衛の任に当たる。安政2年一時萩に帰り再び江戸に赴き、密用方祐筆となり、同3年帰国、同4年相模警護、同5年萩に帰り、3月昨年警護中誤りありとして、逼塞仰せつけられ、4月赦され、8月祐筆となる。以後山田亦介と藩の兵制改革に貢献し、10月長崎遊学、文久2年長崎でオランダ人から銃陣の直伝を受け、時事が切迫すると京都・江戸に奔走周旋する。この頃公武合体説敗れて長州藩の長井雅楽自刃を命ぜられる。来原また従来この説を持って奔走した責任を感じ、8月攘夷の先鋒として横浜の外人を斬るとして脱走したが、世子の諭しを受け涙ながら退き、その夜屠腹して亡くなる。8月29日、34歳であった。遺骸は芝青松寺に埋めたが、文久3年正月、高杉等の手により、若林村(世田谷区若林町)の松陰墓地に改葬された。明治24年従四位が贈られる。

 松陰は中村道太郎及び来原を第一の知己と呼んだ。嘉永4年の東北亡命の一件、安政元年3月下田踏海一件など友情を尽くして周旋した。伊藤博文の師として、また博文を松陰門下生にしたのも彼である。

(第2巻320p,346p,364p,385p,第4巻313p,464p,468p,473p以下、第5巻65p,149p,234p,第6巻222p,314p,第7巻42,55,107,187,194,227,239,245号、第8巻343,347,348,355,356,359,394397,606号、第9巻167p,1047p,58p

桑原幾太郎17991861

 名は信毅、通称は初め治兵衛、後政次郎、水戸藩士で長沼流兵学家、藤田東湖の甥。矢倉奉公したことがあり、山陵調査に尽力する。文久元年1062歳で亡くなる。正五位が贈られる。

 松陰は嘉永5年正月水戸滞在中に訪問する。

郡司覚之進ぐんじかくのしん

 長州藩士、嘉永3年6月砲術研究のため長崎におり、松陰が遊学の時長崎で会い、帰途一緒に熊本へ行くことを約束したが果たせなかった。嘉永6年江戸に遊学し、松陰と交わる。佐久間象山に従学し、専心砲術を研究した。後明倫館で砲術の教官を務める。

(第7巻4,5,81,103号、第9巻33p,74p

月  性げっしょう(18171858)

 字は知圓、号は清狂、周防遠崎妙圓寺住職。文化14年に生まれ、幼いときから穎悟(えいご)(優れて賢い)で学を好む。15歳で志を立て郷関(ふるさと)を出て詩及び仏道の修業をし、江戸・京畿・上野・北越に遊学し天下の名士と交わり17年を過ぎ詩人としての名声大いに挙がる。しかし、詩人としてではなく、異教の害を慮りて、「仏法護国論」を著し、また法話中に海防の急務を説き、大いに尊皇攘夷論を高めた。人皆大いに感激し海防僧と呼んだ。

 安政3年春、本願寺法主に時務を問われたとき数千言を作って呈し、遂に徴されて東山別院に在り。一日梅田雲浜と紀伊の海防を論じ、自ら同藩を説こうとして、破衲(はのう)単身往いて国事を議す。その頃幕府に北海道開拓のことがあり、本願寺に布教僧の派遣を命ぜられた時、月性がその撰に当たったが、果たせなかった。同4年秋帰国。12月母の喪に遭う。翌年再び本願寺から徴されたが赴かず、5月、にわかに病気になり、42歳で亡くなる。明治24年正四位を贈られる。

 松陰とは安政2年3月から書簡の往復を始め、詩文の批評を交換し、大いに時事を論じた。或いは松陰の希望により金子重之助のために弔詩を全国各地の知友に求め、或いは安政5年春松下村塾徒と藩府との対立を調停するなど松陰の為に働く。なお松陰及び松下村塾生常用の二十字詰二十行の罫紙版木は月性の贈ったものである。松陰はその死を悼み、追慕してやまず、刑死に先立ち「仏法護国論」「清狂吟稿」等出版のことを門人に委嘱した。

(第2巻311p,317p,319p,329p,418p,449p,第3巻372p,479p,第4巻314p以下3篇、第5巻250p,第6巻73p,113p,第7巻181,199,200,207,225,231,234,259,264,289,290号、第8巻297,300,302,306,337,473,625,629号、第9巻556p

溝三郎

 萩松本商家の子。安政4年、松陰の門人吉田栄太郎が、村の無法者として連れてきて松陰に託す。松陰はよく導き、懇切丁寧に指導する。名を与えてその説を作って励ます。

 その後は不明。

古賀謹一郎18161884

 名は増、字は如川、謹堂または茶渓と号した。文化13年江戸に生まれる。精里の孫、侗庵とうあん)の子。家は世世儒家で、早くからその教育を受け、天保7年から幕府に仕え、弘化3年には儒者見習となる。この頃洋学に志す。

嘉永6年筒井・川路の二使に随い長崎に赴きロシア使節プチャーチンを見る。翌年同使節が浦賀に来たときも出て会議を助ける。

 安政2年正月、西洋学事を司り洋学所を促す。文久2年一橋門外に洋学校が出来たのは彼の功績が大きい。同年昌平覺(しょうへいこう)学事に変わり、元治元年大阪町奉行命ぜられたが病気で赴かず。

 慶応2年監察に変わり筑後守に任ぜられ、4年正月その職を免ぜられる。明治3年朝廷から徴されたが辞退する。明治17103169歳で亡くなる。

 松陰は嘉永4年江戸に遊学中、その門をたた)き疑いをただしたことがある。

(第7巻第20号、第9巻152p以下)

興膳(こうぜん)昌蔵

 長府藩医師。松陰とは直接関係はないが、当時竹島に住者がいないので、ここを開拓してわが国の領有とすることに賛成して(松陰の「竹島策」)、安政5年2月書を江戸にいた桂小五郎に寄せ、幕府の許可を得るべく奔走したが結局果たせなかった。

 興膳は文久3年6月外国船に石炭を密売する松本濤庵を援助したことで尊攘派の松尾甲之進等に暗殺される。(第8巻307号)

児玉初之進18211875

 通称兵衛門、名は祐之、長州藩士児玉太兵衛寛備の子、禄53石。世々萩松本に住み、松陰の実家杉氏とは姻戚関係にある。且つ松陰の母瀧は家格の関係で、名義上児玉太兵衛の養女として杉家に嫁す。さらに松陰の妹千代が初之進に嫁し、重縁となった。

 初之進はおそらく幼児玉木文之進または外叔久保五郎左衛門に学び、成長して文学及び兵学を松陰に学んだ。嘉永4年松陰と同時に江戸にあり、藩邸の勤務に従事中、特に松陰と相親しむ。松陰が東北旅行のため亡命したとき、藩は初之進に探させたが、分からないとの報告をした。丙辰日記11月4日の條に「児玉兵衛門来たり、去る2日羽賀台銃陣の事を説く」とあり。以後この人の事が松陰の文書に載ることはなく、妻千代と松陰との文信が多くなる。維新前後国事に奔走し、明治8年3月55歳で亡くなる。

 

 妻千代、後芳と改める。松陰の妹中最年長であったため、妹等の代表となって兄の教訓に応え、兄の在獄中はその憂いを慰め、物品を贈遣する等の事をし、往復の文書が最も多い。よく家庭を守り、長寿を保ち、晩年は兄松陰の精神顕彰に心を用いる。大正1393歳で亡くなる。

(第7巻138,144,158,202号、第8巻546,573,589,624号、第9巻547p,10316p以下)

小林虎三郎18301877

 字は炳文、号は雙松、長岡藩士小林誠齋の子、天保元年に生まれる。早くから名声があり、同藩の河井継之助と並び称せられる。嘉永4年頃江戸に出て佐久間象山の門下生となる。松陰も同年江戸に下り、この小林の取次で象山に謁し、以後互いに切磋の友となり、象門の二虎と称せられるに至る。

 安政元年象山は松陰の踏海に連坐して投獄される。後信州に蟄居を命ぜられると、小林師の説をもって藩主に迫り返って怒りをこうむり帰国謹慎を命ぜられる。その後の経歴は不明だが、明治2年藩の大参事、4年文部省の中博士に任ぜられたが、病気で辞し、10年8月2450歳で亡くなる。(第2巻44p,343p

小林民部18081859

  名は良典(よしすけ)、京都の人、家は世々鷹司家の諸大夫であった。安政の初め正四位下に叙せられ、民部権大輔に任じ、筑後守を兼ねる。

 安政の頃から国事がようやく多端となったが、民部は王政復古の志を懐き、青蓮院宮及び近衛・三条等公卿の門に伺候し、また日下部伊三次・橋本左内等と尊攘のことを話し合う。殊にその頃鷹司太閤政通が佐幕的態度を持っているのを石諫した功績は忘れてはならない。

 安政5年9月水戸密勅一件で捕らえられ、江戸に送られ、榊原邸に幽せられ、翌年8月27日遠島の刑に処せられ伝馬町の獄に移されたが、未だ配所に至らず、1119日、52歳で亡くなる。

 文久3年高杉・伊藤等が松陰の遺骸を改葬するに際して、民部の遺骨もまたともに小塚原から世田谷区若林町に移して松陰と同じ場所に眠る。明治24年正四位を贈られる。

 松陰は安政6年伝馬町の獄において一時小林と同居し、房を異にした後もしばしば文通する。

(第6巻293p,第8巻604,605,606,615,621号、第10186p

駒井政五郎(18411869)

 名は忠仲、長州藩士。安政4年9月松陰の兵学門下生となり、11月頃も松下村塾にいたことが知られる。文久3年6月萩城海冦防備大砲掛となる、後元治元年八幡隊の隊長となる。後御楯隊に替わり、慶応元年その隊長となり、四境戦争に幕軍と芸州口に戦う。

維新後福山・松山・北海道に転戦して功績を挙げ、監軍に挙げられるが、明治2年4月23日北海道で二股金山の塁を攻め、力戦して遂に亡くなる。享年29歳。明治35年正五位を贈られる。(第4巻154p,10171p

権 助ごんすけ

 野山獄卒。安政元年10月松陰が江戸から護送されるとき衛卒で、その後卒となる。松陰を待つに士の礼を以てし、囚人富永有隣に書を学ぶ。安政4年松陰等が富永の免獄運動をすると、大いに働き、その11月烈婦登波が再び萩を訪れると自宅に泊まらせる。

(第4巻141p