名は綱紀、字は伯綱、号を景岳(けいがく)または藜園(れいえん)或いは桜花晴輝楼という。家は世々越前福井藩の医師。天保5年生まれ。
16歳緒方洪庵の門に入り医学を学ぶ。
安政元年江戸の坪井信良及び杉田成卿に従学、翌年藩主松平慶水に抜擢され御書院番となり、重ねて江戸に遊学を命ぜられる。3年帰国して藩の学務を司り、文武二道を興す。
4年24歳で藩校学監心得となり、別に洋書習学所を設ける。
安政5年将軍継嗣の問題が起こり、また条約勅許のことが決まらず、藩主の信頼厚く江戸・京都に奔走し、当時列藩を代表する志士中の一異彩を放った。その一橋慶喜を継嗣とする論は朝幕列藩に共鳴者があったが、井伊直弼が大老に任じられ水泡に帰した。同年10月捕らえられ、親戚預けとなり、6年10月江戸獄に繋がれた。
10月7日死刑に処せられた。享年26歳。明治24年正四位を贈られる。
松陰は江戸獄中にて左内の人物を聞き、一面識持たないことを惜しんだ。左内から松陰に贈られた詩あれば、獄中に或いは書信の往復をしのかもしれない。
(第6巻295頁、第8巻第625号)
初めの名は秀芳、後に秀驥と改める。字は邦傑、号を峻阜という。高松藩士。享和3年生まれる。幼にして林元碩碩・堤閑林の門に学び、旁ら武技を修める。弱冠四方に学び天下の士と交わる。
文政9年、藩主松平頼恕と世子頼胤との間に紛争が起こると決死の忠諫、奔走して事をおさめる。
弘化元年水戸藩のことについて藩主頼胤関係し、斉昭等幽閉せられると、忠諫聞き入れられず、安政4年高松に屏居を命ぜられる。
5年条約勅許のことに関し、亡命して京都に入り、梁川・梅田・頼・僧忍向等と天下のことを謀り信濃に入り江戸に赴く。日下部伊三次・勝野豊作等と議して水戸に入る。日下部は捕らえられ、勝野は逃れる。宗右衛門は単身水戸に入り潜伏する。この頃幕府及び藩の捜査が厳しく、遂に京都にのぼって大阪に出て、藩邸に自首する。その子速水も捕らえられ、父子前後して江戸伝馬町の獄に送られ、10月無期幽囚の申し渡しがあり、高松の獄に繋がれる。
文久2年11月朝命により赦される。その後江戸または水戸において水戸・高松両藩の積怨を解くことに力を尽くし、元治元年ようやく解決する。その後幕府の長州征伐、大政奉還に関係し、藩の正義を維持することに努め投獄される。明治2年また赦される。
3年9月2日病にかかり再び起きることができなかった。享年68歳。明治31年正四位を贈られる。
その次男速水、名は秀雄、天保5年生まれ。15歳で世子の近侍。はやくより父宗右衛門の忠諫容れられないのを見て、水戸藩その他特に薩摩藩の有志と交わり之を助ける。
安政5年屏居中の父が亡命すると、速水高松に屏居せられる。亡命の父を助けて国事に尽くそうとする気持ちが強く、遂にまた亡命し江戸に入り水戸に潜伏し、8月父に代わって罪を受けようと自首する。江戸に送られ伝馬町の獄に繋がれる。10月高松の獄に移され万延元年8月9日血を吐いて亡くなる。享年25歳。明治36年正五位を贈られる。
松陰は安政6年江戸獄において、護吏林立の間に宗右衛門と思われる者から「寧ろ玉となりて砕くるとも、瓦となりて全かるなかれ」と独語するものの如く教えられ、また詩を贈られる。速水とは2ヶ月余同居中、親しく薫陶したという。
(第6巻294頁、第8巻第601・602・603・605・606・621・623・626号)
名は道一、別名庄(荘)林道一と云う。紫海と号す。筑前の隠士。拳法の達人にして画をよくす。安政2年萩に来たり、しばしば松陰の兄を通じて獄中の松陰を慰問し、また子路の像を画いて贈る。松陰の為に贈る詩がある。秋良敦之助及び月性を友とし、阿月にて拳法を指南することあり。松陰の読書中同人の著書漂流記あり。
(第2巻327・329・350頁、第6巻121頁)
名は宗(しんそう)または、字は不(きゅう)または愚公、百非と号す。別に大平山人・如是・百是・三寶道人等の号あり、長松斎は雅号。長州藩士。周防三田尻(防府市)荘原養安の次男、寛政8年生まれ。藩士林氏を継いで萩に移る。松陰の養祖父他三郎及び石津新右ヱ門に就いて山鹿流兵学の奥義を究め、文学は吉武節齋を師とし、後独学して精を究め、藩学の都講(とこう)に任ぜられる。画は矢野筈山に学び、工夫研究を重ねて長州南画の巨擘(きょはく)たり。その他詩・書・茶・篆刻・禅学等通じないところなし。弘化4年家督を長子壽之進に譲り余生を楽しむ。嘉永4年12月27日没す。享年56歳。
松陰は幼く吉田家を継いだので、林等は後見人となり、明倫館兵学場の教授を代理し、また松陰の教育にも力を尽くす。殊に弘化3年には松陰を自宅に寓して指導し、弘化4年大星目録の免許を、嘉永4年正月三重極秘伝を渡す。
その子壽之進、名は有声、松陰の兵学門下なり。嘉永4年江戸遊学中松陰と交わり、その東北遊のために亡命の非を受ける。彼はまた歌人として知られる。
(第1巻57・90頁、第2巻445頁、第7巻第19・56号、第9巻217頁、第10巻157・165頁)
名は高行、号を鎧軒という、平戸藩の家老職。17歳江戸に出て、佐藤一斎の門に入り、のち藩主の伝となる。安政2年著わした「儲保軌鑑」は藩主世子に献じたものであるが、一斎これを推賞する。万延元年駕に従い江戸に赴き執政の要職に抜擢。元治元年4月21日没す。享年60歳。
その嫡子野内、名は高尚。嘉永2年小納戸頭として世子に従って江戸に在り、安政2年世子の近侍頭となり、文久依頼藩主の命を受け国事に周旋し、慶応4年には側用人にして旗仮支配の要職に在り、明治2年同藩の権大参事。4年4月辞して旧藩主の家令心得となり、7年隠退する。
松陰は師林百非が友人伊藤静斎より佐内の人ちなりを聞きて従学せんことを希望勧告せるにより、遂に嘉永3年平戸に遊学し、特に多くこの人の家を訪ねて、書を借り、教えを受け、最もその人物に推服せり。この五も書信の往復を続けた。翌年江戸において、佐内の紹介により、その子野内に会い詩文で交わる。
(第1巻100・102・273・307頁、第4巻39頁、第7巻第6・21・26号、第9巻36以下・88・90・92頁、第10巻29頁)
安政5年松下村塾の門人で、4月には須佐育英館に派遣された塾生の一人だが、経歴不明。
(第4巻309頁、第5巻181頁、第6巻216頁、第8巻第318号)
備中の志士にして梅田雲浜の門人なり。安政6年正月、大高又次郎と共に萩に来て義挙のことを謀ろうとしたが、藩府は敬遠して去らせる。松陰門下の入江・野村等密かに謀るところあり、伏見要駕策ここに誕生。その伝未だ明らかではない。
(第5巻64・154・261頁、第8巻第449・453・456号)
名は淳、字は子厚、涪渓(ふうけい)と号す。長州藩士平田与兵衛の長子。明倫館に入り、山県太華に従学して秀才の誉れあり。経子百家に通じる。後に安積艮斎はそのよく書を解するのをみて、当今の学士中第一と推す。藩主斎広の近侍となる。
嘉永3年明倫館学頭座御用取計を命ぜられ、後願いにより職を解かれて単に教諭となり、5年まで在職。のち退いて自宅で教える。当時藩学は朱子学であったが、自らは徂徠学を喜ぶ。明治12年5月7日没す。享年84歳。
松陰は少年の頃この人より漢文学について教えを受ける。
(第1巻211頁、第5巻65頁、第9巻523頁)
通称勝之助、号を東明という。嘉永6年米艦が浦賀に来ると藩命により警護の任に赴く。のち諸国を遊歴し剣技を修める。安政5年の初め松下村塾に入ったようで、8月兵学門下ともなる。文久元年兵庫出衛の軍に加わり、翌年より京都で尊攘のことに奔走する。文久3年5月馬関(下関)での外国戦艦砲撃の際は久坂玄瑞と共に京都より下る。8月朝議一変後は兵庫に隠れ探偵する。翌元治元年4月京都に入り、7月禁門の変で力戦し、鷹司邸にて屠腹する。享年28歳。
(第4巻309頁、第10巻173頁)
字は幹、名は守衛または信貞ともいう。長州藩士。天保13年松陰等と共に玉木の松下村塾に学ぶ。弘化2年3月松陰の兵学門下となり、嘉永元年中明倫館にて松陰の教場にも出る。嘉永2年明倫館都講となる。松陰より年長で、嘉永3年頃松陰の文を添削したものがある。嘉永4年江戸遊学中も交わりがあったが、その後の交渉はない。幕末の国事に勤め御親兵第一中隊司令となる。明治元年越後に転戦し、9月傷つき亡くなる。大賞4年従五位を贈られる。
(第7巻第19・36号、第10巻167頁)
名は縮、字は守約、萩野山獄の司獄。安政元年10月松陰が江戸から野山獄へ送られると、その言行をみて、その人格を崇敬し、翌年遂に弟高橋藤之進と共に弟子の礼をとる。松陰が獄中にありて読書著述教育のことに力を入れることができたのは、この司獄の好意に寄ることが多い。松陰は後安政5年末再び獄に入り、翌年5月東送の命があり、福川犀之助の独断で出発の前夜、5月24日実家杉氏に帰らせ、家族門人等に告別した。後このことを以て万延元年10月遠慮申し付けられる。
(第2巻337・361・364頁、第7巻第159号、第8巻第432号、第9巻417以下・472・569頁、第10巻142頁)
名は公亮、号を周峰という。長州藩士。松陰明倫館在職中の兵学門下生。嘉永4年3月目録伝授を受ける。その後は松陰と友人関係を結ぶ。継いで郡司千左衛門に砲術を学ぶ。後水軍の先鋒隊に編入され、海防のことに従う。安政3年4月相模に出、且つ幕士下曽根金三郎に就き砲術を修める。同年藩命により長崎でオランダ人ヘルスに就いて、兵術の伝習を受ける。5年8月山田亦介と共に京都に上り、姉小路侍従の邸に出入りし、また梁川星巌等とも交わり、国事を論じる。
万延元年萩にて洋船製造、火薬大砲製造のことがあると、これを監督し、文久2年イギリス人より汽船を、翌年帆船を購入する任に当たる。同年馬関(下関)において外艦砲撃の時は右帆船に乗って活動する。その後も藩の海軍のことを司ったが、維新後実業界に入り失敗し、神官を歴任し、和泉の国大島神社宮司にて亡くなる。没年不詳。
(第4巻97・393・395・468頁、第8巻第307・347号、第10巻158頁)
後、通称又市に改める。名は利実、字は去華、長州藩士。松陰の友來原良藏の甥にして、松陰の門に入ったのは安政5年。「福原は外憂柔に似て而も智を以て之を足す、…其の頑固自ら是とする処は、子楫(岡部)及ばざるなり」と松陰は評す。間部老中要撃策に加わり、また松陰再投獄のとき罪名問題により家囚となった一人である。松陰東送後は久坂玄瑞等の指導を受け、文久元年末の「一燈銭申合」にも参加した。これより先、藩命により万延元年海軍所運用科に入り、その後暫く動静明らかでないが、文久3年3月賀茂神社行幸の警護員に加えられた。長井雅楽と親類のため長井切腹の時介錯をする。明治年間に生存するが、没年その他不詳。
(第4巻475頁以下、第5巻180・233・269頁、第8巻第329・615号、第9巻545頁、第10巻94・172頁)
名は徳、字は伯恭、幼名は平三郎といい、後に卯右衛門または平左衛門と改める。梅軒・藍田・独鶴巣はその号。大坂の商家綿屋の子であったが、15歳田能村竹田に就いて画を学び、次いで書を八木巽處に、詩を広瀬淡窓に学ぶ。後、家を嫡男に譲り文人墨客人烈士と交わり、また諸方を歴遊する。
安政6年萩に来たり、土屋蕭海を通じて松陰に詩を贈り、また5月東送前にも扇面に描いて贈る。松陰は詩を以てその厚意を謝し、且つ其の一つを入江杉蔵に贈り、他の一つを自ら携えて江戸に下った。
藍田はその後も長州に来たり滞在3年、桂小五郎等とは親交があったという。
慶応元年5月大坂の自宅に在り、壬生の浪士に縛競られ獄に繋がれ、閏5月亡くなる。享年50歳。大正3年正五位を贈られる。
(第5巻208頁、第6巻255頁、第8巻第623号、第9巻544・566頁)
通称於菟馬または定二(松陰は禎二と書す)名は正尹、字は子文、閑堂と郷士、大和郡山の儒官冬斎の子。後、柳生藩の岡村氏を語り、通称鼎三、名は達、字は仲章と改め、晩年閑翁と号し、別に士章、友月と称す。森田節齋の門人。明治維新の際柳生藩権大参事となり、後官を辞して育英に従事し、大正8年没す。享年93歳。
松陰は嘉永6年5月4日、節齋の紹介により郡山において会談する。
(第9巻316頁)
名は輔、字は元發、昌蔵と称す。讃岐安原の人。中山城山に従って徂徠学を受ける。後、大阪に出て私塾を営む。尼崎藩の賓客。元治元年将軍家茂に謁す。同年12月16日没す。享年71歳。
松陰は嘉永6年4月、森田節齋に紹介され訪問する。
名は義利、長州藩士。安政4年9月松陰の兵学門下となり、その後も松下村塾にいたが、翌年12月松陰の投獄別筵にも侍せり。後、久坂玄瑞の指導を受けたが、その後の履歴不明。
(第9巻553・589頁、第10巻172頁)
名は守愚、豊浦山樵と号す。長門国清末(下関市)の人。陽明学者。壮年落魄(おちぶれること)して近江大津に客居し、寺子屋師匠として生活。
嘉永6年外交問題が起こり諸公卿に出入りし、密かに皇室の中興を図る。常に天朝または毛利氏のために死するを以て己が死に場所と云う。小国剛蔵・中谷正亮・久坂玄瑞等京都の行きその人を見て松陰に推賞する。
安政5年9月その著「道化狂画考」「井蛙録」を松陰は読んで大いに漢字、これを家老益田弾正に贈り、藩より扶持を給するべき建言する。6年正月清蔵萩に来たり、松陰及び門人等と画策をしたが、実現しなかった。
文久2年春京都に移り、久坂玄瑞・入江九一等が依頼した。同年秋萩に帰り、病気で絵堂村(山口県美東町)で客死する。享年60余。明治24年従四位を贈られる。
(第4巻415頁、第5巻54頁、第8巻第466・472号)
長崎人、オランダ通訳中山作三郎の五男、文政6年生まれる。幼にして訳司堀政信に養われる。家学を承けオランダ語に通達し、江戸に出て米艦渡来の際通訳の任に当たり功績あり。
安政元年下田在勤中、外人の交易願書の処置が独断で行われたことにより江戸獄に入れられ、在獄5年となる。時あたかも松陰と獄が同じで前後2回、互いに文通があった。且つ好意を寄せた。後、出でて蕃書(外国の書類)調所の教授となる。万延元年久坂玄瑞は彼に教えを受ける。
文久の頃英語辞典を著す。明治維新の後、開拓使大主典に任ぜられ5年辞して長崎に帰る。25年大阪に移り、27年亡くなる。享年71歳。
(第8巻第599・604・620・623・626号)
号を無名という、久保善助は一時の変名。水戸藩の郷士。幼より学を修め武を練る。後藤田東湖・武田耕雲斎その他の門に出入りし知遇を受ける。
嘉永6年依頼諸方に奔走する。
安政4年米国総領事ハリスが江戸城に於いて将軍に謁すべきことを伝聞し、蓮田東蔵・信田(しのだ)仁十郎と謀り途中要撃しようとする。幕府はこれを探知し追跡捕らえる。後に幕府に自首し、12月伝馬町の獄に繋がれる。蓮田・信田は翌年正月・5月それぞれ獄中で病死する。松陰は6年7月より10月まで同獄にあり、堀江とは殊に親交あり。往復文書最も多い。後赦されて江戸におり、文久元年高輪東禅寺襲撃に加わり、また捕らえられ江戸獄に入れられ、次いで水戸獄に移され維新の初め特赦の恩に接し出て水戸に閑居する。明治4年2月亡くなる。享年62歳。明治44年従五位を贈られる。
(第6巻292頁以下、第8巻600号以下多数)