會澤恒蔵(1782〜1863)

 名は安、字は伯民、号は正志斎・欣賞斎・憩斎。天明2年(1782)5月25日水戸藩士恭敬の家に生まれる。藤田幽谷の門に入り、刻苦勉励して次第に頭角を表す。寛政11年(1799)彰考館写字生となり、文化元年(1804)より諸公子の輔導に当たり、斉昭(なりあきら)は当時5才であったが、その後17年間その指導を受ける。

  文化5年(1808)歩士に列す。文政6年(1823)彰考館総裁を助け、天保元年(1830)郡奉行、11年小姓頭兼弘道館督学、弘化元年(1844)斉昭隠居し、翌年會澤も退く。その後斉昭の罪を訴え嘉永2年まで禁錮となる。

 嘉永6年アメリカ艦隊が浦賀に来たことを機会に藤田東湖と藩主を助け多くの働きをする。文久3年7月14日82才で没す。明治24年正四位を贈られる。
 彼は水戸学の最も有力な代表であり、著述70余巻、『新論』など大いに読まれた。

 松陰は嘉永4年12月、何度も訪れ大いに啓発される。その後も水戸学の研究を続け、大いに影響を受ける。(7巻55号、9巻174p,177p,189p,191p)
 
青木研蔵(1826〜1870)

 周弼(しゅうすけ)の弟で秋渓と号す。文化9年(1812)周防大島郡和田村(東和町)に生まれる。幼少の時両親を亡くし、兄と共に蘭方医を志し、大いに勉強し、長崎でシーボルトの教えを受け、後江戸の宇田川榛斎の門に入り、認められ伊東玄朴の塾で教える。

  嘉永の初め萩に帰り開業する。嘉永2年に長崎へ赴き種痘法を学ぶ。文久元年藩世子の侍医となり、3年兄の家を継ぎ藩の医学所好生堂の教諭となる。

 明治初年朝廷に召されて大典医となり、明治3年9月8日56才で没す。

 松陰は安政2年野山獄に在り、同囚の病気の療法を知らないため医書のことを研蔵に問い、その指示によって多くの翻訳医書を読んだ。(2巻326p,9巻415p,416p)
 
赤川淡水(佐久間佐兵衛)(1833〜1864)

 通称直二郎、別名義済、号は思斎、佐久間を継いで佐兵衛と改める。天保4年萩に生まれる。中村道太郎の弟で、幼くして父を亡くし、伯父赤川又兵衛に養われる。

 初め徳山の黒髪相模の塾に入り、また周防右田の太田梁平に学び、継いで藩校明倫館、嘉永2年9月松陰の兵学門下となる。安政2年水戸に遊学し会沢正志斎に3年間師事し、帰藩して安政5年8月明倫館舎長、次いで助教となった。

  松陰が幽閉中も文評をお願いしたり、再入獄の時も奔走した。しかし、藩府との協調を重んじたため松陰の心を疑わせたこともあった。文久年間京都にあり、攘夷論を朝議することに功があった。元治元年禁門の変には家老福原越後に従い大いに戦った。恭順党のため投獄され、11月12日斬首される。32歳で「野山十一烈士」の一人である。明治24年正四位を贈られる。(8巻356p,378p,585p,606号、9巻360p,366p,10巻169p)
 
赤根武人(松崎武人)(1839〜1866)

 赤禰とも書く。通称は幹之丞、旧姓は松崎、周防大島郡柱島の医師三宅の子である。
 幼くして海防僧月性(げっしょう)に学び、熊毛郡阿月(柳井市阿月)の郷校に入り、その地の武士赤根雅平の養子となる。

 安政3年(1856)8月頃松陰門下になったが、後に京都に出て梅田雲浜(うめだうんぴん)に学んだ。安政5年9月梅田雲浜が捕らえられると、雲浜に寄せられた志士の書簡を焼き捨て証拠を隠滅し、捕らえられたが疑いが晴れ松下村塾に松陰を訪ねる。

   松陰没後も松門下生と交流し、文久年間は京都・江戸の間を往復し国事に働き、文久3年(1863)1月、江戸で松陰の遺骨改葬に参加し、馬関(下関)における外国艦船砲撃にも加わり、文久3年9月高杉の後を承けて奇兵隊の総督となり、翌年8月四国連合艦隊と戦う。

 慶應元年(1865)高杉の藩論統一運動に異見を懐き、遂に新撰組伊東甲子太郎の配下となり、恭順派として活動する。慶応2年1月捕らえられ25日、山口鰐石にさらし首となる。28歳。
(5巻212p,232p,7巻264号、8巻372号、9巻477p)
 
秋良敦之助(1811〜1890)

 名は貞温、周防阿月の人、藩の重臣浦靱負(うらゆきえ)の家臣で早くから明倫館に学び、松陰の父及び玉木文之進(たまきぶんのしん)と親しく、松陰も幼少の時からよく知っている。

  浦家の加判役として財政整理に働く。尊王攘夷思想を抱き、月性(げっしょう)の感化を受ける。嘉永から安政2年頃まで江戸におり、松陰はよく時事を論じた。

  安政元年我が国の水軍が微力であることを憂慮し、蒸気に代わる轆轤機を使う人力船を発明する。安政4年京都で梁川星巌(やながわせいがん)・梅田雲浜(うめだうんぴん)等と出資者を得て二隻を造った。

 松陰は彼を尊敬し、肖像画を描かせるため松浦松洞(まつうらしょうどう)を阿月に派遣した事があった。その後浦靱負に従い、国事に奔走し、元治元年(1864)佐々木亀之助と共に義勇隊の隊長となる。

維新後神道中教院局長・少教正・鎌倉宮宮司となったことがある。明治23年80歳で亡くなる。大正元年正五位を贈られる。(第2巻449p,第4巻294p,第6巻152p,213p,第7巻306号、第8巻298号337号、606号、第9巻359p)
 
安積艮斉(あさかごんさい)

 名は信、重信、字は思順、通称祐助、号は艮斉または見山楼、岩代郡山の人。江戸に出て佐藤一斎に学び、頭格を現す。後林述斎の門に入り名声を博す。

 嘉永3年(1850)61歳のとき昌平黌(しょうへいこう)教授となる。蔓延元(1860)年67歳で亡くなる。

『論語ひ註』『論孟?えん旨』『見山楼集』『艮斉文稿』『艮斉詩稿』『艮斉陂b』などの著述がある。
 天保12年(1841)毛利敬親が江戸の藩邸に有備館(ゆうびかん)を設け、そこの教授となる。

  松陰は嘉永4年(1851)遊学の時学び「経学文章、卓爾たる大家にして諄々人を誘ふ、皆以て吾が学を輔くべし」と述べている。(第1巻290p,第7巻20,132号、第9巻辛亥日記)

 
阿座上正蔵(1846〜1864)

 名は正光、字は孝徳、弘化3年(一節には元年)長州藩士の家に生まれる。詳しいことは分からないが、安政4年12歳の9月、松陰の兵学門下となる。漢学も併せて学ぶ。6年松陰の東行を送る詩がある。

 文久3年(1863)5月馬関外国戦艦砲撃戦には壬戌艦に乗り組んで戦い、次いで荻野隊に入りて活動する。元治元年禁門の変に國司信濃い従い、嵯峨天龍寺に屯し、7月19日の戦いに中立売門で重傷を負い19歳で自殺する。(第9巻553p,591p,第10巻172p)
 

麻田公輔
 周布政之助を見よ
                                     

足代権大夫
(
1784〜1856)

 名は弘訓(ひろのり)、号は寛居(ゆたい)、天明4年に生まれる。父は弘早、家は世々伊勢の外宮神官であった。荒木田久老・本居大平・同春庭等に学び、京都・江戸の大家と交遊し、神典・国史・律令・歌集等の研究で知られ、著述も多い。安政3年11月5日73歳で亡くなる。
 松陰は嘉永6年5月、同12月江戸に下る途上に訪問する。
 

有吉熊次郎
(1843〜1864)

 名は良明(良朋と書いたものがある)、字は子徳、天保14年長州藩士近習傳十郎の次男として生まれる。幼くして明倫館に入り、安政5年16歳の春松陰門下となる。

 「有吉質直にして気あり、而して本と読書を以て業を建てんと欲す、今乃ち慨然相従ふ」とは松陰の評である。
 安政5年11月間部老中要撃策に血盟したが果たさず、叔父白根多助の厳重なる監督下に置かれたが、12月松陰投獄を聞き罪明論を以て奔走し、遂に家に幽室となる。

 松陰は「子徳は満家俗論にして、おそらくは自ら持すること能はざらん。然れども其の正直慷慨未だ必ずしも摩滅せず、則ち亦時ありて発せんのみ」と言っている。

 後再び明倫館に入り、文久元年7月高杉晋作と共に御番手として江戸に下り、有備館で勉強する。
 翌年11月久坂・高杉等の攘夷血盟に加わり、12月品川御殿山の英国公使館を焼く。文久3年藩命を受けて航海術を学び、後京都に上り学習院に入り、松門の同志と共に列藩の志士に交わり、攘夷即行の気運醸成に当たる。5月帰国して久坂玄瑞と共に山口で八幡隊を組織する。
 元治元年7月19日禁門の変には久坂玄瑞・入江九一等と鷹司邸に籠もったが勝ち目がなく自刃する。享年22歳であった。明治24年正五位を贈られる。(第4巻478p,戊午文稿厳囚紀事・投獄紀事、第5巻180p,273p,274p,第8巻327号、332号、425号、第9巻448p,452p以下、580p,596p,第10巻94p,172p)
 

天野清三郎
(渡邊蒿蔵)(1843〜1939)

 名は寛、松陰は後起雄と呼んだことがある。安政4年15歳の時松陰の門に入る。「天野は奇識あり、人を視ること蟲の如く、其の言語往々吾をして驚服せしむ、…一世の高人物」として松陰に愛されまた嘱望される。松陰の没後長州藩の海軍所に入り、また高杉晋作の奇兵隊創立にも奔走し、国事に尽くす。慶応3年英国に留学し造船術を研究し明治7年帰国し、工部省に入り、次いで大阪司検所長となる。

 後長崎造船所を創設し、大いに我が国造船界貢献する。在監中従五位に叙せられる昭和14年9月7日97歳で亡くなる。(第4巻507p,第5巻148p,180p,第8巻327号,332号,451号、588号、615号、第9巻554p,第10巻20p,21p,172p以下)
 

天野御民
  冷泉雅二郎を見よ。
 

鮎沢伊太夫
(1824〜1868)

 名は国維、字は廉夫、文政7年水戸藩士高橋諸往の次子として生まれる。長男は贈正四位高橋多一郎である。鮎沢正行の養嗣子となり、天保の末その家を継ぐ。
 弘化元年藩主斉昭が謹慎を命ぜられたとき禁錮される。後矢倉奉行・寺社役等を経て、勘定奉行となる。

 安政5年水戸に密勅が降りたとき上書して列藩に伝達しようとしたが認められず、安政の大獄で藩の安島・茅根・鵜飼父子等と共に捕らえられ親類預けとなり、8月23日江戸伝馬町の獄に繋がれる。27日遠島の刑を受け、11月14日改めて豊後佐伯藩に禁錮される。4年後許されて水戸へ帰り、勘定奉行に復帰し、奥右筆頭取となる。

 元治元年3月水戸の内変に敗れて京都に潜伏する。明治元年正月賊徒掃蕩の勅命に従って水戸に帰り、10月1日弘道館に戦い敗れ45歳で亡くなる。明治31年従四位を贈られる。

 松陰は安政6年江戸獄にあって文通し互いに許すところあった。松陰刑死後獄中追悼歌を輯録(しゅうろく)したのはこの人である。(第6巻292p,第8巻602号、603号、以下数通)
 

蟻川 賢之助
(1832〜1891)

 名は直方、自強堂と号す。松代藩士である。佐久間象山の、象門の二虎(吉田寅次・小林虎三)に次ぐ秀才であった。松陰は同門仲間として親しく交際する。
 「高輪大議なし、但し??(ほうこう)の技、蟹行(かいこう)学等に別才あり、蓋し得易からざるなり」と松陰は見ていた。後松陰が象山と通信をするとき、よく働いた。象山蟄居後は江戸において、後には松代において、蘭学及び砲術の教授をつとめる。

 文久3年正月、藩の鉄砲奉行となり、幕府の洋銃隊取調掛を兼ね、10月幕府の講武所砲術教授並びに書役となる。

 元治元年藩主に従い、京師警護に当たり、明治維新の時は歩兵隊長として越奥に転戦する。2年兵部大丞となり、在職数年にして辞める。明治24年、60才で亡くなる。(第6巻92p,
第7巻177,195,208,244,263,280号)
 

飯田 猪之助

 名は直方、通称左門、履軒と号す。長州藩大組の武士である。嘉永6年頃は世子近侍、安政3年頃は世子御附番頭兼御書物掛であった。万延元年春、藩校明倫館学頭となり、元治元年6月9日に亡くなる。
 松陰はこの人に就いて17才の時、西洋陣法を学び、嘉永2年共に御手当御内用掛を命ぜられて、長州北西の防備を巡視したことがある。(第1巻147p,第7巻25/94号、第9巻11p,14p,531p)
 

飯田 吉次郎

 名は俊徳、安政4年11才の9月松陰の兵学門下となり、その他の教育も受ける。「書を読むこと河の如し、三国志を課す」とある。松陰の別筵に烈し送別の詩がある。慶應元年奇兵隊士として国事に尽くす。同3年7月判明を以てオランダに留学し、帰朝後工部省にはいった。(第4巻155p,第9巻568p,588p,第10巻172p)
 

飯田 正伯

 長州藩の医師であった。松陰の兵学門下になったのは安政5年34才の8月であり、9月江戸遊学になり、特に深い師弟関係はない。ただ安政6年7月、松陰が江戸伝馬町の獄に繋がれていた頃、尾寺親之丞・高杉晋作と共に江戸におり、大いに松陰の為に働き、刑死後尾寺等と遺骸の埋葬等に尽力した。

 万延元年7月浦賀の富豪を襲い軍用金を調達しようとして捕らえられ、文久2年、38才で獄中で病死する。(第6巻295p,第8巻356,438,590号、以下数通、612号、第10巻173p,177p以下)

飯田吉次郎

 名は俊徳、安政4年11歳の9月松陰の兵学門下となったが、その他の教育も受ける。
 「書を読むこと河の如し、三国志を課す」とある。松陰の別れに列し送別の詩がある。
 慶応元年奇兵隊士として国事に尽くす。同3年7月藩命を受けてオランダへ留学し、帰朝後工部省に入ったと言われている。(第4巻155p,第9巻568p,588p,第10巻172p)

 
生田 良佐(1836〜1860)

 天保7年周防大野村に生まれる。父は毛利隠岐の家臣郷校弘道館祭酒箕山で、その次男である。幼いときから父の薫陶を受け、僧月性等の影響を受け国事をうれう。

 安政5年22才の7月初め松陰に教えを受け大罪1週間であったが大いに触発された。すぐ京都に上り、松陰門下の久坂・中谷等と共に梁川星巌・梅田雲浜・頼三樹三郎等と画策したが幕吏の捕縛直前に帰国し松陰に報告する。間部老中要撃策のこともあり、良佐も加わろうとしたが、自宅に監禁せられ、同6年11月許されて萩明倫館入学を命ぜられる。不幸にして眼病にかかり帰郷して療養中万延元年11月、25才で亡くなる。大正13年従五位を送られる。(第4巻375p,415p第8巻342,384号、第10巻23p)
 

池部啓太(
1798〜1868)

 名は春常、如泉と号す。肥後藩士、禄は百石。寛政10年熊本に生まれる。家は代々数学(天文・測量・暦・算)の師範である。幼くして測量を伊能忠敬に、天文を末次忠助に、砲を高島四郎兵衛及び四郎太夫(秋帆)に学び、砲術師範を兼ねる。

 天保14年高島秋帆とのかかわりで江戸藩邸に3年間幽せられる。許されて國に帰る。松陰が初めて熊本へ赴いたとき先ず池部を訪問する。これは高島浅五郎(秋帆)の紹介であろうか。当時53才でその学識は天下に轟き、著書も多い。従って松陰の得るところも多かった。宮部鼎蔵をはじめて松陰に紹介したのはこの人であった。松陰は後嘉永6年熊本に赴き池部家を訪ねる。池部はその後藩の砲術指導者として国事に奔走し大いに貢献した。明治元年71才で亡くなる。弥一郎は啓太の子どもである。(第7巻179号、第9巻83p,351p)
 

諫早生二

 半三郎・巳二郎とも言う。嘉永2年9月松陰兵学門下となる。維新後寺社局に出仕し、また赤間宮宮司となる。明治15年頃東京松陰神社の創立に尽力する。在官中正六位に叙せられる。(第10巻168p)
 

市之進

 吉田栄太郎に指導され、遂に安政4年14才の8月松陰の教えを受けに来る。頑狂無頼の少年であった。安政5年も在塾。その後は不明である。(第4巻111p,116p,122p,339p)
 

伊藤静齋

 通称は木工助(もくのすけ)、もと長門船木の生まれで長谷川某と言った。
 壮年、馬関(下関)にいたとき、大年寄伊藤木工之丞の嗣子久造が幼いので、中継ぎ養子に望まれ、遂に伊藤姓を名乗る。文武の嗜があり、諸藩の武士と交わり、平戸の葉山佐内とは特に親交があった。後告げ口にあい安政4年12月頃まで約3年間屏居を命ぜられた。明治16年75才で亡くなる。
 松陰は、嘉永2年6月海防巡視の藩命を受けて馬関まで出張したとき、よく知り同3年九州遊歴のとき家に宿泊する。その後終生文通を続ける。(第1巻104p,第7巻288号、第8巻352号、第9巻26p,86p,98p,353p)
 

伊藤利助
(1841〜1909)

 幼名を俊助と言い、後利助・俊輔と改め、終わりに博文と言う。号は春畝、花山春太郎・林宇一は一時の変名であった。
 天保12年9月2日周防熊毛郡束荷村(大和町)林十蔵の嫡子として生まれる。幼時三隅勘三郎の寺子屋に入り、嘉永2年9歳の時萩に移り住み、従僕となり辛酸をなめる。

 14歳の時、父が足軽伊藤直右衛門の養子となり姓を伊藤と改めた。それより松陰の叔父久保五郎左衛門の塾に入り、安政3年16歳にして相模出役を命ぜられ、来原良蔵の手付となり、その教導を受け、翌年9月帰国の際その紹介により松陰の門に入る。
 「利介亦進む、なかなか周旋家になりそうな」と見込まれた。5年7月藩府松陰の意見を容れて京師の事情偵察のため青年6名を派遣するや、その命に当たり翌月帰る。10月来原に従って長崎に赴き、6年6月帰国、10月桂小五郎に従い江戸に下る。

 着後間もなく松陰処刑のことがあり、飯田・尾寺・桂と共にその遺骸を回向院に葬る。 その後尊皇攘夷の運動に参加し、主に桂に従って活動する。文久3年3月松陰に従学し尊攘の正義を弁知し心得が良いと言うことで士分に挙げられる。

 5月12日23歳のとき井上聞多とロンドンに留学する。元治元年3月英仏蘭米の連合艦隊が馬関襲撃のことを知り、井上と共に急遽帰国し、6月23日山口に入り、攘夷の不可なる所以を力説する。後馬関の戦利なく、高杉晋作を正使とする講和談判には通訳として活動し、慶應元年3月高杉と共に再び海外に行こうとしたが果たせなかった。

 薩長連合に奔走し、英国との握手に尽力する。長州征伐前後には軍艦の購入、英国を通して幕府に加担する仏国を牽制した。

 明治元年正月外国事務掛を命ぜられてから以後次第に要職に進み、明治3年米国・5年欧米各国、15年欧州、18年清国、30年英国に派遣せられ、総理大臣を4度、その間憲法草案の起草に当たり、枢密院・貴族院の議長となり、晩年韓国の統監として、抱ける大陸政策実現に尽力する。明治17年伯爵、28年侯爵、40年公爵を授けられる。42年10月露都に向かう途中ハルピン駅頭で凶弾に倒れる。享年69歳。従一位を贈られる。
(第4巻394p,482p,第6巻p,第8巻332号、10巻178p)
 

伊藤傳之輔

 名は忠信、萩城外松本村仲間某の家に生まれる。門下生であったという確証はないが、安政5年6月頃時々松陰を訪ね、7月杉山松介・伊藤利助・岡仙吉(千吉郎)等の塾生と共に幕府から京都に状況偵察のため派遣され、また大原三位西下策に野村和作等を上京させたとき、仲間として在京する彼が協力したことからして、松下村塾には学ばないとしても、時々往復するとき最も松陰を尊敬する一人で会ったことは疑いのないことである。

 大原策に関係して同年12月幽囚せられ、翌年正月投獄せられる。万延元年閏3月迄在獄。その後国事に奔走し、文久2年伏見寺田屋事件のときも薩摩の有馬新七等を助けた一人である。後慶應の初年奇兵隊に入り、運送方を勤めたこともあったがその後の事は不明である。
(第4巻394p,第5巻59p,181p,188p,第8巻334/419/426/615号、第9巻555p,594p,10巻93p,140p)
 

井上壮太郎

 長州藩士井上與四郎の嫡男で、與四郎は御用談役という要職に就いていたこともあり、松陰の父執(父の友人)であった。
 壮太郎は明倫館に学び、嘉永2年9月松陰の兵学門下となる。3年9月酒狂により逼塞(外へ出ないで謹慎させる)を命ぜられ、翌年3月撃剣修業のために松陰等と共に江戸遊学へ上る。與四郎の懇願もあり、松陰は特に壮太郎の修学については注意し、よき勧告者であった。

 江戸では剣術の外に鳥山新三郎・江幡五郎等に就いて学び、同年末松陰亡命のことに関係ありとして、逼塞を命ぜられる。5年5月一旦帰国し、翌年再び江戸に上り砲術を学ぶ。翌年松陰の下田踏海後も身辺を警戒された一人である。

 安政5年末頃より松陰と意見が合わなかったが、後奥番頭となる。(283p,第7巻15,20,35,42,78,84号、第9巻270p,275p,第10巻50p,58p,62p,168p)
 

入江杉蔵(
1837〜1864)

 名は弘致、又は弘毅、字は子遠、通称は萬吉・喜一・九一、後に杉蔵、更に改めて九一という。出原萬吉郎・河島小太郎は一時の変名である。
 天保8年4月5日萩土原(ひじはら)に生まれる。長州藩足軽嘉傳次の長男で、和作(子爵野村靖)の兄である。幼くして堀某の寺子屋に入り、13歳御蔵元の胥徒(しょと)(下役人)となり、17歳福原冬嶺の門に入り、中谷正亮等と交わり初めて天下の事を知る。安政3年7月父を亡くし、翌年3月21歳で江戸の藩邸に胥徒(しょと)(下級の役人)となり家計を立てる。

 安政5年7月江戸より飛脚として帰り、初めて松陰を訪ねる。後10月再び帰国する時もまた松陰を訪ね、11月12日に入門する。当時は松下村塾徒の間部老中要撃策が起こった頃で、入江も血盟者の一人であった。この計画は失敗し、松陰は獄に繋がれる。この時入江は松陰の罪名問題に奔走し、他の7人と共に家囚となる。

 彼は松陰に師事した期間は最も短かかったが、肝胆相照らし、その着実温厚な人格を期待され、高杉・久坂・吉田榮太郎・久保等と共に松陰意中の門人であった。彼もまた松陰を篤信し、その精神を継承しようとする志において最も純粋な物を持っていた。

 松陰入獄の頃、大原三位西下策・伏見要駕策のために上京しようとしたが、弟和作を重任に当たらせたが失敗し、兄弟共に獄に繋がれた。当時の松陰には翼を取られた感じがした。松陰刑死後も獄中にあり、久坂玄瑞の指導を受けつつ勉学に励む。万延元年閏3月許され、胥徒(しょと)として江戸に派遣され、文久元年水戸に天狗党の視察を命ぜられ、3月帰国、その後佐波郡徳地宰判の御番所手子雇夫となり、母に孝養を尽くす。

 文久3年27歳の正月、松陰に学び尊攘の正義を知り、心得よろしき者として士分の待遇を受け、2月京都に派遣、3月中山侍従の出奔に従い萩に帰り、再び上京、更に下関の外国軍艦砲撃の時は下関に下り、馬関総奉行所列座に挙げられ、高杉・久坂等と協力して大いに働いた。その後京阪の間を往来して活躍、元治元年7月19日の禁門の変には久坂・眞木和泉・来島・寺島等と共に参謀の一人であったが、鷹司邸において戦死する。28歳であった。遺骸は京都霊山に葬られる。また別に鞍馬通上善寺に首塚がある。明治24年正四位を贈られる。(第4巻368p,戊午文稿厳囚紀事・投獄紀事、第5巻55p,己未文稿、第6巻224p,287p,295p,363p,365p,第8巻340,364,369,378号以下安政6年2月より5月まで多数の書簡、588,595,627,628号、第9巻546p,550p,569p,581p,第10巻96p,140p)
 
 母満智は安政3年夫に死別し、爾来杉蔵・和作・寿美3人の教育に心を砕き、殊に杉蔵兄弟が松陰の門人となり、国事に奔走するようになると、病弱貧窮でありながら苦難を忍び、常に兄弟を激励する。
 安政6年2月3月兄弟が獄に繋がれると、最も苦しい生活となったが「松陰先生すらなほ獄に在り、先生の命に従ひて今日のことある何ぞ傷まん」と言って平然としていた。松陰はその義烈に泣いた。

 松陰没後も兄弟は国事に奔走し、命危ういことも度々であった。兄杉蔵は元治元年7月京都で戦死し、弟和作は幸いにも生き残り明治維新政府に仕える。晩年幸福であったが、常に松陰の恩に感謝したそうだ。明治26年8月26日89才で亡くなる。(第5巻279p,第8巻506号)
 

鵜飼吉左衛門(
1798〜1859)・幸吉(1828〜1859)

 名は知信、字は子熊、聒翁という。水戸藩士。天保年中小十人組に列し、後京都水戸藩邸の留守居役となる。弘化元年藩主斉昭が隠居の命を受けると一緒に辞める。嘉永6年復職して京都に赴任し、攘夷説を採り、梁川・梅田・頼等と共に公卿間を活躍し、安政5年8月密勅が下されると、長男幸吉・日下部伊三次を江戸藩邸に入らせる。父子共に捕らえられ、安政6年8月27日伝馬町の獄において刑死、幸吉は獄門に梟首せられる。吉左衛門は62歳、幸吉は32歳であった。明治24年父子共に従四位を贈られる。松陰は嘉永6年12月京都で吉左衛門を訪ね、刑死の時は江戸獄中にいて父子の死を悼(いた)んだ。
(第7巻97号、第8巻625号)
 

梅田雲浜
(1815〜1859)

 名は初め義質、後に定明(さだあきら)、通称は源次郎、雲浜・湖南・東塢はその号である。文化12年6月7日、藩士矢部岩十郎の次男として若狭小浜に生まれる。藩校順造館に学び、15歳で京都に出、翌年江戸の崎門学を奉ずる藩儒山口菅山に就いて長年学ぶ。

 26歳で帰国し翌年父に従って関西九州を遊歴し、天保12年27歳の頃から近江の大津に湖南塾を営み約2年で京都に移り、若林強齋の望楠軒の講主となる。これより先、藩政及び外冦防禦に関し度々藩主に上書するが、ついに忌諱(きい)に触れ嘉永5年38歳で士籍を削られる。

 安政元年江戸に出て水戸に赴き、再び帰京したが、この頃から梁川・頼等を初めとし、頻々に往来する志士と共に国事を論ずる。安政3年12月には萩に至り、長州藩が勤皇攘夷の先鋒になるよう働きかける。翌年正月去って、筑前に赴き平野国臣と謀議して帰京し、大和五条・十津川方面に出て陰謀を図る。

 安政5年2月同志と老中堀田正睦の奏請する米国との通商条約を聞き届けられないように栗田青蓮宮その他正議の公卿に入説、極力活動して遂に密勅が水戸に下る。9月初旬捕らえられ、翌年正月9日江戸に着き、小倉藩主小笠原家の邸に預けられ、取調を受けたが脚気を患い9月14日、45歳で亡くなる。明治24年正四位を贈られる。

 松陰は嘉永6年12月京都で、翌年3月江戸で雲浜と交わり、安政4年には萩において幽室に慰問を受け、松下村塾の学面揮毫を依頼したが、性格的にまた方法的に相容れないところがあったのか、実現しなかった。(第6巻287p,第7巻98,177,234,263,264号、第8巻369,591号、第9巻358p)
 

浦靱負(うらゆきえ)(1795〜1870)

 名は元襄、長州藩の重臣國司就孝の次男、後出て阿月(あつき)の浦氏を嗣ぐ。秋吉敦之助等の力で家政を整え、弘化4年国老となり、爾来益田弾正と協力しつつ藩政の首座にあり、治績大いに挙がる。

 万延元年65歳で辞職する。文久2年長州藩の兵庫警護の総奉行となり、次いで禁門の護衛に就き、また世子に従い江戸に下る。後老齢のため引退する。明治3年76歳で亡くなる。明治35年正四位を贈られる。(第4巻422p,第6巻295p,第8巻606号)
 

恵 純
(1827〜1900)

 号は江陽道入、文政10年8月長門宇部に生まれた。幼くして出家、萩の徳鄰寺に入る。後修業のため諸国を歴遊し、嘉永・安政の頃鎌倉円覚寺にいた。松陰は伯父竹院が瑞和寺主であったため度々同地を訪れ、同国の誼(よしみ)でで交わる。

 安政4年恵純は一旦萩に帰るが、度々外遊することもあったが、文久3年以降は萩におり、明治元年徳鄰寺第14世の方丈となる。明治33年9月24日74歳で亡くなる。(第7巻87号、第8巻312号、第9巻328p)
 

江幡五郎
(那珂通高)(1827〜1879)

 名は通高、字は堅弥、梧楼と号し、晩年には蘇隠と称す。文政10年出羽大館の藩医道俊の次男として生まれる。文政中父が南部藩に仕えるのに伴って盛岡に移る。

 18歳で藩主の近習(きんじゅう)に挙げられたが、志すことがあり、亡命して江戸に出、安積艮斉(あさかごんさい)・東條一堂に師事し、更に大和の森田節齋(もりたせっさい)に学び、遂に広島の坂井虎山の塾に入り、その塾長となる。この時、長州人土屋蕭海(つちやしょうかい)を知る。

 嘉永2年南部藩に藩主廃立の内紛があった。この時、兄春庵は姦臣田鎖左膳(たぐさりさぜん)に反対して投獄され、その9月獄死する。広島でこの報を聞いた五郎は大和の森田節齋のもとに帰り、仇討ちの計画を立て、一時大阪に潜伏し、嘉永4年秋、江戸に下り、鳥山新三郎の塾にいた。ここで当時江戸遊学中の土屋を介して、同じく江戸にいた松陰及び宮部鼎蔵(みやべていぞう)を知る。 

 12月両人が東北遊へ出ると、それに従い常陸に遊び、翌年正月末白河まで同行した。それより石巻に隠れて敵の状況を偵察し、3月松陰等に会ったときは、近く事を遂げるべきことを語ったが、結局仇討ちを実行する前に仇は亡くなった。

 後藩政の改革があり、安政6年五郎は60石を給せられ家を興し、翌万延元年以後は藩校作人館の教授となり、殊に博学多識で知られた。

 明治元年奥羽諸藩連合して新政府に抗し、五郎も参謀の一人で10月禁錮となる。明治4年許され東京に私塾を開き、後大蔵省の嘱託となり、更に文部省に替わる。小学校用の教科書の編纂に当たり、古事類苑の編纂にも関わる。明治12年5月1日53歳で亡くなる。(第7巻42,62,67,77号、第9巻東北遊日記・同東征稿) 
 

大木藤十郎
(1785〜1873)

 名は忠貞、号は野鶴、または可月、大木甚之右衛門の次男、後大木左内の養嗣となり、船番に補せられる。坂本天山・高島四郎太夫に従って砲術を修める。明治6年11月22日89歳で亡くなる。

 松陰は嘉永4年西遊のとき度々訪問し、同6年ロシア艦隊を長崎に追って行った時も訪ねている。(第9巻34p,78p,352p)
 

大久保要
(かなめ)(1798〜1859)

 名は親春、字は子信、靖齋と号す。常陸土浦の藩士である。文化15年21歳で中小姓、学校教職を兼ねる。後海防の事を掌り、また学頭となる。藤森恭助を文学教授として招聘せられたのはこの人である。

 嘉永3年藩主が大阪城代となると、大久保は翌年公用人となって赴任し、大いに兵制を改革する。後兵庫開港のことが伝わるとその反対論の先鋒に立つ。彼はもと長沼流の兵家であったが、西洋砲技器械の長となり、最も国体を重んじ皇室の式微を慨嘆する。安政5年帰国し、翌年幕命により禁錮せられ、12月13日62歳、病で亡くなる。明治24年従四位を贈られる。
 松陰は嘉永6年12月、大阪で面会する。(第7巻98号、第8巻317号)
 

大高又次郎
(1821〜1864)

 名は重秋、播磨林田藩士である。大高源吾の末裔と言う。幼いときから京都に出て、梅田雲浜の門に入り、兼ねて武田流の兵法を修め、革甲の製造に巧みであった。

 安政5年京都で松陰門下野村和作等と交わり、翌6年正月平島武次郎と共に萩に来て義挙を謀ったが成功せず、空しく帰った。去るときに、その3月毛利藩主の東勤を伏見に要し、公卿大原重徳等と事をあげることを野村和作に告げたり、伏見要駕策に関わった。

 松陰はその後大いに藩主の身上を憂いて画策し、遂に野村をこれに赴かせた。事は未遂に終わったが野村の出奔は兄入江の投獄となり、松陰と門下生との間に意見の相違が生じ、最も痛切な葛藤を興すもととなった。大高は帰京後、益々攘夷の説を主張し、元治元年七卿及び長州藩のために奔走し6月5日同志と共に三条池田屋に会合中新撰組に襲われ、宮部鼎蔵と戦死する。享年44歳であった。明治24年正四位を贈られる。(第5巻154p,261p,第8巻449,450,453,456号)
 

大谷茂樹

 名は実徳、字は篤甫、通称は始め與十郎、後茂樹にまた樸助と改める。雪渓または梅窓と号す。天保9年長門須佐(須佐町)に生まれる。藩の重臣益田右衛門介(弾正)の家臣で、小國剛蔵の門人であった。

 安政5年4月松下村塾で学んだことがあった。文久年間には京攝の間を往来して時事探索に尽力した。元治元年禁門の変後、益田右衛門介が徳山に幽せられると、小國剛蔵等と謀を計画したが、遂に果たさず、主人は自刃を命ぜられ、本人は蟄居を命ぜられる。

 慶應元年正月脱走し志士を集め回天軍と称し、自ら総督となって上京し遺恨を晴らそうとしたが、恭順派に捕らえられ切腹を命ぜられる。慶應元年3月1日28歳であった。
(第4巻334p,第6巻208p,第8巻327,399号)
 

大原重徳

 中納言重尹の子、世々公卿であった。正三位左衛門督を拝し後参議に陞(のぼ)る。皇室の式微を嘆き幕府の専横を憤る。安政5年松陰門下の中谷正亮・久坂玄瑞・入江杉蔵等が京都で謁し、時事を論議してから松陰は義挙奉載の人物と見込み、遂に長州へ迎えて事を挙げようとし、大原三位西下策を画策した。同6年毛利藩主の東勤を伏見に要して京都に迎えようとする志士の策謀にも関与する。共に未遂に終わったが、松下村塾と最も関係の深い公卿である。

 文久3年6月勅使として江戸に下ったことがあり、維新後刑法官知事に任じ、従二位に叙す。明治12年4月1日78歳で亡くなる。正二位を贈られる。
(第4巻421p,469p,第5巻200p,第6巻288p,第8巻372,419,440,450,516,571号)
 

岡仙吉(千吉)

 後に千吉郎と言い、水門の号があった。安政5年松下村塾におり、その7月藩命により、京都の情勢探索のため他の5人と上京したことがあった。入江杉蔵と最も仲良しの友人であった。入江の投獄では種々の斡旋をし、その母満智子を慰めた。
 文久3年京都で活動し、慶應のころは奇兵隊にいた。その後のことは不明である。(第4巻394p,第8巻号347,356,419号)
 

岡田耕作

 藩医岡田以伯の子で、松陰とは姻戚関係あった。安政4年9歳で松陰の幽室に出入りしたものらしく、5年正月2日にも来て書を教えを請うた。松陰がその精勤を賞した文がある。安政5年5月端午の日も休まずに教えを受けている。5年12月松陰投獄のことも知らなかった。以後のことは不明。(第4巻293p,340p,第9巻560p)
 

岡部繁之助
(1842〜1919)

 名は利和、通称は後に仁之助に改め、明治初年これを名とし、明治6年以後利輔と改める。長州藩士岡部藤吾の次男で富太郎の弟である。天保13年萩に生まれる。安政3年8月松陰に兵学入門の起請をし、12月1日幽室に松陰を訪ね引き続き教えを受け、安政5,6年の交わりがあり、兄弟共に松陰を助けた。

 松陰は「子楫の母賢にして弟は友なり、以て家を託するに足る」と誉めた。6年5月松陰東行の際、送別の詩を賦す。
 松陰これを見て、「この人吾れ曾て友弟を以てこれを目す、清太(外弟久保清太)も亦以て然りとなす、愛すべきなり」と評しており、親密の度を察することができる。

 松陰の没後国事に奔走し、文久2年10月京都での松陰の慰霊祭に列す。元治元年藩世子近侍として機密に参与し、命により亡命している高杉東行を京都から連れ戻したのはこの人である。

 慶応3年干城隊世話役として上京する。その後維新頃の事蹟は明らかでない。明治以後工部省に入り、明治4年造船大属、6年制作寮七等出仕、同年正七位に叙せられ、7年制作寮六等出仕となり、官を退き萩に帰る。大正8年78歳で亡くなる。(第5巻125p,179p,第9巻483p,496p〜587p,第10巻171p)
 

岡部富太郎
(1840〜1895)

 名は利済、字は子楫、巨川と号す。長州藩士岡部藤吾の嫡子として、天保11年萩に生まれる。松陰の友人来原良蔵の甥である。幼い時から良蔵・土屋蕭海等に学び、また明倫館で文武を修める。

 安政4年始めて村塾に来て、松陰の門下生となる。同年藩老中益田親施(弾正)に言路開拓の進言をし、同5年その采地須佐の育英館と松下村塾間に塾生交換教授の話が起こったとき、松陰の命により村塾の富永有隣・久保清太郎に率いられて須佐に赴いた。
 「子楫は鋭邁俊爽なり、然れども吾れ常に其の退転せんことを惧る。…吾れ其の気鋭なるを愛す」と松陰は評したことがある。

 同年12月松陰投獄の際、罪名論を以て藩の重役に迫り暴徒と目された8人組の一人である。松陰没後も塾徒と交わり、文久元年12月の「一燈銭申合」にも参加し、文久2年、藩世子廣封のせつ御となる。なお同3年干城隊の前身たる大組隊の副長参謀となる。慶応2年四境戦争には、勇力隊を率い小瀬川口で働く。

 明治元年干城隊中隊司令官として北越に転戦して活躍する。維新後官に就いたが、明治7年佐賀の乱が起こると兵力を用いずこれを鎮めることを建議し、そのために投獄せられる。後赦され、山口・大阪・兵庫の諸県に在官する。明治28年5月56歳で亡くなる。(第4巻308p,477p,491p,戊午文稿厳囚紀事・投獄紀事・同付録、第5巻140p,156p,179p,234p,267p,第6巻219p,364p,第8巻332号・安政6年4月頃まで関係書簡多い・615号,第9巻544p,547p,582p,第10巻11p,21p,94p,172p)
 

荻野時行(佐々木貞介)
(1835〜1885)

 名は毅、字は時行、通称を隼人と言い、後佐々木貞介となる。号は松(?)長州藩士である。長門須佐に生まれる。小國剛蔵門下の俊秀で、安政5年2月松下村塾を訪れ、大いに発奮し、以後松陰の弟子となり、また須佐の育英館と松下村塾の連携に尽力する。

 安政5年6月江戸に遊学し、安井息軒に学ぶ。継いで帰国して藩老中福原氏の儒師佐々木?の養嗣となる。元治の変で京都に従軍して参謀となる。

 後山口明倫館の教授となり、明治初年豊岡県・京都府で官に就き、京都師範学校で教える。明治17年10月中風を患い、明治18年51歳で亡くなる。(第4巻323p,334p,第6巻202p,第8巻313,327,329,361号)
 

小國剛蔵
(
おぐにごうぞう)(1823〜1864)

 名は武彜、号を嵩陽と言い、後通称を融蔵と改める。家は長門須佐にあり、代々長州藩家老益田氏の家臣であった。

 19歳の時江戸に行き某氏の学僕となり、苦学を積む。弘化2年、22歳の秋昌平覺に入り、また安井息軒に学ぶ。後大学頭林?齋の賓客となる。夙に経国の大計を抱き蝦夷地開拓の説を唱え、単身奥羽より蝦夷に渡る。

 嘉永4年須佐に帰り、家禄50石給し郷校育英館の教授になる。嘉永6年益田弾正に従い浦賀警備に出役する。翌年7月江戸に至り野寺慷齋につき兵要録の口議を聞き、学習途中で益田の帰国のとき帰る。後小倉に至り藩士某に就き兵要録を卒業する。それより九州を遊歴し、帰り再び育英館の教授になる。

 僧月性・土屋蕭海と親しく、また松陰とよく書簡のやりとりをする。安政5年3・4月の頃から松下村塾生と育英館生と交換教授があったことは注目すべきである。文久2年長州藩主が公武合体に周旋すると、益田弾正の用人として諸藩志士の間を周旋する。元治元年7月禁門の変には久坂玄瑞の遺託を受けて国に帰り、働いたが翌月益田弾正は恭順派のために徳山に幽せられる。小國は須佐に帰り大谷樸助・川上範助・津田常名等と謀り、死を以て益田を奪還しようと意義を唱え奔走したが、容れられず益田は切腹を命ぜられる。小國は蟄居を命ぜられ、遂に病気となり翌年閏5月2日、42才で亡くなる。大正5年従五位を贈られる。(第4巻144p,311p,323p,第8巻318,324,383,606号)
 

小倉健作
(1837〜1891)

 幼名は百合熊、後乾(健)作、字は士健、鯤堂または剣槊と号す。天保3年藩医松島瑞蟠の三男として生まれる。松島瑞uおよび小田村伊之助の弟である。小倉尚蔵の養子となったが、後出て松田姓を名乗り、名を謙三と改める。

 松陰とは早くから知り合いであったようで、嘉永4年江戸に遊学し、安積艮斉の門に入り、松陰とも相往復し、翌年松陰が亡命のとき尽力して、遂に藩に責められる。安政元年、松陰の下田踏海の時も尽力する。安政4年松陰は小倉を松下村塾の教師にしようとしたが果たせなかった。3月江戸から亡命する。

 後全国を漫遊し文を売り、自活していたが酒癖が悪く遂に大成しない。明治以後東京にいて毛利氏の資料編纂事業に就く。明治24年1月10日61歳で亡くなる。
(第4巻480p,第7巻30,39,117〜121号、第9巻525p,第10巻48p)
 

小田村伊之助(楫取素彦
(1829〜1881)

 名は哲、諱(いみな)は希哲(ひさよし)、字は士毅、通称久米次郎または内蔵次郎と言い、小田村氏の養嗣となって伊之助と改め、後に文助・素太郎と言い、慶応3年9月楫取素彦(かとりもとひこ)と改めた。号は耕堂・彜堂・晩稼・棋山・不如帰耕堂等ある。

 文政12年3月15日萩魚棚沖町藩医松島瑞蟠の次男として生まれる。松島瑞u(剛蔵)の弟で、小倉健作の兄である。小田村家の養子となるのは天保11年で、その家は世々儒官であった。弘化元年明倫館に入り、同4年19歳で司典助役兼助講となる。22歳大番役として江戸藩邸に勤め、安積艮斉・佐藤一斎に教えを受ける。

 松陰は嘉永4年江戸に遊学して小田村を知り、後同6年松陰の妹壽(ひさ)が小田村へ嫁ぐと、両人の関係は更に密接となり、以後公私ともに骨肉も及ばないものとなる。松陰は小田村に感謝して曰く、「吾れ曾(かつ)て三たび罪を獲(亡命・踏海・再獄)、君皆其の間に周旋す。吾れ再び野山獄に繋がるるに及びて君力を致す最も多し…」と。

 安政2年4月小田村は明倫館舎長書記兼講師見習となる。翌3年2月相模出衛を命ぜられ、同4年4月帰国、明倫館都講役兼助講となる。この頃から松陰の教育事業はようやく盛んになり、翌5年11月松下村塾閉鎖まで、小田村は直接関係はなかったが、松陰の信頼厚く、初めはその計画に参与し、また時々訪問し間接の援助を与え塾生とも相知ることとなる。松陰の激論を受け止め相敬愛するところは二人の交わりの特色である。松陰投獄後塾生指導の任に当たり、国事に忙しくなり、塾の世話ができなくなったが、明治以後杉民治と共に一門の中心となって、松陰の顕彰に尽力した。

 万延元年山口講習堂及び三田尻越氏塾で教え、文久元年以後は専ら藩主に従って江戸・京都・防長の間を東奔西走する。元治元年12月、藩の恭順派のために野山獄に投ぜられ、翌慶應元年出獄する。5月には藩命により当時太宰府滞在中の五卿を訪ねる。四境戦争の時は、広島へ出張の幕軍総督への正使宍戸備後介(山縣半蔵)の副使となる。慶応3年冬長州藩兵上京の命を受け諸隊参謀として出征する。公卿諸藩の間を周旋し、遂に伏見鳥羽の戦において、江戸幕府の死命を制する至った。

 維新後いったん帰国して藩に出仕、5年に足柄県参事となり、次に群馬県令となり、その後元老院議官・高等法院陪席裁判官・貴族院議員・宮中顧問官等を歴任し、また貞宮多喜子内親王御養育主任を命ぜられたこともあった。明治20年男爵を授けられる。大正元年8月14日84歳で亡くなる。正二位勲一等に叙せられる。

 妻壽はよく家を守り、二児を育てる。夫の入獄・四境戦争のときは烈婦として命名を馳せる。晩年健康が優れず明治14年、43歳で亡くなる。後妹美和(最初久坂玄瑞の妻)が嫁ぐ。(第2巻377p,第4巻480p,491p,509p,戊午文稿厳囚紀事・投獄紀事・同付録、第5巻132p,161p,164p,190p他多数、第6巻295p,第七・八巻関係書簡多数、第9巻543p,549p,552p,554p,573p)                              
 
尾寺新之丞

 名は信、長州藩士。明倫館で学び、嘉永6年5月松陰の山鹿流兵学に入門したが、最も密接な交渉を持つように成ったのは安政4年の後半からである。
 村塾にいること1年「尾寺は毅然たる武士にして、亦能く書を読む、然れども肯へて記誦詞章(きしょうししょう)(暗誦して朗読したりする文学や詩歌)の学を為さず。性朴魯の如くして、遠きを慮り気振ふ」と松陰は評している。

 同5年8月江戸に遊学し、翌年東送した松陰のために奔走周旋し、刑死後飯田・桂・伊藤等と遺骸埋葬に尽力する。翌万延元年幕府の海軍所に入り蒸気科を修め、帰国後唐船方となり、後慶應元年奇兵隊士となって国事に活動する。

 維新後伊勢神宮に奉仕し、更に内務省に勤める。没年不詳。(第4巻130p,408p,第5巻433p,第6巻295p,第8巻350,590号以下数通、第10巻171p,184p)
 

音三郎

 父は禎介と言う。安政4年17歳の8月、吉田栄太郎の指導により、松陰より教えを受けるようになる。無頼の三少年の一人で、翌年12月26日松陰投獄の時途中で告別していることは分かっているがその後の消息は不明である。村塾油帳にある大野音三郎は彼のことである。(第4巻110p,122p,第8巻424号)
 

小野為八
(1919〜1907)

 後に名前を正朝と改める。長州藩御雇医師山根文季の子で、後小野氏を名乗る。天保15年5月5日松陰の山鹿流兵学に入門し、安政5年松下村塾に学ぶ。自筆履歴書によれば、間部要撃策に加入したと言う。維新前奇兵隊・整武隊等に入り王事に奔走する。明治10年山口県雇となり、明治22年から神道黒住教に入門して教導職に当たる。明治40年8月20日呉市にて89歳で亡くなる。従五位を贈られる。
(第4巻426p,第8巻380号)
 
 
小幡(おばた)彦七(1817〜1906)

 後名を高政と改める。号は?山(へいざん)。長州藩士。幼児から文武を学び、壮年で藩務に就き、安政・文久の頃は大阪・江戸・京都等の留守居役となり、命を受けて国事に勤める。

  慶応2年表番頭となり、四境戦争には中隊長として出陣し安芸方面に奮戦する。翌年郡奉行にあげられ、維新後も藩内の政務を担当し、4年9月東京に徴されて少議官に任ぜられる。9年3月職を辞して萩に帰り、産業殊に夏蜜柑の栽培を奨励し、今日の名声の基を築いた。

  明治23年6月有栖川宮熾仁親王が萩に台臨の時橙(だいだい)園に寄られる。後百十国立銀行の頭取となる。明治39年7月27日90歳で亡くなる。正四位に叙せられる。
 松陰刑死の申渡しを受ける席上に長州藩から陪席したのはこの人である。
(第10巻134p,315p)